19世紀

第1章: 産業革命の進展と社会の変貌

蒸気が動かす世界の誕生

18世紀末から19世紀にかけて、産業革命イギリスを中心に急速に進展した。ジェームズ・ワットが改良した蒸気機関は、その象徴である。蒸気の力で機械が動くようになると、工場での生産が飛躍的に向上し、イギリスは「世界の工場」と称されるまでになった。これにより、手工業に依存していた時代は終わり、機械による大量生産が可能となった。さらに鉄道や蒸気船の発展により、物資や人々の移動が格段に速くなり、世界は一気に縮まった。産業革命は、技術革新によって生活を根本的に変える大きな力を持っていたのである。

都市化と労働者の生活

産業革命の進展は、都市への人口集中を加速させた。工場は都市に建設され、多くの農村から人々が仕事を求めて都市へと移住した。しかし、急速な都市化は必ずしも良いことばかりではなかった。ロンドンやマンチェスターのような都市では、労働者たちは過密状態の住居に住み、劣悪な衛生環境と長時間労働に苦しんだ。チャールズ・ディケンズの小説『オリバー・ツイスト』に描かれるように、貧困と不平等は深刻な社会問題となり、労働者階級は社会の底辺に追いやられていった。これが後に労働運動や社会改革を引き起こす要因となるのである。

機械と手工業の対立

産業革命は多くの恩恵をもたらした一方で、伝統的な手工業者にとっては大きな脅威でもあった。機械化による大量生産は、熟練した職人たちの技術を無用のものにし、彼らは職を失うこととなった。19世紀初頭、イギリスではラッダイト運動と呼ばれる機械打ち壊し運動が発生し、手工業者たちは機械に対して激しい抵抗を示した。この運動は短命に終わったが、機械が労働者の生活に与える影響を象徴する出来事であった。産業革命と影が交錯する中で、新しい時代の到来を歓迎する者もいれば、恐れる者もいたのである。

資本家と労働者の新たな関係

産業革命資本主義の発展を加速させ、資本家と労働者の関係を根本的に変えた。工場主である資本家は、機械を所有し、労働者を雇うことで富を蓄積した。一方で、労働者はその日暮らしの賃労働に従事し、不安定な生活を余儀なくされた。この新しい経済関係は、後にマルクス主義の台頭をもたらす土壌となり、資本主義の矛盾を指摘する思想が広がっていく。フリードリヒ・エンゲルスは『イギリスにおける労働者階級の状態』で、労働者たちの悲惨な状況を描写し、資本主義社会の問題点を鋭く批判した。産業革命は、単なる技術革新にとどまらず、社会全体に深い変革をもたらしたのである。

第2章: 帝国主義と植民地拡大の時代

ヨーロッパの植民地争奪戦

19世紀後半、ヨーロッパ諸国は競うように植民地を拡大していった。特にベルリン会議(1884-1885年)は、アフリカ分割の始まりを象徴する出来事であった。この会議では、ヨーロッパ列強がアフリカの土地を自分たちの領土として分割し、その結果、アフリカ大陸はヨーロッパの支配下に置かれることとなった。この植民地争奪戦の背後には、資源の獲得と市場の拡大を求める経済的な欲望があった。フランス、イギリス、ベルギーなどが積極的に領土を広げ、アフリカやアジアの多くの国々がその犠牲となったのである。

イギリス帝国の絶頂

「太陽の沈まぬ帝国」と呼ばれたイギリス帝国は、19世紀にその絶頂を迎えた。インドは「帝国の宝石」として知られ、イギリスの経済力と軍事力を支える重要な役割を果たした。イギリスインドだけでなく、カナダオーストラリアアフリカの広範な地域を支配し、世界中にその影響力を広げた。植民地からの豊富な資源と市場の確保は、イギリス産業革命を支える重要な要素であり、その結果、イギリスは世界経済の中心地となったのである。しかし、その一方で、現地の人々はイギリスの支配に苦しむこととなり、独立運動が次第に高まっていった。

アフリカの分割とその影響

アフリカ分割は、アフリカの民族や文化に大きな混乱をもたらした。ヨーロッパ諸国は、アフリカの地理や民族を無視して国境線を引き、異なる民族が強制的に同じ国に統合されたり、分断されたりした。例えば、ベルギーが支配したコンゴでは、豊富な天然資源がヨーロッパに流れ込み、その代償として現地の住民は過酷な労働に従事させられた。このような植民地支配の影響は、独立後のアフリカ諸国に深刻な後遺症を残し、内戦政治的不安定が続く要因となった。アフリカの分割は、単なる領土の分配ではなく、文化や社会に深い影響を与えたのである。

アジアへの進出と抵抗

アフリカに続いて、アジアもまたヨーロッパ諸国の標的となった。インドを支配したイギリスに続き、フランスはインドシナ半島を植民地化し、オランダはインドネシアに影響力を広げた。しかし、アジアでは植民地支配に対する抵抗が強く、一部の国々では独立運動が活発化した。インドでは、ガンジーを中心とした非暴力抵抗運動が展開され、日本は明治維新を通じて西洋列強に対抗できる近代国家へと成長した。アジアの進出は単なる植民地支配にとどまらず、独自の文化や価値観を守るための戦いでもあったのである。

第3章: 国民国家の形成と政治改革

革命の波と新たな秩序

19世紀は、フランス革命によってもたらされた自由と平等の理想がヨーロッパ全土に広がり、新たな政治秩序を形成する時代であった。ナポレオン・ボナパルトが台頭し、フランス帝国を築いたが、彼の失脚後、ウィーン会議が開かれ、ヨーロッパの勢力均衡を図る新たな秩序が形成された。しかし、この秩序は安定をもたらす一方で、民族自決を求める声を抑え込むものであり、後の民族主義運動の火種を残すこととなった。19世紀初頭のヨーロッパは、自由と統制、変革と安定という相反する力がせめぎ合う時代であったのである。

フランス革命の余波と七月革命

フランス革命の理想は、王政復古後のフランスでも完全には消え去ることはなかった。1830年、シャルル10世の専制政治に対する不満が高まり、七革命が勃発した。この革命は王政を倒し、ルイ・フィリップを「市民王」として新たな君主に迎えることとなったが、その実、政治権力は富裕層に集中し、労働者や農民の生活は依然として困難であった。それでも、この革命はヨーロッパ各地に波及し、ベルギーやイタリア、ポーランドでも独立や改革を求める動きが活発化した。フランスの革命精神は、19世紀を通じてヨーロッパ政治改革を促進する原動力となったのである。

ドイツ統一とビスマルクの巧妙な戦略

19世紀後半、ドイツ統一はオットー・フォン・ビスマルクの指導の下、複雑な外交と戦争を通じて成し遂げられた。普墺戦争や普仏戦争を巧みに操り、プロイセンを中心としたドイツ帝国が1871年に誕生した。この統一は、ビスマルクの現実主義的な「血政策」によるものであり、彼はドイツ内外の勢力を利用して、最終的に統一を達成したのである。この成功は、他のヨーロッパ諸国にも大きな影響を与え、民族主義が一層強化されることとなった。ビスマルクの策略は、19世紀の国際政治において一つの頂点を形成した。

イタリア統一運動とリソルジメント

イタリアでも同様に、統一を目指す動きが活発化した。リソルジメント(復興)と呼ばれるこの運動は、ジュゼッペ・ガリバルディやカミッロ・カヴールなどの指導者たちによって推進された。彼らは、それぞれ異なるアプローチでイタリア統一を目指し、1861年にサルデーニャ王国がイタリア王国として統一を宣言するに至った。しかし、完全な統一にはまだ時間がかかり、特に教皇領をめぐる問題は、イタリア統一後も政治的な課題として残された。イタリア統一は、民族自決と統一の理想を体現する一方で、多くの試練と妥協を伴ったのである。

第4章: 科学と技術の進歩

電気の力が世界を照らす

19世紀は電気の時代と呼ばれるにふさわしい。電気の発見とその応用は、まさに世界を一変させた。特に、トーマス・エジソンによる電球の発明は、夜を明るく照らし、人々の生活を根本から変えた。電気はもはや単なる実験室の現ではなく、産業や家庭に欠かせないエネルギー源となった。また、電信や電話といった通信技術の発展も、この時代において重要な進展を遂げた。サミュエル・モールスが発明したモールス信号は、遠く離れた場所との通信を瞬時に可能にし、情報革命の先駆けとなったのである。

ダーウィンの進化論が世界観を揺るがす

1859年、チャールズ・ダーウィンは『種の起源』を発表し、その進化論が科学界のみならず、社会全体に衝撃を与えた。ダーウィン自然選択説は、生物が環境に適応しながら進化していく過程を説明し、キリスト教的な創造論に挑戦した。進化論は人間の存在をの創造物から進化の産物と位置づけ、倫理や宗教、哲学に至るまで、さまざまな分野で論争を巻き起こした。科学は、単に自然を解明するだけでなく、世界観そのものを変える力を持っていることを、ダーウィンは示したのである。

化学の発展と新たな物質の発見

19世紀は化学の分野でも大きな進歩が見られた。ドミトリ・メンデレーエフによる周期表の発表は、元素の性質とその関係性を明らかにし、化学の体系化に大きく貢献した。さらに、アウグスト・ケクレがベンゼンの環状構造を提唱したことで、有機化学は新たな段階へと進んだ。また、アルフレッド・ノーベルが発明したダイナマイトは、工業や建設に革命をもたらすと同時に、その破壊力から戦争においても利用されるようになった。化学は、日常生活から産業、さらには戦争に至るまで、多岐にわたる影響を与えたのである。

医学の進歩と命の救済

19世紀医学においても革新の時代であった。ルイ・パスツールの微生物学の発展により、病気の原因が解明され、消毒法や予防接種が広まった。これにより、致命的な感染症が次第に抑制されるようになり、多くの命が救われた。また、ウィリアム・モートンによるエーテル麻酔の導入は、外科手術を飛躍的に進化させ、患者の苦痛を大幅に軽減した。医学の進歩は、人間の寿命を延ばし、健康を守るための新たな知識技術をもたらしたのである。これにより、19世紀医学は現代医療の礎となった。

第5章: 社会問題と労働運動の台頭

都市化がもたらす光と影

産業革命の進展に伴い、都市化は急速に進行した。農村から都市へ移住する人々の波は、ロンドンやマンチェスターのような都市を大きく成長させた。しかし、都市化がもたらしたのは必ずしも繁栄だけではなかった。過密な居住環境、不衛生な生活条件、長時間労働が労働者階級を苦しめ、社会問題が深刻化していった。チャールズ・ディケンズの小説『オリバー・ツイスト』には、当時の貧困と不平等が生き生きと描かれており、現実の厳しさを世間に知らしめた。都市化は、便利さと繁栄をもたらしながらも、社会の暗い側面を浮き彫りにしたのである。

労働者の反抗とマルクス主義の台頭

劣悪な労働環境と賃に対する不満は、労働者たちの間で次第に不満を募らせ、やがて組織的な反抗へと発展した。19世紀半ばには、労働者たちは労働組合を結成し、より良い労働条件と賃を求めてストライキを行った。カール・マルクスとフリードリヒ・エンゲルスが発表した『共産党宣言』は、資本主義の矛盾を指摘し、労働者階級の連帯を呼びかけた。この思想は、後に社会主義運動の基盤となり、ヨーロッパ各地で労働者の権利を求める闘争が活発化するきっかけとなった。マルクス主義は、労働者たちに新たな希望を与えたのである。

女性の権利とサフラジェット運動

19世紀は、女性の権利向上を求める動きも始まった時代であった。女性たちは、家庭内の従属的な役割から脱却し、社会進出や参政権の獲得を目指して運動を展開した。特にイギリスでは、エミリー・デイヴィソンやエメリン・パンクハーストらによるサフラジェット運動が活発化し、女性参政権獲得のための過激な手段も辞さなかった。彼女たちの努力は、20世紀に入ってから実を結ぶこととなるが、19世紀後半には既に、女性たちが社会変革の担い手として立ち上がり始めたのである。彼女たちの闘いは、後のフェミニズム運動の先駆けとなった。

社会改革と福祉国家の始まり

19世紀後半、社会問題への対策として、国家による社会改革が進められるようになった。ドイツでは、オットー・フォン・ビスマルクが社会保障制度を導入し、労働者の生活改善を図った。これは、労働者の支持を得るための政治的手段でもあったが、同時に近代福祉国家の礎を築くものであった。また、イギリスでは、工場法や教育法などの社会改革が進められ、労働者や子供たちの生活条件が徐々に改善された。これらの改革は、国家が市民の福祉に責任を持つという新たな考え方を生み出し、現代社会の基盤となったのである。

第6章: アメリカの拡張と南北戦争

西部開拓とフロンティア精神

19世紀のアメリカは、西部開拓が進む中で「フロンティア精神」が育まれた。アメリカ人は、新たな土地を求めて西へと移動し、未知の荒野を切り開いていった。ミシシッピ川を越え、カリフォルニアに至る広大な地域が「ゴールドラッシュ」によって急速に発展した。この開拓精神は、アメリカ人に独立心と自己実現の意識を植え付けたが、一方でネイティブ・アメリカンの土地が奪われ、彼らは強制的に移住させられる悲劇も生んだ。西部開拓は、アメリカの国土拡張と同時に、その社会に大きな矛盾を抱え込むことになったのである。

南北戦争の勃発とその背景

19世紀半ば、アメリカは深刻な分裂を迎えた。北部と南部の間で奴隷制を巡る対立が激化し、最終的には南北戦争という形で衝突することとなった。北部は産業化が進み、奴隷制の廃止を求める声が強まる一方、南部はプランテーション経済に依存し、奴隷制を維持しようとした。この対立がエイブラハム・リンカーンの大統領選出を契機に決定的となり、1861年に南部がアメリカ連合国として分離独立を宣言、内戦が勃発したのである。この戦争は、アメリカの未来を賭けた戦いとなり、その結果が国の行方を大きく左右した。

奴隷制の廃止と黒人の自由

南北戦争の最大の成果は、奴隷制の廃止であった。エイブラハム・リンカーンは1863年に「奴隷解放宣言」を発表し、アメリカ全土で奴隷が解放されることとなった。この宣言は、アメリカの歴史における重要な転換点となり、黒人たちは自由を手に入れた。しかし、解放後も彼らの生活は困難を極め、南部ではジム・クロウ法による人種差別が横行し、黒人の権利は依然として制限された。黒人の自由と平等の実現には、さらに多くの闘争と時間が必要だったのである。奴隷制の廃止は、新たな希望をもたらしたが、同時に新たな課題も生んだ。

戦争の終結とアメリカの再建

1865年、南北戦争は北部の勝利で終結したが、アメリカは深い傷を負った。特に南部は戦争で荒廃し、経済は破綻状態にあった。戦後、リンカーンは「寛容と和解」を掲げて南部の再建を目指したが、彼の暗殺によりその道は険しいものとなった。レコンストラクションと呼ばれる再建期には、奴隷制廃止後の南部社会の再編が試みられ、黒人に選挙権が与えられるなどの改革が進められたが、南部の白人層からの抵抗も激しかった。アメリカの再建は、国の統一を取り戻すと同時に、深い分断を残す結果となったのである。

第7章: 日本の明治維新と近代化

幕末の動乱と開国への道

19世紀半ば、日本は200年以上にわたる鎖国政策を続けていたが、黒船来航により大きな転換点を迎えた。1853年、アメリカのペリー提督が浦賀に来航し、開国を要求した。この出来事は、日本国内で大きな衝撃を与え、幕府の権威が揺らぐきっかけとなった。国内では開国か鎖国かで意見が二分し、幕末の動乱が始まる。最終的に日和親条約が結ばれ、日本は開国への道を歩み出すこととなった。これが、日本の近代化の始まりであり、後に明治維新へとつながる大きな流れを生み出したのである。

明治維新と新たな国家体制の確立

明治維新は、日本が封建制度を廃止し、中央集権的な近代国家を形成するための一大改革であった。1868年、明治天皇の名の下に「五箇条の御誓文」が発表され、日本は新たな時代へと踏み出した。これにより、幕府は倒れ、薩摩・長州を中心とした新政府が誕生した。廃藩置県によって地方の大名が廃止され、土地と人民は政府の直接支配下に置かれた。また、西洋の技術や制度を積極的に取り入れ、富国強兵を目指す政策が推進された。この一連の改革により、日本は急速に近代国家へと生まれ変わることとなった。

文明開化と西洋文化の受容

明治維新以降、日本は「文明開化」と称して、西洋文化や技術の導入を積極的に進めた。鉄道や郵便制度が整備され、ガス灯や洋装といった新しい生活様式が広がった。特に、教育制度の改革は重要な意味を持ち、義務教育が導入され、国民全体の識字率が向上した。また、福沢諭吉が『学問のすゝめ』を執筆し、個人の自由と独立の重要性を説いたことも、社会に大きな影響を与えた。西洋文化の受容は、日本社会を大きく変え、近代化を推進する原動力となったのである。

日清戦争と日本の国際的地位の向上

日本は明治維新によって近代国家へと変貌を遂げたが、その成果を試す場として日清戦争が起こった。1894年に始まったこの戦争で、日本は清国に対して圧倒的な勝利を収めた。この勝利により、日本は朝鮮半島における影響力を強め、台湾を領有することとなった。さらに、日清戦争は日本が国際社会で一目置かれる存在となる契機となり、アジアの新興勢力としての地位を確立した。日本の近代化は、単に国内の変革にとどまらず、国際社会においてもその影響を強く発揮することとなったのである。

第8章: 文化と芸術の変遷

ロマン主義の誕生と情熱の表現

19世紀初頭、ヨーロッパではロマン主義が文化と芸術の中心に据えられるようになった。この運動は、理性よりも感情や個人の内面を重視し、自然や人間の感情を強く表現することを求めた。ジョージ・ゴードン・バイロンやヴィクトル・ユーゴーといった詩人・作家たちは、情熱的で力強い作品を生み出し、ナポレオン戦争後の混乱した社会に新たな精神的指針を示した。また、ロマン主義音楽や絵画にも広がり、ベートーヴェンの交響曲やターナーの風景画など、芸術作品を通じて人々の心を揺さぶった。ロマン主義は、内なる感情自然の美を称賛する運動であり、19世紀の文化に大きな影響を与えた。

写実主義と社会のリアリズム

ロマン主義感情的な表現に対して、19世紀中期には写実主義が台頭した。写実主義は、現実をありのままに描くことを目的とし、社会の真実を映し出すことに焦点を当てた。ギュスターヴ・クールベの絵画や、エミール・ゾラの小説は、労働者階級や貧困層の生活を赤裸々に描写し、社会問題を鋭く批判した。これにより、芸術は単なる美的表現から、社会的なメッセージを伝える手段へと進化したのである。写実主義は、芸術が社会の鏡としての役割を果たし、現実の厳しさや不平等を視覚化することを可能にした。

印象派の革命と視覚の変革

19世紀後半、パリを中心に印象派が登場し、従来のアカデミズムに挑戦した。クロード・モネやエドゥアール・マネ、ルノワールといった画家たちは、瞬間的な印の変化を捉えることを目指し、従来の技法とは異なる筆遣いや色彩を用いた。彼らは屋外での制作を重視し、自然の中で直接的に感覚を表現した。印象派の作品は、当初は批判されたものの、次第にその革新性が評価され、近代絵画の礎を築いた。印象派は、視覚的な感覚の自由を追求し、芸術の新たな方向性を示したのである。

文学における近代化と象徴主義

19世紀末、文学の世界では象徴主義が台頭し、言葉の象徴的な意味や深層心理の表現が重要視されるようになった。シャルル・ボードレールやステファヌ・マラルメといった詩人たちは、現実を超越した内面的な世界を探求し、言葉の持つ暗示的な力を駆使して作品を生み出した。象徴主義は、後のモダニズム文学に多大な影響を与え、文学の近代化を推進した。また、この時期には、社会や技術の進歩を反映したSFや探偵小説などの新しいジャンルも登場し、多様な文学表現が開花したのである。

第9章: ナショナリズムと民族運動

ナショナリズムの目覚めとその背景

19世紀は、ナショナリズムが世界各地で台頭した時代であった。ナポレオン戦争後、ウィーン会議によってヨーロッパの勢力均衡が図られたが、各地の民族は自己決定を求める声を強めていった。ナショナリズムは、共通の言語、文化、歴史を共有する人々が一つの国家を形成するべきだという思想であり、この時代に広がりを見せた。特にイタリアドイツでは、統一を目指す運動が活発化し、それぞれの国で国家統一が成し遂げられた。ナショナリズムの広がりは、既存の秩序に挑戦し、新たな国家形成の基盤を築くものであった。

イタリア統一運動とリソルジメント

イタリアでは、19世紀を通じて統一を目指すリソルジメント運動が展開された。イタリアは長い間、小国に分裂していたが、ジュゼッペ・ガリバルディやカミッロ・カヴールといった指導者たちが、それぞれの方法で統一を推進した。ガリバルディは赤シャツ隊を率いて南イタリアを解放し、カヴールは外交と軍事力を駆使して北イタリアの統一を進めた。最終的に1861年、イタリア王国が成立し、長年にわたる分裂状態は終わりを告げた。しかし、完全な統一にはまだ課題が残り、特に教皇領の扱いが大きな問題となった。

ドイツ統一とビスマルクの戦略

ドイツ統一は、プロイセン王国の宰相オットー・フォン・ビスマルクの手腕によって達成された。ビスマルクは「血政策」を掲げ、軍事力を背景にドイツ諸邦を統合する戦略を取った。普墺戦争や普仏戦争を通じて、ビスマルクはプロイセンの影響力を拡大し、最終的に1871年にドイツ帝国が成立した。この統一は、ナショナリズムの勝利であり、ドイツヨーロッパの主要な強国として台頭するきっかけとなった。ビスマルクの戦略的外交と軍事行動は、ドイツ統一を実現させた一方で、ヨーロッパの緊張を高める要因ともなった。

東欧の民族運動と帝国の崩壊

ナショナリズムの波は東欧にも及び、多くの民族が独立と自治を求めて立ち上がった。オーストリア=ハンガリー帝国やオスマン帝国といった多民族国家では、民族運動が帝国の統治に挑戦し、徐々にその支配が揺らぎ始めた。特にハンガリーやポーランドでは、民族自決を求める運動が激化し、独立戦争や反乱が相次いだ。これらの運動は、最終的に第一次世界大戦後の帝国崩壊に繋がり、東欧地域における新たな国境線の形成と民族国家の誕生をもたらした。ナショナリズムは、東欧の政治地図を大きく書き換える力を持っていたのである。

第10章: 経済とグローバル化の始まり

産業革命がもたらした世界市場の誕生

19世紀産業革命は、世界経済を根本から変革し、新たな世界市場の形成を促進した。工業化により生産力が飛躍的に向上し、製品の大量生産が可能となった結果、これらの製品を世界中に輸出する必要が生じた。イギリスは「世界の工場」として、多くの国々と貿易を行い、国際経済の中心となった。また、蒸気船や鉄道の発展により、物資の移動が劇的に速くなり、世界の隅々まで商品が届くようになった。この時代に確立された世界市場は、現在のグローバル経済の基盤となり、国家間の経済的な結びつきを強化した。

国際金融の進化と金本位制の確立

19世紀後半、国際貿易の拡大に伴い、融システムも大きく進化を遂げた。特に、金本位制の導入が国際融の安定に寄与した。金本位制は、各国の通貨がに裏付けられることで、その価値が保証される仕組みであり、貿易や投資が活発化する中で、信頼性の高い通貨制度が求められたために導入された。イギリスをはじめとする主要国がこの制度を採用し、国際的な取引が円滑に行われるようになった。これにより、資本の国際移動が促進され、国際経済の一体化が進んだ。金本位制は、近代的な国際融システムの礎となったのである。

グローバル化の先駆けとしての植民地経済

19世紀植民地拡大は、グローバル経済の形成において重要な役割を果たした。ヨーロッパ諸国は、アフリカやアジアの植民地を通じて、原材料を供給し、それを本国で加工して製品として再輸出するという形で利益を上げた。この植民地経済は、産業革命で生まれた技術を活用し、世界の資源と労働力を効率的に結びつけることに成功した。植民地はまた、ヨーロッパ製品の市場としても機能し、消費の拡大を支えた。このように、植民地支配は、経済的な観点からもグローバル化を促進する一因となり、世界の経済構造に深い影響を与えた。

世界博覧会と産業の国際競争

19世紀には、各国が技術と産業の発展を誇示するために世界博覧会を開催するようになった。特に1851年にロンドンで開催された第一回万国博覧会は、産業革命の成果を世界にアピールする場となり、イギリス技術力と経済力が改めて確認された。こうした博覧会は、各国の技術革新を促し、国際競争を激化させると同時に、技術知識の交流を進める役割も果たした。博覧会は、単なる展示の場にとどまらず、グローバル経済の一環として各国が互いに影響を与え合う契機となり、世界がさらに密接に結びつくきっかけを提供したのである。