サルバドール・アジェンデ

基礎知識

  1. サルバドール・アジェンデの政治思想と「チリの道」
    アジェンデはマルクス主義を基盤としつつも、民主的な選挙を通じて社会主義体制を築くという独自の「チリの道」を掲げた。
  2. 1970年大統領選挙と人民連合(Unidad Popular)
    アジェンデは人民連合(UP)という左派政党連合の候補として大統領に選出され、社会主義的政策を推進したが、議会や保守派との対立を深めた。
  3. 経済改革とその影響(アジェンデの政策)
    アジェンデ政権は大規模な有化政策を進め、鉱業農業の改革を行ったが、経済混乱とインフレを招き、内外の強い反発を受けた。
  4. アメリカの介入と冷戦下のチリ
    アメリカはアジェンデ政権を社会主義の脅威とみなし、CIAを通じて経済制裁や反政府勢力の支援を行い、政権不安定化を図った。
  5. 1973年クーデターとアジェンデの最期
    1973年911日、アウグスト・ピノチェト率いる軍部がクーデターを起こし、アジェンデは大統領府での攻防の末に自し、軍事独裁政権が成立した。

第1章 アジェンデとは何者か?—革命家の生涯

革命の種はどこで育ったのか

1908年、サルバドール・アジェンデはチリの港バルパライソに生まれた。祖父は進歩的な思想を持つ医師で、父は法と正義を重んじる弁護士であった。彼は幼い頃から社会の不平等を目の当たりにし、貧しい人々の苦しみにを痛めた。高校時代には軍事政権を批判する活動に参加し、政治への関を深める。やがてチリ大学に進学し、医学を学ぶ傍ら、学生運動に積極的に関わるようになる。彼の政治家としての第一歩は、病院や労働者の現場で「誰のために闘うべきか」を学んだことにあった。

医学から政治へ—社会改革の誓い

アジェンデは医師としての道を歩み始めるが、病院で目の当たりにしたのは、富裕層だけが適切な医療を受けられるという現実だった。彼は医学を通じて社会を変えようと考えたが、やがて政治こそが根的な改革の手段であると確信する。1933年、彼はチリ社会党の創設に関わり、貧困層や労働者の権利を守ることを目的とする政治活動を開始する。彼の理念は、当時のチリに蔓延していた階級格差を解消し、公正な社会を築くことにあった。この信念は、生涯にわたって彼の政治思想の軸となる。

若き国会議員の挑戦

1937年、アジェンデは29歳の若さで会議員に当選し、社会政策の改革に取り組む。特に労働者の権利向上や公衆衛生の改に力を注ぎ、政界での影響力を徐々に強めた。彼は情熱的な弁論で知られ、議会では資本家や保守派と激しく対立することもあった。だが、彼の理想は常に「弱者のための政治」にあり、労働組合や貧困層の間で支持を拡大した。次第に、彼は「民のための政治家」としての地位を確立し、より大きな変革を求めていくようになる。

民衆のリーダーへの道

アジェンデは4度にわたり大統領選挙に挑戦し、そのたびに支持を拡大していった。彼の選挙運動は、演説と行動の力によって大衆を動かした。彼は貧困層や農民、学生たちと直接対話し、「社会の底辺にいる人々の声を政治に反映させるべきだ」と訴え続けた。1960年代、世界は冷戦の真っただ中にあり、チリ資本主義社会主義の狭間で揺れていた。その中で彼の主張は「チリ独自の社会主義」を模索するものとなり、やがて1970年の歴史的な選挙へとつながっていく。

第2章 チリの道—社会主義は民主的に実現できるのか?

選挙で社会主義を目指すという挑戦

1960年代、世界は冷戦の影響を受け、アメリカとソ連が覇権を争っていた。そんな中、チリのサルバドール・アジェンデは、民主的な手段で社会主義を実現するという大胆な試みに挑戦した。従来、社会主義革命といえば暴力的なクーデターや武装闘争を伴うことが多かったが、彼は「チリの道」と呼ばれる独自の方針を掲げた。彼の考えでは、労働者や農民が政治に参加し、選挙を通じて政府を変えることが最も正当な社会変革の道であった。この理念は、伝統的な革命の在り方を大きく覆すものであった。

人民連合(UP)の結成—団結か対立か?

アジェンデは単独で社会主義を目指したのではなく、1970年の大統領選挙に向けて、左派政党を結集させた「人民連合(Unidad Popular)」を結成した。そこにはチリ共産党、社会党、急進党などが含まれ、多様な政治勢力が一つの目標のもとに集まった。しかし、内部では路線を巡る意見の相違も多く、特に穏健派と急進派の間では社会主義の進め方をめぐって激しい議論が交わされた。それでもアジェンデは、労働者、学生、知識人など幅広い層の支持を得るために、統一戦線の重要性を説き続けた。

「チリの道」とは何だったのか

アジェンデの社会主義は、ソ連型の一党独裁ではなく、自由選挙と議会制民主主義を重視する点で独自性を持っていた。彼の政策は、資本主義を完全に否定するのではなく、富の再分配を進め、経済を民全体の利益のために機能させることを目指した。具体的には、大企業や外資本に支配されていた鉱業銀行有化し、農地改革を推進することで貧困層の生活を改しようとした。このアプローチは、アメリカや保守派の警戒を招きながらも、世界の左派から大きな注目を集めた。

道は平坦ではなかった

アジェンデの理念は革新的だったが、実現には多くの困難が伴った。保守派の支配が強い会では法案がたびたび阻まれ、内のエリート層や外企業からの反発も強まった。さらに、チリの中産階級の中には、急激な変革が経済を混乱させるのではないかと不安視する人々もいた。それでもアジェンデは、労働者や農民の支持を背景に、民主主義的手段で社会主義を推進する道を歩み続けた。「チリの道」は世界的な実験でもあり、彼の成功は社会主義の新たな可能性を示すものになるはずだった。

第3章 1970年大統領選—勝利の瞬間とその影響

歴史を変えた選挙戦

1970年、チリの大統領選挙未来を決める歴史的な戦いとなった。サルバドール・アジェンデは人民連合(UP)の候補として出し、社会主義平和的に実現することを掲げた。一方で、右派のホルヘ・アレッサンドリ、キリスト教民主党のラドミロ・トミッチがそれぞれ独自の政策を打ち出し、三つ巴の激戦となった。アジェンデの支持基盤は労働者、農民、学生であり、対するアレッサンドリは保守層や大企業の支援を受けていた。この選挙は単なる政治の争いではなく、チリが進むべき道をめぐる民全体の選択でもあった。

僅差の勝利と混乱の幕開け

1970年94日、開票結果がらかになると、アジェンデは得票率36.6%でトップに立った。しかし、それは過半には届かず、チリ憲法の規定により、最終的な決定は議会に委ねられることになった。保守派はアレッサンドリを支持しようとし、一方でアジェンデの勝利を阻止しようとする勢力が暗躍し始めた。この状況にアメリカ政府は強い関を示し、リチャード・ニクソン大統領とCIAはアジェンデの就任を阻むための介入を検討した。こうして、アジェンデの勝利は単なる選挙結果ではなく、政治の駆け引きに巻き込まれていくこととなった。

アメリカの介入と暗殺計画

アジェンデの当選に対し、アメリカ政府は強く反発した。国家安全保障補佐官のヘンリー・キッシンジャーは「チリを失うことは危険である」とし、CIAを通じて政情不安を引き起こす工作を開始した。特に注目されたのは、チリ軍の司令官であり穏健派のレネ・シュナイダー将軍の暗殺計画であった。シュナイダーは憲法を尊重し、合法的に選出された大統領を支持する立場だったが、これを脅威と見た右派勢力とCIAは彼を排除しようと動いた。最終的にシュナイダーは誘拐され、撃を受けて亡し、チリ内の緊張はさらに高まった。

アジェンデの就任—希望と不安

議会の投票の結果、アジェンデは正式に大統領に承認され、1970年113日、新たな時代が始まった。彼の就任演説は希望に満ちており、「民主主義的な方法で社会主義を実現する」と再び宣言した。しかし、彼の前には多くの課題が立ちはだかっていた。議会の多派は依然として保守派が占めており、経済界や外資本の抵抗も強かった。また、アメリカは経済制裁を強化し、チリ経済の不安定化を図ろうとしていた。アジェンデの勝利は決してゴールではなく、激動の時代の幕開けに過ぎなかったのである。

第4章 国有化と経済改革—理想と現実

銅はチリのものである

サルバドール・アジェンデの経済政策の柱は、チリ経済の中をなす産業の有化であった。チリ鉱山は、アメリカ資本の巨大企業によって支配され、利益の大半が外へ流れていた。アジェンデは「チリチリ人のものだ」と宣言し、議会の支持を得て、エル・テニエンテ鉱山やチュキカマタ鉱山などを有化した。この政策は民から圧倒的な支持を受けたが、同時にアメリカ政府の強い反発を招いた。ワシントンはこれを「資産の没収」とみなし、チリへの経済支援の停止や融機関を通じた圧力を強めた。

農地改革—土地を持たざる者へ

鉱業有化と並んで、アジェンデは農地改革にも取り組んだ。歴史的にチリの土地は大地主によって支配され、農民の多くは厳しい条件のもとで働かされていた。アジェンデ政権は、大規模農地を接収し、労働者が自主的に経営する農業共同体に再分配する政策を進めた。農民たちは自らの土地を持つという希望を抱いたが、一方で地主層は激しく抵抗した。特に保守派の支持を受ける農業団体は、政府の政策を「経済の破壊」と非難し、農業生産の減少や食糧不足が懸念されるようになった。

経済の悪化と物資不足

アジェンデの改革は急進的であり、同時にアメリカの経済制裁や内の経済混乱によって状況は化した。有化された企業の運営は必ずしもスムーズには進まず、生産効率の低下が見られた。また、政府は労働者の賃上げを実施し、消費を拡大しようとしたが、インフレが加速し、物価が急騰した。さらに、反政府派の一部は意図的に物流を妨害し、食料品や生活必需品の不足が都市部を中に広がった。人々は長蛇の列を作り、パン牛乳を求める景が日常となった。

理想と現実のはざまで

アジェンデの経済改革は、社会主義の理想を追求した試みであったが、現実の困難にも直面した。貧困層にとっては確かに恩恵があったが、中産階級の不満は高まり、経済不安が社会の分断を加速させた。また、政府の統制を強めることで、自由市場を求める勢力との対立も深まった。彼の政策は、単なる経済改革ではなく、チリ社会全体の構造変革を意味していた。際的な圧力と内の反発の中で、アジェンデの「チリの道」は険しさを増していったのである。

第5章 冷戦とチリ—アメリカの影とソ連の沈黙

冷戦の戦場となったチリ

1970年代、世界は冷戦の真っただ中にあった。アメリカとソ連は互いに影響圏を広げるため、世界各地で代理戦争を繰り広げていた。そんな中、アジェンデの社会主義政権誕生は、アメリカにとって大きな脅威と映った。彼の政策は、内の資源を民の手に取り戻し、社会主義を民主的に実現しようとするものであった。しかし、これを容認する余地はアメリカにはなかった。チリが「第二のキューバ」になることを恐れたワシントンは、あらゆる手段を用いてアジェンデ政権の打倒を図るようになる。

CIAの隠された戦略

アメリカはアジェンデの当選直後から、CIAを通じた対チリ工作を開始した。リチャード・ニクソン大統領は「アジェンデを経済的に窒息させろ」と指示し、アメリカ企業の投資撤退や対チリ融資の凍結を行った。また、CIAはチリ内の反政府勢力を支援し、ストライキや物流の混乱を引き起こす工作を行った。さらに、軍部内の反アジェンデ派との接触を強め、軍事クーデターの準備を進めた。こうして、チリ政治内の対立を超え、冷戦という巨大な際的対立の渦に巻き込まれていった。

ソ連の沈黙—なぜ支援は届かなかったのか?

アジェンデ政権に対するアメリカの介入が強まる中、ソ連の対応は意外なほど冷淡であった。1960年代のキューバ革命では積極的な支援を行ったソ連も、チリには消極的であった。アジェンデがスターリン主義を拒否し、議会制民主主義を守ろうとしたことが、ソ連の期待とは異なっていたからである。また、ソ連は当時アメリカとのデタント(緊張緩和)を模索しており、チリをめぐる対立を激化させたくなかった。結果として、アジェンデはアメリカの圧力に対抗するための十分な際支援を得ることができなかった。

孤立するアジェンデ政権

経済封鎖、内の対立、軍部の不穏な動き、そして際的な孤立。アジェンデ政権は四面楚歌の状況に追い込まれていった。民の間では物資不足が深刻化し、反政府デモが頻発した。議会では保守派と中道派が結託し、アジェンデの政策を妨害した。軍部内ではピノチェトらが次第にクーデターの準備を進めていた。そして何より、アメリカは「最後の一手」を打とうとしていた。冷戦という巨大な潮流の中で、アジェンデの「チリの道」は厳しさを増していったのである。

第6章 政治的対立と社会の分裂—支持と反発の狭間で

労働者と農民の期待

アジェンデ政権の誕生は、労働者や農民にとって大きな希望であった。彼の政策は貧困層の生活向上を掲げ、最低賃の引き上げ、無料医療の拡充、教育の無償化を進めた。工場では労働者が発言権を持ち、農では土地改革が進んだ。チリ各地で「労働者がを動かす時代が来た」との声が高まり、人々は新しい社会を見た。しかし、こうした改革は、既存の権力構造を脅かすものであり、保守派や企業経営者は強く反発した。アジェンデの社会主義的改革は、内の対立を決定的に深める要因となった。

中産階級の不安と反発

アジェンデの政策は、富裕層だけでなく中産階級の間にも不安を広げた。有化政策によって企業の経営環境が不安定になり、都市部では物価の上昇や生活必需品の不足が深刻化した。特に、政府が賃を引き上げる一方で、インフレが急激に進み、貯蓄を持つ市民の資産価値が目減りしたことが不満を増大させた。社会主義的な統制経済が「自由な市場」を損なうと考えた商店主や専門職の人々は、次第にアジェンデに反発し、保守派や軍部と連携する動きが活発化した。

議会と軍の対立

アジェンデ政権は、議会の多派を占める保守派との間で激しい対立を繰り広げた。有化政策や社会福祉拡充を進めるアジェンデに対し、議会は法案を次々と否決し、政府の運営を妨害した。さらに、アメリカの影響を受けた軍部の一部は、社会主義政府の拡大を「国家の危機」とみなし、アジェンデに対する警戒を強めていた。反政府デモが増える一方で、労働組合や農民組織も街頭に繰り出し、チリ社会は分裂の度合いを増していった。

「ストライキの嵐」と内戦の危機

1972年、全規模のトラック運転手ストライキが発生し、物流が麻痺した。このストライキは企業経営者や保守派によって支援され、意図的に経済混乱を引き起こす戦略の一環であった。食糧や燃料の不足が深刻化し、政府支持派と反政府派の間で衝突が相次いだ。都市部では暴動が発生し、武装した市民組織も登場した。民の間では「チリ内戦に突入するのではないか」との不安が広がった。アジェンデは「民主主義の枠内で社会主義を進める」と誓ったが、状況はもはや制御不能になりつつあった。

第7章 1973年クーデター—9月11日の衝撃

影が忍び寄る

1973年9初旬、チリは不穏な空気に包まれていた。経済は崩壊寸前、ストライキとデモが頻発し、民の間には絶望と怒りが渦巻いていた。アジェンデの政権は内外から圧力を受け、軍部の動きも怪しくなっていた。陸軍司令官カルロス・プラッツがアジェンデを支持していたが、軍内部では彼を裏切る動きが進行していた。やがて、アウグスト・ピノチェトが軍の中となり、クーデターの準備が格化する。CIAの支援もあり、軍部は決定的な行動に出る日を静かに待っていた。

モネダ宮殿の攻防

1973年911日の朝、空はどこまでも青かった。しかし、そのしさとは裏腹に、サンティアゴの空には軍用機が飛び交い、市街地は戦場と化していた。モネダ宮殿を包囲した軍は、アジェンデに降伏を要求する。だが、彼は「民主主義を守る」と宣言し、最後まで抵抗することを決意した。兵士たちは宮殿内で応戦し、撃戦が繰り広げられた。やがて軍用機が上空を旋回し、宮殿への爆撃が開始された。炎と煙の中、アジェンデは最後の時を迎えようとしていた。

アジェンデの最期

爆撃によって宮殿は崩れ、政府の抵抗は限界に達した。側近たちは逃亡を勧めたが、アジェンデはそれを拒否し、戦い続けることを選んだ。彼は軍服を身にまとい、AK-47を手にすると、自らの執務室にこもった。そして、「私はここに残る」との最後の言葉を残し、声が響いた。こうして、チリ史上初めて民主的に選ばれた社会主義大統領は命を絶った。彼のは、民主主義の敗北を象徴するものとして、世界中に衝撃を与えた。

クーデター後の混乱

アジェンデのとともに、チリの歴史は暗黒の時代へと突入した。軍は全の放送局を制圧し、非常事態宣言を発令した。ピノチェトが新たな指導者として登場し、千人の政治活動家や知識人が逮捕・拷問されることになる。スタジアムが即席の収容所となり、多くの人々が行方不となった。サンティアゴの街には恐怖が支配し、人々は息を潜めるしかなかった。クーデターは成功し、チリの民主主義はこの日、軍のブーツによって踏みにじられたのである。

第8章 ピノチェト政権の成立と独裁体制

クーデター後のチリ—沈黙と恐怖の街

1973年911日、サルバドール・アジェンデのによってチリの民主主義は崩壊した。軍部が政権を掌握し、アウグスト・ピノチェトが事実上の最高権力者となった。サンティアゴの街には装甲車と兵士が溢れ、反政府勢力の掃討が始まった。労働組合の活動家、学生、知識人は次々と逮捕され、立競技場は即席の収容所となった。人々は互いに疑になり、密告が横行した。わずか日のうちに、言論の自由は消え、軍の命令に逆らう者は存在しない社会が作られていった。

「国家再建」の名の下の弾圧

ピノチェトは「国家の安定と秩序の回復」を掲げ、軍事独裁体制を構築した。議会は解散され、憲法は一方的に停止された。軍事法廷が設置され、政治犯は秘密裏に裁かれた。反体制派を取り締まるため、国家情報局(DINA)が創設され、拷問暗殺が日常的に行われた。千人が「行方不」となり、その多くは消息を絶った。際社会は人権侵害に抗議したが、アメリカをはじめとする一部の々は、ピノチェト政権を「共産主義の脅威からの防波堤」として支持した。

「シカゴ・ボーイズ」と経済の転換

ピノチェト政権は、政治的には独裁を強める一方で、経済政策では急激な自由市場化を推進した。アメリカ・シカゴ大学で学んだ経済学者たち、通称「シカゴ・ボーイズ」が政策立案に関わり、有企業の民営化、貿易の自由化、規制緩和を次々と実施した。短期的には経済成長を遂げたが、貧富の差は拡大し、労働者の権利は大幅に制限された。富裕層や外企業は恩恵を受けたが、庶民の生活は困窮し、多くの人々が政府の政策に不満を抱き始めた。

恐怖政治の影と抵抗運動

独裁政権下で沈黙を強いられたチリ社会にも、やがて抵抗の声が広がり始めた。海外へ亡命した元政府関係者や左派活動家たちは、外から反ピノチェト運動を展開した。内でも学生運動や労働者のストライキが増加し、地下組織が政府への抵抗活動を行った。1980年代に入ると、際社会の人権圧力も強まり、ピノチェト政権の正当性が揺らぎ始める。チリの人々は、恐怖の時代を終わらせるため、独裁政権に対する闘いを強めていった。

第9章 アジェンデの遺産—彼の理想は何を残したのか?

世界に刻まれた「チリの道」

サルバドール・アジェンデの後も、彼の「民主的社会主義」という理想は世界各地で語り継がれた。暴力革命ではなく選挙による社会主義の実現を目指した彼の挑戦は、ラテンアメリカの左派運動に大きな影響を与えた。ウルグアイのホセ・ムヒカ、ボリビアのエボ・モラレス、ベネズエラのウゴ・チャベスなど、多くの指導者が彼の試みを継承した。アジェンデの名前は単なる歴史上の人物ではなく、平和的な社会変革を追い求める者たちのシンボルとなったのである。

ラテンアメリカの左派運動とその影響

アジェンデの思想は、ラテンアメリカ全体の政治に長く影響を及ぼした。1970年代以降、地域の多くので軍事独裁が支配する時代が続いたが、1980年代になると民主化の波が押し寄せた。チリでは1988年の民投票によってピノチェトの独裁が終焉を迎えたが、その背景には、民衆がアジェンデの理念を忘れずに闘い続けたことがあった。また、21世紀に入ると、「ピンクタイド」と呼ばれる左派政権の台頭が起こり、アジェンデの理想が新たな形で復活した。

現代チリへの影響

現在のチリ社会においても、アジェンデの影響は濃く残っている。2019年の大規模な反政府デモでは、社会的平等を求める声が高まり、若者たちはアジェンデの言葉を掲げて街頭に繰り出した。2021年にはガブリエル・ボリッチが大統領に就任し、アジェンデ以来の左派政権が誕生した。彼の政策には、貧富の格差是正や公共サービスの充実が含まれ、アジェンデの遺志を継ぐものとみなされている。チリは再び「社会的正義」を求める時代へと回帰しつつある。

未来への教訓

アジェンデの試みは、理想と現実のはざまで揺れ動いた。しかし、彼が示した「民主主義と社会主義の融合」というビジョンは、今なお多くの人々にとって希望の灯火である。彼の経験は、単なる歴史の一章ではなく、現代の政治においても重要な教訓を提供する。社会変革にはどのような手段が必要なのか、外部の干渉をどう乗り越えるべきか。アジェンデの遺産は、未来の社会を築くための問いを私たちに投げかけ続けているのである。

第10章 歴史の教訓—民主主義と社会主義の未来

アジェンデが残した問い

サルバドール・アジェンデの生涯と政治は、社会主義と民主主義は両立できるのかという問いを私たちに投げかけている。彼は選挙で選ばれた初の社会主義大統領として、暴力革命ではなく民主的手段で変革を進めようとした。しかし、内の政治的対立、経済制裁、軍のクーデターによって彼の実験は挫折した。これは「社会主義暴力なしに成立しうるのか」という問題を浮かび上がらせる。21世紀の現代においても、社会変革のあり方についての議論は続いている。

世界の民主主義が直面する危機

アジェンデの悲劇は、民主主義がいかに脆弱であるかを示している。選挙で選ばれた政権であっても、政治的・経済的圧力や軍事介入によって崩壊する可能性がある。現在、世界各で民主主義の後退が見られ、権威主義的な指導者が台頭している。歴史を振り返ることで、民主主義を守るためには何が必要かを学ぶことができる。自由な言論、強固な制度、市民の参加が不可欠であることを、アジェンデの経験は私たちに警告している。

社会主義の未来とは

アジェンデの「チリの道」は頓挫したが、その理念は今も世界の政治思想に影響を与えている。北欧諸では、社会民主主義のもとで資本主義社会福祉のバランスを取る制度が確立されている。一方で、ベネズエラのように国家統制を強めた社会主義モデルは、経済的困難に直面している。アジェンデの試みは、社会主義未来についての議論を深める土台となり、各の政策に異なる形で影響を及ぼしているのである。

過去から学び、未来へ

アジェンデの政権は短命に終わったが、その遺産はチリ内外で生き続けている。彼の後、チリは長い軍事独裁を経て民主主義を回復したが、その過程で多くの犠牲を払った。歴史を学ぶことは、同じ過ちを繰り返さないための重要な手段である。アジェンデの物語は、社会変革の可能性と限界を示しながらも、より公正な社会を目指すためのヒントを与えてくれる。歴史の教訓を活かし、未来を築くのは私たちの責務である。