第1章: 内戦とは何か
内戦の定義とその歴史的意義
内戦とは、一つの国家内で起こる戦争である。同じ国の住民同士が武力を用いて対立し、政府や支配者に対して反乱を起こすことが主な特徴である。内戦は古代ローマ時代から現代に至るまで、歴史上多くの国々で発生してきた。例えば、古代ローマでは紀元前49年にユリウス・カエサルとポンペイウスの間で内戦が勃発した。この戦争はローマ共和国の終焉をもたらし、帝政ローマの幕開けを告げる重要な出来事となった。内戦は、政治、経済、宗教など様々な要因によって引き起こされ、その結果として国家の体制や社会構造に大きな変化をもたらすことが多い。
内戦と他の紛争の違い
内戦は国際戦争とは異なり、国家内部の対立に焦点を当てる。国際戦争は異なる国家間での戦争であるのに対し、内戦は同一国家内での対立であり、地域社会や国民全体に深刻な影響を及ぼすことが特徴である。内戦は往々にして民族、宗教、政治的信念などの違いが根本的な原因となる。例えば、アメリカの南北戦争は奴隷制度を巡る北部と南部の対立が原因であった。この内戦はアメリカ社会を二分し、最終的には奴隷制度の廃止と国家の再統一をもたらした。内戦は国家の内部で発生するため、住民の日常生活に直接的な影響を与える点でも特異的である。
内戦の原因と要因
内戦の原因は複雑で多岐にわたるが、大きく分けて政治的、経済的、社会的要因が挙げられる。政治的要因としては、権力闘争や政治的抑圧が主な原因である。経済的要因としては、貧困や経済的不平等が挙げられる。例えば、ロシア革命は貧困と社会的不平等が原因となり、ボリシェヴィキが権力を掌握することとなった。社会的要因としては、民族や宗教の対立が内戦の引き金となることが多い。ルワンダ内戦は、フツ族とツチ族の民族対立が原因で発生し、甚大な被害をもたらした。これらの要因が絡み合い、内戦は発生する。
内戦の歴史的背景
内戦の歴史は古く、その影響は現代にも及んでいる。例えば、中国の三国志時代は、後漢末期から三国時代にかけての内戦が背景にあり、この時代の戦乱は後の中国史に大きな影響を与えた。中世ヨーロッパでも、封建制度の崩壊や宗教改革が内戦の原因となり、社会の大きな変革を促した。内戦は一時的な混乱を引き起こすが、その結果として新たな政治体制や社会秩序が生まれることがある。歴史を通じて内戦は国家や社会の進化の一部として位置づけられており、その研究は現代の紛争解決にも重要な示唆を与える。
第2章: 古代から中世の内戦
ローマ帝国の内戦:権力闘争の舞台
ローマ帝国は数々の内戦を経験してきたが、その中でも最も有名なのは紀元前49年に始まるカエサルとポンペイウスの対立である。カエサルはガリア遠征での勝利により大きな支持を得ていたが、元老院は彼の権力を恐れた。ポンペイウス率いる元老院派との間で勃発した内戦は、ローマ全土を巻き込み、カエサルが最終的に勝利を収めた。この戦争は、ローマ共和国の終焉を意味し、カエサルの暗殺後、アウグストゥスによるローマ帝国の誕生へとつながった。カエサルの後継者争いもまた内戦を引き起こし、ローマの歴史に大きな影響を与えた。
三国志:戦乱の中国
中国の三国志時代は、後漢末期から三国時代にかけての激動の時代である。曹操、孫権、劉備という三大勢力が中国全土を巡って争った。この内戦のきっかけは、黄巾の乱という農民反乱に端を発する。乱が鎮圧された後も、軍閥同士の権力争いが続き、曹操は北方を統一し、劉備と孫権はそれぞれ西南と南東に拠点を築いた。赤壁の戦いは三国時代の幕開けを象徴する大きな戦闘であり、魏、呉、蜀の三国が成立した。この時代の物語は、後の中国文化や文学に多大な影響を与えた。
中世ヨーロッパの内戦:封建社会の乱
中世ヨーロッパでは、封建制度の中での権力闘争が内戦を引き起こした。イギリスのバラ戦争は、ランカスター家とヨーク家という二つの貴族家の間で繰り広げられた内戦である。この戦争は1455年から1487年まで続き、両家は王位を巡って熾烈な戦いを繰り広げた。最終的にはヘンリー・テューダー(ヘンリー7世)が勝利し、テューダー朝が成立した。バラ戦争はイギリス社会に大きな変革をもたらし、中央集権化が進む契機となった。これにより、中世の封建社会から近代国家への移行が始まったのである。
十字軍の影響と内戦
十字軍は、中世ヨーロッパの内戦に間接的な影響を及ぼした。第1回十字軍が聖地エルサレムを奪還した後、ヨーロッパ各地では騎士たちが帰還し、新たな土地や権力を求めて内戦を引き起こした。例えば、フランスではアルビジョア十字軍がカタリ派と呼ばれる異端派を弾圧するために行われたが、これも一種の内戦であった。また、イギリスでは十字軍遠征に参加したリチャード1世が帰国後に捕虜となり、彼の身代金を巡って国内で争いが生じた。十字軍はヨーロッパの政治と社会に深い影響を与え、内戦の一因となった。
第3章: 近代初期の内戦
イングランド内戦:王と議会の激突
イングランド内戦は1642年から1651年にかけて行われ、国王チャールズ1世と議会派の対立がその発端であった。チャールズ1世は絶対王政を志向し、議会を無視して専制的な政策を推進した。これに反発した議会派は、オリバー・クロムウェルの指導のもとで武装蜂起を決意した。両者の対立は激化し、戦闘が全国に広がった。最終的に、議会派が勝利し、チャールズ1世は処刑された。この内戦はイングランドの政治体制に大きな影響を与え、王政廃止と共和制の成立という新たな歴史の幕開けをもたらした。
フランスの宗教戦争:カトリックとプロテスタントの対立
16世紀後半のフランスでは、カトリックとプロテスタント(ユグノー)との間で宗教戦争が勃発した。これらの対立は、宗教改革の影響でフランス国内の宗教的緊張が高まった結果である。1572年のサン・バルテルミの虐殺は、この対立が頂点に達した出来事で、カトリック勢力がプロテスタントを大量虐殺した。内戦は数十年にわたって続き、最終的には1589年に即位したアンリ4世がナントの勅令を発布し、宗教的寛容を推進することで終結を迎えた。フランスの宗教戦争は、宗教的対立が政治と社会に及ぼす影響を示す重要な事例である。
スペイン継承戦争:王位を巡る国際的対立
スペイン継承戦争(1701-1714年)は、スペイン王位を巡る国際的な争いであった。カール2世の死後、スペインの後継者を巡ってフランスのルイ14世と神聖ローマ皇帝レオポルト1世が対立した。フランスは自国の影響力拡大を図り、レオポルト1世はハプスブルク家の権力維持を目指した。戦争はヨーロッパ全土を巻き込み、多くの国々が参戦した。最終的に1713年のユトレヒト条約で和平が成立し、スペインとフランスの同盟は制約された。この戦争は、ヨーロッパの国際関係と勢力均衡に大きな影響を与えた。
王権と議会:新たな政治体制の模索
近代初期の内戦は、王権と議会の対立を浮き彫りにし、新たな政治体制の模索を促した。特にイングランド内戦では、絶対王政と議会制民主主義のどちらが優位に立つかが焦点となった。オリバー・クロムウェルの指導下で成立した共和制は短命に終わったが、王政復古後も議会の権力は増大し続けた。この時代の内戦は、国家の政治体制や統治の在り方を根本的に問い直す契機となり、近代国家の形成に大きな影響を与えた。これらの戦争を通じて、ヨーロッパ各国は新たな政治モデルを模索し続けたのである。
第4章: アメリカの内戦
奴隷制度と経済的対立
アメリカ南北戦争は1861年から1865年まで続いた大規模な内戦であり、その主な原因は奴隷制度と経済的対立であった。北部は工業化が進み、奴隷制を廃止しようとしていた一方、南部は農業を基盤とし、奴隷労働に依存していた。この対立が激化し、南部の州は合衆国からの脱退を宣言し、南部連合を結成した。アブラハム・リンカーン大統領は国家の分裂を防ぐため、戦争に突入する決意を固めた。奴隷制度を巡るこの対立は、アメリカの未来を大きく左右する重要な要素となった。
戦場の英雄たち:主要な戦闘と人物
南北戦争では多くの重要な戦闘と英雄たちが生まれた。最も有名な戦闘の一つは、ゲティスバーグの戦いである。この戦闘は1863年にペンシルベニア州で行われ、北軍の勝利が決定的となった。北軍の指導者であるユリシーズ・グラント将軍は、戦略と勇気で南軍を圧倒した。また、南軍のロバート・E・リー将軍もその軍事的才能で知られている。彼は南部の英雄として崇められたが、最終的には北軍に降伏した。これらの人物たちは戦争の行方を左右し、その後のアメリカ史に深い影響を与えた。
リンカーンの遺産:戦後の復興と社会変革
戦争が終結した後、アメリカは復興と社会変革の時代を迎えた。アブラハム・リンカーン大統領は1863年に奴隷解放宣言を発表し、戦後の再建時期においても奴隷制廃止を進めた。しかし、リンカーンは戦争終結直後に暗殺され、彼の後を継いだアンドリュー・ジョンソン大統領は南部の再建政策に苦慮した。黒人市民の権利向上と南部の経済復興は課題となり、南北戦争後のアメリカは深刻な社会変革の時代に突入した。この時期の政策と出来事は、現代のアメリカ社会の基盤を形作る重要なものであった。
南北戦争の遺産:アメリカの変貌
南北戦争はアメリカの歴史において大きな転機となった。この内戦により、合衆国は国家の統一を維持し、奴隷制度を廃止することができた。しかし、戦争の影響は深く、南部の社会経済は壊滅的な打撃を受けた。戦後の復興は困難を極め、長い時間を要した。戦争はまた、アメリカの政治制度や市民の権利に対する認識を大きく変える契機となった。南北戦争の教訓は、アメリカが今後どのように団結し、困難を乗り越えていくべきかを示す重要な遺産である。
第5章: 19世紀のヨーロッパの内戦
イタリア統一運動:統一への長い道のり
19世紀のイタリアは、小さな国々に分かれた状態であった。しかし、ジュゼッペ・ガリバルディやカミッロ・カヴールといった人物たちの努力により、統一の機運が高まった。ガリバルディは「千人隊」と呼ばれる義勇軍を率い、南イタリアを解放した。カヴールは北イタリアのサルデーニャ王国の首相として外交手腕を発揮し、フランスやプロイセンと連携してオーストリアの影響力を排除した。1861年、ヴィットーリオ・エマヌエーレ2世がイタリア王国の初代国王として即位し、イタリアは一つの国家として誕生した。この統一運動は、多くの戦争と内戦を経て達成されたものであった。
ドイツ統一戦争:ビスマルクの策略
ドイツ統一戦争は、オットー・フォン・ビスマルクの策略によって進められた。ビスマルクはプロイセン王国の首相として、巧妙な外交と軍事戦略を駆使し、ドイツの小国を統合した。1864年のデンマーク戦争、1866年の普墺戦争、そして1870年の普仏戦争を通じて、プロイセンはドイツの主導権を握った。特に普仏戦争では、プロイセンがフランスを破り、ヴェルサイユ宮殿でドイツ帝国の成立が宣言された。この統一は、ビスマルクの「鉄血政策」と呼ばれる強硬な手法によって成し遂げられたのである。
ロシアのデカブリストの乱:改革の先駆け
1825年、ロシアでデカブリストの乱が起きた。これは、ロシア帝国の将校たちが中心となり、専制政治を終わらせるために蜂起したものである。アレクサンドル1世の死後、次期皇帝ニコライ1世に対する反発が高まり、デカブリストたちは憲法制定と農奴解放を求めた。しかし、反乱はすぐに鎮圧され、リーダーたちは処刑されるかシベリアに追放された。この乱は失敗に終わったが、ロシアの改革運動の先駆けとなり、後の改革者たちに影響を与えた。
変革の波:19世紀ヨーロッパの社会と政治
19世紀のヨーロッパは、内戦と統一運動が織り成す激動の時代であった。イタリアやドイツの統一は、新たな国家の誕生とともにヨーロッパの勢力図を大きく変えた。また、ロシアのデカブリストの乱のような改革運動は、専制政治に対する反発と変革の必要性を示した。これらの出来事は、各国の政治体制や社会構造に深い影響を及ぼし、現代のヨーロッパの基盤を形作ったのである。19世紀の内戦と統一運動を通じて、人々は自由と統一、改革のために戦い、その結果が今日の社会に受け継がれている。
第6章: 世界大戦と内戦
ロシア革命と内戦:帝国の崩壊と新たな時代
第一次世界大戦中、ロシアでは兵士や民衆の不満が爆発し、1917年にロシア革命が勃発した。二月革命でニコライ2世は退位し、臨時政府が樹立された。しかし、十月革命でボリシェヴィキが政権を奪取し、ウラジーミル・レーニンが指導者となった。この急進的な変革はロシア内戦を引き起こし、赤軍(ボリシェヴィキ支持派)と白軍(反ボリシェヴィキ勢力)との間で激しい戦闘が繰り広げられた。内戦は1922年に赤軍の勝利で終結し、ソビエト連邦が成立した。ロシア革命と内戦は、世界史において重要な転換点となり、20世紀の政治情勢を大きく変えた。
スペイン内戦:イデオロギーの激突
1936年、スペイン内戦が勃発した。この戦争は、共和国政府とフランシスコ・フランコ将軍率いる反乱軍との間で行われた。共和国側は社会主義者、共産主義者、無政府主義者など多様な勢力が集結し、反乱軍はファシストや保守派が支持した。内戦は3年間続き、多くの犠牲者を出した。国際的には、ナチス・ドイツとイタリアが反乱軍を支援し、ソビエト連邦が共和国を支援した。1939年、フランコが勝利し、独裁政権が樹立された。この内戦は、第二次世界大戦の前哨戦とも言われ、イデオロギーの対立が国家の運命を決定づけた。
第二次世界大戦後の内戦:新たな紛争の時代
第二次世界大戦の終結後、多くの国々で内戦が勃発した。中国では、国共内戦が再燃し、共産党と国民党が激しく争った。1949年、毛沢東率いる共産党が勝利し、中華人民共和国が成立した。ギリシャでも、共産党と政府軍の間で内戦が勃発し、西側諸国の支援を受けた政府軍が勝利した。これらの内戦は、冷戦の始まりを象徴する出来事であり、アメリカとソビエト連邦の対立が各国の内戦に影響を及ぼした。第二次世界大戦後の内戦は、新たな国際秩序の形成に深く関わっている。
戦争がもたらす変革:内戦の影響と教訓
内戦は、国家の政治体制や社会構造を根本的に変える力を持っている。ロシア革命やスペイン内戦、中国の国共内戦など、内戦は既存の秩序を崩壊させ、新たな時代を切り開く契機となった。これらの戦争は、多くの犠牲を伴うが、同時に変革と進化の原動力ともなる。内戦の教訓は、平和構築の重要性を強調し、国際社会の協力と対話の必要性を示している。歴史を学ぶことで、内戦の原因と影響を理解し、将来の平和と安定を築くための知識を得ることができる。
第7章: 冷戦時代の内戦
朝鮮戦争:分断国家の悲劇
朝鮮戦争は1950年に始まり、冷戦の激しい対立を象徴する内戦であった。朝鮮半島は第二次世界大戦後に北緯38度線で分断され、北はソビエト連邦、南はアメリカの影響下に置かれた。北朝鮮の金日成は朝鮮半島の統一を目指し、1950年に南へ侵攻した。これに対し、アメリカを中心とする国連軍が南朝鮮を支援し、中国も北朝鮮を支援して参戦した。戦争は1953年に休戦協定が結ばれたが、正式な和平条約はなく、朝鮮半島は今も分断されたままである。この戦争は冷戦の代理戦争の一例であり、国際政治に大きな影響を与えた。
ベトナム戦争:ゲリラ戦と超大国の介入
ベトナム戦争は、北ベトナムの共産主義勢力と南ベトナムの政府軍との間で行われた内戦である。北ベトナムはホーチミン率いるベトコンを支援し、南ベトナムはアメリカの支援を受けた。戦争はゲリラ戦を中心に展開され、アメリカ軍の介入が大規模化した。戦場はベトナム全土に広がり、1968年のテト攻勢などの大規模な戦闘が繰り広げられた。戦争は1975年に北ベトナムの勝利で終結し、ベトナムは統一された。この戦争は、アメリカ国内での反戦運動を引き起こし、国際社会にも多大な影響を及ぼした。
アフリカとラテンアメリカの内戦:冷戦の影響
冷戦時代、アフリカとラテンアメリカでも多くの内戦が勃発した。アンゴラ内戦は1975年に独立直後に始まり、ソビエト連邦とキューバが一方を支援し、アメリカと南アフリカがもう一方を支援した。エルサルバドル内戦も同様に、政府軍と反政府ゲリラとの間で激しい戦闘が続き、アメリカが政府軍を支援した。これらの内戦は、冷戦の影響を強く受け、超大国の介入が内戦の長期化と激化を招いた。地域の社会経済に甚大な影響を与え、多くの犠牲者と難民を生んだ。
超大国の介入と代理戦争:冷戦の暗い影
冷戦時代の内戦は、多くの場合、アメリカとソビエト連邦の代理戦争として展開された。両超大国は、自国のイデオロギーを拡張するために、世界各地の内戦に介入した。アフガニスタン内戦では、ソビエト連邦が政府を支援し、アメリカがムジャヒディンを支援した。結果的に、アフガニスタンは長期にわたる戦争と混乱に見舞われた。これらの介入は、内戦を複雑化し、多くの無辜の民間人を巻き込む結果となった。冷戦の代理戦争は、世界各地で深い傷跡を残し、内戦の悲惨さを際立たせたのである。
第8章: 20世紀末から21世紀初頭の内戦
旧ユーゴスラビア内戦:多民族国家の崩壊
1990年代初頭、旧ユーゴスラビアは内戦に突入した。多民族国家として長らく存続してきたユーゴスラビアは、冷戦終結後に民族主義の台頭により分裂の危機に瀕した。特に、セルビア、クロアチア、ボスニア・ヘルツェゴビナなどの地域で激しい戦闘が繰り広げられた。スロボダン・ミロシェヴィッチ率いるセルビアは、他の民族グループと対立し、ボスニア内戦では特に残虐な民族浄化が行われた。最終的に、国際社会の介入とデイトン合意により戦争は終結したが、数多くの犠牲者と難民を生んだ。
ルワンダのジェノサイド:惨劇の裏側
1994年、ルワンダで恐ろしいジェノサイドが発生した。フツ族政府によるツチ族と穏健派フツ族に対する大規模な虐殺が行われ、わずか100日間で80万人以上が命を落とした。このジェノサイドは、フツ族とツチ族の長年の対立が背景にあった。国際社会の対応は遅れ、多くの命が失われる結果となった。ルワンダ紛争は、国際社会がジェノサイドを未然に防ぐための対応を強化する必要性を痛感させた。ジェノサイド後、ポール・カガメ率いるルワンダ愛国戦線が政権を掌握し、国の再建が進められた。
中東の紛争と内戦:混沌の時代
21世紀に入り、中東地域では複数の内戦と紛争が発生した。イラク戦争後、サダム・フセイン政権の崩壊に伴い、宗派間対立が激化し、内戦状態に陥った。また、シリア内戦は2011年の「アラブの春」をきっかけに勃発し、バッシャール・アル=アサド政権と反政府勢力の間で激しい戦闘が続いた。この内戦は、イスラム国(ISIS)の台頭を招き、地域の安全保障に深刻な影響を与えた。中東の内戦は、地域の政治的安定と経済発展に大きな障害となっている。
現代の内戦の特徴と国際的影響
20世紀末から21世紀初頭の内戦は、多くの共通点を持っている。これらの内戦は、民族対立、宗派間対立、政治的不安定などが原因で発生し、国際社会の介入を招いた。例えば、国連やNATOは、旧ユーゴスラビアや中東の内戦において平和維持活動を行った。また、現代の内戦は、難民問題や人道的危機を引き起こし、国際社会に多大な影響を与えている。これらの内戦は、グローバルな安全保障と人道支援の必要性を強調し、国際協力の重要性を再認識させるものである。
第9章: 内戦の社会的・経済的影響
人道的危機と難民問題
内戦は甚大な人道的危機を引き起こす。シリア内戦では、数百万もの人々が故郷を追われ、難民となった。彼らは安全を求めて隣国やヨーロッパへ逃れたが、多くの難民キャンプは過密状態で、基本的な生活必需品が不足している。また、内戦は医療施設やインフラを破壊し、疾病の蔓延や栄養失調を招く。子供たちは教育の機会を失い、未来への希望が奪われる。このような状況は国際社会に多大な負担をかけるが、同時に人道支援の重要性を再認識させる。
経済崩壊と再建
内戦は国の経済を壊滅させる。産業や農業は破壊され、貿易は停止し、失業率が急増する。例えば、リビア内戦後、石油産業は崩壊し、国の主要な収入源が失われた。再建には長い時間と莫大な資金が必要であり、国際援助が欠かせない。経済復興の過程では、新たな投資を呼び込むための安定した政治環境の構築が重要である。内戦後の再建は、経済の多様化やインフラの再整備を通じて、持続可能な発展を目指す努力が求められる。
内戦後の社会復興
内戦後の社会復興は、単なる物理的な再建だけでなく、社会的な和解と信頼の回復が不可欠である。ルワンダでは、ジェノサイド後にガチャチャ裁判と呼ばれる伝統的な裁判制度が導入され、加害者と被害者の間の和解を促進した。また、心理的支援やトラウマ治療も重要な課題である。コミュニティの再構築には、教育や雇用の機会を提供し、若者が未来に希望を持てるようにすることが必要である。内戦後の社会復興は、平和と安定を維持するための基盤となる。
平和構築と持続可能な未来
内戦を経験した国々では、持続可能な平和構築が最重要課題となる。平和構築には、政治的包摂、経済的発展、社会的和解が不可欠である。南アフリカのネルソン・マンデラは、アパルトヘイト後の社会を和解と共存へと導いた象徴的な人物である。国際社会もまた、平和構築のための支援を強化し、持続可能な発展目標(SDGs)を達成するために協力する必要がある。内戦の教訓を生かし、平和な未来を築くためには、各国が連携し、共通の目標に向かって努力することが求められる。
第10章: 内戦の予防と解決
国際的な介入と調停の役割
内戦の予防と解決において、国際的な介入と調停の役割は非常に重要である。国連や地域の国際機関は、内戦の初期段階で介入し、対立する勢力の間で調停を行うことで、戦争の拡大を防ぐ努力をしている。例えば、1990年代の旧ユーゴスラビア内戦では、国連の平和維持部隊が派遣され、戦闘地域の安定化を図った。また、アフリカ連合(AU)は、アフリカ大陸での内戦に対して積極的に介入し、和平交渉を支援している。国際的な調停は、対立する当事者が対話を通じて平和的な解決策を見出すための重要な手段である。
和解と真実委員会の重要性
内戦後の和解と真実委員会の設置は、持続可能な平和を築くために不可欠である。南アフリカのアパルトヘイト後に設置された真実和解委員会(TRC)は、過去の人権侵害を明らかにし、被害者と加害者の間で和解を促進する役割を果たした。デズモンド・ツツ大司教が主導したこの委員会は、国民が過去を直視し、共に未来を築くための重要なプロセスであった。また、ルワンダでは、ガチャチャ裁判が地域社会の和解に寄与した。これらの取り組みは、内戦後の社会が再び分裂することを防ぎ、持続可能な平和を実現するための基盤となる。
経済再建と社会復興の取り組み
内戦後の経済再建と社会復興は、平和を定着させるための重要な要素である。戦争で破壊されたインフラの復興や、経済活動の再開は、国民の生活を安定させるために不可欠である。例えば、シエラレオネ内戦後、国際通貨基金(IMF)や世界銀行の支援を受けて、経済再建が進められた。また、教育や医療などの社会サービスの復旧も重要である。これにより、内戦で傷ついた社会が回復し、持続可能な発展を実現するための基盤が整えられる。経済と社会の両面からの復興が、平和の定着に大きく貢献するのである。
持続可能な平和構築の実践
内戦の予防と解決には、持続可能な平和構築の実践が求められる。これは、政治的包摂、法の支配の確立、経済的平等の促進、教育の普及など、多岐にわたる取り組みを含む。例えば、アフガニスタンでは、女性の教育を推進し、社会全体の安定を図る試みが行われている。また、エチオピアとエリトリアの和平合意は、地域の安定と平和を促進する重要なステップとなった。持続可能な平和構築は、内戦の再発を防ぎ、安定した社会を築くための長期的なビジョンを必要とする。これにより、平和と繁栄を享受できる未来が実現するのである。