鎖国

基礎知識
  1. の起源
    は江戸幕府が17世紀に制定した外交政策であり、外との関係を厳しく制限したものである。
  2. 貿易と出島
    下においても長崎の出島を中心に限られた貿易が行われ、オランダ中国が主要な貿易相手であった。
  3. キリスト教の禁止
    キリスト教の布教活動を禁止することが鎖政策の大きな目的の一つであり、信者の弾圧が行われた。
  4. 例外的な外交と朝鮮通信使
    朝鮮通信使や琉球王国との交流が例外的に認められ、日文化と情報の循環に寄与した。
  5. の終焉と開
    1853年のペリー来航を契機に鎖政策が崩壊し、幕末の開へと繋がった。

第1章 鎖国の時代へ:政策の起源と背景

終わりなき乱世から安定への道

戦国時代、日は百年にも及ぶ戦乱に包まれていた。織田信長豊臣秀吉がその混乱を制し、やがて徳川家康が江戸幕府を樹立した。幕府が目指したのは戦乱を繰り返さないための秩序の確立であった。この安定を築くには、内外からの脅威を排除する必要があった。特に外からの宗教や武器の流入が、内の不安定要因になると幕府は考えた。家康の後を継いだ徳川秀忠、家は、内の統治を優先するため、外との関わりを制限する道を模索し始めた。

ポルトガル人と火縄銃の登場

1543年、種子島に漂着したポルトガル人が日にもたらした火縄は、日の戦術を大きく変えた。さらに、彼らはキリスト教を布教し、信者が増加していった。だが、布教活動は単なる宗教の伝播ではなく、政治的な影響も及ぼした。キリシタン大名が増えたことにより、幕府はこれを内政干渉と見なした。さらに、ポルトガル商人との貿易が地方の権力バランスを崩す危険を伴っていたため、幕府は慎重な対応を迫られた。

秀吉の海外遠征とその教訓

豊臣秀吉が行った朝鮮出兵(文禄・慶長の役)は、日が外部に目を向けた数少ない例である。秀吉の大軍は一時的に朝鮮を席巻したが、膨大なコストと際的孤立を招いた。この遠征の失敗は、日がむやみに外部と関わることのリスクを痛感させた。秀吉亡き後、家康は秀吉の過ちを反省し、内政に集中する政策へと舵を切った。ここに、のちの鎖の種が蒔かれたのである。

国を閉ざす発想の芽生え

徳川家康が設けた朱印貿易は、幕府の管理のもとで一定の際交流を認めたものであった。しかし、海外での日人の行動が問題視される事件が相次ぎ、幕府の緊張感は高まった。さらに、ヨーロッパ植民地主義がアジア各地で進行しており、日がその標的になる可能性もあった。こうした内外の状況が、幕府に「を閉ざす」という発想を芽生えさせたのである。鎖政策への道は、必然的にその方向へと進んでいった。

第2章 海禁政策の詳細:その構造と実施

幕府が描いた新たなルール

江戸幕府が鎖を正式に打ち出したのは、徳川家の時代である。幕府は際貿易を制限しつつも完全に断絶することはしなかった。主な例が、貿易相手をオランダ中国に限定する政策である。オランダプロテスタント国家であり、布教活動を行わないため幕府にとって安心できる相手だった。これにより、長崎の出島を拠点とした限定的な貿易体制が確立された。この政策は内の安定を優先するために作られた幕府の独自の解決策であった。

出島:国際交流の縮図

出島は長崎湾内に作られた人工島であり、日と外の世界を繋ぐ唯一の窓口であった。この島はオランダ商館の活動拠点であり、ここで医薬品、時計、書籍などが日に持ち込まれた。特に医学や天文学の知識は「蘭学」として日の学問を大きく発展させた。また、幕府は出島の商人たちに厳しい監視体制を敷き、交流が内に影響を及ぼさないよう努めた。出島は単なる交易所ではなく、日が世界と接触を続ける象徴でもあった。

貿易の恩恵とその裏側

オランダ中国との貿易は、幕府にとっても経済的な利益をもたらした。特にが主要な輸出品として重要な役割を果たした。一方で、幕府は密貿易や違法な物品の流入を警戒し、港に厳しい規制を設けた。密貿易を行った商人や港の役人は厳罰に処されることがあり、その様子は当時の民衆にも大きな影響を与えた。だが、こうした規制の中で巧妙に利益を追求した商人たちも存在し、彼らは新たな市場を作り出した。

監視と秩序の追求

幕府は内の秩序を維持するために、海外との接触に対して細心の注意を払った。外の寄港は厳しく管理され、通商の条件も幕府の統制下にあった。出島での商取引は通訳や役人を通じて行われ、詳細な記録が残された。さらに、貿易で得た情報や技術は幕府が独占し、内に拡散することを防いだ。この徹底した管理体制こそ、鎖政策が長期間にわたり続けられた理由の一つであった。幕府のこの慎重な姿勢は、日平和と安定を支える柱となった。

第3章 キリスト教との闘争:宗教と政治の交差

宣教師の到来と新たな信仰の広がり

1549年、イエズス会の宣教師フランシスコ・ザビエルが日に到来し、キリスト教を初めて布教した。彼の熱意と説得力により、多くの日人がキリスト教の教えに惹かれた。特に、戦大名の中には、武器や貿易の恩恵を求めてキリスト教を受け入れる者も現れた。だが、この新しい信仰は、従来の神道仏教価値観と衝突し、宗教的混乱を引き起こす一因となった。ザビエルの足跡はその後のキリスト教布教においても大きな影響を与えた。

キリシタン大名と幕府の警戒

九州を中心に、キリスト教を受け入れる大名が増加した。大純忠や有馬晴信などのキリシタン大名は、自ら信仰を深めるだけでなく、領内に教会を建設し、布教を支援した。しかし、これにより幕府は懸念を抱くようになった。キリスト教の信者たちが宗教的忠誠心を優先し、幕府の支配に反抗する可能性を危惧したのである。さらに、外勢力がキリスト教を利用して日に影響力を及ぼす恐れも幕府の警戒を強めた。

島原の乱と信仰の代償

1637年、島原の乱が起こった。この農民反乱は、重税やキリスト教弾圧への不満が原因であり、キリシタンたちが中心となった。天草四郎という若きリーダーのもと、反乱軍は幕府軍と激しく戦ったが、最終的に鎮圧された。この出来事を機に、幕府はキリスト教を「危険な異端」とみなし、信者に対する弾圧を徹底するようになった。乱後の日では、キリシタン信者は地下に潜伏し、「隠れキリシタン」として密かに信仰を続けた。

厳しい弾圧と信仰の消滅

幕府はキリスト教の根絶を目指し、踏み絵や拷問を用いた厳しい取り締まりを行った。踏み絵は、キリスト教徒を見つけ出すための試練であり、信仰を放棄するか死を選ぶかの選択を迫った。この過程で多くの信者が命を落とし、教会や宣教師は日から追放された。こうしてキリスト教はほぼ完全に消滅したように見えたが、実際には隠れキリシタンとしての信仰が密かに残り続けた。この時代の迫害は、日における宗教政治の複雑な関係を象徴する出来事であった。

第4章 文化の窓口としての出島:長崎の特殊な役割

出島の誕生とその役割

1636年、長崎湾内に築かれた出島は、わずか1万5千平方メートルの人工島であった。この小さな島は、鎖時代における際貿易と交流の唯一の拠点として機能した。ポルトガル人が去った後、オランダ商館がこの地に設置され、出島はオランダ人と中国人の商人が活動する場となった。ここでは薬品、書籍、織物などが輸入され、反対に日が輸出された。出島は、外界とつながる日唯一の窓口として、内に新しい知識技術をもたらす重要な役割を果たした。

蘭学の伝播と知の革命

オランダ商人がもたらした書物科学技術は、日にとって未知の知識の宝庫であった。特に医学や天文学の分野では、オランダ語を学んだ日人学者たちが「蘭学」と呼ばれる新しい学問を発展させた。前野良沢や杉田玄白は、『解体新書』を翻訳することで西洋医学の理解を広めた。また、この学問は幕府内の知識人層にも影響を与え、政策決定や際情勢の理解にも活用された。出島は、単なる貿易の場を超え、日の学問と科学を大きく変えるきっかけを提供したのである。

出島の日常と商人の物語

出島の生活は、多文化が交錯する独特なものであった。オランダ商館長(カピタン)は、厳しい規則の中で日政府と交渉し、交易を続けた。商人たちは出島から外に出ることを許されなかったが、時折長崎奉行所への公式訪問や江戸への参府が許可された。こうしたイベントは日人にとっても西洋文化に触れる貴重な機会であった。また、出島での生活には娯楽や異文化交流も含まれ、音楽や舞踏を通じた文化的な交流が行われたことも記録に残されている。

幕府の監視と制約の中で

幕府は出島を徹底的に監視し、貿易や交流のすべてがその管理下で行われた。商人たちが日社会に深く関わることを防ぐため、通訳や役人を介して接触が制限された。オランダ商館長は年に一度「江戸参府」と呼ばれる旅を行い、将軍への謁見で贈り物を献上した。この制度は、幕府が貿易相手に対して日の威厳を示しつつ、交易をコントロールするための手段であった。出島の存在は、日が世界とつながりながらも自らの文化と秩序を守ろうとした試みの象徴であった。

第4章 文化の窓口としての出島:長崎の特殊な役割

出島の誕生とその役割

1636年、長崎湾内に築かれた出島は、わずか1万5千平方メートルの人工島であった。この小さな島は、鎖時代における際貿易と交流の唯一の拠点として機能した。ポルトガル人が去った後、オランダ商館がこの地に設置され、出島はオランダ人と中国人の商人が活動する場となった。ここでは薬品、書籍、織物などが輸入され、反対に日が輸出された。出島は、外界とつながる日唯一の窓口として、内に新しい知識技術をもたらす重要な役割を果たした。

蘭学の伝播と知の革命

オランダ商人がもたらした書物科学技術は、日にとって未知の知識の宝庫であった。特に医学や天文学の分野では、オランダ語を学んだ日人学者たちが「蘭学」と呼ばれる新しい学問を発展させた。前野良沢や杉田玄白は、『解体新書』を翻訳することで西洋医学の理解を広めた。また、この学問は幕府内の知識人層にも影響を与え、政策決定や際情勢の理解にも活用された。出島は、単なる貿易の場を超え、日の学問と科学を大きく変えるきっかけを提供したのである。

出島の日常と商人の物語

出島の生活は、多文化が交錯する独特なものであった。オランダ商館長(カピタン)は、厳しい規則の中で日政府と交渉し、交易を続けた。商人たちは出島から外に出ることを許されなかったが、時折長崎奉行所への公式訪問や江戸への参府が許可された。こうしたイベントは日人にとっても西洋文化に触れる貴重な機会であった。また、出島での生活には娯楽や異文化交流も含まれ、音楽や舞踏を通じた文化的な交流が行われたことも記録に残されている。

幕府の監視と制約の中で

幕府は出島を徹底的に監視し、貿易や交流のすべてがその管理下で行われた。商人たちが日社会に深く関わることを防ぐため、通訳や役人を介して接触が制限された。オランダ商館長は年に一度「江戸参府」と呼ばれる旅を行い、将軍への謁見で贈り物を献上した。この制度は、幕府が貿易相手に対して日の威厳を示しつつ、交易をコントロールするための手段であった。出島の存在は、日が世界とつながりながらも自らの文化と秩序を守ろうとした試みの象徴であった。

第5章 鎖国の中の開かれた交流:琉球王国と朝鮮通信使

琉球王国:海上交易のハブ

琉球王国は、日中国東南アジアを結ぶ重要な海上交易の中心地であった。1609年、薩摩藩が琉球を侵略したことで、琉球は日の支配下に入ったが、中国との朝貢関係を保ち続けた。この特異な地位により、琉球は日が他と接触する間接的な窓口として機能した。琉球は東アジア各地を巡り、薬品や香料、織物などを運び入れた。その交易の成果は、琉球文化に豊かな際性をもたらすと同時に、日にも影響を与えた。

朝鮮通信使の壮大な旅

朝鮮通信使は、江戸時代に朝鮮から派遣された外交使節団であり、12回にわたって日を訪れた。彼らは政治的な目的だけでなく、文化や学問の交流にも大きな役割を果たした。通信使が行った江戸への行列は、数百人規模の壮大なものであり、沿道の民衆を魅了した。通信使がもたらした書物技術芸術は、日知識人に新たなインスピレーションを与えた。こうした活動は、両平和的な関係を象徴し、東アジアの際秩序の維持に寄与した。

琉球文化と日本の融合

琉球王国は、中国と日の双方から影響を受けた独自の文化を育んだ。その象徴が、音楽や舞踊、建築などに見られる融合文化である。琉球王国文化的成果は、薩摩藩を通じて日土にもたらされ、特に京都や大阪で流行した。また、琉球舞踊は、その華やかさと優雅さから日芸術界にも影響を与えた。こうした文化交流は、鎖下でも日が他地域と間接的に繋がり続けたことを示している。

国際的な交流が育んだ平和の象徴

琉球王国と朝鮮通信使がもたらした交流は、単なる物資の取引にとどまらず、思想や価値観の交換を可能にした。これらの交流は、当時の際関係が競争ではなく、協調の上に成り立つものであったことを物語っている。特に朝鮮通信使の活動は、江戸幕府の安定した統治を支え、アジアにおける平和象徴として高く評価された。日が完全に外部と断絶するのではなく、慎重に接触を保ち続けた理由が、ここに垣間見える。

第5章 鎖国の中の開かれた交流:琉球王国と朝鮮通信使

琉球の海と交易の舞台裏

琉球王国はその地理的な位置から、東アジアの際交易ネットワークの中心となった。中国と朝貢関係を維持しながらも、薩摩藩の支配下に置かれた琉球は、日東南アジアを繋ぐ架けとして機能した。琉球は、日東南アジア香辛料や薬草と交換する貿易を展開した。これにより琉球は経済的に繁栄し、際的な文化を吸収した。この独特な地位が、琉球を「鎖の時代の窓」として重要な存在にしたのである。

朝鮮通信使が築いた文化の架け橋

朝鮮通信使は、日と朝鮮の平和的関係を象徴する使節団であった。1607年から1811年までの間、12回にわたり大規模な通信使が日を訪れた。彼らは将軍への謁見を果たすだけでなく、書物や絵画、学問など多岐にわたる文化交流を促進した。特に通信使が携えた書籍や学術知識は、日知識人にとって貴重な財産となった。通信使の行列は、江戸時代の民衆にとっても一大イベントであり、多くの人々がその壮観さに驚嘆した。

琉球文化と日本社会の融合

琉球王国は独自の文化を発展させ、その成果は日土にも影響を与えた。琉球舞踊や音楽は薩摩藩を通じて日に伝わり、特に京都や大阪で人気を博した。また、琉球からもたらされた工芸品や薬品は、日の生活文化を豊かにした。逆に日からの影響も琉球に波及し、両者の文化が絶妙に融合した。この双方向の文化交流が、琉球を鎖下の特異な存在として際立たせた。

国境を越える友情と平和の象徴

琉球王国や朝鮮通信使との交流は、鎖政策下における日の外交の例外であった。しかし、これらの交流は単なる例外ではなく、日が世界と接触し続けるための重要な手段であった。朝鮮通信使の友好的な訪問や琉球の交易活動は、東アジアにおける平和的な際関係の基盤を築いた。これらの活動は、日が完全な孤立ではなく、慎重に世界と繋がり続けた証である。そして、これらの交流がもたらした平和の理念は、現代にも通じる普遍的な価値である。

第6章 鎖国と日常生活:政策の社会的影響

鎖国がもたらした安定と繁栄

政策は、日全土に安定をもたらした。戦国時代の混乱が収束し、江戸幕府の強力な統治の下、社会は安定した平和の時代を迎えた。この安定は、農業の発展や商業の活性化を促し、各地で地方経済が繁栄する基盤を築いた。また、人口増加や都市化も進み、江戸や大阪などの都市は文化と商業の中心地として発展した。鎖による外的脅威の排除は、内の生産活動に集中する環境を整え、人々の暮らしを豊かにしたのである。

地方文化の独自進化

政策の下、日の各地方は独自の文化を育んだ。例えば、会津地方では漆器産業が発展し、九州では陶磁器生産が隆盛を極めた。これらの産業は、それぞれの地域の自然資源や伝統技術を生かしたものであり、全的に評価された。また、地方祭りや民俗芸能も盛んになり、地域特有の文化が確立された。鎖による情報や文化の制限が、逆に日内での多様性と創造性を育てる要因となったのである。

教育と庶民の知識欲

江戸時代には、寺子屋や藩校などの教育機関が普及し、庶民の識字率が飛躍的に向上した。鎖による情報の統制は、逆に内の知識流通を促進する結果となり、多くの庶民が経済や文化に関心を持つようになった。例えば、伊勢参りやお伊勢講といった民衆の巡礼活動は、宗教的な意味だけでなく、地方の情報を共有し、新たな知識を得る場ともなった。鎖下の日では、外界と遮断されながらも、内向きの知識探求が活発に行われた。

江戸の町人文化の花咲く時代

時代の江戸は、文化が花開く都市として栄えた。浮世絵、歌舞伎、浄瑠璃などの大衆芸術が庶民の間で大人気となり、江戸のを彩った。木版印刷の普及によって出版文化も発展し、『東海道中膝栗毛』のような旅行記や読み物が広く読まれた。また、人たちは自由な商売活動を通じて都市経済を支え、文化を支える資を生み出した。鎖政策は、こうした文化が内向きに充実するための土台を提供したと言える。

第7章 情報の流れ:密貿易と密航の歴史

密貿易の影に潜む冒険者たち

政策の下でも、完全に外との接触を断つことは不可能であった。長崎や対馬、薩摩などの沿岸地域では、密貿易が密かに行われていた。特に中国の商人や日の冒険的な商人が関与し、、薬草などが取引された。密貿易の多くは幕府に発覚すると厳罰が科されたが、それでも商人たちは危険を冒して際市場と繋がり続けた。この地下活動は、鎖下でも際的な情報や物資が日に流れ込む重要なルートとなった。

密航者がもたらした異文化の断片

密航は、鎖時代における数少ない際交流の形であった。主に九州地方の漁師や商人が、中国東南アジアへ密航し、新しい技術知識を持ち帰った。彼らは異の言語を学び、その土地の文化や生活を取り入れることで、日社会に新しい風を吹き込んだ。密航者の中には、帰後に幕府に捕らえられる者もいたが、その活動は文化的な影響を与え、特に工芸や食文化に変化をもたらした。

地域社会を動かした密貿易ネットワーク

密貿易は、ただの商取引ではなく、地域社会に深い影響を及ぼした。例えば、九州地方では密貿易が地元経済の重要な柱となり、多くの人々がこの活動に依存して生計を立てていた。また、密貿易を通じて地域社会が手にした品々は、独自の文化を形成する要素となった。長崎の「物」と呼ばれる輸入品は、生活を豊かにするだけでなく、日各地の商人や文化人にとっても憧れの的であった。

幕府の監視網と密貿易の攻防

幕府は密貿易を取り締まるために厳しい監視網を敷いたが、それをかいくぐる商人たちの工夫は驚くべきものであった。密貿易は、海岸の入り江や無人島を利用して取引を行い、地元の漁師や農民もそれを支援した。一方で、幕府側も密貿易を防ぐために長崎奉行や海上警備隊を強化し、厳しい取り締まりを続けた。この攻防は、鎖時代の日が抱える矛盾を象徴するものであり、同時に人々の生存と冒険の物語でもあった。

第8章 外圧と鎖国体制の動揺

ロシア船が日本にやってきた日

18世紀後半、ロシア探検家たちが日に接近し始めた。特にラクスマンが1792年に根室に来航した際、ロシアは日に対し通商を求めたが、幕府は慎重な対応を取った。幕府は長崎への帰還許可証を渡すだけで正式な交渉を避けた。この接触は日にとって衝撃的であり、ロシアの南下政策に対する警戒を強めるきっかけとなった。鎖政策が初めて外圧によって揺らぎ始めた瞬間であった。

欧米列強の影響が忍び寄る

19世紀に入ると、イギリスやアメリカなどの欧列強も日周辺に姿を現し始めた。特に19世紀初頭、捕鯨が太平洋で活動を拡大し、日近海にも進出した。彼らは補給地として日を利用したいと考え、頻繁に接触を試みた。これに対して幕府は厳格な対応を取ったが、列強の技術力や武力を目の当たりにし、鎖体制の維持が難しくなる兆しを感じ始めた。

異国船打払令の制定

外圧が高まる中、1825年に幕府は異打払令を発令し、日近海に接近する外を力で排除する方針を打ち出した。これは幕府の決意を示すものであったが、一方で経済的な不安や地元住民の負担を増加させた。特に、漁師や商人たちは外との接触を恐れつつも、時に物資の交換や密貿易に加担することもあった。この命令は、幕府が内外の圧力に苦慮していたことを如実に示している。

ペリー来航前夜の緊張

列強の影響が徐々に広がる中、日内でも開を巡る意見が分かれ始めた。幕府内では鎖政策を維持するべきだとする保守派と、欧列強に備えて改革が必要だとする進歩派が対立していた。このような中、黒の来航が迫り、日社会全体が不安と緊張に包まれていた。外圧がもたらした不安定な状況は、幕府にとって新たな試練であり、日未来を大きく左右する局面を迎えようとしていた。

第9章 ペリー来航と鎖国の崩壊

黒船がもたらした衝撃

1853年、アメリカ海軍のマシュー・ペリー提督が率いる黒艦隊が浦賀に来航した。この巨大な蒸気は、それまで見たことのない先進技術を備え、日人に強烈な衝撃を与えた。ペリーは開を求めるアメリカ大統領の親書を幕府に渡し、日に対して圧倒的な軍事力を示した。この出来事は、日が自技術や軍事力の遅れを痛感する契機となり、幕府は深刻な決断を迫られることになった。

日米和親条約の締結

翌1854年、幕府はペリーとの交渉を経て日和親条約を締結した。この条約により、下田と函館の2港が開港され、アメリカに補給や修理を提供することが決まった。さらに、アメリカ人に対して特定の権利を認める内容も含まれていた。この条約は、日が約200年にわたる鎖政策を放棄し、際社会に向けて扉を開く第一歩となった。幕府内では反対意見も多かったが、外圧に屈した形での決定だった。

国内に広がる不安と動揺

決定は、日内に大きな不安と動揺を引き起こした。幕府に対する不満が高まり、尊王攘夷運動が各地で広がった。特に下級武士や民衆は、外勢力の影響を排除し、日の伝統を守るべきだと主張した。一方で、一部の知識人や藩主たちは、西洋の技術を取り入れ近代化を進めるべきだと考えた。こうした対立は、後に幕末の動乱と明治維新へと繋がる日社会の変革の始まりとなった。

鎖国から開国へ:新たな時代の夜明け

ペリー来航と日和親条約の締結は、日が鎖から開へと移行する大きな転換点であった。この出来事をきっかけに、続々と他の欧との不平等条約が結ばれ、日は急速に際社会との関係を深めていった。鎖政策は終わりを迎えたが、その背後には長い試行錯誤と内の葛藤があった。日はここから新たな未来を切り開くための一歩を踏み出し、近代化への道を歩み始めたのである。

第10章 鎖国の遺産:近代日本への影響

鎖国が残した経済の土台

政策は日の経済に独特な基盤を残した。内需に依存した経済構造が発展し、各地の商人たちは地方経済を支える重要な役割を果たした。大阪の「天下の台所」と呼ばれる経済圏は、食料や商品流通の中心地として全を繋いだ。さらに、地域産業が強化され、瀬戸内海の田や九州の陶磁器産業など、内での生産技術が高まった。これらの要素は、後の日の近代産業革命を支える土台となり、経済の自立性を高めたのである。

独自文化が生んだ近代芸術

の間、日文化は他の影響を最小限に抑えながら独自の発展を遂げた。浮世絵、俳句茶道などの伝統文化が成熟し、その美学は世界的にも高い評価を受けることになる。特に浮世絵は、19世紀後半に海外で注目を集め、印派の画家たちに影響を与えた。鎖が終わった後も、こうした文化の強みは日アイデンティティとして残り、近代化の中でも重要な役割を果たした。

外圧への対応が育んだ外交の知恵

時代の外圧対応は、幕府が慎重に外交を進める基盤を築いた。例外的に許可された朝鮮通信使や琉球との交流は、日が外交交渉や際関係を理解する上での教訓を提供した。また、開後に不平等条約を結んだ際の交渉力は限られていたが、後に条約改正運動で改される素地が生まれた。鎖の経験は、現代に至るまでの日の外交姿勢の根底に影響を与えている。

鎖国が導いた技術と知識の選択

限られた交流から取り入れられた蘭学や天文学は、明治時代の近代化に大きな影響を与えた。江戸時代に培われた知識は、開後に一気に活用され、医学科学技術の発展を支えた。例えば、杉田玄白の『解体新書』や伊能忠敬の地図制作は、当時の西洋技術を日独自に発展させた成功例である。こうした知識の蓄積は、鎖が単なる閉鎖政策ではなく、選択的に情報を取り入れる戦略的な側面を持っていたことを物語っている。