スリランカ

基礎知識
  1. 古代スリランカのシンハラ王国
    スリランカにおける最初のシンハラ王国は紀元前5世紀ごろに建国され、アヌラーダプラを中心に栄えた。
  2. 仏教の伝来と影響
    紀元前3世紀にインドから仏教がスリランカに伝わり、その後、仏教が国の宗教的・文化的基盤となった。
  3. コロンボを中心とした植民地支配
    16世紀からスリランカはポルトガル、オランダ、イギリスに支配され、特にイギリス統治下で経済と社会が大きく変革された。
  4. 独立運動と1948年の独立
    20世紀前半、スリランカでは独立運動が高まり、1948年にイギリスからの独立を達成した。
  5. 内戦とその終結(1983年~2009年)
    1983年からスリランカ内戦が勃発し、シンハラ人政府とタミル人の武装組織との間で激しい戦闘が続き、2009年に終結した。

第1章 シンハラ王国の誕生

神話と歴史の交差点:シンハラ族の起源

スリランカの歴史の始まりは、話と伝説が交じり合う物語から始まる。シンハラ族の祖先とされるのは、インドから渡ってきた王子ヴィジャヤである。ヴィジャヤは王の息子であったが、父の国で問題を起こし追放される運命にあった。彼と彼の仲間はスリランカに到着し、島に定住した。話によれば、この出会いがシンハラ族の始まりであり、島の名前「スリランカ」もこの時期に由来するとされる。シンハラ王国の物語は、この伝説から徐々に現実の歴史へと移行する。

アヌラーダプラの誕生:シンハラ文明の中心地

紀元前5世紀、ヴィジャヤの子孫たちはスリランカの中心部に都市を築き、これがアヌラーダプラ王国の始まりである。アヌラーダプラは、豊かな農業地帯に囲まれ、当時の技術で画期的な灌漑システムを使ってを効率的に管理した。この技術はシンハラ文明の繁栄の鍵となり、アヌラーダプラは交易と文化の中心地として発展していった。周辺のインド東南アジアとの交流も活発であり、この時期にスリランカは他国との関係を深めながら強力な王国へと成長した。

仏教の伝来と新たな時代の幕開け

アヌラーダプラ王国に最も大きな影響を与えたのは、紀元前3世紀にインドから伝わった仏教である。インドアショーカ王が派遣した僧侶マヒンダがスリランカに仏教をもたらし、王のデーワナンピヤ・ティッサはこれを国の宗教として受け入れた。この出来事は、スリランカの宗教的・文化的な大転換点となり、アヌラーダプラは仏教の聖地としても栄えるようになった。寺院や仏塔が次々と建設され、スリランカは仏教文化の中心としての地位を確立した。

王国の守護者たち:シンハラ王たちの挑戦

アヌラーダプラ王国は栄え続けたが、常に外敵の脅威にさらされていた。特に南インドの王国からの侵攻がたびたび起こり、シンハラ王たちは王国を守るために戦わねばならなかった。幾度となく王が変わり、時には王都が破壊されることもあったが、そのたびにシンハラ人たちは再び都市を再建し、王国の繁栄を取り戻した。こうしてアヌラーダプラ王国は千年以上にわたり続き、シンハラ文明の礎を築いた。

第2章 仏教の到来とスリランカ社会の変革

仏教の使者:マヒンダの使命

紀元前3世紀、インドアショーカ王は仏教を広めるために各地に使者を派遣した。その一人がマヒンダという僧侶である。マヒンダは、スリランカのデーワナンピヤ・ティッサ王の元に赴き、仏教の教えを伝えたとされる。ある日、ティッサ王が狩りに出ていた際、マヒンダと運命的な出会いを果たす。この瞬間が、スリランカに仏教が根付く始まりだった。ティッサ王はその教えに感銘を受け、仏教を国教として受け入れることを決断した。

アヌラーダプラの寺院建設

ティッサ王が仏教を受け入れると、スリランカ全土に仏教の施設が次々と建設された。アヌラーダプラでは、有名なマハー・ヴィハーラという大規模な僧院が建設され、僧侶たちが修行を行う場となった。この僧院は単なる宗教施設に留まらず、仏教文化の中心地として機能し、多くの学者や信者が集まった。また、ボー・ツリーという仏陀が悟りを開いた木の分け木もこの地に植えられ、人々の信仰象徴となった。

仏教がもたらした社会の変革

仏教の到来は、スリランカの社会にも大きな変革をもたらした。まず、王が仏教を保護することで、国家と宗教が密接に結びついた統治体制が成立した。人々の生活にも変化が見られ、暴力を避け、慈悲を重んじる仏教の教えが社会の規範となった。また、仏教がもたらした新たな価値観は、芸術建築、文学にも影響を与え、スリランカ独自の文化が花開いた時期でもあった。

仏教と王権の深い関係

スリランカの王たちは、仏教を広めることが自らの統治を強化する手段となることに気づいていた。ティッサ王以降、多くの王が仏教を保護し、寺院の建設や僧侶の支援を積極的に行った。この政策により、王たちは国内外での政治的な正統性を高めることができた。王権と仏教が深く結びついた結果、スリランカは長い間、仏教文化の中心地としてその地位を確立し続けた。

第3章 アヌラーダプラからポロンナルワへ

アヌラーダプラの繁栄と危機

アヌラーダプラ王国は千年近く続いたが、その長い歴史には数多くの危機があった。豊かな農業地帯に恵まれたこの都市は、巧みな灌漑技術を駆使して繁栄を極めた。しかし、南インドのチョーラ朝の侵攻により、アヌラーダプラは何度も攻撃され、王たちは度重なる戦争に直面した。この時期、王国を守るために大規模な防衛戦が繰り広げられ、首都の防備が強化される一方で、王国の未来に暗雲が立ち込めていた。

ポロンナルワへの遷都

ついに、アヌラーダプラはその防衛力を失い、王たちは新たな拠点を求めて移動を決意した。11世紀、王都はポロンナルワに遷都されることとなった。ポロンナルワは、自然の地形を利用して守りやすい地であり、新たな首都として適していた。この移動は単なる地理的な変更ではなく、王国の復興と新たな時代の幕開けを象徴するものであった。ポロンナルワは、短期間でアヌラーダプラに代わる重要な都市へと成長していった。

ポロンナルワ王国の新しい秩序

ポロンナルワに移ったシンハラ王国は、新しい王たちによって支えられ、再び力を取り戻した。特にパラークラマバーフ1世の治世において、王国はかつてないほどの繁栄を見せた。彼は「一滴のも無駄にしない」という信念のもと、灌漑システムをさらに拡充し、農業の生産性を飛躍的に向上させた。また、ポロンナルワは宗教的・文化的な中心地としても発展し、壮大な寺院や仏像が建設された。この時代、王国は平和と繁栄の象徴となった。

ポロンナルワの衰退とその後

しかし、どんな繁栄も永遠に続くわけではない。パラークラマバーフ1世の死後、王国は徐々に力を失い、内部抗争や外敵の侵入が続いた。特に南インドの王国からの脅威が再び強まり、ポロンナルワもまた外敵に攻撃されるようになった。最終的に、王都は再び移され、スリランカの歴史は新たな段階に進むこととなる。ポロンナルワはその後も重要な歴史的遺跡として存在し続け、多くの人々にその栄の過去を語りかけている。

第4章 スリランカと南インドの関係

チョーラ朝の脅威

スリランカと南インドの関係は、文化交流と戦争が交互に繰り返される歴史である。特に11世紀、インド南部の強力なチョーラ朝がスリランカに侵攻した。この時、アヌラーダプラ王国は防御力を失い、チョーラ軍によって占領されてしまった。チョーラ朝は王国の重要な灌漑システムを支配し、シンハラ王を追放した。この支配は一時的だったが、スリランカに深い傷跡を残した。南インドの勢力との戦いは、スリランカの王国が再生するための大きな課題となった。

戦争を超えた文化交流

戦争だけがスリランカと南インドの関係を形作ったわけではない。南インドのタミル人たちは、長い間スリランカと深い文化的なつながりを持っていた。交易によって、スリランカにはインド香料、布、宝石がもたらされ、逆にスリランカの宝石や牙もインドへと運ばれた。また、宗教的にもヒンドゥー教の影響が一部の地域で強まり、仏教ヒンドゥー教が共存する時代もあった。こうした交流が、スリランカの文化と社会に新たな視点をもたらしたのである。

ラージャラタと灌漑の復興

インドからの侵攻で大きな打撃を受けた後、スリランカの王たちは失われた灌漑システムを再建し、農業を復活させることに力を注いだ。特にポロンナルワ時代に入ると、灌漑技術が大幅に改善され、再び王国の農業が繁栄を取り戻す。この復興は、ポロンナルワが新たな首都として成長し、スリランカが再び自立するための重要なステップであった。資源の管理がスリランカの経済と政治の要であったことを、この復興が象徴している。

平和と繁栄への道

最終的に、スリランカの王国は南インドのチョーラ朝を追い返し、自らの独立を取り戻すことに成功した。特にヴィジャヤバーフ1世の時代に、スリランカは強力な軍事力を取り戻し、国内を再統一した。彼の治世は、スリランカが再び平和と繁栄の時代へと向かう転換点となった。侵略の痛みから立ち直ったスリランカは、以後の歴史においても南インドとの関係を深め続け、複雑ながらも豊かな文化交流が続いた。

第5章 植民地時代のスリランカ:ポルトガル、オランダ、そしてイギリス

ポルトガルの到来とスリランカの香料貿易

16世紀初頭、ポルトガルがインド洋を越えてスリランカにやってきた。彼らの目的は、世界的に有名なスリランカのシナモンを手に入れることだった。ポルトガルは貿易の独占を図り、沿岸部に拠点を築くが、内陸部の王国との衝突が絶えなかった。彼らは要塞を築き、強力な武力で支配を試みたが、シンハラ王国との争いは続いた。ポルトガルの到来はスリランカの経済構造を変え、香料貿易が大きな利益を生む新たな時代の幕開けとなった。

オランダの支配と植民地経済の拡大

17世紀になると、オランダ東インド会社(VOC)がポルトガルを追い出し、スリランカに新たな支配者として登場した。オランダはスリランカの沿岸地域を制圧し、香料貿易を拡大するだけでなく、経済全体を支配下に置いた。彼らは灌漑システムの修復や農業の促進を図り、より効率的に資源を管理した。また、キリスト教の宣教活動も積極的に行い、スリランカの宗教や文化にも影響を与えた。オランダの統治は、スリランカ社会の一部を西洋化させる一因となった。

イギリス統治と社会の変革

18世紀後半、オランダに代わってスリランカの支配者となったのがイギリスである。彼らは島全体を支配し、特に経済と社会を大きく変革した。イギリスは茶やゴムといったプランテーション作物を導入し、それがスリランカの主要産業となった。さらに、鉄道や道路の建設を進め、スリランカのインフラを大きく発展させた。イギリス教育制度や法律も導入され、スリランカ社会は急速に近代化していったが、同時に植民地支配への不満も高まっていった。

スリランカ人の抵抗と民族意識の芽生え

植民地支配が続く中で、スリランカ人の間には徐々に反発が生まれた。特に19世紀末から20世紀初頭にかけて、知識人や宗教指導者たちが植民地に対抗するための運動を展開した。仏教やシンハラ文化を守ろうとする動きが活発化し、民族意識が芽生え始めたのである。こうした運動は、後の独立運動の基盤となり、スリランカが自らのアイデンティティを再確認する重要な契機となった。植民地時代は苦難の時代であったが、スリランカの未来への道筋もここで描かれ始めた。

第6章 経済と社会の変化:植民地時代から独立へ

プランテーション経済の台頭

イギリス統治下のスリランカでは、プランテーション経済が急速に発展した。特に、セイロンティーとして世界に知られる紅茶が主要な輸出品となった。広大な茶畑は、主に中央高地に開かれ、植民地支配者はインド南部から労働者を輸入して働かせた。この時期、紅茶に加えてゴムやコーヒーのプランテーションも発展し、スリランカ経済は輸出依存型となった。この経済モデルは、植民地当局の利益を優先し、現地の人々には恩恵が少なかったが、国際的な経済ネットワークの一部となる転換点でもあった。

鉄道とインフラの整備

プランテーション農業の発展に伴い、スリランカでは鉄道や道路などのインフラが整備された。イギリス紅茶やゴムを効率よく輸出するために、首都コロンボから内陸の高地へと伸びる鉄道路線を敷設した。この鉄道は、物資の輸送だけでなく、人々の移動も大きく変え、都市と地方を結びつける重要な役割を果たした。また、港湾施設の拡張も進み、コロンボはアジアの主要な貿易拠点としての地位を確立した。これにより、スリランカは国際貿易のハブとしての役割を果たすようになった。

教育制度と文化の変革

イギリス統治下では、西洋式の教育制度が導入され、英語が主要な言語として広がった。特に都市部では、多くの学校が設立され、一部のスリランカ人は高等教育を受ける機会を得た。この教育制度は、後に独立運動のリーダーを輩出する基盤となったが、同時に英語と地元の言語の間に教育格差を生む結果ともなった。また、キリスト教の宣教師たちが学校を通じて布教活動を行い、スリランカの宗教文化にも影響を与えたが、仏教徒の間では反発も強まっていった。

社会と政治の緊張の高まり

植民地時代後期になると、スリランカ社会には植民地支配に対する不満が次第に高まった。プランテーション労働者の過酷な労働条件や、西洋式の教育によって生まれたエリート層との格差が原因で、多くの人々が不公平を感じていた。また、宗教や言語をめぐる対立も顕在化し、民族的・宗教的アイデンティティ意識が強まった。こうした状況の中、スリランカ人は次第に独立への道を模索し始め、後に独立運動へとつながる政治運動が芽生えていった。

第7章 独立への道:ナショナリズムと独立運動

植民地支配に対する不満の高まり

19世紀末から20世紀初頭にかけて、スリランカの人々は植民地支配に対する不満を強く抱き始めた。イギリスが支配する経済体制や政治制度は、現地の人々を疎外し、特権的な地位にあったのは主にイギリス人であった。教育を受けたスリランカ人エリート層の中には、欧の自由思想や平等の概念に触れ、次第に自国の独立を求める声が上がるようになった。こうして、植民地に依存しないスリランカの未来を切り開こうとするナショナリズムが芽生えていった。

ドン・スティーブン・セナナヤケのリーダーシップ

スリランカ独立運動の象徴的なリーダーとして浮かび上がるのが、ドン・スティーブン・セナナヤケである。彼は農業改革や教育の重要性を強く訴え、スリランカが自立できる国となるための基盤を築こうとした。セナナヤケは、人々の心を一つにまとめ、イギリスとの交渉により独立を勝ち取ろうとする穏健なアプローチを選んだ。彼のリーダーシップにより、独立への道は平和的な方法で進められ、スリランカは他の植民地とは異なる独自の歩みを見せることとなった。

第二次世界大戦と独立運動の加速

第二次世界大戦は、スリランカの独立運動を大きく後押しする出来事となった。戦争の影響でイギリスの支配力が弱まり、スリランカ国内でも独立の機運が高まった。戦時中、スリランカはイギリスに対する重要な基地として機能していたが、戦後、スリランカ人は自らの国を守り、運営する力を示した。これにより、イギリス植民地の独立を認める流れが加速し、スリランカはそのタイミングを逃さず、独立に向けた具体的な動きを進めた。

1948年、独立の達成

ついに1948年24日、スリランカは正式にイギリスからの独立を達成した。この歴史的な瞬間は、長い植民地支配の時代を終わらせるものであり、新たな希望に満ちた時代の幕開けとなった。セナナヤケは初代首相となり、彼の指導の下でスリランカは国家としての歩みを始めた。独立後も多くの課題が残されたが、この日はスリランカの人々にとって、誇りと自由を取り戻した瞬間であり、未来への大きな一歩となった。

第8章 内戦の背景と始まり(1983年)

シンハラ人とタミル人の対立

スリランカの内戦は、シンハラ人とタミル人の民族間の対立が深まったことが原因である。シンハラ人はスリランカの人口の大部分を占め、仏教信仰していた。一方、タミル人は少数派であり、ヒンドゥー教徒が多かった。イギリス植民地時代には、タミル人が教育や政府で優位に立っていたが、独立後の政府はシンハラ人を優遇する政策を進めた。これがタミル人の不満を呼び、徐々に対立が激化していったのである。

タミル・イーラム解放の虎(LTTE)の誕生

タミル人の中には、自分たちの権利を守るために独立した国家を求める者が現れた。その中で最も過激な組織が「タミル・イーラム解放の虎」(LTTE)である。LTTEは、スリランカの北部と東部にタミル人のための独立国家「タミル・イーラム」を樹立しようとした。彼らは武力闘争を選び、政府に対してゲリラ戦を展開した。LTTEの指導者であるヴェルピライ・プラバカランは、強力なカリスマ性を持ち、組織は短期間で急速に成長した。

1983年、内戦の勃発

1983年、スリランカ内戦がついに始まった。きっかけは、LTTEによる政府軍兵士の殺害事件である。これに対して、シンハラ人の大規模な報復が行われ、タミル人に対する暴力が各地で勃発した。この一連の事件は「ブラック・ジュライ」として知られ、スリランカの歴史において大きな転換点となった。この暴力的な衝突により、タミル人の間ではさらに独立を求める声が強まり、戦争は一気に激化したのである。

政治の不安定と和平への挑戦

内戦の背景には、スリランカ国内の政治的不安定もあった。政府はタミル人の不満に応えることができず、和平交渉もうまくいかなかった。1980年代を通じて、両陣営は激しい戦闘を繰り返し、多くの市民が犠牲となった。国外からの調停の試みもあったが、双方の主張は平行線をたどり、和平の道は遠のいていった。こうして、スリランカは長期にわたる悲劇的な内戦の時代に突入したのである。

第9章 内戦の激化と国際的な影響

争いが激化するスリランカ内戦

1980年代から1990年代にかけて、スリランカ内戦はさらに激しさを増した。政府軍とタミル・イーラム解放の虎(LTTE)は、スリランカ全土で衝突を繰り返し、都市や村々は戦火に包まれた。特に北部と東部は戦争の中心地となり、多くの住民が避難を余儀なくされた。LTTEはゲリラ戦術を駆使し、政府軍に対して激しい抵抗を続けた。戦闘が長引く中、双方に多くの犠牲者が出て、戦争は一向に終わる気配を見せなかった。

国際社会の介入と和平の模索

内戦の激化に伴い、国際社会もスリランカの状況に注目するようになった。特にインドはスリランカに近接する大国として、紛争解決に向けた仲介役を担おうとした。1987年、インドはスリランカ政府とLTTEの間で和平協定を仲介し、インド平和維持軍を派遣した。しかし、協定は実現せず、逆にインド軍とLTTEの間で新たな戦闘が勃発した。この失敗は、スリランカ内戦が単に国内問題ではなく、国際的な影響力を持つことを示した。

人道危機と戦争犯罪

内戦が続く中で、スリランカ国内では深刻な人道危機が発生した。戦闘によって多くの民間人が犠牲となり、避難民が急増した。また、両陣営ともに戦争犯罪が疑われる行為が報告され、国際的な批判が高まった。LTTEは自爆テロを用いて政府や軍の要人を標的にし、政府軍は反乱軍を鎮圧する過程で人権侵害を行ったと非難された。こうした状況下、スリランカ内戦は国際的な人権団体やメディアからの厳しい視線にさらされることとなった。

平和への道のりと国際的支援

1990年代後半から2000年代にかけて、スリランカ政府とLTTEの間で和平交渉が複数回行われた。ノルウェーなどの国際的な仲介者が和平プロセスを支援し、一時的な停戦合意も成立した。しかし、根深い対立を解消するには至らず、内戦は断続的に続いた。国際社会は、スリランカに対する経済的支援や人道援助を提供し、内戦の解決を目指したが、和平の道のりは険しく、完全な終結にはさらなる時間と努力が必要だった。

第10章 戦後スリランカの挑戦:再建と和解

内戦終結とその瞬間

2009年、スリランカ内戦はついに終結を迎えた。26年にわたる長い戦いの末、政府軍はタミル・イーラム解放の虎(LTTE)を完全に制圧した。国内外の多くの人々が平和への希望を抱いたが、勝利は一方的なもので、タミル人地域では依然として深い傷跡が残された。内戦終結の瞬間は、スリランカに新しい時代の始まりを告げたものの、それはまた、民族間の対立や信頼回復に向けた困難な課題が待ち受けていることを意味していた。

戦後復興の道

戦争が終わった後、スリランカは国の復興に着手した。破壊されたインフラの再建や、避難民の帰還が最優先課題となった。特に北部と東部の地域では、長年の戦闘によって町や村が壊滅的な被害を受けていた。政府は道路や学校、病院の再建を進め、経済復興に向けて外国からの支援も受けた。しかし、物理的な再建だけではなく、人々の心の中に残る痛みや不信を癒すことが、戦後復興の真の挑戦であった。

和解プロセスの難航

戦後、スリランカ政府は民族間の和解を目指す政策を掲げたが、その道のりは決して容易ではなかった。タミル人は、戦争中に多くの命が失われ、コミュニティが分断されたことで強い不満を抱いていた。一方で、政府側も戦争犯罪の責任を問われることを恐れ、真摯な和解の場を設けることに慎重であった。国際社会からも圧力がかかり、真実と和解のための委員会が設立されたが、両陣営の不信感は根強く、進展は遅々として進まなかった。

スリランカの未来への展望

現在、スリランカは戦争の傷跡を抱えながらも、平和と繁栄を目指して歩み続けている。観業や農業などの経済再生が進む一方で、民族間の和解と人権問題の解決は依然として課題である。若い世代は、戦争を経験していない新しい価値観を持ち始めており、未来に向けた希望が少しずつ広がっている。スリランカが真に安定した平和国家となるためには、過去の教訓を活かし、多様性を尊重する社会を築くことが不可欠である。