存在と時間

基礎知識
  1. 現象学ハイデガーの思想的背景
    『存在と時間』はエドムント・フッサール現象学に強く影響されており、その手法を用いて存在の意味を探求しようとしている。
  2. 「存在」と「存在者」の区別
    ハイデガーは「存在」と「存在者」を厳密に区別し、「存在」とは存在者が存在することそのものであると考えた。
  3. 「世界-内-存在」という概念
    人間(ダーザイン)は常に他の存在者と関わり合いながら世界の中に存在するという「世界-内-存在」の概念を提唱した。
  4. 時間性と存在の関係
    ハイデガーは、存在を理解するためには時間性が重要であるとし、人間の存在が時間と切り離せないことを示した。
  5. 『存在と時間』の未完性
    『存在と時間』は全体が計画通りに完結しておらず、ハイデガーは後年も多くの補完的な著作を通じてその理論を展開し続けた。

第1章 ハイデガーの思想的背景と影響

哲学界の革命児 – フッサールと現象学の誕生

19世紀末から20世紀初頭にかけて、哲学界では新しい運動が芽生えた。それがエドムント・フッサールによる「現象学」である。フッサールは、すべての経験や意識を分析することで、物事の「質」を明らかにしようとした。彼の視点は「私たちは世界をどのように経験しているか?」という問いから始まり、思考を通じて目に見えない質へと迫ろうとするものだった。これは当時の哲学における革命であり、「当の意味での哲学」に挑む試みだった。この現象学に感銘を受けた若き日のハイデガーは、師であるフッサールのもとで学び、自らの思想を練り上げていくことになる。

弟子ハイデガーの野心 – 現象学の新たな方向へ

フッサールに学びながらも、ハイデガーはただの忠実な弟子にとどまらなかった。彼は現象学を「存在とは何か?」という根源的な問いに適用することを考え、現象学に新しい方向性を加えようと試みた。フッサール意識を通じて世界の質を探求したのに対し、ハイデガーは「私たちが存在するということ自体」に注目し、それを解き明かそうとしたのだ。彼の目指す新しい現象学は「人間の存在そのもの」を中心に据え、従来の哲学の枠を超えるものだった。こうして、彼の野心はフッサールの学派に一石を投じ、やがて『存在と時間』という革新的な著作へと結実していく。

哲学者たちとの対話 – ハイデガーの影響を受けた知識人たち

ハイデガー現象学的なアプローチは、当時の哲学界のみならず、多くの知識人に衝撃を与えた。彼の思想は、ジャン=ポール・サルトルやモーリス・メルロ=ポンティなどの実存主義者にも強い影響を与え、彼らもまた「人間の存在」に焦点を当てるようになる。さらに、ハイデガー哲学的探求は詩人リルケや作家トーマス・マンの文学作品にも影響を及ぼし、哲学が文学や芸術の世界にまで広がっていくこととなった。ハイデガーの思想がただの学術理論にとどまらず、多くの文化的表現にインスピレーションを与えたのは、それが質的な「人間とは何か?」という問いを扱っていたからである。

伝統からの脱却 – ハイデガーと近代哲学の決別

ハイデガー哲学は、伝統的な西洋哲学と一線を画するものだった。それまでの哲学プラトンデカルトといった大哲学者たちが築いた「質」や「実体」の理論に基づいていたが、ハイデガーはそれらを乗り越え、独自のアプローチで「存在」の探求を行おうとした。デカルトが「我思う、ゆえに我あり」と定義した自我の確立から一歩進み、彼は人間の存在が環境や他者との関係の中で成り立っていることに注目したのである。こうして、ハイデガーは従来の枠組みを打破し、新たな哲学的地平を開拓することに成功した。

第2章 存在とは何か – 存在と存在者の区別

哲学の基本問題:存在とは何か?

ハイデガーが『存在と時間』で追求した根的な問いは「存在とは何か?」である。これは単なる日常の疑問ではなく、哲学における最も基的で重要な問題である。例えば、私たちは「机がある」「山がある」といった言葉をよく使うが、この「ある」という状態の意味を深く考えたことは少ない。ハイデガーは、この「存在」の意味を理解することが人間の根的な問いであり、他のすべての哲学的な探求の基礎になると考えた。彼は存在に関する問いが、単に物のあり方を問うのではなく、人間自身の在り方を問う問いでもあるとした。

存在者と存在 – 見えているものと見えないもの

ハイデガーは「存在」と「存在者」を区別することからその探求を始めた。「存在者」とは私たちが目にする机や人などの具体的なものであり、「存在」とはその存在者が「ある」という状態そのものである。つまり、存在者は個々のもの、存在はそのものが成り立つための根的なあり方である。この区別により、ハイデガーは見えている現だけではなく、物事が「ある」という深層的な側面にも目を向ける必要があると主張した。この視点は、当時の哲学にはなかった全く新しい概念だった。

忘れられた問い – 存在への無関心

ハイデガーは、哲学が「存在の問い」を忘れてしまったと指摘した。プラトンアリストテレスなどの古代哲学者は存在について考察したが、近代哲学デカルト以来、個別の学問的な問題に集中しすぎていた。デカルトの「我思う、ゆえに我あり」は自己の意識に重きを置くものであり、存在そのものへの問いを軽視していた。ハイデガーは、この「存在の問い」を再び取り戻し、根的な存在理解を目指したのである。これにより、哲学は人間の存在や世界の成り立ちに迫る新しい視点を得た。

存在の探求 – 私たちが気づかない「ある」の重要性

ハイデガーの「存在の問い」は、日常的な経験からも理解できる。例えば、私たちは普段、身の回りにあるものの「存在」を意識しない。机やスマートフォンを使っているとき、私たちはその「ある」ことに気づくことなく、ただその機能に集中している。この無意識に見落としがちな「ある」という事実に気づくことこそが、ハイデガーの目指した哲学の出発点である。彼は「存在」とは、人間にとって当然でありながら深遠なものであることを示し、私たちにそれを改めて考えるよう促した。

第3章 ダーザインの構造とその意義

存在の探求者、ダーザインとは何者か?

ハイデガーは『存在と時間』の中で、存在を探求する「私たち自身」に新たな名前を与えた。それが「ダーザイン」である。ダーザインとは、単に「人間」というだけでなく、「存在を問いかける者」という意味を持つ。ハイデガーは、私たちが単に物理的に存在するのではなく、自分の存在そのものについて意識し、疑問を抱くことができる特別な存在者であると考えた。この「存在の探求者」としてのダーザインは、他の動物や物と異なり、自己を問い直しながら世界と関わり合う、哲学的な存在者である。

世界との関わり方 – ダーザインの主体性

ダーザインの特徴の一つは、ただ存在するのではなく、世界と深く関わり合っている点である。ハイデガーによれば、ダーザインはただの「自己完結した存在」ではなく、他者や環境と繋がり合いながら存在している。例えば、日常生活で私たちは周囲の物や人と交わりながら自分の存在を感じ取る。ハイデガーにとってダーザインは、「主体性」と「相互関係」を併せ持つ複雑な存在者であり、この相互作用を通じて私たちは自分を知り、同時に他者や世界に意味を見出すのである。

存在の意味を理解する力 – 存在理解

ダーザインのもう一つの重要な特徴が「存在理解」である。ハイデガーは、私たちが無意識のうちに物事の「存在する意味」を理解していると考えた。たとえば、道具を使うときに、それが「そこにある」だけでなく「どう使うか」をすぐに理解できるのもこの存在理解の一例である。ダーザインはただの観察者ではなく、ものごとの意味や価値を見抜く力を持っている。ハイデガーにとって、この存在理解の能力こそが、ダーザインが他の存在者と区別される理由であり、それが私たちの存在を豊かにしているのだ。

存在を問い続ける者としてのダーザイン

ハイデガーにとって、ダーザインとは「存在を問い続ける者」であり、そこに彼の哲学質がある。私たちは、日常の中で自分がなぜここにいるのか、自分がどのような存在なのかといった問いを抱えることがある。ダーザインはそうした問いを絶えず持ち続ける特異な存在者であり、この問いこそが私たちを人間たらしめている。ダーザインはその問いを通して自己を見つめ、同時に世界を再発見する存在であるといえる。ハイデガーは、私たちが生きる意味を探求する中でダーザインの質が輝くと説いている。

第4章 世界-内-存在とは何か

世界と共にある存在

ハイデガーは、人間が単独で存在するのではなく、常に「世界と共にある存在」であると考えた。彼はこの状態を「世界-内-存在」と呼んだ。私たちが他の人や物と関わり合いながら日常生活を送るのは、ただ自分が存在するだけでなく、周りの世界と常に繋がっているからである。例えば、友人との会話や、道具を使う時など、私たちはその環境の中で存在し、影響を受けたり与えたりしている。この「世界-内-存在」の考え方は、私たちが存在することと他者や物との関係が切り離せないことを示している。

関わり合いの中での「存在」の感覚

私たちが存在を実感するのは、他者や物との関わりがあるからである。例えば、親しい友人と過ごす時間や、自分の好きなものを手に取るとき、私たちはその環境の中に深く根ざしている自分を感じることができる。ハイデガーは、人間が世界と切り離された存在でなく、むしろ世界と絶えず関わり合いながら自分の存在を感じ取っていると考えた。この「関わりの中で感じる存在感」は、私たちが日々の生活の中で自分が生きていることを実感させる、重要な要素である。

他者との交わりと自己の理解

ハイデガーの「世界-内-存在」には、他者との交わりも含まれる。人間は他者との関係の中で自分を理解し、成長する存在である。たとえば、他人の意見や態度から自分自身についての新しい気づきを得ることがある。ハイデガーは、他者との関係を無視しては人間の存在を理解することはできないと考えた。この他者との交わりは、単なる社交以上のものであり、自己理解の重要な一環である。私たちは他者を通して、自分がどのような存在であるかを認識していくのである。

環境との一体感 – 自然との繋がり

ハイデガーの「世界-内-存在」には、人間と自然との繋がりも含まれる。自然の中でリラックスしたり、空の美しさに感動したりする瞬間は、私たちが世界と一体になっていることを感じさせる。ハイデガーは、人間がこのように環境と結びついて存在していると考え、自然もまた私たちの存在に深い影響を与えると主張した。この自然との一体感は、私たちが単なる孤立した存在ではなく、周囲の世界の一部として存在していることを再認識させる。

第5章 現存在と道具の使用 – 「手元にあるもの」と「目の前にあるもの」

日常の道具に潜む哲学

ハイデガーは、私たちが使う道具に存在の秘密が潜んでいると考えた。たとえば、ハサミやペンを使うとき、私たちは道具そのものではなく、それが役立つことに意識を集中している。この「使われているときの道具」は「手元にあるもの」と呼ばれ、意識的にその存在を感じることはない。ハイデガーは、道具が「手元にあるもの」として使われているとき、私たちはその存在を自然に受け入れており、その道具を通じて世界と結びついているのだと述べた。この日常的な行為に哲学的な意味があることを明らかにした。

道具の存在を意識する瞬間

道具の存在がはっきりと意識される瞬間もある。それは道具が壊れたり、うまく機能しなくなったときである。例えば、ペンがインク切れを起こした時、私たちはその存在を急に意識し、使えない道具として「目の前にあるもの」として感じるようになる。ハイデガーにとって、この「目の前にあるもの」という状態は、道具がその役割を果たさなくなったときに生まれるものである。この状態を通じて、私たちは「道具とは何か?」という問いに立ち返り、その存在そのものを問い直すことになるのだ。

道具と世界との繋がり

ハイデガーは、道具が単独で存在するのではなく、他の道具や世界とのネットワークの中で存在していると考えた。たとえば、ペンだけでは意味をなさないが、紙やインクと組み合わさることで「書く」という行為が可能になる。こうした関係性の中で、道具は相互に関わり合い、意味を持つようになる。この道具と世界の繋がりを理解することで、私たちは日常の中で使っている道具が実は深く世界と結びついていることを認識できる。ハイデガーの道具論は、単なる物の集まりではなく、豊かな関係性が存在することを示している。

私たちの存在と道具の関係

ハイデガーは、道具を使うことが私たちの「存在のあり方」を反映していると考えた。私たちは道具を通じて世界と関わり合い、その中で自分の役割を見出す。道具を使う行為が生活の一部となり、それが私たち自身の存在を形作っている。日常的な動作の中に、私たちが他者や環境とどのように繋がり、役割を果たしているのかが現れているのだ。ハイデガーの考えは、私たちが道具とともに世界の中で「存在している」ことを実感させ、そこに哲学的な意味を見出す試みである。

第6章 不安と存在 – 「世界からの脱落」の経験

孤独の瞬間に感じる「不安」とは

ハイデガーは、人間が生きる中で時折感じる「不安」という感情に特別な意味を見出した。不安とは、具体的な恐れとは異なり、はっきりした理由がわからないまま心に広がる感覚である。例えば、夜に一人でいるときに突然訪れる孤独感や、目の前の現実がどこか遠く感じられる瞬間など、不安は私たちを予期せず襲う。この不安こそが、ハイデガーにとって人間が自分の存在と向き合う契機であり、普段意識しない「存在そのもの」に気づく重要な機会だと考えた。

「世界からの脱落」との出会い

ハイデガーは、不安を通して「世界からの脱落」という感覚に至ることがあると述べた。日常生活では、私たちは常に周りの物や人と繋がりを感じながら過ごしているが、不安に襲われるとその繋がりが突然断たれるような感覚に陥る。友人や家族、慣れ親しんだ場所が急に遠く感じられ、自分がどこにも属さないように感じる。この「脱落」の瞬間が、人間にとって世界との関係を見つめ直し、自分の存在を新たに理解するためのきっかけとなるのである。

不安が問いかける「自分とは何か?」

不安は、私たちに「自分とは何か?」という問いを突きつける感情でもある。日々の生活では、自分が何者であるかを深く考えることなく過ごすことが多いが、不安が訪れるとその疑問が浮上する。自分の存在や人生の意味について真剣に考えざるを得ない瞬間に、不安は重要な役割を果たしている。ハイデガーは、この問いかけこそが人間が「当の自分」に近づくための大切なプロセスであり、不安はそのための入り口だと考えた。

不安が示す「本来的存在」への道

ハイデガーによれば、不安は私たちを「来的存在」へと導く道でもある。普段は社会の中での役割や周囲の期待に応えながら生きている私たちだが、不安によってその役割や期待から解放される瞬間が訪れる。この解放の瞬間こそ、自分が何者なのか、どのように生きるべきかを真剣に見つめ直す契機である。ハイデガーは、この「来的存在」に向かうことが人間の生きる意味であり、不安がその手がかりを提供していると説いた。

第7章 時間性の意味 – 過去・現在・未来

存在と時間の深い関係

ハイデガーは「存在」を理解するには「時間」が欠かせないと考えた。私たちが「今ここにいる」という感覚は、実は過去の経験と未来の可能性によって成り立っている。例えば、学生としての自分は、過去の勉強や生活の積み重ねと、将来の目標への期待によって成り立つ。ハイデガーは、この「存在」と「時間」の関係こそが人間の根的な在り方だと述べた。つまり、人間の存在は時間とともに変化し続け、過去・現在・未来がつながることで当の意味を持つのである。

過去が現在に与える影響

私たちの現在は過去からの影響を強く受けている。ハイデガーは、この過去の積み重ねが私たちの現在の姿を形作ると考えた。例えば、好きな趣味や価値観も、過去の経験や周囲からの影響で培われたものである。ハイデガーにとって、過去は単なる「過ぎ去ったもの」ではなく、私たちを形成する重要な要素である。この視点は、過去をただの思い出として扱うのではなく、今の自分にどんな影響を与えているかを考えることの大切さを教えてくれる。

未来への志向と可能性

ハイデガーは、人間が未来に向かう志向性を持つことが「来的な存在」の一部であると説いた。私たちは未来に対してや計画を抱き、その実現に向けて努力する。たとえば、進学や就職の目標を持つことで、自分がどのような人間でありたいかが明確になる。ハイデガーはこの未来志向性が、私たちが単なる現在の延長として生きるのではなく、より深い意味で「来的に生きる」ことを可能にする道筋であるとした。

過去・現在・未来をつなぐ「時間性」

ハイデガーの「時間性」の概念は、過去・現在・未来が分離して存在するのではなく、互いに関わり合いながら一体として私たちの存在を形成するものだと示している。人間は過去の経験を基に現在を生き、未来を見据えながら進んでいる。この時間のつながりの中で、自分がどのように存在するかを理解することが「来的存在」への鍵となる。ハイデガーは、時間性を知ることで、私たちが単なる「今」を超えた豊かな存在を持つことを実感できるとした。

第8章 死と本来的存在 – 死の向こうに見えるもの

死との対峙 – 終わりを意識する瞬間

ハイデガーは「死」というテーマを通して、人間の存在に根的な問いを投げかけた。私たちは普段、死を避けたり遠ざけたりするが、死の存在を無視することはできない。病気や事故のニュースを聞いた時、自分の死をふと意識する瞬間があるだろう。ハイデガーは、このように「死と向き合うこと」が私たちの存在理解を深めると考えた。死を意識することで、人は限りある人生の意味に気づき、自分の生き方を見つめ直すようになるのである。

有限性が与える「本当の生き方」

ハイデガーは、人間が死を避けられない「有限な存在」であることにこそ、人生の意義があると説いた。もし私たちに限りがなければ、生きる意欲や計画も生まれないだろう。しかし、死という限界があるからこそ、一瞬一瞬に価値が生まれる。例えば、短い夏休みを無駄にしたくないと感じるのと同じように、限られた人生を大切にしようとする意識が芽生える。ハイデガーは、この有限性が当の意味で「自分らしく生きる」ための出発点であるとした。

死を通じて見る「本来的存在」

ハイデガーは、人が死を真正面から捉えるとき、自分の「来的存在」に気づくと考えた。私たちは、普段は社会や他人の期待に従って生きがちであるが、死を意識することでそれらから解放される。死が避けられない現実であることを受け入れた時、自分が当に何を望み、どのように生きたいかが鮮明になる。こうして、他人の影響から離れた「当の自分」に向き合うことが、ハイデガーの言う「来的存在」への道なのである。

死への投企 – 生きる意味の再発見

ハイデガーは「死への投企」という概念で、未来の「死」を見据えることで、現在の生き方を再構築するプロセスを説明した。死があるからこそ、私たちは今を充実させようとする。「投企」とは、未来を前提にして現在を生きることであり、死に向き合うことで私たちは当の生き方を発見できる。ハイデガーは、このプロセスが単なる「終わりへの恐怖」ではなく、「今を真剣に生きること」へと人を導く大切な手段であると考えた。

第9章 歴史性と実存の理解

歴史の重みと自己理解

ハイデガーは、私たちが自分を理解するためには「歴史性」を無視できないと考えた。私たちはただ今を生きているだけでなく、過去から受け継がれた知識文化に根ざして存在している。たとえば、言語、価値観、習慣の多くは過去の積み重ねであり、それによって私たちは現在の自分を理解する。ハイデガーは、このように歴史と共にあることで、人間は「自分とは何か?」という問いに深く迫れると述べた。歴史を知ることは、自己を知ることの一歩である。

歴史を通じて見つめる実存

私たちが今、どのように生きるかという実存の問いも、歴史からの影響を受けている。過去の出来事や人々の生き方が、私たちの価値観や目標を形作るからである。ハイデガーは、歴史を単なる過去の記録としてではなく、実存に影響を与える「生きた歴史」として捉えた。たとえば、文学や哲学を学ぶことも、過去の考え方に触れることで自分自身の生き方に新たな視点を与えてくれる。歴史を通じて私たちは、自分の実存についての理解を深められる。

自己認識と歴史的な背景

ハイデガーは、自分を知るには自分が属する歴史的な背景を理解することが必要だと説いた。私たちは、家庭や地域、の歴史によって形作られ、その背景を無視しては完全な自己理解に到達できない。例えば、日本に生まれ育った人は、日本文化価値観が知らず知らずのうちに影響を与えている。この歴史的背景を意識することで、自分の特徴や行動の理由が見えてくる。ハイデガーの視点は、自己認識には広い視野が求められることを示唆している。

歴史と共に未来を築く

ハイデガーは、歴史をただ受け入れるだけでなく、それを踏まえて未来を築くことの重要性を強調した。私たちは過去の影響を受けつつも、自分の意思で未来を作り出す力を持っている。過去の経験から学びつつ、新しい目標に向かって進むことで、真の実存が生まれるのだ。ハイデガーは、歴史性を尊重しながらも、そこに縛られず自由に未来を選び取る姿勢が「来的存在」への道であると説いた。歴史に基づきつつ未来を築くことが、彼の実存哲学の核心である。

第10章 未完の『存在と時間』とその後の展開

なぜ『存在と時間』は未完なのか?

『存在と時間』は、ハイデガーが構想した全体のうちの第一部しか完成しなかった。ハイデガーは執筆中に、存在についてさらに深く考察するためには、それまでの考え方を超える新たな視点が必要だと感じたため執筆を中断した。彼は「存在とは何か?」という問いを解明する難しさに直面し、思索を続けることを選んだ。この未完の著作は、ハイデガーが存在の意味を探り続けた生涯の姿勢を象徴しており、哲学的な問いが簡単には答えられないものであることを示している。

後年の思索と「存在の歴史」

『存在と時間』の後も、ハイデガーは「存在とは何か?」の探求をやめることはなかった。彼は「存在の歴史」という概念に辿り着き、存在が歴史を通じて異なる形で現れることに注目した。ハイデガーは、西洋哲学が長い間「存在」を固定的なものと考えてきたが、それが時代とともに変化することを認識するようになった。この視点から、ハイデガーはさらに壮大な問いを追い続け、哲学を歴史の流れの中で捉え直そうと試みたのである。

詩と哲学の融合へ

ハイデガーは後年、詩の世界にインスピレーションを求めた。彼は特にフリードリヒ・ヘルダーリンの詩に触発され、詩が持つ存在の深い理解に共鳴した。ハイデガーは、詩が言葉を通じて人々に存在の秘を伝える力を持っていると考え、哲学と詩が互いに補完し合うものとして共存できると見なした。彼の思想は、存在の探求が論理的な説明だけではなく、詩的な表現によっても理解されるべきだとする新しいアプローチを示した。

ハイデガー思想の影響とその遺産

ハイデガーの『存在と時間』は、未完であったにもかかわらず、その後の哲学や文学に大きな影響を与えた。ジャン=ポール・サルトルやミシェル・フーコー、そして現代の哲学者たちも、ハイデガー存在論から多くを学び、それぞれの視点で発展させた。ハイデガーの思想は、現代においても人間の存在の根的な問いに応えようとする者たちにとっての道標である。その未完の探求は、今もなお多くの学者や思想家に新しいインスピレーションを提供し続けている。