基礎知識
- アヴェスターとは何か
『アヴェスター』はゾロアスター教の聖典であり、古代イラン世界の宗教、文化、歴史に関する重要な資料である。 - 成立時期と言語
『アヴェスター』は紀元前1000年頃から口伝され、最終的にサーサーン朝時代(3~7世紀)に編纂され、アヴェスター語で書かれた。 - 構成と内容
『アヴェスター』は『ヤスナ』『ヤシュト』『ヴィーデーウダート』など複数の書から成り、祭儀、神話、律法などが記されている。 - 歴史的背景と影響
『アヴェスター』の思想はアケメネス朝、サーサーン朝の政治・社会構造に影響を与え、後のイスラム世界や西洋哲学にも影響を及ぼした。 - 伝承と散逸の歴史
アレクサンドロス大王の侵攻による焼失やイスラム時代の弾圧を経て、多くの部分が失われたが、パフラヴィー語文献やインド・パールシー共同体により一部が伝えられた。
第1章 神聖なる書の起源—アヴェスターとは何か
炎の言葉—アヴェスターの始まり
アヴェスターは、炎とともに語られた。古代イランの祭司たちは、聖なる火を灯しながら、神への賛歌を詠唱した。これは単なる儀式ではなく、宇宙の真理を伝える神聖な言葉であった。紀元前1000年頃、ゾロアスター教の開祖ザラスシュトラ(ゾロアスター)が神アフラ・マズダーの啓示を受け、人類に善と悪の戦いを説いた。彼の教えは世代を超えて口承され、やがて文字として記される。しかし、アヴェスターは長い歴史の中で何度も散逸し、再編された。この書がどのように伝えられたのかを知ることは、歴史の神秘に迫ることに他ならない。
消えた聖典—歴史に翻弄されたアヴェスター
アヴェスターの運命は波乱に満ちていた。最初に書かれた完全なアヴェスターは、アケメネス朝時代(紀元前6~4世紀)には王たちによって保護されていた。しかし、紀元前330年、アレクサンドロス大王がペルセポリスを焼き払ったとき、多くの文書とともにアヴェスターの大部分が失われた。その後、ゾロアスター教の聖職者たちは、散逸した経典を記憶し、再び編纂しようと試みる。サーサーン朝(3~7世紀)に至り、王ホスロー1世の命によって正式な形で記録され、ようやく安定を取り戻した。しかし、アヴェスターの完全な姿はすでに失われており、我々が知るアヴェスターは、その一部にすぎない。
言葉の力—アヴェスター語の謎
アヴェスターが記された言語は、現代のイラン人が話すペルシア語とは異なる。アヴェスター語はインド・ヨーロッパ語族に属し、古代インドのサンスクリット語と深い関係がある。ヴェーダ聖典とアヴェスターには類似点が多く、ゾロアスター教とヒンドゥー教の神話的起源が共通していることを示している。19世紀、フランスの東洋学者エウジェーヌ・ビュルヌフは、アヴェスター語を解読し、ゾロアスター教の教えを西洋に広めた。アヴェスター語の研究は今も続いており、この神秘的な言葉が語るメッセージを解き明かすことが、人類の歴史を知る鍵となる。
神々の書—アヴェスターがもたらした影響
アヴェスターは宗教書であるだけでなく、古代イランの政治や法律にも大きな影響を与えた。アケメネス朝の王ダレイオス1世は、「正しき信仰のもとに統治する」と宣言し、ゾロアスター教の善悪二元論を国家統治に応用した。サーサーン朝時代には、アヴェスターを基にした法律が整備され、宗教と政治が一体化した。この思想はイスラム時代にも受け継がれ、さらには西洋の哲学や神秘主義にも影響を及ぼした。アヴェスターは、単なる聖典ではなく、人類の歴史を形作った知の遺産なのである。
第2章 古代イラン世界とアヴェスターの成立
遊牧民の足跡—アーリア人の移動
古代イランの大地に最初に足を踏み入れたのは、広大なステップ地帯を渡り歩いたアーリア人である。彼らは紀元前2000年頃、中央アジアから南下し、現在のイラン高原へと進んだ。彼らの文化は、戦車を駆る騎馬戦士の伝統を持ち、天と大地を司る神々を崇拝していた。この民族大移動の波は、インドにも及び、リグ・ヴェーダの聖典に名を残すインド・アーリア人とも共通のルーツを持っていた。やがて彼らはゾロアスター教という新たな信仰を生み出し、アヴェスターの言葉が形を成すことになる。
神々と英雄たち—口承伝統の始まり
アヴェスターが文字として記録される以前、古代イランの人々は語り部を通じて神話や歴史を伝えていた。焚火を囲む夜、長老たちはアフラ・マズダーの創造、英雄イマの黄金時代、悪神アーリマンとの戦いを語った。こうした口承伝統はインドのヴェーダ文献と類似し、吟遊詩人が詩を通じて神々の物語を継承する文化が共通していた。ザラスシュトラが神の啓示を受けたとされる時代、この口承伝統は新たな形をとり、のちに書物として編纂される下地を作ったのである。
信仰の革命—ゾロアスター教の誕生
アヴェスターの成立には、ザラスシュトラという一人の預言者の存在が欠かせない。彼は紀元前1000年頃にイラン高原で活動し、既存の多神教に対して善と悪の二元論を説いた。アフラ・マズダーを唯一神とし、正義と真理に従うことを人々に訴えた。この思想は革命的であり、従来の神々の権威を否定するものであった。最初は受け入れられなかったが、バクトリア地方の王ヴィシュタースパの庇護を受けることで信仰が広まり、アヴェスターの基盤が築かれたのである。
文字を刻む時代—アヴェスターの記録
長らく口伝されてきたアヴェスターの言葉は、アケメネス朝時代には楔形文字で書かれた形跡があるが、確実な記録が残るのはサーサーン朝時代になってからである。王ホスロー1世の命により、祭司階級であるマギたちがバフレヴィー文字を用いてアヴェスターを編纂した。しかし、完全な形での記録は叶わず、多くの部分が失われた。それでも現存するアヴェスターは、ゾロアスター教徒の信仰の核として今なお息づいている。この書がどのように生まれ、歴史に刻まれていったのかを知ることは、古代文明の知恵を紐解くことにほかならない。
第3章 アヴェスター語とその解読
失われた言葉—アヴェスター語の謎
アヴェスター語は、まるで古代からの暗号のように、長い間誰にも読まれずに眠っていた。この言語はインド・ヨーロッパ語族に属し、サンスクリット語と兄弟関係にある。しかし、現在のペルシア語とは異なり、紀元前1000年頃に話されていた古い形の言語である。長らく口承されていたため、文法や発音は正確には分かっていない。ゾロアスター教の祭司たちだけが理解できる特別な言葉とされ、一般の人々には神聖な響きを持つ神の言葉として伝えられた。
失われた文字を追え—解読への挑戦
19世紀、フランスの東洋学者エウジェーヌ・ビュルヌフは、アヴェスター語の解読に挑んだ。彼はサンスクリット語と比較しながら、アヴェスター語の単語や文法を一つひとつ解き明かしていった。この研究により、アヴェスター語がゾロアスター教の経典を記すための独自の文法体系を持っていたことが判明した。さらに、サーサーン朝時代にはアヴェスター語がすでに日常言語としては使われなくなり、祭司たちがバフレヴィー語を用いて注釈を加えていたことも明らかになった。
文字の迷宮—書記体系の変遷
アヴェスター語の書記体系は複雑である。最初はアケメネス朝の楔形文字で書かれた可能性があるが、確証はない。サーサーン朝時代には、アヴェスター独自のアルファベットが確立され、現在知られるアヴェスター文字が使用された。この文字体系は、後にアラビア文字が普及するまでイランの宗教文書に用いられた。驚くべきことに、この古代の文字は現在でもゾロアスター教の儀式の中で唱えられることで、かろうじて生き続けているのである。
古代の言葉を現代へ—アヴェスター語研究の最前線
現代の学者たちは、デジタル技術を駆使し、アヴェスター語の研究を進めている。近年、人工知能を用いた言語解析により、従来の解釈が見直されつつある。イランやインドのゾロアスター教徒たちは、この言葉を守り続けようと努力している。かつて失われたと思われたアヴェスター語は、21世紀に新たな光を浴び、再び解読される時を迎えつつある。古代の言葉が、未来の人類にどのようなメッセージを残すのか、それを知ることができるのは、私たちの世代かもしれない。
第4章 アヴェスターの構成—多様なテキスト群
聖なる言葉の集大成—アヴェスターの全体像
アヴェスターは単一の書ではない。それは、神々への賛歌、儀式の手引き、道徳の規範、さらには悪を退ける呪文までも含んだ、多層的なテキスト群である。サーサーン朝時代に正式に編纂されたアヴェスターは、もともとは21の書(ナスカ)から構成されていたとされるが、現在残っているのはその一部に過ぎない。それでも『ヤスナ』『ヤシュト』『ヴィーデーウダート』などの書は、ゾロアスター教徒にとって神聖であり、古代イランの宗教観を知る上で欠かせないものである。
神への賛歌—『ヤスナ』とガーサーの詩
アヴェスターの中核をなすのが『ヤスナ』である。これは、ゾロアスター教の最も重要な儀式に用いられるテキストであり、アフラ・マズダーへの賛歌が収められている。その中には「ガーサー」と呼ばれる詩篇が含まれており、これはゾロアスター教の開祖ザラスシュトラ自身が詠んだと伝えられる。ガーサーは、善と悪の戦い、正義の道を歩む者の心得、そして宇宙の調和について語る。紀元前1000年頃の言葉が今も受け継がれていること自体、アヴェスターの神聖さを物語っている。
神話と英雄たち—『ヤシュト』に刻まれた伝説
『ヤシュト』は、ゾロアスター教の神々や英雄たちを称える壮大な詩のコレクションである。ここには、アフラ・マズダーをはじめとする善の神々、戦士の守護神ミスラ、豊穣の女神アナーヒター、時間の神ザルヴァンなど、多くの神々の物語が記されている。また、神話の中には、古代イランの王や英雄たちの冒険も描かれ、後の『シャー・ナーメ(王書)』に受け継がれた。これらの詩を通じて、ゾロアスター教の世界観と古代イランの信仰が鮮明に浮かび上がる。
悪を退ける掟—『ヴィーデーウダート』の戒律
『ヴィーデーウダート』は、ゾロアスター教における宗教法と浄化の規範を記した書である。この中では、死体の扱い、悪霊(デーヴァ)を祓う方法、清浄な生き方などが詳細に定められている。ゾロアスター教徒にとって、悪とは実在する脅威であり、これを避けるための具体的な戒律が必要であった。たとえば、死者を土に埋めることは大地を汚す行為とされ、代わりに「沈黙の塔」で鳥に葬られる儀礼が生まれた。『ヴィーデーウダート』は、宗教と日常生活が密接に結びついていたことを示している。
第5章 神話と宇宙観—アヴェスターが描く世界
光と闇の戦い—善悪二元論の誕生
アヴェスターが描く世界は、光と闇が永遠に戦い続ける場である。最高神アフラ・マズダーは光の創造主であり、真理(アシャ)を司る存在である。一方、その宿敵アーリマン(アンラ・マンユ)は闇と虚偽(ドルジュ)の化身であり、世界を混乱に陥れる。ゾロアスター教では、人間はこの壮大な戦いの中で善を選び、アフラ・マズダーの側につく使命を持つ。善悪の対立は単なる宗教的概念ではなく、後のユダヤ教、キリスト教、イスラム教にも影響を与えた。
時間の支配者—ザルヴァンの謎
善と悪の戦いの背後には、時間の神ザルヴァンの存在がある。ザルヴァンは、アフラ・マズダーとアーリマンの父とされ、彼の決断が世界の運命を決めた。ある神話によれば、ザルヴァンは完全なる善の子を望んだが、疑念を抱いた瞬間、アーリマンが生まれてしまった。こうして、宇宙は善と悪の均衡のもとに動き始めた。ザルヴァンの神話は、のちに時間と運命を支配する思想へと発展し、イスラムの神秘主義にも影響を残した。
天界と冥界—死後の世界の構造
アヴェスターでは、死後の魂は「チンワト橋」と呼ばれる審判の橋を渡るとされる。この橋は、正しい者には広く、美しい道となり、邪悪な者には細く険しくなる。正しき魂は光に包まれた楽園「ガルデマン」へと導かれ、悪しき魂は暗黒の奈落へと落ちる。審判の際、人の行いは天秤にかけられ、善の言葉・思考・行為が重ければ救済される。この死後の世界観は、のちのイスラム教の天国と地獄の概念にも影響を与えた。
最後の審判—世界の終焉と再生
アヴェスターは、世界には終わりがあり、最後の審判が訪れると説く。終末には、救世主「サオシュヤント」が現れ、死者を蘇らせ、最終決戦が行われる。アフラ・マズダーの光が世界を包み、悪は完全に滅びる。すると、大地は清められ、人類は不死となる。この終末思想は、ゾロアスター教独自のものではなく、ユダヤ教のメシア思想やキリスト教の最終審判にも影響を与えた。アヴェスターの宇宙観は、単なる神話ではなく、人類の未来への希望を示す預言なのである。
第6章 アヴェスターと法—ヴィーデーウダートの世界
神の掟—アヴェスターの律法とは
アヴェスターの中でも、『ヴィーデーウダート』は、ゾロアスター教の法典としての役割を果たしている。この書は、単なる道徳の指針ではなく、世界の清浄さを守るための具体的な規則を定めたものだ。ゾロアスター教では、宇宙は善なる力アフラ・マズダーと、悪しき力アーリマンの戦場であり、人間の行いがその均衡を左右すると考えられていた。『ヴィーデーウダート』は、善を助け、悪を遠ざけるために、清浄な生き方を細かく規定している。
死と穢れ—死者に触れてはならない理由
『ヴィーデーウダート』の中で最も厳格な規則のひとつが、死者の扱いに関するものである。ゾロアスター教では、死体はアーリマンの力によって穢れたものと考えられ、地に埋めることも、火で焼くことも禁じられていた。その代わりに「沈黙の塔(ダフマ)」と呼ばれる円形の塔に死者を運び、ハゲワシに委ねる風葬が行われた。これにより、大地や火といった神聖なものが汚されることなく、宇宙の秩序が保たれると信じられていた。
悪霊を祓う—呪文と浄化の儀式
ゾロアスター教では、悪霊(デーヴァ)の存在が現実の脅威とみなされていた。『ヴィーデーウダート』には、悪しき力を退けるための呪文や儀式が詳しく記されている。たとえば、聖水(ゾート)を用いた浄化の儀式や、火を灯し聖なる言葉を唱えることで悪を封じ込める方法がある。また、不浄な行為をした者は、特定の清めの儀式を受けなければならず、その過程は厳格なものであった。これらの儀式は、宗教的な意味だけでなく、社会秩序の維持にも貢献していた。
倫理と罰—正しき行いへの報い
『ヴィーデーウダート』には、犯罪や不正行為に対する厳格な罰則も記されている。嘘をつくこと、契約を破ること、不浄な行為をすることは、アフラ・マズダーの秩序に反する罪とされ、償いが求められた。たとえば、不道徳な行為をした者には長期間の労働が課されることがあり、悪しき行いを清めるためには特定の祈りを何千回も唱えなければならないこともあった。こうした倫理観は、のちにゾロアスター教徒の社会規範となり、イラン世界の法体系に影響を与えたのである。
第7章 歴史の波に翻弄された聖典—散逸と再編の歴史
炎に消えた書—アレクサンドロスの侵攻
紀元前330年、アレクサンドロス大王がペルシャの首都ペルセポリスを征服したとき、アヴェスターの運命も大きく変わった。ギリシャ軍は都市を焼き払い、その炎の中でアヴェスターの原本が消えたと伝えられる。この聖典は、当時アケメネス朝の宮廷で保管されていたが、征服者の手によって跡形もなくなったのである。祭司たちは失われた言葉を口承で守り続けたが、完全な形での復元は不可能となり、アヴェスターは歴史の闇に埋もれてしまった。
復活への試み—サーサーン朝の再編
アヴェスターを再び書物の形に戻そうとしたのが、3世紀に興ったサーサーン朝の王たちである。ゾロアスター教を国教と定めたアルダシール1世のもとで、祭司たちは失われた聖典を再編する作業を開始した。特に、ホスロー1世の時代には、各地に散逸していた教えを集め、バフレヴィー語の注釈を加えながら整理された。しかし、この再編は完全ではなく、もともと21巻あったとされるアヴェスターのうち、現存するのはごく一部である。
異教の時代—イスラム支配と迫害
7世紀、アラブのイスラム勢力がペルシャを征服すると、ゾロアスター教は次第に衰退した。イスラム法のもとで異教徒として扱われたゾロアスター教徒たちは、迫害や改宗の圧力にさらされ、多くの祭司が殺害されるか、国外へ逃れた。アヴェスターもまた、イスラム統治の中で抑圧され、書物としての伝統は弱まっていった。しかし、一部の信徒たちはインドへ逃れ、「パールシー」としてゾロアスター教を守り続けた。彼らによって、アヴェスターの断片は未来へと受け継がれることとなる。
失われた書の再発見—近代の研究と復興
19世紀、ヨーロッパの学者たちはアヴェスターの研究に乗り出した。フランスの東洋学者エウジェーヌ・ビュルヌフやドイツの学者マルティン・ハウグらが、パールシー共同体に残されていたアヴェスターの写本を研究し、初めて西洋で翻訳を試みた。これにより、長らく忘れられていたゾロアスター教の教えが再び世界の知識体系に組み込まれた。現在でも研究は進められており、デジタル技術を用いたアヴェスターの復元作業が続けられている。
第8章 サーサーン朝とアヴェスター—王権との結びつき
帝国の守護神—ゾロアスター教の国教化
3世紀、サーサーン朝の創始者アルダシール1世は、ゾロアスター教を帝国の正式な宗教と定めた。それまで多様な信仰が混在していたペルシャは、この政策によって宗教的統一を図った。ゾロアスター教の最高神アフラ・マズダーは、王権の正統性を保証する存在とされ、王の支配は神の意志によるものとされた。これにより、王権と宗教が結びつき、アヴェスターは国家の柱となる書物へと昇華した。帝国の安定は、神の掟に従うことによって保たれると考えられたのである。
祭司たちの力—マギの台頭
サーサーン朝では、宗教を管理する祭司階級「マギ」が強大な権力を持った。彼らはアヴェスターの解釈を独占し、王の即位儀礼や国家の宗教政策を主導した。特にカーテルという高僧は、異教徒への弾圧を推進し、ゾロアスター教の影響力を拡大した。彼の指導のもと、異教の神殿が破壊され、ゾロアスター教の寺院「アタシュカダ」が各地に建設された。こうして宗教と政治は一体化し、王国の支配体制を強固なものとした。
法と統治—アヴェスターが築いた国家
サーサーン朝の法律体系は、アヴェスターの教えに基づいて整備された。『ヴィーデーウダート』に記された浄化法は公的な法律として適用され、裁判においても宗教的な倫理観が重視された。また、税制や労働制度も宗教的な義務として定められ、王の政策はアヴェスターの原則に沿って決められた。国家の秩序は、アフラ・マズダーの正義によって維持されるべきであり、王は神の代理人として国を治める存在と考えられたのである。
光の消滅—帝国の終焉と宗教の衰退
7世紀、サーサーン朝はイスラム勢力の侵攻を受け、最後の王ヤズデギルド3世は逃亡の末に殺害された。これにより、ゾロアスター教の国家宗教としての地位は失われ、アヴェスターの影響力も急速に衰えていった。イスラム教が広まる中で、多くのゾロアスター教徒は迫害を受け、信仰を守るためにインドへ移住した。彼らは「パールシー」としてゾロアスター教を受け継いだが、かつて帝国の柱であったアヴェスターは、歴史の舞台から姿を消すこととなった。
第9章 アヴェスターの遺産—後世への影響
光と影の哲学—ゾロアスター教が与えた思想的影響
アヴェスターが築いた「善と悪の二元論」は、後の宗教や哲学に深い影響を与えた。ゾロアスター教の宇宙観では、光と闇、真実と虚偽が永遠に戦いを繰り広げる。この思想は、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教の天使と悪魔の概念に結びつき、善悪の対立という枠組みを生んだ。また、グノーシス主義やマニ教といった宗教運動にも受け継がれた。さらには、西洋哲学においても、光と闇の対立がプラトンやアウグスティヌスの思想に影響を与えている。
神秘の炎—スーフィズムへの影響
イスラムが広まる中で、ゾロアスター教の影響は消えたわけではなかった。イスラム神秘主義(スーフィズム)には、アヴェスターの宇宙観や儀式が影響を与えたとされる。スーフィズムの詩人ルーミーやハーフィズの詩には、光と神の一体化というゾロアスター的な考えが見られる。ゾロアスター教における聖なる炎の象徴は、スーフィズムにおける「神の愛の炎」として解釈され、内面的な浄化や真理への到達と結びついていったのである。
西洋の精神世界へ—ニーチェとゾロアスター
19世紀、ドイツの哲学者フリードリヒ・ニーチェは、自らの哲学書『ツァラトゥストラはこう語った』において、ゾロアスター(ツァラトゥストラ)を主人公とした。ニーチェは、従来の道徳を超えた新たな価値観を創造する思想を展開し、ゾロアスターを象徴的な存在として描いた。彼はアヴェスターの教えそのものを踏襲したわけではないが、その名を借りることで、人類の価値観の転換を示唆した。こうして、アヴェスターは近代哲学にも影響を与えることとなった。
現代に生きるアヴェスター—文化とポップカルチャー
アヴェスターの影響は、宗教や哲学にとどまらない。例えば、ジョージ・R・R・マーティンの『氷と炎の歌』やJ.R.R.トールキンの『指輪物語』に見られる善と悪の戦いは、ゾロアスター教的な二元論に通じる。また、ペルシャの伝統的な祭り「チャールシャムベ・スーリー」では、火を飛び越える儀式が今も行われており、アヴェスターに記された炎信仰が息づいている。アヴェスターの遺産は、時代を超えてなお、人々の思想と文化の中に生き続けているのである。
第10章 現代に生きるアヴェスター—研究と信仰の現在
学問の新たな光—アヴェスター研究の進展
現代の学者たちは、古代の知恵を蘇らせるためにアヴェスターの研究を続けている。19世紀にフランスの東洋学者エウジェーヌ・ビュルヌフが初めて翻訳して以来、アヴェスター語の解読は進み、現在ではデジタル技術を用いた言語解析も行われている。オックスフォード大学やハーバード大学の研究機関では、アヴェスターの文献を精査し、ゾロアスター教の思想が他の宗教や哲学に与えた影響を探求している。失われた言葉を再構築する作業は、今も続いている。
信仰の継承者たち—パールシー共同体の役割
アヴェスターの教えを守り続けてきたのが、インドのパールシー共同体である。彼らは7世紀にイスラム勢力の迫害を逃れ、グジャラート地方に移住し、ゾロアスター教の伝統を維持してきた。現在、ムンバイにはゾロアスター教徒専用の火の神殿「アタシュ・ベーラム」があり、聖なる炎は絶えることなく燃え続けている。しかし、信者数の減少が問題視されており、若い世代に信仰を継承する方法が模索されている。
復興の兆し—イランでのゾロアスター教の再興
近年、イラン国内でもゾロアスター教の復興の動きが見られる。イスラム革命以降、厳しい制約の中で信仰を守り続けてきたイランのゾロアスター教徒たちは、近年、公の場での祭祀や文化的イベントを開催するようになった。ヤズドやケルマーンといった都市では、ゾロアスター教徒の祭典「サデ祭」や「ノウルーズ(ペルシャ新年)」が盛大に祝われ、アヴェスターに記された伝統が再び人々の生活の中で息づいている。
未来へ続く言葉—アヴェスターの意義
アヴェスターは単なる歴史の遺物ではなく、現代に生きる知の宝庫である。環境倫理、善悪の概念、宇宙の秩序といったテーマは、現代社会にも通じる普遍的な価値を持つ。世界各地でゾロアスター教に関心を持つ人々が増え、オンラインを通じてアヴェスターの教えを学ぶ機会も広がっている。かつて口承で伝えられた言葉は、今やデジタルの世界で新たな形を持ち、未来へと受け継がれようとしている。