ウラジーミル・ナボコフ

基礎知識
  1. ウラジーミル・ナボコフの生涯と亡命
    ナボコフは1899年にロシア帝国で生まれ、ロシア革命後に家族とともに亡命し、ドイツフランス、アメリカを転々とした後、スイスで生涯を終えた。
  2. ナボコフの多言語的才能
    ナボコフはロシア語、英語フランス語を操り、ロシア語と英語で小説を執筆し、それぞれの言語で高度な文学的技巧を駆使した。
  3. 『ロリータ』とその文学的・社会的影響
    ナボコフの代表作『ロリータ』は1955年に発表され、論争を巻き起こしながらも、20世紀文学の傑作として高く評価されるに至った。
  4. ナボコフの文学的スタイルとテーマ
    ナボコフはしい言葉遊び、細密な描写、信頼できない語り手といった技巧を駆使し、記憶時間アイデンティティなどのテーマを探求した。
  5. ナボコフと昆虫学の関係
    ナボコフは熱な蝶の研究者でもあり、レピドプテラ(鱗翅目)の分類に貢献し、ハーバード大学の比較動物学博物館で研究を行った。

第1章 ロシア貴族の息子としての誕生

革命前夜のサンクトペテルブルク

1899年、ロシア帝国の首都サンクトペテルブルクに、後に20世紀文学を代表する作家となるウラジーミル・ナボコフが生まれた。彼の家族は、ロマノフ王朝に仕えた名門貴族であり、父ウラジーミル・ドミトリエヴィチ・ナボコフは自由主義的な政治家であった。サンクトペテルブルクは、ヨーロッパ文化ロシア独自の精神が交差するしい都市であり、華やかな劇場や宮殿が並んでいた。しかし、時代はすでに不穏な空気を孕んでいた。革命の兆しが市民の間に広がりつつあり、帝政の揺らぎがナボコフ家の運命を大きく変えていくことになる。

幼少期の知的冒険

ナボコフの幼少期は、まるで19世紀ヨーロッパの貴族が過ごすような、文化知性に満ちたものだった。彼の家庭ではロシア語、英語フランス語が話され、幼い彼はこの三つの言語をほぼ同時に身につけた。また、母親エレーナは文学芸術に造詣が深く、プーシキンやシェイクスピア、フローベールといった作家の作品を幼い息子に読み聞かせた。彼は5歳で詩を書き始め、9歳のときには自作の短編小説を家族に披露するようになった。この早熟な才能は、後の文学者としての道を決定づけるものとなる。

ナボコフ家の庭と昆虫への愛

ナボコフは文学だけでなく、自然への深い情も育んでいた。特に彼の興味を引いたのは蝶であった。サンクトペテルブルク郊外の別荘で過ごす夏の日々、彼は庭を駆け回り、しい蝶を追いかけた。その細部まで観察し、手書きのノートにスケッチを残した。後に彼は昆虫学の分野で格的な研究を行い、新種の蝶を分類するほどの知識を得ることになるが、その情熱の原点はこの幼少期の体験にあった。言葉と蝶—ナボコフの人生を貫く二つの要素は、この時すでに彼のの中に刻まれていたのである。

革命の足音と家族の転機

しかし、ナボコフの穏やかな少年時代は長くは続かなかった。ロシア革命が勃発し、帝政は崩壊した。貴族階級に属するナボコフ家にとって、これは単なる政治の変化ではなく、生存そのものを脅かす事態であった。1917年、ボリシェヴィキによる権力掌握により、彼の父は政治的に迫害され、一家は家を捨てて亡命を余儀なくされる。サンクトペテルブルクの宮殿や劇場、そしてナボコフがした庭は、もはや彼のものではなくなった。こうして彼の人生は、終わりなき「故郷喪失」の旅へと突入していく。

第2章 亡命とアイデンティティの喪失

革命が奪ったもの

1917年、ロシア帝国は崩壊した。ボリシェヴィキ革命の嵐は貴族階級を飲み込み、ナボコフ家もその波に呑まれた。父ウラジーミル・ドミトリエヴィチ・ナボコフは自由主義的な政治家であり、専制に抗ったが、時代は過激な変革を求めていた。一家は財産を没収され、サンクトペテルブルクを離れ、クリミアへと逃れた。しかし、そこにも革命の手は及んでいた。1919年、一家は祖を捨て、イギリスへと亡命する。ナボコフはこのとき19歳、彼の人生は「流浪」の時代へと突入した。

ケンブリッジでの青春

亡命先のイギリスで、ナボコフはケンブリッジ大学に進学する。専攻はフランス文学ロシア文学、そして昆虫学であった。ナボコフは学問に打ち込みながらも、のどこかで「故郷」を求め続けていた。ロシア文学を学ぶことは、彼にとって失われた祖への架けであった。しかし、英の学生たちの間で彼は「外人」であり続けた。彼は社交の場ではフランス語を話し、授業では英語を使い、の中ではロシア語で考えた。言語の間を漂う彼のアイデンティティは、このときすでに揺らぎ始めていた。

ベルリンでの亡命生活

大学卒業後、ナボコフはドイツのベルリンへと移る。1920年代のベルリンは、ロシアからの亡命者で溢れていた。ここで彼はロシア語作家としてのキャリアを格的に始める。詩や短編小説を発表し、やがて長編小説『マーシェンカ』を出版する。ベルリンにはロシア語の新聞社や出版社があり、彼の才能を発揮する場はあった。しかし、それは閉ざされた世界であり、ナボコフが目指す「世界文学」への道ではなかった。彼はロシア語で書きながらも、すでに祖の読者を失っていたのである。

亡命者のアイデンティティ

亡命はナボコフにとって単なる政治的な出来事ではなかった。それは彼のアイデンティティを根底から揺さぶるものだった。彼はロシア語をし、ロシア文学伝統を受け継ぐ作家でありながら、ロシアというを持たなかった。彼の言葉は亡命者の間では響いたが、それ以上の広がりを持たなかった。ナボコフはこの状況に苛立ちを感じながらも、文学の中で新たな故郷を築こうとしていた。そして、この試みこそが、やがて彼を英語作家へと変貌させる契機となるのである。

第4章 『ロリータ』の衝撃と成功

禁断の物語の誕生

1955年、ウラジーミル・ナボコフの小説『ロリータ』がフランスのオリンピア・プレスから出版された。この作品は、一人の中年男が12歳の少女に歪んだを抱くという衝撃的な物語であり、文学界に爆発的な論争を巻き起こした。ナボコフは当初、この作品が出版不可能と考え、多くの出版社に拒絶された。性的倒錯を扱った内容が問題視され、発禁処分を受けるもあった。しかし、物語は単なるスキャンダルではなかった。それはナボコフの語彙の魔術、緻密な構成、そして文学史に残る独特な語りによって彩られた芸術作品であった。

文学か猥褻か

『ロリータ』の発表後、批評家や読者の反応は激しく分かれた。一部のではすぐに販売禁止となり、ナボコフは「変態的な作家」と糾弾された。しかし、グレアム・グリーンのような作家はこの作品を絶賛し、「今年最も優れた小説」と評した。一方、イギリスの作家E・M・フォースターは強い嫌感を示した。果たしてこの作品は猥褻な小説なのか、それとも芸術なのか。論争は尽きることなく、ナボコフ自身もこの議論を意識しながら、「道的な説教ではなく、純粋な文学の探求だ」と語った。

世界的ベストセラーへの道

アメリカのパットナム社が1958年に『ロリータ』を正式に出版すると、作品は爆発的な人気を得た。わずか週間でベストセラーリストの上位に躍り出て、50万部を売り上げる。ナボコフは突如として世界的な作家となり、文学界のスキャンダルメーカーから巨匠へと変貌した。1962年にはスタンリー・キューブリックが映画化し、さらに話題となった。この成功はナボコフに安定した収入をもたらし、彼は大学教授を辞し、執筆に専念することができるようになった。

ナボコフが生み出した新たな文学

『ロリータ』は単なるセンセーショナルな作品ではなく、20世紀文学に革新をもたらした。ナボコフは語り手フンボルト・フンボルトを「信頼できない語り手」として描き、読者を言葉の迷宮へと誘った。物語は詩的な言葉遊び、象徴の重層性、そして視点の転換によって構築されており、単なる物語以上の奥行きを持っていた。ナボコフは「読者に道的な同情を求めない。私はただ、言葉のしさを追求した」と述べている。この作品こそが、彼を世界文学の頂点へと押し上げたのである。

第5章 ナボコフの技巧と文学理論

言葉遊びの魔術師

ウラジーミル・ナボコフの作品を開くと、読者はすぐに彼の言葉の魔術に引き込まれる。彼は単なる物語を語るのではなく、言葉そのものを遊び道具として操った。アナグラム、隠されたダブル・ミーニング、リズミカルな文体—彼の文章は、まるで一つの音楽のように響く。『ロリータ』では「Lo-lee-ta」という名前を詩的に歌い上げ、『青白い炎』では詩と散文を交錯させる。読者はナボコフの作品を読むたびに、新しい発見をすることになる。彼の文学は、読者との知的なゲームなのだ。

信頼できない語り手の迷宮

ナボコフは、物語を単に語るのではなく、読者を意図的に惑わせる。「信頼できない語り手」という手法を駆使し、真実と虚構の境界を曖昧にする。『ロリータ』のフンボルト・フンボルトは、自分の行為を正当化するが、読者は次第に彼の語る言葉がどこまで信用できるのか疑念を抱く。『透な対』の語り手もまた、幻想と現実を巧みに交錯させる。ナボコフは、読者が物語を鵜呑みにせず、積極的に読み解くことを求める作家であった。

メタフィクションの仕掛け

ナボコフの作品には、しばしば「物語の中の物語」という構造が組み込まれている。『青白い炎』では、小説の文そのものが、架空の詩とその注釈という形式をとっている。『ロリータ』も、フンボルトの手記という形をとりながら、実際にはナボコフの手による精密な構成のもとに書かれている。彼の作品を読むことは、ただの物語を追うのではなく、作家が仕掛けた迷宮に足を踏み入れることに等しい。読者は、その迷宮の中で真実を探し求めるのだ。

美と感覚の追求

ナボコフにとって、小説は単なるストーリーではなく、的な体験であった。彼は「私は社会的なメッセージや心理学的分析よりも、言葉のしさを追求する」と公言していた。『アーダ』では、しく複雑な言葉でのような世界を描き、『微笑むロシアの風景』では、亡命前のロシア記憶を鮮やかに再現する。彼の文学は、知的なゲームであると同時に、純粋な芸術でもあった。ナボコフは、読者にただ読むのではなく、「味わう」ことを求めたのである。

第6章 記憶と時間の迷宮

失われた祖国の記憶

ウラジーミル・ナボコフの作品には、しばしば「失われた過去」が登場する。彼自身、ロシア革命によって祖を失い、亡命者として生きた。『微笑むロシアの風景』では、幼少期の思い出が細密な描写で蘇る。サンクトペテルブルクの夏の日差し、郊外の別荘、庭を飛び交う蝶たち—それらはもはや現実には存在しない。しかし、ナボコフの記憶の中では、鮮やかに生き続けていた。彼にとって文学とは、失われたものを再構築する手段であり、時に記憶は現実よりも強い力を持つのである。

時間の逆説と再構築

ナボコフの小説では、時間が直線的に流れない。『アーダ』では、登場人物たちは時間の枠を超えて生き、現実と幻想が交錯する。『透な対』では、主人公が過去と現在を行き来し、記憶が物語を支配する。彼の作品では、時間は決して一方向に進むものではなく、読者を混乱させる迷宮のような構造を持つ。これは単なる技巧ではなく、ナボコフ自身の人生観を反映している。亡命者にとって、過去は単なる記憶ではなく、現在と並行して存在し続けるもう一つの現実なのだ。

幻想と現実の交錯

ナボコフは、現実と幻想の境界を曖昧にすることで、読者を意図的に混乱させる。『ロリータ』のフンボルトは、自身の物語を「しい恋」として語るが、それは自己欺瞞に満ちた歪んだ幻想である。『アーダ』では、世界そのものが架空の空間であり、読者はどこまでが現実なのかを見極めることができない。ナボコフにとって、現実とは絶対的なものではなく、言葉の中で生まれる流動的な存在であった。彼の小説を読むことは、の中をさまよう体験に似ている。

記憶という芸術

ナボコフの作品には、彼自身の記憶が多く織り込まれている。『ロリータ』のアメリカ横断の旅には、彼の実際の旅行経験が反映され、『アーダ』の豪奢な館には、失われたロシアの面影が重なる。しかし、彼の記憶は単なる懐古ではない。彼は過去を化するのではなく、記憶芸術として再創造する。彼の小説を読むことは、過去と現在、幻想と現実が交錯する迷宮に足を踏み入れることと同じである。そして、その迷宮こそが、ナボコフの文学の核なのである。

第7章 昆虫学者ナボコフのもう一つの顔

幼少期に芽生えた蝶への愛

ウラジーミル・ナボコフの文学的才能は幼少期から開花していたが、彼のもう一つの情熱—蝶へのもまた同じ時期に芽生えた。サンクトペテルブルクの郊外にある別荘で、彼は網を片手にしい蝶を追いかけ、その羽の模様を細かくスケッチした。父が贈った昆虫図鑑は、彼の知的探究を刺激し、やがて蝶の分類や生態を独学で学ぶようになる。文学が言葉の芸術であるならば、ナボコフにとって蝶の研究は「自然が生み出す芸術」を解する行為だったのである。

科学者としての顔

ナボコフは作家として有名であるが、実は真剣な昆虫学者でもあった。1940年代、彼はアメリカのハーバード大学比較動物学博物館で研究員を務め、ブルースモール・ブルーバタフライ属(Lycaeides)の分類を専門に研究した。彼は蝶の翅脈のパターンや微細な形態を分析し、独自の分類法を提案した。1951年、彼の理論は当時の学界では注目されなかったが、後のDNA解析によってナボコフの分類が正しかったことが証された。作家でありながら、科学的な業績も残したのである。

文学と科学の交差点

ナボコフの文学作品には、昆虫学の影響が濃く表れている。『ロリータ』では蝶の名前が比喩として巧みに使われ、『アーダ』では昆虫の観察が詩的に描写される。彼の文章は、まるで蝶の翅の模様のように精密であり、彼の観察眼は生物の世界と文学の世界をつなぐとなった。彼にとって、蝶を研究することは、世界を理解するためのもう一つの手段であり、文学と同じく「と秩序」を求める行為であった。

美と知の探求者

ナボコフは、文学者でありながら科学者であり、科学者でありながら詩人でもあった。彼は「私は蝶を分類するときも、小説を書くときも、同じ精密さと情熱をもって取り組む」と語っている。彼の人生は、創造と分析、感性と論理が交錯するものであった。彼の蝶の研究は、単なる趣味ではなく、一つの知的探求の形であり、彼の文学と同様に、後世に深い影響を与え続けているのである。

第8章 ナボコフの文学と政治

反共産主義者としての立場

ウラジーミル・ナボコフは、終生、共産主義を激しく嫌した。彼の家族はロシア革命によって財産を奪われ、祖を追われた。そのため、ソビエト連邦を「文化と言論の自由を抑圧する独裁国家」と見なした。彼は『ロリータ』の序文で「私は政治的な作家ではない」と述べつつも、その作品には共産主義に対する冷笑が散りばめられている。『ベンドシニスター』では全体主義体制を風刺し、『招かれた』では独裁政権の不条理を描いた。ナボコフにとって、政治とは敵対するものではなく、軽蔑する対であった。

ロシア革命への冷淡な視線

亡命後、ナボコフはロシア革命を振り返ることがほとんどなかった。彼にとって、革命は自由の勝利ではなく、文化の破壊であった。『微笑むロシアの風景』では、革命前のロシアを懐かしむが、ソ連の支配下にあるロシアへの着は持たなかった。トルストイドストエフスキーが「社会のための文学」を模索したのに対し、ナボコフは文学を純粋なの探求と捉えた。彼は、政治的なメッセージを込めることが「芸術の堕落」であると考え、社会主義リアリズムを強制するソ連の文学政策を軽蔑した。

アメリカという新天地

アメリカへの移住は、ナボコフにとって政治的自由を手にする機会であった。彼は市民権を取得し、「自由なでこそ、作家は真の芸術を生み出せる」と語った。彼はマッカーシズムにも距離を置き、アメリカの過剰な反共産主義にも批判的だった。『ロリータ』は、アメリカの資本主義社会を皮肉る側面を持ちつつ、全体主義とは異なる形の自由を表現した。彼の視点は、政治イデオロギーに染まらず、純粋に「自由な知性」を尊重するものだった。

政治と無縁の文学の追求

ナボコフは「文学政治とは無関係であるべきだ」と何度も主張した。彼の小説は政治的プロパガンダではなく、知性の探求だった。しかし、その姿勢こそが、ある種の政治的スタンスであった。彼は政治を嫌いながらも、政治的な影響を受けずに創作するという信念を貫いた。ナボコフの文学は、思想や体制に縛られることなく、純粋に言葉の力を信じた。彼にとって、作家の最大の武器イデオロギーではなく、芸術そのものだったのである。

第9章 晩年の創作と評価

スイスでの静かな隠遁生活

1961年、ウラジーミル・ナボコフはアメリカを離れ、スイスのモントルーへ移住した。畔に佇むモントルー・パレス・ホテルの一室が彼の終の住処となる。華やかな文学界から距離を置き、静かに執筆に没頭する日々を送った。彼の人生は、亡命と移動の連続であったが、ここにきてようやく落ち着いた。蝶の研究と執筆という二つの情熱に集中できる環境は、彼にとって理想的であった。しかし、孤立したわけではなく、多くの作家や研究者が彼を訪れ、ナボコフの文学世界はモントルーの小さな部屋で広がり続けた。

『アーダ』—壮大なる文学の迷宮

1969年、ナボコフは長年構想を練っていた大作『アーダ』を発表した。この小説は彼の作品の中でも最も難解とされ、幻想的な世界「アンティテラ」を舞台に、時空を超えたの物語が繰り広げられる。『アーダ』には、言葉遊びや隠喩、歴史や科学知識がふんだんに盛り込まれ、読者はまるで迷宮をさまようような感覚を味わうことになる。批評家の評価は二分され、「最高傑作」と称賛する者もいれば、「過剰に技巧的」と評する者もいた。しかし、ナボコフはこの作品を自身の文学の到達点と位置づけた。

晩年の未完の野心作

ナボコフは晩年にも精力的に創作を続けていた。彼の最後の作品となった『ローラのオリジナル』は、執筆途中のまま彼のを迎えることとなる。彼は妻ヴェラに「未完成ならば原稿を焼却するように」と遺言を残したが、それは叶えられず、2009年に草稿が出版された。未完でありながらも、その断片からはナボコフ独特の洗練された文体とユーモアが垣間見える。彼は人生の最後の瞬間まで、新たな文学の地平を切り開こうとしていたのである。

ナボコフの遺産と文学史での位置

1977年、ナボコフはモントルーで静かにこの世を去った。しかし、彼の文学は今もなお生き続けている。『ロリータ』は20世紀文学字塔として読み継がれ、『アーダ』や『青白い炎』などの作品も学術的な研究対となっている。ナボコフは、技巧的な言葉遊び、複雑な語り、詩的なしさを極めた作家として、後世の作家たちに影響を与え続けている。彼の文学は単なる物語ではなく、知的ゲームであり、言葉の魔術であった。ナボコフの迷宮に足を踏み入れた読者は、決して同じ景を二度見ることはないのである。

第10章 ナボコフの遺産と現代への影響

ナボコフの影響を受けた作家たち

ウラジーミル・ナボコフの文学的影響は、後世の作家たちに広く及んでいる。ドン・デリーロやデイヴィッド・フォスター・ウォレスは、彼の巧妙な言葉遊びと知的な語りの手法を受け継いだ。上春樹の作品にも、ナボコフ的なメタフィクションの要素が見られる。『ロリータ』の語り手フンボルト・フンボルトのように、信頼できない語り手の技法は、現代文学においても頻繁に用いられる。ナボコフの影響は、単に作風だけでなく、文学に対する哲学的なアプローチにも及んでいるのである。

文学研究とナボコフの再評価

ナボコフの作品は、20世紀後半以降、文学研究の対としても重要視されるようになった。『ロリータ』は単なるスキャンダラスな物語ではなく、語りの技法や象徴の多層構造が分析されることが多い。『青白い炎』の詩的な実験性、『アーダ』の幻想的な時空の操作など、ナボコフの技法はポストモダン文学の先駆けとも言える。大学文学講座では、彼の作品がしばしば取り上げられ、20世紀文学の重要な柱として位置づけられている。

映画・アートへの影響

ナボコフの作品は、映画やアートの世界にも影響を与えた。スタンリー・キューブリックによる『ロリータ』の映画化は、文学映像化の難しさを示しつつも、彼の作品の知名度を一気に押し上げた。さらに、アート界でもナボコフの影響は顕著であり、言葉とイメージの関係を探求するコンセプチュアル・アートの分野でしばしば参照される。ナボコフの描く幻想的な世界観は、文学の枠を超え、視覚芸術にも影響を及ぼしている。

未来の読者へのメッセージ

ナボコフの文学は、時代を超えて読み継がれる要素を持っている。彼は、単なるストーリーではなく、「言葉のしさと知の戯れ」を追求した作家であった。彼の作品に触れることは、単なる読書ではなく、知的な挑戦でもある。未来の読者たちが彼の迷宮のような物語に足を踏み入れるたび、新たな発見があるだろう。ナボコフの言葉は、時を超えて生き続け、これからも新たな世代の読者たちを魅了し続けるのである。