基礎知識
- ローマ共和国から帝政への移行
ローマ帝国は共和政から帝政へと移行する過程で、市民権や軍事改革が重要な役割を果たした政治変動の時代である。 - ローマ法とその影響
ローマ法は、後のヨーロッパ諸国や現代の法体系に大きな影響を与えた普遍的な法律体系である。 - 五賢帝時代の繁栄
五賢帝時代は、ローマ帝国が最盛期を迎えた平和と繁栄の時代であり、内政や軍事の安定が特徴である。 - 東西分裂とキリスト教の台頭
ローマ帝国は内部の弱体化と外部からの脅威により東西に分裂し、キリスト教が国家宗教として発展した。 - ローマ文明の遺産
ローマの建築、文化、技術は現在も多くの分野に影響を及ぼしており、現代文明の基盤となっている。
第1章 ローマ帝国の誕生 — 共和政から帝政へ
ローマはどこから始まったのか
紀元前8世紀、ローマはティベル川沿いの小さな村として始まった。その成長の鍵は、地中海交易の要所という地理的優位にあった。エトルリア人の文化を取り入れながら、ローマは初期王政の時代を経て、紀元前509年に共和政へと移行した。王を追放した市民たちは、元老院と呼ばれる貴族会議を設立し、権力を共有する仕組みを築いた。しかし、この「共有」は一部の特権階級に限られ、多くの市民が政治から締め出された。民主主義の萌芽ともいえるこの時代は、後のローマの発展の基盤を形成したのである。
権力を巡る戦い — カエサルの登場
共和政が成熟する中、ローマは数多くの戦争を通じて周囲の都市国家を征服していった。しかし、外部での成功とは裏腹に、内部では格差が拡大し、貧富の対立が深刻化していった。この混乱の中で登場したのがガイウス・ユリウス・カエサルである。彼は軍事的成功を背景に支持を集め、元老院の反発を抑えつつ、独裁的な権力を掌握した。彼の暗殺後、ローマはさらなる混乱に陥るが、彼の跡を継いだオクタウィアヌス(後のアウグストゥス)が混迷を終わらせ、帝政の道を開いたのである。
アウグストゥスと帝政の始まり
オクタウィアヌスはローマの秩序を再建し、「アウグストゥス」という称号を与えられた。彼の支配下で、ローマは「パクス・ロマーナ(ローマの平和)」と呼ばれる安定期を迎える。元老院の権威を形式的に残しつつ、実権はアウグストゥスの手に集中した。この巧妙な政治体制は、帝政の始まりを告げるものであった。彼はまた、軍やインフラ整備を強化し、ローマ市民に「安定」という新しい価値を提供した。こうして帝政ローマの基盤が築かれ、後の世界帝国の土台が完成したのである。
帝政への移行が意味するもの
ローマ帝国の成立は単なる政体の変化ではなく、文明の大転換を意味した。それまでの混乱を収束させ、統一された政治と法の下に膨大な領域を管理する仕組みが生まれた。帝政への移行によって、ローマは単なる都市国家から地中海全域を支配する帝国へと成長した。都市国家から帝国へ――これはローマの住民だけでなく、その影響下に入るすべての人々にとって新たな時代の始まりを告げるものであった。そしてこの移行が、後のヨーロッパ文明の根幹を形成することになるのである。
第2章 軍事改革とローマの拡大
ローマ軍の進化 — マリウスの改革
紀元前2世紀末、ローマは数々の戦争で領土を拡大していたが、軍の効率性には限界があった。そんな中、ガイウス・マリウスという将軍が登場し、軍事改革を断行した。従来、ローマ軍は財産を持つ市民が装備を整える仕組みであったが、彼は財産のない者も兵士として受け入れ、国が装備を提供する体制を導入した。この改革により、職業軍人の集団が誕生し、ローマ軍は組織力と規律を向上させた。マリウスの改革は、ローマの軍事的成功の礎を築いただけでなく、後の権力闘争にもつながる重大な影響を及ぼした。
地中海の支配者へ — 領土拡大の軌跡
ローマは軍事力を背景に、地中海世界全体を支配する存在となった。第一次ポエニ戦争ではカルタゴを破り、シチリアを最初の属州とした。続く第二次ポエニ戦争では、名将ハンニバルとの激闘を経て勝利し、スペインを獲得した。さらにはマケドニア戦争や東方遠征を通じてギリシャやアジアの一部も支配下に置いた。こうした戦争は、ローマが単なるイタリア半島の覇者から「地中海の支配者」へと進化する過程であった。そして、それぞれの征服地にはローマ文化と統治制度が徐々に浸透していった。
属州の運営と挑戦
広大な領土を持つローマは、その統治において様々な問題に直面した。属州は元老院や総督によって管理されたが、その多くは腐敗し、不満が蓄積した。一方、ローマは属州からの税収を利用し、都市の発展や軍備の維持に役立てた。また、属州の人々にローマ市民権を与える政策が進められることで、帝国への忠誠を高めた。特に、ギリシャ文化を吸収した東方属州は、ローマの文化的発展にも寄与した。属州はローマ帝国の豊かさを支える一方、統治の難しさを浮き彫りにする存在であった。
軍事と政治の融合
ローマの軍事力は単なる戦争手段にとどまらず、政治の道具としても使われた。軍事指導者が名声を得ると、その権威は政治にも影響を与えた。マリウスやスッラ、さらにはカエサルのような人物が、軍事力を背景に政治的野心を実現させた例である。この状況は、共和政時代の終焉と帝政の成立に直接つながる。軍事と政治の融合はローマの拡大を加速させる一方で、内部の権力構造を揺るがす要因となった。ローマの歴史において、軍事はただの武器以上の意味を持つ存在であった。
第3章 ローマ法と統治の仕組み
世界初の市民ルール — 十二表法の誕生
紀元前5世紀、ローマ市民の間で法の不平等が問題となり、それを解決するために「十二表法」が誕生した。これはローマ初の成文化された法律で、粘土板に刻まれたこの法は広場に掲げられ、誰もがその内容を知ることができた。これにより、貴族だけが法を知るという状況が終わり、市民全体に平等なルールが提供された。この法律は、契約や財産、犯罪など幅広い分野を規定し、現代法の基礎とされる「法の公開性」という概念を世界に広めた。十二表法は単なる法律ではなく、市民が公平に扱われる社会の出発点となったのである。
ローマ市民権の力
ローマ市民権は、単なる法的な地位を超えた重要な権利であった。市民は裁判を受ける権利や税制優遇、軍役後の土地支給といった特典を享受できた。特にポエニ戦争以降、ローマは征服地の人々にも市民権を与えることで、帝国全体の統一を図った。市民権の拡大は、異文化をローマ社会に取り込みつつ、忠誠心を生み出す手段でもあった。また、カラカラ帝の「アントニヌス勅令」により、帝国内の全自由民に市民権が拡大されたことで、ローマ市民権は帝国を統一する象徴となった。これこそが、ローマ帝国の長期的な安定を支えた要因の一つである。
法を通じて秩序を保つ
ローマは法律を通じて多様な文化と地域を支配する術を発展させた。特に、法の解釈を行う法律家たちは重要な役割を果たし、ローマ法を現実に即したものに進化させた。彼らの知識と判断は「法の科学」として体系化され、後のヨーロッパ法の礎となった。また、総督や役人が地方を統治する際には、法律が彼らの行動を規定する指針となった。これにより、ローマ全体に法の一貫性が保たれ、広大な領土を効率的に管理できた。法律はただの規則ではなく、社会を安定させ、繁栄をもたらす仕組みであった。
ローマ法の永遠の影響
ローマ法はその後の世界に計り知れない影響を与えた。中世ヨーロッパの法学者たちは「ユスティニアヌス法典」を研究し、それを基に近代法を築いた。今日、私たちの契約法や財産法の多くの原則はローマ法に由来するものである。例えば「無知は罪を免れない」という法の概念や、契約の重要性を強調する考え方は、ローマ法から直接影響を受けている。また、ローマ法の普遍性は、多様な人々を包摂しながら秩序を保つという現代社会の基本理念にも通じる。ローマ法は、古代の遺産として、今もなお私たちの生活を形作り続けている。
第4章 ローマの都市と建築 — 繁栄の象徴
水道橋とローマの生命線
ローマの都市に欠かせなかったのは、水を運ぶ水道橋である。紀元前4世紀ごろから建設されたこれらの構造物は、遠くの水源から都市まで膨大な量の水を運んだ。水道橋のアーチ構造は耐久性に優れ、現在もその一部が残る。このシステムにより、ローマの人々は公共浴場や噴水、さらにはトイレを利用できた。特に「アクア・クラウディア」のような有名な水道橋は、技術とデザインの融合を象徴するものである。これらは単なる水供給の手段ではなく、都市の繁栄と文明の力を示す象徴であった。
コロッセウムと娯楽の中心地
ローマ市民にとって娯楽の象徴であったのが、コロッセウムである。この巨大な円形闘技場は紀元80年に完成し、5万人以上の観客を収容した。剣闘士の戦いや野生動物の狩り、時には海戦を再現するイベントが行われた。その壮大な設計には、ローマ建築の技術が存分に発揮されている。エレベーターや回廊などの設備は、観客を効率よく誘導し、快適な観覧を可能にした。コロッセウムは、ローマの市民がどのように時間を過ごし、社会的な絆を深めたかを物語る場である。
公共浴場とローマ人の社交場
ローマの公共浴場、特に「カラカラ浴場」や「ディオクレティアヌス浴場」は、単なる入浴施設ではなかった。ここは運動場、図書館、社交の場として機能し、市民生活の中心だった。浴場の床には華やかなモザイクが施され、大理石の柱が立ち並ぶ豪華な空間が広がった。浴場には冷水、温水、蒸気浴の設備が整い、訪れる人々は心身のリフレッシュを楽しんだ。これらの施設は、全ての市民が利用できる場所として、ローマ社会の平等性を象徴していたといえる。
都市計画と公共空間の美
ローマの都市は巧妙な計画のもとに設計された。碁盤目状の街路、広場、神殿、フォルム(市場)は、全ての都市に調和をもたらしていた。特に「フォルム・ロマヌム」は、政治、経済、宗教の中心地として機能し、帝国の心臓部といえた。また、道路網は都市同士を結び、帝国全体を一つにまとめる役割を果たした。石畳の道は頑丈で、現代の道路のモデルとなった。こうした都市計画は、ローマの効率性と美意識を反映し、現在の都市建設にも影響を与えている。
第5章 五賢帝時代 — 平和と繁栄の黄金期
トラヤヌス — 帝国の領土を最大に広げた男
トラヤヌスはローマ帝国の領土を最大に広げた皇帝として知られる。彼はダキア戦争で現在のルーマニアを征服し、その富をローマに持ち帰った。この資金で「トラヤヌスの市場」や「トラヤヌスのフォルム」といった壮大な建築物が建設され、市民生活を豊かにした。また、東方ではパルティアとの戦争に勝利し、メソポタミアまで領土を拡大した。彼の統治は、ローマが単なる地中海帝国から世界的な大国へと進化する転換点となった。トラヤヌスの時代、ローマ市民はかつてない繁栄を享受したのである。
ハドリアヌス — 防衛にシフトした革新的な皇帝
トラヤヌスの後を継いだハドリアヌスは、領土拡大よりも帝国の防衛に注力した。彼は「ハドリアヌスの長城」を築き、ブリタニア北部の境界を守る堅固な防御線を作り上げた。また、帝国内を精力的に巡行し、各地のインフラ整備や統治体制を強化した。その一環で彼はアテネに壮麗な建築物を建設し、ローマ文化とギリシャ文化の融合を促進した。ハドリアヌスの時代には、帝国の安定と文化の成熟が大きく進んだ。彼の慎重かつ革新的な政策は、五賢帝時代の基盤をさらに強化した。
アントニヌス・ピウス — 平和を守った静かな英雄
アントニヌス・ピウスは、平和と繁栄を維持した皇帝として歴史に名を刻んだ。彼の治世には大規模な戦争が一度も起きず、「パクス・ロマーナ(ローマの平和)」の理念を実現させた。アントニヌスは法制度を整備し、特に奴隷の権利を保護する法律を制定した。また、各地に公共施設を建設し、教育や医療の発展に尽力した。彼の静かな統治は目立たないが、帝国全体に安定をもたらした。アントニヌスは平和の中で社会をより良い方向へ導いた「静かな英雄」であった。
五賢帝時代がもたらした黄金期の意味
五賢帝時代は、ローマ帝国が最も安定し、繁栄した時期であった。軍事的には防衛政策が強化され、経済的には交易路が整備され、文化的にはローマと各地の文化が融合した。この時代に築かれた法律やインフラは、後の世代にも受け継がれた。また、皇帝たちが権力を乱用せず、民衆の福祉に尽くしたことで、帝国全体に信頼感が広がった。五賢帝時代は、ローマの黄金期そのものであり、世界史上でも稀に見る成功の物語として輝き続けている。
第6章 帝国内部の変容 — 危機と改革
3世紀の危機 — ローマ帝国の暗黒時代
ローマ帝国は3世紀に深刻な危機に直面した。皇帝の暗殺や内乱が続き、わずか50年間で20人以上の皇帝が交代する「軍人皇帝時代」が訪れた。さらに、ゲルマン人やサーサーン朝ペルシアの侵入が帝国の国境を脅かし、経済も通貨の価値が暴落するインフレに苦しんだ。都市は荒廃し、農業生産も低下した。このような混乱の中で、ローマは一度は崩壊の危機に瀕するが、後の改革を通じて復活への兆しを見せる。この時期は、帝国の生存本能が試される重要な転換点であった。
ディオクレティアヌスの改革 — 帝国再建の第一歩
ディオクレティアヌス帝は、混乱に終止符を打つべく一連の改革を行った。彼は統治の効率化を目指し、帝国を東西に分割し、4人の皇帝による「四分統治」を導入した。また、経済安定のために物価や賃金の上限を定めた「最大価格令」を発布し、税制改革で財政基盤を強化した。軍事面では国境防衛を強化し、帝国内の秩序回復を図った。彼の改革は短期的な効果を上げたが、長期的には東西分裂の種をまくことにもなった。それでも彼の時代に帝国の再建が始まったことは疑いようがない。
帝国内の社会変容 — 新たなローマの姿
3世紀の危機は、ローマ社会を大きく変容させた。都市から農村への人口流出が進み、地方経済が中心となった。また、かつて自由だった農民が、大地主の保護を受ける代わりに土地に縛られる「コロヌス」として固定化された。この制度は、後の封建制の萌芽といえる変化をもたらした。一方で、皇帝崇拝が進み、皇帝は神聖視される存在となった。このような変化の中で、ローマは古代から中世へと徐々に形を変えていった。危機を乗り越えるための社会の適応力がここに見られる。
危機と改革が残した教訓
3世紀の危機とその後の改革は、ローマ帝国の強靭さを証明した。混乱の中で、多くの領土を維持しつつ復興を果たしたことは驚異的であった。また、この時期に導入された制度や改革は、東ローマ帝国の安定にもつながり、後世のヨーロッパ世界に影響を与えた。しかし、この時代は同時に、帝国の分裂と変容の始まりでもあった。危機の時代は、ローマを一つの形にとどまらせず、進化を強いる契機となったのである。この経験は、歴史の中で逆境が変化の原動力となる好例である。
第7章 キリスト教の台頭と宗教的転換
ミラノ勅令 — 信仰の自由をもたらした革命
313年、コンスタンティヌス帝が発布したミラノ勅令は、キリスト教徒への迫害を終わらせ、信仰の自由を帝国内に広げた。この画期的な政策は、長らく地下に潜んでいたキリスト教徒に日の目を見せ、彼らが公に礼拝を行うことを許した。ミラノ勅令によってキリスト教は他の宗教と同等の扱いを受けるようになり、ローマ社会に溶け込む道が開かれた。この決断は単なる宗教政策の変更ではなく、帝国の文化やアイデンティティを根本的に変える第一歩となった。
コンスタンティヌス帝と新しいローマの姿
コンスタンティヌス帝は、キリスト教を保護するだけでなく、帝国全体の宗教的風景を一変させた人物である。彼は東方の都市ビザンティウムを改名し、コンスタンティノープルとして帝国の新たな首都とした。ここではキリスト教会が建設され、ローマの伝統的な多神教と並んでキリスト教が重要な役割を果たした。彼自身の改宗と死の直前の洗礼は、キリスト教がローマ帝国の公式宗教へと進む道筋を象徴する出来事であった。新しいローマは、古い価値観を維持しつつも新しい信仰を取り込む柔軟さを示した。
ニカイア公会議と信仰の統一
325年、コンスタンティヌス帝はニカイア公会議を招集し、キリスト教の教義統一を目指した。この会議では、「イエスは神の子である」という正統派の信仰が確認され、アリウス派と呼ばれる異端の思想が退けられた。また、「ニカイア信条」という基本的な信仰告白が制定され、キリスト教徒の間での一致が図られた。これにより、キリスト教は単なる宗教ではなく、帝国全体を結束させる力を持つ存在へと変貌した。この出来事は、宗教が政治や文化と深く結びついていく過程の始まりを示している。
キリスト教の国家宗教化がもたらした影響
キリスト教が国家宗教として認められたことで、ローマ帝国は精神的にも文化的にも変化を遂げた。テオドシウス帝の勅令により、392年にはキリスト教以外の信仰が禁止され、帝国の宗教的アイデンティティが確立された。多神教の神殿は破壊され、その跡地には壮大な教会が建てられた。一方で、キリスト教の教義は法律や政治にも影響を与え、人々の生活全般に深く浸透した。宗教の力は、ローマ帝国を結束させる糸であると同時に、新たな対立や調整をも生み出す原動力となった。
第8章 東西分裂とローマ帝国の終焉
テオドシウス帝の決断と分裂の始まり
テオドシウス帝はローマ帝国の最後の統一皇帝であったが、彼の死後395年、帝国は東西に分割された。彼の息子たち、アルカディウスとホノリウスにそれぞれ東ローマ帝国と西ローマ帝国が引き継がれた。この分裂は、一時的な措置と見られていたが、実際には永続的なものとなった。東ローマは豊かな経済と強固な首都コンスタンティノープルを中心に繁栄した一方で、西ローマは内部の混乱と外部からの圧力に苦しんだ。この分裂は、帝国全体の衰退を象徴する出来事であり、ローマの歴史を新たな局面へと導いた。
ゲルマン民族の侵入 — 西ローマの危機
西ローマ帝国は、北方から押し寄せるゲルマン民族の侵入に悩まされた。特に、375年のフン族の圧迫により、西ゴート族などのゲルマン人はローマ領内へ移動し、410年にはアラリック率いる西ゴート族がローマ市を占領した。この「ローマ略奪」は、帝国の無敵神話を打ち砕き、市民に深い衝撃を与えた。続いて、ヴァンダル族が北アフリカを占領し、西ローマの経済基盤を揺るがした。これらの侵入は、ローマの防衛力と統治能力の限界を露呈させ、西ローマの崩壊への道筋を加速させた。
オドアケルの台頭と西ローマ帝国の終焉
476年、ゲルマン人指導者オドアケルが最後の西ローマ皇帝ロムルス・アウグストゥルスを退位させた。この出来事は、一般的に西ローマ帝国の滅亡とされている。オドアケルは自ら皇帝を名乗らず、東ローマ皇帝ゼノンに忠誠を誓う形でイタリアの統治者となった。西ローマの形式的な崩壊後も、ローマ文化や制度はゲルマン諸王国に受け継がれた。しかし、政治的統一が失われたことで、ヨーロッパは分権化と中世の時代へと進んでいくこととなった。この転換点は、世界史における一つの時代の終わりを告げた。
東ローマ帝国の新たな時代
西ローマの崩壊後も、東ローマ帝国(ビザンティン帝国)は約1000年間続いた。強固な防衛拠点コンスタンティノープルと繁栄する交易が帝国の安定を支えた。東ローマは、ローマ法やギリシャ文化を融合させ、新たな形で帝国の伝統を維持した。また、後にユスティニアヌス帝が即位すると、彼は西ローマ領の一部を奪還し、帝国の再統一を試みた。この新たな時代の東ローマは、単なるローマ帝国の名残ではなく、新たな文化と宗教の中心地として、独自の発展を遂げたのである。
第9章 東ローマ帝国とその遺産
ビザンティン帝国の誕生 — 新しいローマの幕開け
西ローマ帝国の崩壊後、東ローマ帝国は「ビザンティン帝国」として新たな時代を迎えた。首都コンスタンティノープルはその壮大さで知られ、ハギア・ソフィア大聖堂のような建築物はその象徴であった。この帝国は、ローマの伝統を維持しつつも、ギリシャ文化とキリスト教を融合させた独自の文明を築いた。ビザンティン帝国は、西ローマの滅亡後も長きにわたり地中海世界の重要な中心地として繁栄した。ここではローマの遺産が新たな形で発展し、未来のヨーロッパに影響を与える基盤が築かれたのである。
ユスティニアヌス帝とローマ法の復活
ユスティニアヌス帝は、ビザンティン帝国の最も偉大な皇帝の一人であり、彼の治世は帝国の頂点とされる。彼は「ユスティニアヌス法典」を編纂し、古代ローマ法を整理・統一して後世に伝えた。また、西ローマ帝国の一部を再征服し、帝国の領土を一時的に拡大させた。ハギア・ソフィアの建設を主導し、宗教と建築の新たな時代を切り開いたことも特筆すべき功績である。彼の政策はビザンティン帝国の文化的・法的基盤を強化し、ヨーロッパ中世の社会構築に深い影響を与えた。
絶え間ない挑戦 — 外敵と内部の課題
ビザンティン帝国は、その存続期間を通じて数多くの外敵と戦った。ペルシア帝国、アラブ軍、さらには十字軍といった勢力が帝国を脅かした。一方で、内部では官僚制の腐敗や経済的不均衡といった課題があった。それでも帝国は巧みな外交と優れた軍事技術で生き残り続けた。「ギリシャ火」と呼ばれる秘密兵器や防衛拠点コンスタンティノープルの頑強な城壁は、その存続を支える要因となった。ビザンティン帝国の歴史は、適応力と存続力の象徴であった。
ビザンティンの遺産 — ヨーロッパとイスラムへの影響
ビザンティン帝国は、単にローマ帝国の後継者というだけでなく、文化的・宗教的な橋渡し役としての重要性を持っていた。東方正教会は、ビザンティン帝国を中心に発展し、スラブ圏に広がった。また、イスラム世界とも学問や貿易を通じて交流し、ギリシャ哲学や科学の知識を伝える役割を果たした。その遺産はルネサンスや東欧の文化にまで影響を及ぼし、現代にもその影響が続いている。ビザンティン帝国は、ローマの遺産を未来へつなぐ架け橋であったといえる。
第10章 ローマ文明の遺産 — 現代への影響
ラテン語 — ヨーロッパの共通言語の基礎
ローマ帝国がもたらした最も重要な文化遺産の一つがラテン語である。ラテン語は、ローマの行政、文学、科学の基盤として使用され、帝国崩壊後もヨーロッパ中世の学問や宗教の中心にあった。この言語は、フランス語、スペイン語、イタリア語などのロマンス諸語の母体となり、英語などにも多大な影響を与えた。さらに、医学や法律の用語として現代まで存続している。ラテン語の普遍性は、ローマが築いた文化の結束力を物語っている。それは、単なる言葉以上の、文明の共有財産であった。
建築と技術 — ローマの永続的なデザイン
ローマの建築技術は、現代の都市設計に多大な影響を与えた。コロッセウムやパンテオンに代表される建築物は、アーチやコンクリートを駆使した革新的な設計で知られる。さらに、水道橋や道路網といったインフラは、都市の生活を効率的かつ快適にするモデルを示した。これらの技術は、産業革命以降の都市建設やインフラ整備に応用されている。ローマの建築物はその耐久性と美しさで驚嘆され続け、歴史的なランドマークとして観光客を惹きつけている。
法の理念 — 公平と正義の基盤
ローマ法は、現代の法体系の礎を築いた。ユスティニアヌス法典をはじめとするローマ法の原則は、法の普遍性、公平性、正義の重要性を示した。この考え方は、後のヨーロッパ各国の法制度に組み込まれ、現在の民法や国際法の基盤となっている。特に、「罪を犯していない者は無罪とされるべき」という無罪推定の原則は、ローマ法の遺産である。法律を通じて社会の秩序を築くという理念は、ローマが私たちに残した最も重要な教訓の一つである。
ローマ文明の普遍性 — 未来への架け橋
ローマ文明は、地理的な境界を超えて普遍的な価値を共有する力を持っていた。それは、宗教、文化、技術、法律などの多岐にわたり、現代社会の基盤として影響を及ぼしている。ローマが生み出した「市民」という概念は、個人の権利と社会的責任を結びつけるものであり、民主主義の理念と共鳴している。歴史を超えて残り続けるローマの遺産は、文明の未来を考える際に不可欠な指針である。ローマは過去の遺物ではなく、現在と未来に生き続ける文化の柱なのだ。