上海

基礎知識
  1. 上海の開港(1843年)
    上海は1843年にイギリスとの南京条約によって開港し、際的な貿易港として急速に発展した。
  2. 租界の形成
    19世紀半ばから、上海にはイギリスフランス、アメリカによる租界が設置され、これが都市の際化を促進した。
  3. の占領(1937年-1945年)
    第二次世界大戦中、上海は日中戦争の一環として日に占領され、多大な影響を受けた。
  4. 1949年の中華人民共和成立と社会主義政策
    1949年に中国共産党が政権を掌握し、上海社会主義体制下での改革と再建を経験した。
  5. 改革開放政策(1978年以降)
    1978年に開始された鄧小平の改革開放政策により、上海中国経済の中心的な役割を再び担うことになった。

第1章 古代から明清時代までの上海

水の都、上海の始まり

上海は、もともと小さな漁であり、その発展は「」に密接に関わっていた。黄浦江と長江(揚子江)が交わるこの地域は、川や海の交通が非常に便利で、自然と人々が集まる土地となった。古代中国では、周辺の農や漁業集落が互いに交易を行い、上海はその中でも重要な拠点となっていった。特に路を利用した物流は、魚やなどの産物を運ぶ上で大きな役割を果たし、徐々に繁栄するようになった。

明代の防衛拠点としての上海

明朝時代(1368年–1644年)になると、上海はさらに重要な都市となった。東シナ海に面しているため、倭寇(日からの海賊)の侵入を防ぐために、明朝はこの地に強固な城壁や要塞を建設した。1553年に築かれた「上海城」はその象徴であり、海の防衛拠点として都市の発展を後押しした。また、税関も設置され、中国内外の貿易が活発化し、上海はその中心としての地位を固めていった。海上の安全を守るためのこの措置は、上海をより多くの商人たちにとって魅力的な都市へと変えていった。

清朝時代と上海のさらなる成長

清朝(1644年–1912年)に入ると、上海は商業都市としてさらなる成長を遂げた。特に清朝後期には、経済が飛躍的に発展し、茶、、陶磁器などの産品が上海を経由して欧州や日に輸出されるようになった。上海の港はその繁栄の象徴であり、中国内からも多くの商人がここに集まって取引を行った。この時期に上海際貿易の拠点としての役割を強め、後の開港と租界時代への布石を築いたといえる。

上海と世界をつなぐ河口

上海はその地理的な位置によって、中国と世界を結ぶ重要な窓口となった。長江の河口に位置する上海は、海からが容易に入り、内陸部への物流がスムーズに行われるため、自然内外の商人たちの注目を集めた。黄浦江と長江は、単なる路ではなく、上海を中心にさまざまな文化技術が交流する経路でもあった。清朝末期には、これらの路を利用した物流のネットワークが、上海をさらに活気づけ、際都市としての基盤を作り上げた。

第2章 上海の開港と国際貿易の始まり(1843年)

南京条約がもたらした上海の変革

1842年、イギリスと清朝の間で「南京条約」が締結され、その結果、上海は翌年に開港された。この出来事は、上海の歴史における大きな転機である。以前まで閉鎖的であった清朝が、イギリスに対して敗北したことで、上海を含む5つの都市を外に開放せざるを得なかった。これにより、欧の商人が自由に貿易を行えるようになり、上海は瞬く間に際的な港として注目を集めることとなった。上海は、中国全土と世界をつなぐ経済の玄関口へと変貌していったのである。

イギリス商人と茶葉、絹の貿易

上海の開港によって、イギリス商人たちは次々とこの地に集まるようになった。彼らが最も求めていたものは、中国の特産品である茶葉やであった。これらの品はヨーロッパで高く評価され、特にイギリスでは大きな需要があった。一方、イギリスは綿製品や機械を中国に輸出し、両間の貿易は飛躍的に増加した。上海はこの際的な貿易の中心地となり、日夜商が港に出入りし、活気に満ちた都市へと成長を遂げていった。

外国勢力と租界の形成

貿易の拡大に伴い、上海には外人が住むエリアが必要となった。これにより「租界」が設置され、最初はイギリス、続いてフランスやアメリカがそれぞれの租界を持つことになった。これらの租界はそれぞれ独自の法律や制度が適用され、上海の中でも異なる文化や経済が共存する特異な地域となった。外勢力は、商業活動や文化交流を通じて上海に強い影響を与え、都市の際化が加速した。

国際都市への第一歩

開港後の上海は、中国内の商人や欧のビジネスマンが集まる際的な都市へと変貌を遂げた。この際性は、経済的な発展だけでなく、文化技術の交流にも大きく寄与した。上海には、世界各の言語や風習が交錯し、特に租界地区では多様な文化が共存する珍しい景が見られた。上海の発展は、清朝末期における中国際社会への関わりを象徴しており、やがて中国の近代化の中心地としての役割を果たしていくことになる。

第3章 租界時代の上海(19世紀中盤-20世紀初頭)

外国人がつくりあげた「小さな国々」

上海が開港されてしばらくすると、イギリスをはじめとする外勢力が自分たちの影響力を確保するために租界を設置し始めた。最初にできたのはイギリス租界で、続いてアメリカ、フランスもそれぞれ自分たちの租界を築いた。租界とは、清朝政府が支配権を持たない外人の特別区域のことだ。租界では中国の法律が適用されず、独自のルールが設けられていた。これにより、上海は一つの都市でありながら、まるで異なる々が共存するようなユニークな場所へと変貌していった。

多文化都市としての急成長

租界ができたことで、上海には多くの外人が移り住み、商業や文化が急速に発展した。イギリス人は紅茶の輸出を、フランス人はシャンパンの輸入を進め、各が自の得意分野を持ち込んだ。上海は、際貿易の拠点となり、多くの外企業が進出し、建物やインフラも次々と整備された。特に、上海外灘(バンド)と呼ばれる地区には、壮麗な欧風建築が立ち並び、際的な雰囲気を醸し出していた。ここは、融機関や大手企業のオフィスが集中し、世界中の人々が集まる場となった。

中国人と外国人の共存

租界の中で外人たちが活躍する一方、上海にはもちろん多くの中国人が暮らしていた。中国人と外人が共存するこの環境は、摩擦を生むこともあったが、同時に文化的な交流も進んだ。例えば、中国人富豪たちは外人の影響を受けて西洋式の建物を建てたり、子どもたちをヨーロッパに留学させたりした。また、西洋のファッションや音楽上海の流行の一部となり、上海は「東洋のパリ」と称されるほどの華やかさを誇るようになった。

上海の影響力が広がる

租界を中心に発展した上海は、単なる貿易港以上の存在になっていった。ここで得られた利益は中国内の他の都市にも影響を与え、上海中国全土の商業と文化の中心地となった。租界の中には銀行や新聞社、劇場なども設置され、上海の人々は他の地域に先んじて最新の情報や技術を手に入れることができた。上海中国における「際化」の象徴であり、その影響力は徐々に内外に広がっていった。

第4章 20世紀初頭の革命と動乱

上海、辛亥革命の震源地

20世紀初頭、中国全土は革命の嵐に包まれていた。その中心となったのが上海である。1911年、清朝に対する不満が高まり、武で始まった辛亥革命は瞬く間に上海にも波及した。多くの革命家たちが上海に集まり、ここで清朝打倒を目指す議論や計画が進められた。特に孫文(孫中山)は、上海を拠点にして革命の支持を広げた人物である。彼の活動により、上海中国全土に変革の火を灯す場所となった。最終的に辛亥革命は成功し、清朝は倒れた。

国共内戦と上海の分裂

辛亥革命後、中国は中華民を設立したが、安定とは程遠い状態にあった。民党と共産党の対立が激化し、1920年代には内戦が勃発した。上海でもこの対立は深刻であり、街中では民党の支持者と共産党の支持者が激しく衝突した。1927年、蒋介石率いる民党は「上海クーデター」を実行し、共産党員を弾圧し、上海は再び混乱の時代に突入した。蒋介石はこのクーデターによって民党の力を強化し、しばらくの間、上海を支配下に置いた。

軍閥の支配と混迷

内戦と同時期、中国全土では軍閥が各地を支配する時代が続いていた。上海も例外ではなく、北伐の前には地方軍閥が街を掌握し、独自の支配を行っていた。彼らは武力で市民を抑え込み、莫大な利益を得ようとしたため、上海暴力と権力争いに満ちていた。商業の中心であった上海は、その豊かさゆえに軍閥たちの標的となり、しばしば略奪や争奪戦が行われた。この時代の混乱は、上海市民の生活を大きく脅かし、経済も停滞した。

上海に集まる文化と知識人たち

政治的には混乱していたが、上海は依然として中国文化知識の中心であった。20世紀初頭、多くの知識人や作家、芸術家たちが上海に集まり、この地で新しい思想や文化運動を推進した。魯迅のような著名な作家は、上海で多くの重要な作品を発表し、社会に影響を与えた。また、外文化の影響を受けた上海は、西洋の音楽演劇映画も盛んであり、多様な文化が混ざり合う独自の都市としての地位を確立していた。上海はまさに「東洋の文化都市」と呼ぶにふさわしい存在であった。

第5章 日本の侵略と占領時代(1937年-1945年)

上海を襲った第二次上海事変

1937年、日中戦争が勃発し、上海はその戦場の一つとなった。日軍は上海を攻撃し、激しい戦闘が街中で繰り広げられた。この戦いは「第二次上海事変」と呼ばれ、特に中国軍と日軍の激しい衝突が市民生活を一変させた。上海の市街地は破壊され、多くの人々が避難を余儀なくされた。特に租界地区は、外の管理下にあったため、一時的には戦火を逃れたが、全体的には混乱が続いた。

日本の占領下での上海

1937年の第二次上海事変の後、日軍は上海を占領し、街全体を支配下に置いた。占領期間中、上海の人々は厳しい統制下に置かれ、経済活動も日の指示に従わざるを得なかった。日の影響力は教育やメディアにも及び、中国文化の抑圧が進行した。同時に、スパイ活動や抵抗運動も活発化し、上海の地下組織は日軍への対抗策を模索していた。街は表面的には平穏を保っていたが、裏では反日活動が密かに進められていた。

南京政府と上海の関係

は、占領中に「南京民政府」という傀儡政権を樹立し、これを通じて上海を統治しようとした。この政権は一見、中国の政府のように見えたが、実際には日の指示を受けていた。汪兆銘が率いるこの政府は、日との協力を進めることで一部の中国人に利益をもたらしたが、多くの市民はこれを裏切り行為とみなし、反感を抱いた。南京民政府と市民の間には深い溝が生まれ、抵抗の動きはますます強まっていった。

占領下の生活と市民の抵抗

の占領下にあった上海では、物資の不足や経済的困難が市民の生活を苦しめた。食糧や燃料の配給が厳しく管理され、日常生活は困難を極めたが、それでも市民は逞しく生き抜こうとした。特に知識人や学生を中心に、地下での抵抗運動が広がり、密かに中国共産党や民党への支持を表明する人々も増えていった。占領期間中の上海は、一見すると日の統制が行き届いているように見えたが、実際にはその裏で多くの人々が自由を求めて戦い続けていたのである。第6章 中華人民共和成立と社会主義政策の導入(1949年以降)

革命の勝利、共産党の時代が始まる

1949年、中国共産党が内戦に勝利し、毛沢東が中華人民共和の成立を宣言した。この新しい国家の誕生により、上海を含む全に共産主義の理想が広まった。上海は、民党の影響が強かった都市であったが、共産党が進める社会主義改革を受け入れることになった。企業や銀行などの民間資産は有化され、私有財産は制限されていった。上海のビジネス界は大きな変革を経験し、新たな経済秩序の下での生活が始まった。

国有化と新たな経済のかたち

新しい共産主義政府は、資本主義を打破し、すべての主要産業を有化した。上海の大企業や工場は国家の管理下に置かれ、富の分配を公平に行おうとする試みが行われた。この有化政策は、労働者の地位を向上させることを目的としており、資家の代わりに政府が経済を運営する体制へと移行した。これにより、上海の経済は大きな変化を遂げ、個々の企業家や商人たちはその影響を強く受けることとなった。

新社会の建設に挑む

共産党の指導の下、上海は「新中国」の一員として、社会主義的な社会の建設に取り組んだ。政府は教育や医療などの基的なサービスを無料化し、農業や工業の集団化を進めた。学校では新しい社会主義的な価値観が教えられ、市民には労働と平等が重要であるとされた。上海は特に工業都市としての役割が期待され、工場の生産性向上が求められた。この時代、労働者たちは国家の一員として誇りを持ち、懸命に働きながら新しい社会の形成に貢献した。

社会主義政策の影響と試練

上海は新しい体制のもとで急速に変化したが、すべてが順風満帆というわけではなかった。急速な有化や経済改革により、物資の不足や経済の停滞といった問題が生じた。特に1950年代の大躍進政策は、過度な生産目標によって多くの混乱を引き起こした。これらの試練にもかかわらず、上海中国の工業化を支える重要な都市としての役割を果たし続けた。この時期の上海は、政治的な困難を乗り越えながら、社会主義の理想に向かって進んでいったのである。

第7章 文化大革命の嵐と上海

革命の嵐が吹き荒れる

1966年、中国全土にわたる文化大革命が始まった。毛沢東が主導したこの運動は、過去の伝統や価値観を否定し、新しい社会主義的思想を広めることを目的としていた。上海もその例外ではなく、学校や職場、街の至るところで「革命」が叫ばれた。特に若者たちによる「紅衛兵」が登場し、彼らは熱心に毛沢東思想を広め、伝統文化や「反革命的」とされた人物に対する攻撃を行った。市民生活は一変し、混乱と不安が広がっていった。

紅衛兵と街の変貌

上海の若者たちが紅衛兵として動き出すと、街は急激に変わり始めた。書店や博物館が閉鎖され、古い書物や工芸品が「封建主義の象徴」として破壊された。さらには学校や大学でも教師が「反革命分子」として告発され、授業が停止された。街中には毛沢東のポスターが貼られ、彼の言葉を讃えるスローガンが至るところで叫ばれた。上海は一夜にして、文化の中心から政治的な闘争の舞台へと変貌したのである。

文化と芸術の消失

文化大革命の最中、上海芸術文化も厳しく規制された。音楽演劇、文学のほとんどが「革命的」でない限り許されず、多くの芸術家が活動の場を失った。伝統的な京劇や詩作は「反革命的」とみなされ、その代わりに革命を称えるプロパガンダ劇や音楽が公演された。多くの作家やアーティストは投獄され、あるいは強制労働に従事させられた。上海文化的な喪失を経験し、その影響は長い間続くこととなった。

革命後の再建への道

文化大革命は1976年に毛沢東が亡くなるとともに終結したが、上海には深い傷跡を残した。多くの知識人や芸術家が長期にわたる弾圧を受け、社会全体が再建を必要としていた。文化大革命による破壊からの復興には時間がかかったが、1978年に改革開放政策が始まると、徐々に上海はかつての文化都市としての姿を取り戻し始めた。市民は再び自由に学び、表現し、上海はその際的な都市としての地位を取り戻そうとしていた。

第8章 改革開放政策と上海の復興(1978年以降)

鄧小平の改革、上海の新たな始まり

1978年、中国鄧小平によって「改革開放政策」を打ち出し、上海にも大きな変革の波が押し寄せた。この政策は、中国を外部に開き、市場経済を導入するという画期的なものであった。上海はこの新しい経済方針の中心地となり、多くの外企業がここに進出してきた。鄧小平は「上海は経済成長のエンジンである」と宣言し、上海中国全体の経済を引っ張る役割を果たすことを期待していた。この時期、上海は再び際都市として復活を遂げたのである。

経済特区と浦東の大開発

改革開放政策の一環として、政府は上海に特別な経済区域を設けた。その象徴が、浦東地区の大規模な開発である。それまで農地帯だった浦東は、一気に近代的なビジネス街へと変貌していった。政府は、ここに外資系企業を呼び込み、融や貿易の中心地にしようとした。結果として、高層ビルが次々と建設され、上海は世界の融とビジネスの中心地の一つとなった。1990年代には、テレビ塔「東方明珠塔」が建設され、上海の新しい時代を象徴するランドマークとなった。

外資の導入とグローバル化

改革開放政策は、上海に多くの外企業を引き寄せた。マクドナルドコカ・コーラといった世界的なブランドが上海に進出し、市民の生活スタイルにも大きな変化をもたらした。企業だけでなく、外人労働者や留学生も増加し、上海は再び際的な人々が集まる活気あふれる都市となった。自由貿易が進む中で、上海の街角には英語フランス語が飛び交い、さまざまな文化が混ざり合うダイナミックな都市に生まれ変わった。

新しい経済と社会の変化

経済の自由化が進む中で、上海中国内でも最も急成長する都市となった。多くの市民がビジネスのチャンスを求めて上海に移り住み、街は人口爆発を迎えた。新しいショッピングモールや高級レストランが建設され、上海中国で最もモダンで洗練された都市となった。しかし急速な発展には課題も伴い、貧富の差が広がるとともに、交通渋滞や住宅問題も深刻化した。それでもなお、上海未来を見据え、さらなる成長と変革を目指して歩み続けていた。

第9章 グローバル都市としての上海(1990年以降)

浦東地区の奇跡的な発展

1990年代に入ると、上海の浦東地区は劇的な変貌を遂げた。それまで農地帯だった浦東は、中国政府の後押しを受けて、近代的な都市開発が進行した。巨大なオフィスビルや融センターが次々と建設され、特に上海タワーや茂大厦(きんもたいしゃ)は上海スカイラインを一変させた。融と経済の中心地となった浦東は、中国経済の象徴的な存在となり、世界中からビジネスマンや投資家が集まる際的なビジネス拠点となった。

国際企業の進出とビジネスハブとしての上海

上海は、1990年代から2000年代にかけて多くの際企業が進出する都市となった。IBMやシーメンス、フォードといった世界的大企業が次々にオフィスを構え、上海は東アジアにおけるビジネスのハブとしての地位を確立した。特に融業界では、上海証券取引所が際的な投資家にとって重要な市場となり、世界中の資がこの都市に流れ込んだ。上海の経済は急速に成長し、際ビジネスの中心地としての役割を果たすようになった。

グローバル文化の融合と市民生活の変化

上海の発展は経済だけにとどまらず、文化面でも大きな変化をもたらした。際的な企業が集まり、多くの外人が居住するようになると、上海の街並みや生活様式にも多様性が広がった。高級レストランや海外ブランドのショップが軒を連ね、フランス人街など、外人コミュニティも発展した。上海市民の生活も大きく変わり、グローバルな視点を持つ新しい世代が育ち始めた。西洋と東洋の文化が融合し、上海は世界に開かれた際都市として成長していった。

世界都市としての挑戦

上海はグローバル都市として急成長したが、その背後にはさまざまな課題も存在する。急速な都市化に伴う環境問題や、人口増加によるインフラの負担が大きくなっている。さらに、富裕層と貧困層の格差も深刻化しており、持続可能な都市開発が求められている。しかし、それにもかかわらず、上海未来に向けて挑戦を続けている。世界的な会議や際イベントを開催し、アジアと世界をつなぐ架けとしての役割を果たし続ける上海は、今後も進化し続ける都市である。

第10章 未来に向けた上海の挑戦

環境問題への立ち向かい

急速な経済成長を遂げた上海だが、その代償として深刻な環境問題が浮上している。大気汚染や質汚染が市民の生活を脅かし、ゴミの処理やエネルギー消費の増加が大きな課題となっている。特に大気汚染は健康への影響が懸念されており、政府は再生可能エネルギーの導入や自動車の排ガス規制を進めている。上海はエコ都市への転換を目指し、緑化プロジェクトやクリーンエネルギーの活用に取り組み、持続可能な発展を追求している。

都市化の進展と人口の圧力

上海中国最大の都市であり、世界でも有数の人口密集地だ。多くの人々が仕事を求めて上海に集まり、人口の増加は都市インフラに大きな負担をかけている。特に住宅価格の高騰は深刻で、多くの若者が家を手に入れることが難しくなっている。また、交通渋滞や公共交通機関の過密化も日常的な問題となっている。都市化の進展に伴い、上海は効率的なインフラ整備と住環境の向上に取り組む必要がある。

富の格差と社会的課題

上海の急成長に伴い、富裕層と貧困層の格差が拡大している。超高層ビルに住む富裕層がいる一方で、低所得層の人々は貧しい環境での生活を強いられている。この格差は、社会的な不満や不安定さを引き起こす要因ともなっている。上海市政府は、格差を是正するために社会保障の拡充や貧困対策を推進しているが、依然として課題は山積している。経済発展と共に、すべての市民が平等に利益を享受できる社会の実現が求められている。

グローバル都市としての未来

上海は、アジアのリーダーとしてだけでなく、世界的な都市としての地位を確立しつつある。際的なイベントや会議を開催し、経済・文化のグローバルな中心地となることを目指している。特にAIや自動運転など、先端技術の分野でリーダーシップを発揮しようとしており、未来のスマートシティとしての可能性が期待されている。上海は、その際的な影響力をさらに高め、持続可能な都市モデルとして世界に貢献し続けるだろう。