基礎知識
- カロリング朝の成立とカール大帝
フランク王国の統一を成し遂げたカール大帝(シャルルマーニュ)は西ヨーロッパの重要な支配者であり、彼の治世下でカロリング朝が成立した。 - フランス革命とその影響
1789年のフランス革命は絶対君主制を打倒し、近代民主主義の基盤を作り、ヨーロッパ全土に大きな影響を与えた。 - ナポレオン・ボナパルトの帝国と改革
ナポレオン・ボナパルトはフランス第一帝政を樹立し、法典や行政の改革を通じて現代国家の基盤を作り上げた。 - 第二次世界大戦とフランスの占領
第二次世界大戦中、フランスはナチス・ドイツに占領され、レジスタンス運動やド・ゴール将軍の自由フランスが後の政治的再編を促した。 - フランス植民地主義と脱植民地化
19世紀から20世紀初頭にかけて、フランスは広大な植民地帝国を築き、第二次世界大戦後の脱植民地化の過程で影響力を縮小させた。
第1章 フランク王国とカール大帝の遺産
フランク王国の誕生と拡大の物語
5世紀末、ローマ帝国が崩壊した後、ヨーロッパには新たな勢力が現れた。その中でも特に強力だったのが、フランク族である。彼らは現在のフランスやドイツの一部を支配し、メロヴィング朝のクローヴィス1世が496年にキリスト教に改宗したことで、カトリック教会と結びついた。これにより、フランク族は他のゲルマン諸族よりも強固な支配を確立し、フランスという国の基盤を作り上げた。クローヴィスの後継者たちは、その領土を広げながらも内部の争いに悩まされたが、この時代に築かれたフランク王国の基礎は、後にさらなる拡大を遂げることになる。
カロリング朝とピピン3世の革命
8世紀に入ると、メロヴィング朝は次第に弱体化し、実権は「宮宰」と呼ばれる役職を持つピピン家が握った。特に、ピピン3世(小ピピン)がカロリング朝を開いた瞬間が重要である。751年、ピピン3世は教皇ザカリアスの承認を得て、ついに王位に就く。この時のピピンの行動は、教会と王権が手を組む新しい政治の形を生み出した。教会の支持を得ることで、ピピンは自らの正当性を確保し、フランク王国のさらなる安定化を図った。ピピンはまた、ランゴバルド族に対抗し、教皇領を確立するための軍事援助も行った。
カール大帝の壮大な征服
ピピン3世の息子であるカール大帝(シャルルマーニュ)は、フランク王国をかつてない規模に拡大させた。768年に王位を継いだカール大帝は、30年にわたって領土を拡張し続けた。彼は現在のフランス、ドイツ、イタリアにまたがる広大な帝国を築き、ヨーロッパのほぼ全域にわたる支配権を手に入れた。特に800年、ローマ教皇レオ3世によって「ローマ皇帝」に戴冠されたことは、カール大帝が西ヨーロッパの絶対的な支配者となった瞬間である。彼の治世下で、フランスは文化的にも政治的にも強力な国家へと発展した。
カール大帝の遺産とフランスへの影響
カール大帝が築いた帝国は、その後のヨーロッパに計り知れない影響を与えた。彼の治世中に整備された法制度や行政機構は、後の中世ヨーロッパの基盤となった。特に「カロリング・ルネサンス」と呼ばれる文化的な復興が起こり、学問や芸術が大きく進展した。カール大帝の死後、帝国は分裂するが、その遺産はフランスに深く根付いた。彼の統治モデルは、フランスの王権強化や国家統一の基礎を築き、フランスという国がどのようにして中世ヨーロッパでの大国へと成長したのかを理解する上で重要である。
第2章 封建制と中世フランスの繁栄
封建制度の始まりとその仕組み
中世フランスでは、王様一人が国をすべて支配することは不可能だった。そこで誕生したのが「封建制度」である。封建制度とは、土地を巡る契約のシステムで、王が貴族に土地を与え、代わりにその貴族たちが王のために戦ったり、税を納めたりした。貴族たちはさらに土地を部下の騎士や農民に貸し、その見返りとして労働や兵士としてのサービスを受け取る。このように、封建社会では、人々が互いに支え合い、忠誠を誓うことで国全体が成り立っていた。フランスはこの制度の中で発展を遂げ、強力な領主たちが地方を統治する体制が築かれた。
中世フランスの農村生活
封建制度の中心には農村があった。フランスの大多数の人々は農民であり、「荘園」と呼ばれる広大な農地で働いていた。農民たちは自分の土地を持たず、領主の土地を耕し、その収穫の一部を納めることで生活していた。農民たちの生活は決して楽ではなかったが、集落内でお互いに助け合いながら生きていた。領主たちは農民たちに対して守護者の役割を果たし、外部からの攻撃や略奪に対する防衛を提供した。また、教会も村の生活において重要な存在で、農村の人々に宗教的な指導や教育を提供していた。
騎士と戦いの時代
中世フランスといえば、騎士たちの活躍が思い浮かぶだろう。騎士は、領主に仕えるプロの戦士であり、その勇敢さと忠誠心が重要視された。騎士たちは領主の土地や財産を守り、時には領地を拡大するために戦った。特に、十字軍と呼ばれる宗教戦争に参加することが、彼らの名誉を高めた。1095年に教皇ウルバヌス2世が呼びかけた第1回十字軍では、多くのフランス騎士が聖地エルサレムを奪回するために中東へ向かった。彼らの活躍は、後のフランス社会においても高く評価され、騎士道が生まれるきっかけとなった。
王権の強化と封建制の終焉
封建制度の時代が進むにつれて、フランス王たちは次第に自らの力を強化し始めた。特に12世紀以降、フランス王フィリップ2世やルイ9世のような有力な王たちが、地方の貴族たちから権力を奪い、中央集権化を進めた。彼らは軍隊を整備し、法律や税制を統一して、より強固な国家を作り上げていった。また、都市の発展も封建制度を弱体化させた。商人たちが力を持つようになり、王たちは新しい収入源を得たことで貴族に頼らずに政治を行えるようになった。こうして封建制は徐々にその力を失い、近代国家の基盤が築かれていった。
第3章 百年戦争とフランスの王権強化
百年戦争の始まり
1337年、イングランドとフランスの間で百年戦争が始まった。これは、フランスの王位継承問題から生じた長期にわたる戦争である。イングランドのエドワード3世がフランス王位の正当な継承者であると主張し、両国は激しい争いに突入した。この戦争は約116年続き、イングランド軍が多くの勝利を収めたが、フランスの抵抗は続いた。戦争は単なる軍事的対立だけでなく、国際的な同盟関係や国内の政治的・経済的要因とも深く結びついていた。フランスの農村部は荒廃し、戦争による苦しみは民衆にも大きな影響を与えた。
ジャンヌ・ダルクとフランスの逆転劇
百年戦争の途中、フランスの運命を変えたのが、当時わずか17歳の少女ジャンヌ・ダルクである。1429年、彼女はフランスの王太子シャルル7世に仕え、神の啓示を受けてイングランド軍を打ち負かす使命を帯びていた。彼女の指導のもと、フランス軍はオルレアンでの勝利を収め、続いてシャルル7世がランスで正式に戴冠された。この出来事はフランスに大きな希望を与え、ジャンヌ・ダルクは国民的英雄となった。彼女の勇敢な行動と献身により、フランスの逆転劇が始まり、戦争の流れは大きく変わった。
王権の強化と中央集権化
百年戦争の終結後、フランスでは王権が一層強化された。シャルル7世は戦争の混乱を乗り越え、国内の再統一を進め、領主たちの権力を抑え込んでいった。特に、彼の後継者ルイ11世は強力な王権を確立するため、領土の拡大と貴族の影響力を削減する政策を推進した。ルイ11世は貴族たちの反抗を抑え、税制を改革し、官僚制度を強化することで、王室が国全体をより効率的に支配できる体制を築いた。これにより、フランスは強力な中央集権国家へと成長し、後に絶対王政の土台が形成された。
戦争の終結とその遺産
1453年、百年戦争は終わりを迎えた。イングランドはフランスの大部分から撤退し、フランスは戦争によって荒廃した国土を復興する過程に入った。この戦争の遺産として、フランスでは国民意識が高まり、中央集権化が進んだ。また、戦争を通じてフランス王は独立した軍隊を持つようになり、国防力が強化された。さらに、戦争による経済的な打撃からの回復過程で都市部が発展し、商業活動が盛んになった。このように、百年戦争はフランスの歴史に大きな転機をもたらし、近代国家への道を開いた。
第4章 ルネサンスと宗教戦争
フランス・ルネサンスの華やかさ
16世紀初頭、フランスは文化的な黄金期に突入した。フランソワ1世の治世に始まるフランス・ルネサンスは、芸術や学問の飛躍的な発展をもたらした。フランソワ1世は芸術の大愛好者であり、レオナルド・ダ・ヴィンチなどの偉大なイタリアの芸術家をフランス宮廷に招いた。宮殿が華やかな美術品や建築で彩られたこの時期、絵画、彫刻、文学が栄え、パリやロワール渓谷の城館がその証となった。フランス・ルネサンスは、古代ギリシャ・ローマの文化を再発見し、フランス社会に知識と美の革命をもたらしたのである。
宗教改革とカトリック教会の動揺
しかし、フランス・ルネサンスの裏で、宗教的な緊張が高まっていた。16世紀の半ば、宗教改革がヨーロッパ全体に波及し、マルティン・ルターの教えがフランスにも伝わった。フランスでは、カトリック教会の権威が揺らぎ、新たな信仰を受け入れる者たち、特に「ユグノー」と呼ばれるプロテスタントたちが増加した。この新しい信仰は、伝統的なカトリック勢力と激しく対立した。カトリック教会は、この動きに強く反発し、フランス国内での宗教的対立が次第に激化していくことになる。フランスは、宗教によって引き裂かれた国となった。
ユグノー戦争と国を襲う混乱
1562年、カトリックとプロテスタントの間で宗教戦争が勃発した。これが「ユグノー戦争」である。戦争は断続的に約30年間も続き、フランス全土を揺るがす大混乱を引き起こした。特に、1572年の「サン・バルテルミの虐殺」では、パリで数千人のプロテスタントが殺されるという悲劇が起こった。王権も揺れ、カトリーヌ・ド・メディシスが一時的に国政を握り、フランスは暴力と不安に包まれた。戦争は単なる宗教的対立にとどまらず、政治的・経済的にも国に大きな打撃を与えた。
ナントの勅令と宗教的平和の模索
最終的に、1598年にアンリ4世が発布した「ナントの勅令」によって、フランスは宗教的平和を取り戻した。アンリ4世はカトリックに改宗したが、国内のプロテスタントにも一定の宗教の自由を認める政策を取った。この勅令により、フランスは宗教的な対立を終結させ、国家の統一に向けて一歩前進した。ナントの勅令は、他のヨーロッパ諸国に比べても革新的な宗教政策であり、フランス国内での宗教の共存を目指す重要な転機であった。これにより、フランスはようやく長い混乱からの回復を開始した。
第5章 太陽王ルイ14世と絶対主義
ルイ14世の華やかな宮廷とヴェルサイユ宮殿
1643年、わずか5歳で王位に就いたルイ14世は、フランス史上最も華やかな王として知られる。彼が築いたヴェルサイユ宮殿は、単なる居住空間ではなく、フランスの権力と栄光の象徴であった。かつては湿地であった場所に壮麗な宮殿を建て、数千人の貴族がここで生活し、王に仕えた。ルイ14世は、自分がフランスそのものであるかのように「朕は国家なり」と豪語し、すべての決定権を掌握した。ヴェルサイユはヨーロッパ中の王侯貴族が憧れる場所となり、フランス文化の中心として君臨した。
ルイ14世とフランスの絶対王政
ルイ14世の治世は「絶対主義」と呼ばれる政治体制の典型であった。絶対主義とは、国王がすべての権力を持ち、議会や貴族の力を抑え込む政治形態である。ルイ14世は、宰相や大臣に依存せず、自らが最終決定権を持つことを徹底した。彼の下では、税制改革や軍事拡大が進められ、強大な官僚制が整備された。特に、財務総監コルベールが進めた経済政策によって、フランスは国際的な競争力を高めた。ルイ14世はヨーロッパ中で影響力を拡大し、フランスを最強の国に押し上げた。
外交戦争とフランスの覇権
ルイ14世の時代、フランスは何度も戦争に突入した。彼はフランスの国境を拡大し、フランドルやアルザスなどの重要な地域を手に入れるため、周辺国との戦いに明け暮れた。特に「スペイン継承戦争」では、フランスがスペイン王位を巡ってイギリスやオーストリアと対立した。この戦争は、フランスにとって大きな代償を伴ったが、フランスがヨーロッパでの覇権を握る重要な戦いでもあった。ルイ14世の外交政策はフランスの力を誇示しつつも、国庫を疲弊させたため、晩年には戦争疲れが国内に広がった。
ルイ14世の遺産とフランスの未来
1715年にルイ14世が死去した時、フランスは強大な国家であり、彼の治世は「太陽王」という名の通り、フランスを世界の中心に輝かせた。しかし、その一方で、長引く戦争と豪奢な宮廷生活はフランス財政に深刻な負担をかけた。ルイ14世が築いた絶対王政は、その後のフランス王たちにも引き継がれるが、次第にその体制は重荷となっていく。彼の死後、フランスは新たな課題に直面し、国内では反発や改革の声が高まっていった。ルイ14世の統治はフランスに栄光と同時に大きな試練を残した。
第6章 フランス革命:人民の声と権力の変遷
革命への序章:不満が積もる社会
18世紀後半、フランス社会には大きな不満が渦巻いていた。貴族や聖職者は特権を享受する一方で、一般の市民や農民は重い税金に苦しんでいた。国王ルイ16世の時代、フランスの財政は悪化し、贅沢な宮廷生活や戦争の出費が原因で国家は破産寸前だった。そんな中、アメリカ独立戦争の成功がフランス市民に影響を与え、「自由」「平等」といった新しい考え方が広まっていった。これらの不満と新たな思想が融合し、フランス全土で革命の気運が高まっていったのである。
バスティーユ襲撃と革命の始まり
1789年7月14日、フランス革命の象徴となる「バスティーユ襲撃」が起こった。パリ市民は武器を求めてバスティーユ監獄を襲撃し、これが革命の幕開けとなった。この襲撃は、王政に対する民衆の怒りを象徴する出来事であり、フランス全土に広がる反乱のきっかけとなった。これにより、フランスは急速に変わり始め、民衆が政治の舞台に立つことになった。王権は徐々に弱体化し、1789年8月に「人権宣言」が採択され、フランスの新しい政治の方向性が示された。革命は市民たちに大きな希望を与えた。
恐怖政治と内部の対立
革命が進むにつれて、内部の対立も激化していった。1793年、フランスは「恐怖政治」と呼ばれる暗い時代に突入した。この時期、革命の敵とみなされた者たちが次々と処刑され、その数は数千人にも及んだ。革命のリーダーであったロベスピエールは、徹底的に敵を排除することで革命を守ろうとしたが、そのやり方は多くの人々に恐怖を与えた。ギロチンは象徴的な処刑道具となり、ルイ16世やマリー・アントワネットも処刑された。内部の対立と過激化は、革命がもたらした理想とは裏腹に、フランス社会を大きく揺るがした。
革命の余波とナポレオンの台頭
1794年、ロベスピエールの失脚により恐怖政治は終わりを告げたが、フランス国内は依然として混乱していた。革命後の数年間、フランスは不安定な政府が続き、権力の空白が生まれた。この混乱の中で頭角を現したのが、若き軍人ナポレオン・ボナパルトである。1799年、彼はクーデターを起こして政権を握り、フランスは新たな時代を迎えることとなった。ナポレオンの登場は、革命の理想を引き継ぎつつも、独裁的な支配が始まる前兆でもあった。フランス革命は終わりを迎えつつも、その影響はフランスだけでなく、世界中に広がっていくことになる。
第7章 ナポレオンの台頭とヨーロッパの再編
ナポレオンの驚異的な登場
フランス革命が混乱の中で揺れる1790年代後半、一人の若き将軍ナポレオン・ボナパルトが急速に名声を得た。彼は数々の軍事作戦で成功を収め、特にイタリア遠征での勝利が彼を英雄に押し上げた。1799年、ナポレオンはクーデターを起こし、フランスの実質的な支配者となった。彼は自ら「第一統領」として権力を握り、フランス国内に安定をもたらすとともに、ヨーロッパ中での影響力を強めていった。彼の指導力と軍事的才能は、フランスを新たな時代へと導く原動力となった。
ナポレオン法典と社会改革
ナポレオンが単なる軍事指導者にとどまらず、社会改革者としても知られる理由は、彼が導入した「ナポレオン法典」にある。この法典は、革命後のフランス社会に秩序をもたらすためのもので、個人の権利、財産、契約に関する法律を定めた。特に平等の原則を重視し、貴族の特権を排除したことが大きな特徴であった。また、教育改革や行政制度の整備を進め、フランス社会全体を近代化させた。ナポレオンの改革はフランス国内だけでなく、彼の占領した多くのヨーロッパ諸国にも影響を与えた。
絶え間ない戦争とフランスの拡大
ナポレオンはフランスの力をさらに強固にするため、ヨーロッパ中で戦争を繰り広げた。1804年に皇帝として即位した彼は、次々と戦争に勝利し、フランス帝国を拡大させた。アウステルリッツの戦い(1805年)では、オーストリアとロシアの連合軍を打ち破り、彼の軍事的天才が証明された。しかし、この絶え間ない戦争はフランスにも大きな負担をかけた。ナポレオンの帝国は広大になったが、その野望は次第に無理が生じ、特にロシア遠征(1812年)の失敗は彼の帝国に深刻な打撃を与えた。
ウィーン会議とヨーロッパの再編
1815年、ナポレオンは最終的にワーテルローの戦いで敗北し、彼の時代は幕を閉じた。その後、ヨーロッパ諸国はウィーン会議を開き、戦争で荒廃した大陸を再編成した。この会議では、各国が自国の利益を守るために新たな国境を引き直し、フランスが支配していた領土の多くを元の支配者に返還した。ウィーン会議の成果は、ヨーロッパに一定の平和をもたらし、次の100年間、比較的安定した国際秩序を維持する土台となった。ナポレオンが築いた帝国は崩壊したが、彼の影響はヨーロッパ全土に今なお残っている。
第8章 革命と共和政の時代:19世紀フランスの変動
1830年革命と国王の退位
1830年、フランスは再び革命の波に飲み込まれた。シャルル10世が強引な政策を進め、特に新聞の自由を制限し、貴族階級の特権を復活させたことで、市民たちの不満が爆発したのだ。パリ市民は蜂起し、バリケードを築いて戦い、シャルル10世は退位を余儀なくされた。その結果、ルイ・フィリップが新しい国王として迎えられ、フランスは立憲君主制へと移行した。これは、市民たちの力が王権を揺るがす時代の到来を象徴しており、フランス国内に新たな政治の風が吹き始めた瞬間であった。
1848年革命と第二共和政の誕生
しかし、立憲君主制も長くは続かなかった。1848年、経済の停滞や貧困の増加が原因で、再びフランスは大規模な革命に突入した。パリの労働者たちは、より平等な社会を求めて立ち上がり、ルイ・フィリップ王は退位し、フランス第二共和政が成立した。この新しい政府は、普通選挙の導入や自由主義的な政策を打ち出し、人民の声を反映しようとしたが、内部の対立や不安定さが続いた。革命の理想は大きかったものの、実際の政治運営は困難を極め、フランスは再び混乱の時代に突入した。
ナポレオン3世と第二帝政の成立
混乱が続く中で、ナポレオン・ボナパルトの甥、ルイ・ナポレオンが台頭した。彼は大衆の支持を集め、1848年の大統領選挙で当選したが、1852年にはクーデターを起こして自ら皇帝ナポレオン3世となり、第二帝政を開始した。ナポレオン3世は、国内のインフラ整備やパリの再建などを進め、経済成長を促した一方で、権威主義的な支配を行った。彼の帝政は一時的に安定をもたらしたが、次第に外交的な失敗や内政の問題が表面化し、フランスは再び重大な岐路に立たされることとなる。
パリ・コミューンと第三共和政の始まり
1870年、普仏戦争での敗北を機に、ナポレオン3世は退位し、フランス第二帝政は崩壊した。これに続いて、パリでは市民が蜂起し、パリ・コミューンと呼ばれる自治政府が一時的に樹立された。コミューンは急進的な社会改革を掲げたが、政府軍によって鎮圧された。この出来事の後、フランスは第三共和政へと移行し、王政復古の可能性は完全に消えた。第三共和政は、民主的な制度を基盤にした政府であり、その後のフランスの政治体制を形作る重要な時代の幕開けとなった。
第9章 フランス植民地帝国とその崩壊
フランス植民地帝国の拡大
19世紀後半から20世紀初頭、フランスは広大な植民地帝国を築いた。フランスはアフリカの西部や中央部、さらには東南アジア、特にインドシナ半島に植民地を獲得した。これらの地域から、フランスは資源や労働力を得て、ヨーロッパでの経済競争力を高めた。特にアルジェリアやベトナムなどでは、フランスの影響力が強く、現地の文化や社会に大きな影響を与えた。一方で、現地の人々はフランス支配の下で苦しみ、独立を求める動きが次第に強まっていくことになる。
アルジェリア戦争の激化
フランス植民地の中でも特に激しい独立運動が展開されたのがアルジェリアである。1954年に始まったアルジェリア戦争は、フランス国内でも大きな議論を巻き起こした。アルジェリアはフランスにとって最も重要な植民地の一つで、多くのフランス人が移住していたため、独立を許すことは非常に難しい問題であった。しかし、現地の住民はフランスの支配に対して武力で立ち向かい、長期にわたるゲリラ戦争が展開された。最終的に、1962年のエヴィアン協定によってアルジェリアは独立を果たした。
ベトナムとインドシナ戦争
フランスのもう一つの重要な植民地であったインドシナでは、ベトナムを中心に独立運動が高まっていた。第二次世界大戦後、フランスはこの地域を再び支配しようとしたが、ベトナム独立を求めるホー・チ・ミン率いる勢力と激しい戦いが繰り広げられた。インドシナ戦争は1954年のディエンビエンフーの戦いでフランスが決定的な敗北を喫し、ベトナム北部は共産主義勢力の支配下に入った。これにより、フランスの東南アジア支配は終焉を迎え、ベトナムはその後の冷戦構造の中で重要な舞台となっていく。
脱植民地化とフランスの新たな時代
第二次世界大戦後、世界中で植民地主義に対する反発が強まり、フランスもその流れから逃れることはできなかった。アルジェリアやベトナムだけでなく、フランスが支配していた他の植民地でも独立運動が広がり、フランスは徐々に植民地帝国を放棄していくことになった。これにより、フランスはかつての広大な帝国を失ったが、同時に独立した新たな国家との関係を築くことにも成功した。脱植民地化はフランスにとって新しい時代の始まりであり、多文化社会へと進化する一歩となった。
第10章 第二次世界大戦と現代フランスの形成
ナチス占領下のフランス
1940年、フランスはドイツのナチス軍に敗北し、北部はドイツに占領された。フランスの首都パリも占領され、多くのフランス市民は自由を奪われた。政府は南部に「ヴィシー政府」を樹立し、ペタン元帥が指導者となったが、この政府は実質的にナチスの傀儡(かいらい)政権だった。日常生活は厳しく、食糧不足や検閲、そしてユダヤ人をはじめとする少数派に対する迫害が行われた。しかし、フランスの人々の中には、占領に屈せず抵抗を続ける者たちが現れた。それがレジスタンス運動であった。
レジスタンスと自由フランス
フランスのレジスタンスは、ナチス占領下でフランスの自由を取り戻すために活動したグループである。彼らは地下組織として武器を手に戦い、情報を集め、ナチスに対する妨害工作を行った。その中心的な人物がシャルル・ド・ゴールである。ド・ゴールはイギリスに亡命し、ロンドンから「自由フランス」を組織して、フランス国内外での抵抗を指導した。レジスタンスは次第に強まり、1944年のノルマンディー上陸作戦では連合軍と協力し、フランスの解放を成功させた。ド・ゴールは戦後フランスの新たなリーダーとなった。
戦後の再建と第五共和政の誕生
第二次世界大戦後、フランスは戦争による甚大な被害を受けていた。インフラは破壊され、経済は荒廃していたが、フランスは再建に向けて立ち上がった。ド・ゴールは新たな政治体制の整備を進め、強力な指導力を発揮した。しかし、政治的不安定が続き、1958年にはド・ゴールが第五共和政を樹立し、強い大統領制を導入することで、フランスは政治的に安定した。この新体制の下で、フランスは国際的な舞台でも再び重要な役割を果たすようになり、国内の経済復興も加速した。
現代フランスへの道筋
第五共和政の成立以降、フランスは大国としての地位を取り戻していった。欧州連合の創設に参加し、核兵器を保有する国となった。また、文化や芸術、科学技術の分野でも世界的に影響力を持つようになった。しかし、アルジェリア独立戦争など、植民地問題がフランスにとって大きな課題として残った。さらに、国内では移民問題や多文化社会への適応が求められる時代へと変わっていった。フランスは、自由と平等を掲げつつも、国際社会での役割を再定義しながら現代へと歩み続けている。