基礎知識
- 柳宗元とは誰か
柳宗元(773-819)は、中国唐代の文人官僚であり、散文や詩の名手として知られ、特に「唐宋八大家」の一人に数えられる。 - 唐代の政治と柳宗元
柳宗元は、唐代の政治改革運動である「永貞革新」に関与し、失脚後に地方へ左遷され、政治的迫害を受けた。 - 柳宗元の文学的特徴
彼の散文は簡潔かつ鋭敏であり、詩には山水の美を詠じたものが多く、特に寓話を用いた文章が有名である。 - 柳宗元の哲学と儒仏道
儒教を基盤としつつも、道教や仏教の思想にも影響を受け、人間の生と死、運命について深く考察した。 - 柳宗元の後世への影響
彼の散文は北宋の文豪たちに多大な影響を与え、また、その政治的生涯は「忠臣」の典型として語られ続けた。
第1章 柳宗元とは何者か?
天才少年、科挙への道
唐の都・長安に生まれた柳宗元は、幼い頃から驚異的な才能を見せた。父・柳鎮は名門の官僚であり、息子にも高度な教育を授けた。柳宗元は幼少期から儒学を徹底的に学び、詩文に秀でていた。やがて、彼は最難関の官吏登用試験「科挙」に挑む。唐代の科挙は極めて厳しく、特に最高位である進士科に合格する者はごくわずかであった。しかし、柳宗元は若干21歳で進士に及第し、名を轟かせた。彼の合格は単なる知識の証明ではなく、将来の国家の中枢を担う者としての期待を意味していた。
若き官僚、宮廷での頭角
進士科に合格した柳宗元は、次々と重要な官職に抜擢された。彼が任命されたのは、翰林学士や礼部郎中といった宮廷の要職であり、詔勅の起草や皇帝の補佐を務める立場であった。彼は学識だけでなく、政治的な洞察力にも優れ、すぐに朝廷内で注目される存在となった。同時期、彼と並び称されるもう一人の俊英、韓愈も台頭していた。二人は文学の分野でも並ぶもののない才能を発揮し、後に「唐宋八大家」の一員として称えられることになる。しかし、彼の明晰な頭脳と大胆な改革思想は、やがて彼自身の運命を大きく揺るがすことになる。
文学への情熱、詩と散文の才
柳宗元の官僚としての活躍と並行して、彼の文学的才能も開花していた。彼の詩は、李白や杜甫のような豪放なものではなく、簡潔かつ知的でありながら、深い情感に満ちていた。特に山水詩に優れ、後世においてもその詩的表現は称賛され続ける。また、散文においても彼は斬新な手法を取り入れ、特に寓話的な文章を多く残した。代表作の一つである「黔之驢」は、政治風刺を交えた寓話であり、巧みな比喩と鮮やかな描写が特徴である。彼の文体はやがて宋代における古文復興運動の礎となり、中国文学史において重要な位置を占めることになる。
栄光と挫折のはざまで
宮廷内で評価を受けつつあった柳宗元であったが、彼の運命は突如として暗転する。時の皇帝・順宗のもとで進められた「永貞革新」という政治改革に加わった彼は、改革派として活躍するものの、政敵の反撃により失脚し、遠く地方へと左遷されることとなる。これは彼にとって大きな挫折であり、宮廷での輝かしい未来は一瞬にして断たれた。しかし、この左遷が彼の人生を終わらせたわけではない。むしろ、ここから彼の真の文学者としての旅が始まるのである。
第2章 永貞革新と柳宗元の挫折
若き改革派、王叔文との出会い
唐の宮廷では、宦官や貴族の権力が肥大化し、政治は腐敗の極みにあった。柳宗元が仕えていた時代、新たな変革を求める声が高まっていた。その中心にいたのが王叔文である。彼は知的で果敢な改革者であり、皇帝・順宗の信頼を得て、政治の刷新を試みた。柳宗元はこの改革運動「永貞革新」に参加し、官僚制度の改善や財政の健全化を推進した。彼の鋭い弁舌と筆力は、王叔文の政策を支える強力な武器となった。しかし、宮廷にはすでに長年権力を握る敵が潜んでいた。彼らは柳宗元ら若手改革派を危険視し、巻き返しの機会を狙っていたのである。
革命か、陰謀か――政敵の逆襲
王叔文ら改革派の政策は、宦官や保守派貴族の特権を脅かすものであった。彼らは結束し、皇帝の病を利用して政権を奪取する計画を進めた。ついに順宗が病に倒れると、彼の息子・憲宗が即位し、保守派の反撃が始まった。王叔文は失脚し、次々と改革派官僚が逮捕・追放された。柳宗元も例外ではなく、彼は「政治犯罪者」として遠方の地へ左遷されることとなる。急激な変革が生んだ反動の波はあまりに強く、彼が築こうとした新たな政治の形は、わずか数カ月で霧散した。改革の理想に燃えていた柳宗元は、唐の中心地・長安を去ることを余儀なくされたのである。
左遷――「永州司馬」としての苦難
柳宗元が流されたのは、湖南省の奥地にある永州という辺境の地であった。かつて宮廷で活躍していた彼にとって、この地方の生活はあまりにも過酷であった。永州の司馬という官職は名ばかりのもので、彼には実権もなく、中央政治への復帰の望みもなかった。彼は宮廷での激動の日々を振り返りながら、なぜ自分の信じた改革がこんなにも脆く崩れ去ったのかを自問した。しかし、この孤独と絶望の中で、彼は新たな道を見出していくことになる。彼は山水の美に心を寄せ、文章を書くことで自身の思索を深めるようになったのである。
夢破れし改革者から文学者へ
柳宗元の政治生命は断たれたが、彼の創作活動は新たな高みへと向かっていた。永州での静かな生活は、彼に内省の時間をもたらした。彼はこの地の自然と人々を観察し、詩や散文にその思いを刻み込んだ。「永州八記」などの作品は、美しい風景描写と哲学的思索を兼ね備え、後世の文学者たちに深い影響を与えた。かつては朝廷の中心で政治を語っていた柳宗元が、今や山水の詩人として新たな世界を築きつつあったのである。改革者としての道は閉ざされたが、文学者としての道はここから始まるのだった。
第3章 左遷先での柳宗元――政治家から文人へ
追放された都、辿り着いた永州
柳宗元が永州に左遷されたとき、彼はまだ30代半ばであった。かつて宮廷で政治の未来を語り、改革に燃えていた若き官僚は、一瞬にして政治の舞台から排除されたのである。永州は長安とはまるで異なる世界だった。都の華やかさもなければ、知的な交流を交わす同士もいない。そこにあるのは、広がる山々と静かな川の流れ、そして言葉も異なる地元の人々。柳宗元は初め、この環境を「流刑地」としてしか見ていなかった。しかし、やがて彼は、この地こそが自らの新しい人生を拓く場であると気づくことになる。
孤独な官僚、地方統治への挑戦
左遷された官僚には通常ほとんど権限が与えられない。しかし柳宗元は、与えられた永州司馬の地位においても、政治に対する強い関心を失わなかった。彼は地方行政の改善に努め、地元の農民や小役人たちと直接対話し、民の暮らしを理解しようとした。特に彼が注目したのは、重税と貧困に苦しむ庶民の現状である。中央政府の政策が地方でどのように機能しているのか、彼自身の目で確かめることができた。彼は政策の欠陥を記録し、中央の腐敗した官僚制度を批判する視点をさらに鋭くしていったのである。
自然の中に見出した新たな世界
柳宗元は次第に、永州の美しい自然に心を惹かれるようになった。都の喧騒を離れ、山や川の静けさの中に佇むことで、彼はかつて味わったことのない精神的な充足を得た。彼は永州の風景を丹念に観察し、それを文章に残すようになる。「永州八記」はその代表作であり、彼が見た山水の景観と、それに寄せた感慨が詩情豊かに綴られている。彼の山水文学は、単なる風景描写にとどまらず、人生の哲学を映し出している。政治の舞台を失った柳宗元は、自然という新たな世界に自らの心を投影するようになったのである。
文学者としての新たな使命
永州での生活は、柳宗元を単なる追放者ではなく、文学者としての高みへと導いた。彼の散文はより洗練され、詩はより深みを増した。寓話や随筆の中に、かつて宮廷で味わった挫折や、社会への鋭い洞察が織り込まれている。「黔之驢」のような寓話作品では、無力な存在がどのようにして時に強者を出し抜くかを巧みに描き、まるで彼自身の人生を投影しているかのようであった。柳宗元は、宮廷に戻ることは叶わぬ夢と悟りながらも、筆を通じて自らの思いを後世に伝えようと決意していたのである。
第4章 柳宗元の文学とその特徴
古文復興の旗手となる
唐代中期、文学界では華麗な駢文(対句を多用した文章)が主流であった。しかし、柳宗元はこの流れに異を唱え、古代の簡潔な散文形式を復活させるべきだと考えた。彼と韓愈は「古文運動」を推進し、文章は華美ではなく、理にかなった明確な論理を持つべきだと主張した。柳宗元の散文は、政治や社会への深い洞察を反映し、余計な装飾を排した鋭い文体が特徴であった。彼の「捕蛇者説」や「永州八記」などの作品は、単なる風景描写にとどまらず、政治的な隠喩や人間の運命に対する哲学的思索を織り込んでいる。彼の文体は後の宋代文学にも大きな影響を与えた。
山水詩の革新者
柳宗元は詩人としても優れた才能を発揮した。特に彼の山水詩は、それまでの詩風とは異なる新たな表現を確立した。それまでの山水詩は、宮廷の雅な遊興を描くものが多かったが、柳宗元の詩には孤独や悲哀、哲学的な内省が込められていた。彼の「江雪」は、雪に閉ざされた川にたった一人たたずむ漁夫を描き、世間から切り離された自身の心情を映し出している。彼の詩は風景を超え、人生の無常や孤高の精神を表現するものとなった。これらの作品は、後の宋代の詩人たちに影響を与え、より深みのある山水詩の発展へとつながっていった。
寓話に込めた政治批判
柳宗元の文学には、寓話を用いた風刺が多く含まれている。代表作の一つである「黔之驢」は、貴族の無能さを風刺した寓話であり、一見すると動物の話に見えるが、実際には当時の政治状況への批判が込められている。彼は他にも「三戒」や「永州野鶏」など、多くの寓話を通じて、社会の矛盾や為政者の愚かさを指摘した。これは、彼が直接政治に関与できない状況の中で、文筆を通じて自らの思想を伝えようとした試みであった。寓話の形式は後世の作家にも継承され、中国文学における風刺文学の礎となった。
文学の中に生きた思想
柳宗元の文学は、単なる文章表現にとどまらず、彼自身の哲学や政治観を深く反映していた。彼は儒教的な正義を信じつつも、道教的な自然観に傾倒し、仏教的な無常観にも共鳴していた。そのため、彼の作品には人間の運命や権力の儚さ、自然の中での人間の位置付けといったテーマが繰り返し登場する。彼の散文や詩は、文学の枠を超え、思想の探求そのものであった。柳宗元の文学は、政治的敗北の果てに生まれたが、彼が伝えたかった真理は、その後の時代においても輝きを失うことはなかった。
第5章 柳宗元の寓話と社会批判
獣たちが語る政治の真実
柳宗元の寓話には、動物たちが人間社会の縮図として登場する。彼の代表作「黔之驢」は、その典型的な例である。物語は、貴州の地に一頭の驢馬(ロバ)が運ばれるところから始まる。地元の虎は見たことのないこの動物に恐れを抱くが、やがて驢馬が何の脅威でもないことを悟ると、一瞬にして襲いかかり、食い尽くしてしまう。この寓話は、権威を持たぬ者が見かけ倒しでしかなく、力ある者には簡単に排除されるという現実を暗示する。柳宗元は、当時の政治家たちの無能さをこの物語の中に込め、鋭い風刺の刃を突きつけたのである。
貧しき漁師に映る為政者の姿
「捕蛇者説」は、柳宗元の寓話文学の中でも特に社会問題への鋭い洞察が表れている作品である。この物語では、蛇を捕らえることを生業とする漁師が、過酷な労働にもかかわらず生活が楽にならないと嘆く。柳宗元は、ここに重税に苦しむ庶民の姿を投影したのである。彼は、国家の税制が人民を圧迫し、役人たちは庶民の苦しみを顧みないことをこの寓話を通じて批判した。寓話の中に潜む社会への問題意識は、現代にも通じるものがあり、彼の作品が長く読み継がれている理由の一つでもある。
改革の理想と挫折の記録
柳宗元の寓話の多くには、彼自身の挫折と政治への未練がにじんでいる。彼の「三戒」は、虎、馬、猟師の視点から、為政者の判断の誤りがどのように運命を左右するかを語る作品である。彼は寓話を通じて、理想を持たぬ者は時代の流れに淘汰され、また力を持たぬ者は無惨に打ちのめされることを示した。彼自身が政治の世界で無力さを痛感した経験が、このような寓話に昇華されたのである。彼の寓話は、単なる風刺ではなく、自らの経験から生まれた痛烈なメッセージであった。
永遠に響く寓話の教訓
柳宗元の寓話は、単なる教訓話ではなく、時代を超えた人間社会の本質を鋭く描いている。彼の寓話は、政治批判だけでなく、権力構造の変遷や人間の愚かさについての普遍的な洞察を提供している。彼の作品が宋代の文人たちに影響を与え、やがて中国文学の基盤の一部となったのも、その鋭い観察力と洗練された文体にある。柳宗元の寓話は、時を超えて、権力の光と影を語り続けているのである。
第6章 柳宗元と儒仏道――哲学者としての側面
儒家としての信念と政治哲学
柳宗元は儒家の教えに基づいて育ち、その政治理念も儒学的な正義に根ざしていた。彼は「民を安んずる政治」を理想とし、官僚制度の改革を推進しようとした。しかし、永貞革新の失敗と左遷を経て、彼の政治観は変化する。理想主義から離れ、現実主義的な視点を持つようになったのである。彼の散文には、儒家の理想を追求しながらも、現実の政治の矛盾に苦悩する姿が反映されている。特に「封建論」では、封建制の弊害を指摘し、官僚制度の改革を論じている。彼は、儒学の枠組みの中で、より実践的で柔軟な政治思想を模索し続けたのである。
仏教との邂逅――無常の哲学
柳宗元は、唐代に盛んであった仏教思想にも深く関心を持っていた。左遷後、彼は仏教の「無常観」に影響を受け、人生の苦難をより広い視点で捉えるようになった。特に彼が興味を持ったのは、華厳宗や禅宗の思想である。彼の詩や散文には、「すべてのものは変わりゆく」という仏教的な悟りの要素が見られる。「江雪」の詩には、孤独の中に静けさを見出す姿が描かれ、まるで仏道修行の境地を表現しているかのようである。柳宗元にとって、仏教は絶望を乗り越え、精神の安定を得るための一つの手段であった。
道教的自然観と山水の思想
柳宗元の作品には、道教的な自然観が色濃く反映されている。彼は、政治の舞台から退いた後、山水の中に人間の本質を見出した。彼の「永州八記」では、山川の流れや霧に包まれた峰々が、まるで生き物のように描かれている。これは道教の「無為自然」の思想に通じるものがある。彼は、人間の力ではどうにもならない大いなる流れの中で、自然と一体化することで精神の自由を得ようとした。彼にとって、自然は単なる風景ではなく、人生そのものを象徴するものであったのである。
三つの思想を超えて
柳宗元は、儒学、仏教、道教という三つの思想を対立するものとは考えず、それぞれの長所を受け入れながら生きた。政治においては儒家としての責任を果たし、苦難に直面したときには仏教の無常観に救いを求め、そして自然の中に道教的な悟りを見出した。彼の思想は、単なる哲学的な探求ではなく、彼自身の人生の軌跡そのものであった。儒仏道の融合を通じて、彼は苦悩の中でもなお、真理を求め続けたのである。
第7章 柳宗元の地方統治と民衆観
失意の中の新たな使命
柳宗元が永州に左遷されたとき、彼はすでに宮廷政治からの退場を余儀なくされていた。しかし、彼はただ嘆くのではなく、与えられた地方行政の役割を全うしようとした。永州司馬という役職は実権の少ないものだったが、彼は現地の実情を学び、政治家としてできる限りの改革を試みた。中央の貴族たちが気にも留めない地方社会の問題を、彼は自らの目で観察し、筆を執って記録しようとしたのである。彼の目に映ったのは、重税に苦しむ庶民や、行政の不備によって抑圧される農民たちの姿だった。
庶民に寄り添う改革者
柳宗元は地方行政の中で、庶民の苦しみに真剣に向き合った。特に彼が問題視したのは、農民たちの過酷な税負担と、官僚による不正である。彼は農業の振興策を模索し、公共事業の整備に尽力した。さらに、地方官僚の腐敗を批判し、清廉な政治の実現を訴えた。彼は中央から遠く離れた地にありながらも、そこでの統治を通じて「善政とは何か?」を問い続けたのである。彼の行政改革の姿勢は、後の宋代の文人官僚たちにも影響を与え、地方統治のあり方を大きく変える礎となった。
民の声を聞き、筆を執る
柳宗元は、地方行政の仕事だけでなく、文章を通じても民衆の姿を描き出した。彼の「捕蛇者説」には、過酷な税制の中で生きる農民の苦悩が語られている。この作品は単なる寓話ではなく、当時の社会の現実を鋭く描いたものだった。彼はまた、「永州八記」などの作品で、地方の風土や民衆の生活を記録し、その中に政治的な洞察を織り交ぜた。彼の文章は、単なる文学ではなく、地方社会の実態を後世に伝える貴重な資料となったのである。
地方統治の理想と現実
柳宗元の理想は、庶民のための政治であった。しかし、彼がどれほど誠実に地方政治に取り組んでも、中央からの視線は冷たかった。彼の施策は一部の改革を生んだが、大きな変化をもたらすことはなかった。それでも彼は、自らの信念を捨てず、地方の人々のために尽くした。そして、その記録を文学として後世に残したのである。彼の統治者としての努力は、やがて歴史の中で評価されることになり、理想の政治家像として語り継がれていくのであった。
第8章 柳宗元と北宋の文学者たち
宋代文人が見た柳宗元
柳宗元の文学は、唐代では異端視されることもあったが、時代が下るにつれ、その価値が再評価された。特に北宋時代の文人たちは、彼の散文や詩に込められた深い思索と政治批判の精神を称賛した。宋代の文学者・欧陽脩は、柳宗元の文章を「古文の模範」と評し、彼の文体を模範とした。柳宗元の作品は、宋代の学者たちにとって、単なる文学作品ではなく、社会を変えるための武器であった。彼の文章は、儒学的な道義と政治改革の理想を兼ね備え、宋代の文人官僚たちに大きな影響を与えたのである。
唐宋八大家に選ばれた理由
柳宗元は、北宋の文学者たちによって「唐宋八大家」の一人に選ばれた。これは、彼の文章が単なる技巧にとどまらず、深い思想と社会批判を含んでいたからである。韓愈とともに進めた「古文復興運動」は、宋代の知識人に受け継がれ、欧陽脩、蘇軾、王安石といった宋代の文人たちは、柳宗元の文体を手本とした。彼らは、華美な駢文よりも、論理的で力強い散文を重視したのである。柳宗元の文章が後世の文学に与えた影響は、単なる文学的価値を超え、政治的な意識改革にもつながっていた。
柳宗元と蘇軾の共鳴
北宋の大詩人・蘇軾は、柳宗元の文学に強い影響を受けた。蘇軾の山水詩には、柳宗元の自然観に通じる要素が多く見られる。例えば、蘇軾の「赤壁賦」は、柳宗元の「永州八記」の流れを汲んでおり、自然を哲学的に捉える視点を持つ。また、蘇軾は柳宗元の政治的悲劇にも共感を寄せた。彼自身も左遷を経験し、その苦悩を柳宗元の作品を通して理解したのである。柳宗元の文学は、北宋の文人たちにとって、自らの政治的立場を省みる鏡でもあった。
柳宗元の遺産はどこへ向かうのか
柳宗元の文学と思想は、北宋を超え、後の時代にも影響を及ぼし続けた。清代の学者たちは、彼の文章を「最も理にかなった散文」と評し、文学の教科書として使用した。現代においても、柳宗元の作品は中国文学の重要な一部として読み継がれている。彼の文章は、単なる文学作品ではなく、時代を超えて人々に問いを投げかける思想の結晶であったのである。柳宗元の遺産は、今もなお、新たな読者によって再発見され続けている。
第9章 柳宗元の評価と後世の受容
唐代から宋代へ――柳宗元の評価の変遷
柳宗元の死後、唐代の文学界では彼の評価は限定的であった。彼の政治的挫折と改革派としての立場が影を落とし、官僚たちは彼の作品をあまり語ろうとしなかった。しかし、宋代になると彼の文学は再評価される。特に欧陽脩や蘇軾らによる「唐宋八大家」の選定により、柳宗元は文学史において確固たる地位を築いた。彼の古文復興の試みや自然を深く描いた散文は、後世の文人たちに影響を与えた。宋代は学問と文学の融合が進んだ時代であり、柳宗元の思想と文学は理想的なモデルとされたのである。
明清時代の柳宗元研究
明代から清代にかけて、柳宗元の作品は文人たちの注目を集め続けた。明代の文学者・茅坤は柳宗元の文章を重視し、彼の散文を「文の極致」と評した。清代になると、考証学が発展し、柳宗元の政治思想や歴史的背景についての研究が進んだ。特に、「永州八記」の風景描写や「捕蛇者説」の社会批判は、文学と政治の関係を考察する際の重要な題材とされた。柳宗元の作品は、文学だけでなく、政治哲学の観点からも価値があるとされ、研究対象としての地位を確立したのである。
日本と韓国における柳宗元の影響
柳宗元の文学は中国国内にとどまらず、日本や韓国の文人たちにも影響を与えた。日本では、平安時代の貴族たちが漢詩文を学ぶ際、柳宗元の散文を手本とした。藤原定家などの文学者も、彼の詩文を研究していた。韓国では、朝鮮王朝時代の儒学者たちが彼の作品を読み、政治と文学の理想を学んだ。特に彼の寓話は、権力批判や社会風刺の手法として受け継がれ、東アジア全体の文学に影響を与えたのである。
現代における柳宗元の価値
現代において、柳宗元の文学と思想は改めて見直されている。彼の散文や詩には、人間の孤独や社会の矛盾に対する鋭い洞察が込められており、それは時代を超えて共感を呼ぶ。環境文学の視点からは、彼の山水描写が注目され、自然と人間の関係を探求する研究が進んでいる。また、政治的に不遇でありながらも筆を通じて自らの思想を伝えた姿勢は、多くの現代作家に影響を与えている。柳宗元の遺産は、単なる古典文学にとどまらず、今なお新しい意味を生み出し続けているのである。
第10章 柳宗元の遺産――彼の思想と文学の現代的意義
自然と人間の関係を見つめる視点
柳宗元の作品には、自然を単なる美的対象としてではなく、人間の生と死、運命を映し出す舞台として捉える視点があった。彼の「永州八記」は、単なる風景描写にとどまらず、孤独や運命への思索が込められている。現代の環境文学においても、柳宗元の視点は再評価されつつある。都市化が進み、自然との関係が薄れつつある今こそ、彼の作品を通して、自然と共存する意義を見つめ直す必要があるのではないか。彼が見た山河の静寂は、現代人にとって新たな気づきをもたらしてくれるのである。
政治と文学の融合――言葉が持つ力
柳宗元は、政治家としての道を閉ざされた後も、文学を通じて社会を批判し、未来に向けた警鐘を鳴らし続けた。「黔之驢」や「捕蛇者説」などの寓話には、権力者の傲慢や庶民の苦悩が巧みに織り込まれている。これは現代においても重要なテーマであり、言葉が持つ力を象徴するものでもある。政治と文学が交差する場面は、歴史を超えて繰り返される。言論の自由が脅かされる時代にこそ、柳宗元の作品は「言葉の持つ影響力」を再確認させてくれるのである。
柳宗元の思想と現代社会
柳宗元は、儒教・仏教・道教の思想を融合させ、社会や人間の本質を深く考察した。彼の思想は、現代の価値観にも通じるものがある。例えば、彼の無常観は、現代のストレス社会における「心の持ち方」にも適用できる。道教的な「無為自然」の考え方は、現代の環境倫理や持続可能な社会への関心とも一致する。彼の思想は過去のものではなく、私たちが直面する社会の課題を考えるヒントを与えてくれるのである。
柳宗元の遺産は生き続ける
柳宗元の文学と思想は、単なる歴史上の記録ではなく、現代に生きる私たちにとっても価値のある遺産である。彼の作品を読むことで、人間の本質や社会のあり方について新たな視点を得ることができる。政治・哲学・文学の境界を越えて、彼の言葉は今もなお響き続ける。時代が変わっても、柳宗元の遺産は生き続ける。それは、彼の思想が持つ普遍性と、私たちの時代にも通じる深い洞察があるからにほかならないのである。