基礎知識
- 李賀とは何者か
李賀(790年-816年)は、中国唐代の詩人であり、独特な幻想的な作風で知られるが、短命に終わったため作品数は限られている。 - 李賀の詩風と特徴
李賀の詩は神秘的かつ奇想的な表現が特徴であり、幻想的な情景や鬼神を扱うことで、同時代の詩人とは一線を画していた。 - 唐代の社会と文学の背景
李賀が活躍した唐代中期は、安史の乱(755年-763年)後の動乱期であり、政治的混乱が文学にも影響を与えていた。 - 李賀の生涯と挫折
科挙受験資格を巡る問題で政治的な不遇を受けた李賀は、志を果たせぬまま26歳の若さで病没した。 - 後世への影響と評価
李賀の詩風は後世の詩人に大きな影響を与え、「詩鬼」と称され、李白・杜甫と並ぶ独特な詩的世界を築いたと評価される。
第1章 李賀とは何者か:幻視の詩人の生涯
名門に生まれた異端児
李賀は、唐代の名門・隴西李氏の一員として生まれた。父・李晋粛は学識のある官吏であり、幼い李賀は詩才を伸ばす環境に恵まれた。しかし、彼の才能は単なる優秀さにとどまらず、常人離れした幻想的な世界観を伴っていた。彼は幼少の頃から奇妙な言葉を紡ぎ、周囲の人々を驚かせたという。伝説によれば、十歳の頃に「天上の宮殿はどんなものか?」と問われ、瞬く間に詩を詠んで周囲を圧倒したという。唐代の詩壇にはすでに李白や杜甫の影響が色濃かったが、李賀は彼らとは異なる路線を歩むことになる。
科挙を阻まれた若き詩鬼
李賀は当然のように科挙を目指した。しかし、彼の夢は理不尽な理由で砕かれる。唐代には「父の名を避けるべし」という習わしがあった。彼の父「晋粛」の「晋」という字が科挙試験の「進士(晋士)」と音が似ていたため、儒者の韓愈が「李賀は父の名を冒涜することになる」と進言したのだ。結果、彼は受験資格を失った。これは当時の儒教的価値観によるものであり、韓愈の意見が絶対的なものではなかったが、当時の風潮ではどうにもならなかった。若き才能を封じられた李賀は、やがて詩作の道へと本格的に傾倒していく。
官僚としての短い日々
科挙を受けられなかった李賀だが、幸運にも宮廷に仕える道は残されていた。彼は監察御史の補佐役として召し抱えられる。しかし、政治の世界は詩人の心にはそぐわなかった。官職に就いたものの、彼の心は自由を求めてさまよい、役人としての務めに満足することはなかった。宮廷内では彼の異質な言動が目立ち、風変わりな詩作が誤解されることもあった。彼の詩には妖怪や鬼神が登場し、宮廷の格式高い詩とは一線を画していた。結果として、彼は官職を辞して放浪詩人としての人生を選ぶことになる。
26年の短すぎる人生
李賀の人生は26歳で幕を閉じる。詩作に打ち込み、宮廷から離れたものの、その体は病に侵されていた。彼の死因には諸説あるが、過労と精神的な疲労が原因とされる。晩年の彼は自らの運命を呪うかのような詩を多く残している。代表作「夢天」では、神々の世界を夢見る一方で、現実の無情さを鋭く表現している。彼の詩は死後も評価され続け、後世の詩人たちに「詩鬼」と称えられた。李賀の幻想的な世界観は、短命の詩人だからこそ生み出せたものだったのかもしれない。
第2章 唐代の文学と社会:李賀を取り巻く世界
安史の乱がもたらした激動の時代
8世紀の唐王朝は、一見すると栄華を極めていた。しかし、その裏では安史の乱(755年–763年)による混乱が続き、国力は大きく衰退していた。かつての長安は世界の中心だったが、戦乱によって多くの人が命を落とし、地方では反乱や略奪が相次いだ。中央政府の支配力が弱まり、地方軍閥の台頭が始まった。この動乱は人々の価値観にも影響を与え、政治よりも芸術に救いを求める風潮が強まった。そんな時代背景の中で生まれた詩人たちは、戦乱の悲哀や失われた平和を詠みつつも、新たな文学の潮流を築こうとしていた。
黄金期の終焉と詩壇の変化
唐詩の黄金時代は李白や杜甫の活躍によって形作られたが、李賀が生きた時代にはすでに彼らの影響が強く残りつつも、新たな表現の模索が始まっていた。安史の乱以降、詩はより個人的な感情を強く反映するものへと変化した。杜甫が現実を深く憂い、白居易が庶民の声を詩にしたように、詩人たちは社会の不安を詠み込むようになった。しかし、その中で李賀は幻想と怪異の世界を描き、他の詩人とは異なる独特な作風を確立していく。彼の詩は、ただ美しいだけではなく、時には異世界のような雰囲気を醸し出していた。
儒教的価値観と詩人の生き方
唐代の社会では、儒教の影響が依然として強く、人々の価値観を支配していた。科挙制度を通じて官僚になることが成功の証とされ、詩人たちも官職に就くことを目指した。李賀もまた、父の名が原因で科挙を受験できなかったが、そもそも当時の社会では詩人が独立した職業として認められることはなかった。詩作はあくまで官僚の教養の一部であり、詩を詠むことだけでは生計を立てるのは難しかった。このような状況の中で、李賀は伝統的な枠組みにとらわれず、異端の詩人として独自の道を歩んだのである。
詩に宿る夢と現実の狭間
李賀の詩は、現実世界の政治や戦乱とは距離を置き、より幻想的な世界を描くことに集中していた。しかし、それは現実逃避ではなく、時代の苦悩を異なる角度から表現したものだった。唐代の詩人たちは現実社会の厳しさを嘆くことが多かったが、李賀は幽霊や神話的な存在を使って、人間の運命や死生観を象徴的に語った。彼の詩はまるで夢の中に迷い込んだかのような感覚を読者に与え、その斬新な表現は後世の文学に多大な影響を与えることとなる。
第3章 李賀の詩風:幻想と奇想の美学
夢と現実の交錯する世界
李賀の詩を読むと、まるで夢の中をさまよっているような錯覚を覚える。彼の作品には、神々が住む宮殿、雲に乗る仙人、幽霊のささやきが登場し、現実世界とは異なる幻想的な景色が広がっている。例えば「夢天」では、夜の静寂の中で天界を夢見るような世界が描かれ、現実のしがらみから解き放たれた異空間が生まれる。李白の詩が現実世界の美しさを称えるのに対し、李賀の詩は見えざる世界を描き、読者を異次元へと誘う。その幻想性こそが、彼の詩の最大の魅力である。
妖怪と鬼神が息づく詩の世界
李賀の詩には、人ならざるものが頻繁に登場する。彼の作品には鬼神や妖怪が詠み込まれ、読者を不気味な幻想世界へと引き込む。例えば「雁門太守行」では、荒涼とした戦場に亡霊の気配が漂い、死者の魂がさまようような描写がされている。このような怪異的な要素は、中国古来の道教や神話の影響を受けている。唐代の詩人の中でも、ここまで積極的に超自然的な存在を取り入れた者は少なく、彼の詩は単なる叙情詩ではなく、まるで幻想文学の原点のような趣を持っている。
華麗で異彩を放つ詩語
李賀の詩には、他の詩人にはない独特な言葉遣いが見られる。彼は華麗な比喩や大胆な造語を駆使し、詩の世界に独自の色彩を加えた。例えば「金銭塘行」では、黄金色の池に映る幻影を通じて、人間の儚さを表現している。彼の言葉には鋭さと鮮烈なイメージがあり、視覚的な美しさが際立っている。また、李賀は音の響きにもこだわり、詩を朗読したときのリズムや余韻が独特な味わいを生んでいる。彼の詩は、ただ意味を理解するのではなく、音楽のように楽しむこともできるのである。
夢幻と哀愁が交差する世界観
李賀の詩は、幻想的でありながら、どこか哀愁を帯びている。彼の作品には、夢や神秘的な情景が描かれる一方で、人生の儚さや挫折が滲み出ている。「傷心愁絶」はその典型であり、壮麗な幻想の世界を描きつつも、根底には現実への苦しみがある。彼の詩の世界は、まるで手を伸ばせば消えてしまう幻のようだ。華麗な言葉と奇想のイメージに彩られながらも、その奥には深い孤独と悲しみが潜んでいる。この両極の感情が交錯することこそが、李賀の詩が多くの人々を魅了し続ける理由なのである。
第4章 代表作の鑑賞:李賀の詩を読む
天上の宮殿を夢見る「夢天」
李賀の代表作「夢天」は、彼の幻想的な詩風を象徴する作品である。この詩では、詩人の魂が天界をさまよい、天上の宮殿の輝きを目撃する。空には金色の光が満ち、神々が住まう宮殿が静かにそびえ立つ。だが、その壮麗な光景の背後には、現実世界からの逃避や、叶わぬ夢への憧れが潜んでいる。李賀は、天を仰ぎながらも地上に縛られた人間の悲哀を巧みに表現しているのだ。「夢天」は、ただ幻想的なだけでなく、人生の儚さや憧れの叶わぬ苦しみを詠んだ詩でもある。
戦場に響く亡霊の叫び「雁門太守行」
「雁門太守行」は、李賀の異色の戦詩である。戦場の不穏な空気が漂い、将軍の鎧が鈍く光る。北方の戦地で、兵士たちは沈黙の中で敵襲を待つ。そこには、過去に命を落とした戦士たちの魂が漂っているかのような雰囲気がある。この詩には、激しい戦いの場面は描かれず、静けさの中に死の気配が充満している。李賀は戦の壮絶さを直接語らず、異世界のような情景を通じて、読者に戦争の恐怖と悲哀を感じさせるのである。「雁門太守行」は、単なる戦記詩ではなく、戦の闇を幻想的に描いた作品である。
黄金色に輝く幻「金銭塘行」
「金銭塘行」は、李賀の詩の中でも特に華麗な作品である。詩の舞台は、金色の池が光り輝く幻想的な世界。波が金の貨幣のようにきらめき、その輝きの中に人生の無常が映し出される。ここには、李賀特有の視覚的な美しさが詰まっている。黄金の輝きは一見すると豊かさや幸福を象徴するようだが、それはすぐに消え去る幻にすぎない。まるで、人間の栄光や夢が一瞬の光のように儚く消えることを示しているかのようだ。「金銭塘行」は、現実と幻想の境界を曖昧にし、読者を美しくも儚い世界へと誘う。
夢幻と孤独の詩人
李賀の詩には、どの作品にも幻想的な要素と哀愁が入り混じっている。「夢天」の神秘、「雁門太守行」の戦場の亡霊、「金銭塘行」の儚き輝き——彼の作品は、現実と夢の間をさまようような不思議な魅力を持っている。そして、それらは彼自身の人生とも重なる。科挙を拒まれ、短命に終わった李賀は、詩の中で現実とは異なる世界を創り出したのかもしれない。彼の詩は、単なる幻想ではなく、孤独な魂が見た世界の記録であり、読む者の心に深く響くのである。
第5章 李賀と李白・杜甫の比較:詩人としての独自性
李白の豪放、杜甫の憂国、李賀の幻想
唐代を代表する詩人として李白、杜甫、李賀の名が挙げられるが、三者の作風は大きく異なる。李白は天才的な感性で自由奔放に詩を詠み、杜甫は社会への深い洞察と憂国の念を詩に込めた。一方、李賀は幻想の世界を描くことに特化し、妖怪や神々、夢幻的な景色を詩に取り入れた。李白が「青天に向かって笑う」詩人ならば、杜甫は「世の中を悲しみ、涙する」詩人、そして李賀は「夢の中で異世界を彷徨う」詩人であった。その独自性こそが、後世において彼を「詩鬼」と呼ばしめる所以である。
壮大な叙情詩人・李白との違い
李白の詩は、壮大な叙情性と豪快さに満ちている。彼の「将進酒」は酒を酌み交わしながら人生を謳歌する姿を描き、「庐山谣」では大自然の壮麗さを詠んでいる。一方、李賀の詩には豪放な明るさはなく、むしろ繊細な恐れや哀愁が漂う。例えば「夢天」では、夜空に浮かぶ神々の宮殿が描かれ、現実世界との隔絶が感じられる。李白の詩が力強い「陽」の世界ならば、李賀の詩は神秘的で暗示に満ちた「陰」の世界を創り上げている。両者はまったく異なる詩的空間を築きながらも、その唯一無二の個性によって唐代詩壇に君臨している。
杜甫の写実と李賀の幻想
杜甫は、唐代の戦乱と民衆の苦しみを鋭く描写した写実の詩人である。「春望」では戦乱に荒廃した長安の姿を、「石壕吏」では官吏による過酷な徴兵を生々しく伝えている。これに対し、李賀の詩には現実の社会問題はほとんど登場せず、非現実的なモチーフを中心に詩が展開される。例えば「雁門太守行」では、戦場の静寂に亡霊の気配が漂い、ただの戦詩ではなく幻想的な空気を纏っている。杜甫が目の前の現実を嘆く詩人ならば、李賀は現実を超越し、異界の扉を開く詩人であった。
「詩仙」「詩聖」「詩鬼」が生み出した異なる詩世界
李白は「詩仙」、杜甫は「詩聖」、そして李賀は「詩鬼」と称される。李白は自由奔放な仙人のように詩を詠み、杜甫は社会の現実と向き合う聖者のように詩を残した。一方で、李賀は鬼才を発揮し、誰にも似ていない幻想的な詩世界を創り上げた。彼の詩は、まるで夢と現実の狭間をさまようような独特の美しさを持ち、李白や杜甫とも異なる魅力を放っている。それぞれの詩は唐代文学における異なる役割を担い、それぞれの世界観が融合することで、唐詩の豊かさが生まれたのである。
第6章 科挙制度と李賀:政治的挫折の背景
若き才能を阻んだ不条理
唐代において、才能ある者が官職に就くための最も重要な手段は科挙試験であった。この試験に合格すれば、皇帝の側近や地方の長官として活躍できる。しかし、李賀にはその道が閉ざされていた。理由は驚くほど理不尽なものであった。当時、「父の名を避ける」という儒教の伝統があり、李賀の父・李晋粛の「晋」の字が「進士(科挙の一種)」と同音であったため、官吏の韓愈が「李賀が進士科を受験すれば、父の名を汚すことになる」と進言したのだ。結果として、李賀は受験資格を失い、詩人として生きるしかなかった。
科挙試験がもたらした功と罪
唐代の科挙制度は、貴族だけでなく庶民にも官職の道を開いた画期的な仕組みであった。しかし、一方で極端な形式主義や門閥の影響を受けることもあり、公平とは言い難い部分もあった。たとえば、詩の才能に長けた白居易は若くして進士に合格し、官僚としての道を歩んだ。しかし、李賀のように理不尽な理由で受験資格を剥奪される例も少なくなかった。科挙は才能を見極める制度でありながら、時にその才能を潰す制度でもあったのだ。李賀がもし受験できていたならば、官僚としてどのような人生を歩んでいたのか、今となっては知る術がない。
伝統と革新の狭間で
李賀を科挙から遠ざけた「父名忌避」の風習は、儒教の教えによるものであった。儒教では、親の名を尊び、むやみに口にすることを避けるべきとされた。これが転じて、名前の一部が試験制度の用語と重なることすら忌避される風潮が生まれた。しかし、同時代には韓愈のような儒学者だけでなく、柳宗元のように伝統に疑問を投げかける知識人もいた。儒教的価値観の中で生きながらも、それに縛られず自由な表現を求めた詩人たちは、この時代の矛盾と向き合いながら作品を生み出していたのである。
李賀が選んだもう一つの道
科挙への道を閉ざされた李賀は、詩の世界に生きることを決意する。しかし、詩作のみで生計を立てることは難しく、彼は一時的に官職に就くも、すぐに辞職する。彼の詩には、科挙に対する怨嗟や、果たせなかった夢への想いがにじんでいる。「詩鬼」と呼ばれる彼の作品は、まさに社会の理不尽さに抗う詩人の魂そのものであった。彼が官僚として成功する姿を想像するのは容易ではないが、もし試験を受けていたら、李賀の詩世界は生まれなかったかもしれない。運命の皮肉が、彼を偉大な詩人にしたのである。
第7章 李賀の詩にみる死と神秘性
夢と死が交錯する詩世界
李賀の詩には、夢と死が絡み合う幻想的な世界が広がっている。彼の作品では、死は終わりではなく、新たな世界の扉として描かれることが多い。「夢天」では、詩人の魂が夜空を漂い、天界の宮殿を覗き見る。この詩には現実と幻想が曖昧に交錯し、生者と死者の境界が消え去るような感覚がある。夢を通して未知の世界を垣間見ることは、唐代の文学では珍しくないが、李賀ほど一貫して幻想の中に生を見出した詩人はほとんどいない。彼の詩は、まるで別世界への入り口のように、不思議な魅力を放っている。
幽霊と神々が織りなす異世界
李賀の詩には、人ならざる存在が頻繁に登場する。妖怪、幽霊、仙人、神々——彼の作品はこれらの異形の者たちで満ちている。「雁門太守行」では、戦場の静寂の中に亡霊たちの気配が漂い、生者と死者が共存する異様な空気を生み出している。これは、当時の道教的世界観とも深く関係している。道教では、死後の魂はさまよい続けると考えられ、神仙思想では、修行によって不死の境地に至ることが可能とされた。李賀は、こうした思想を詩の中に巧みに取り入れ、幻想的な世界を構築しているのである。
哀愁を帯びた死生観
李賀の詩に登場する死の世界は、ただ恐ろしいものではなく、どこか切なく、哀愁を帯びている。「金銭塘行」では、黄金の池がきらめく中、人間の運命の儚さが詠われる。この詩には、「人生は一瞬の輝きに過ぎず、やがて消えていく」という虚無的な視点がある。唐代の詩人たちの多くが現実の悲劇を嘆くのに対し、李賀は非現実的な幻想の中に哀しみを映し出した。彼にとって、死とは単なる終焉ではなく、人生の美しさと儚さを際立たせる要素であったのかもしれない。
生者と死者の狭間に立つ詩人
李賀は、まるで生と死の境界を行き来する詩人のようであった。彼の作品には、現実を超越した世界が広がり、死者の声が聞こえてくるような錯覚を覚えることすらある。「傷心愁絶」では、過去の哀しみが幽霊のように忍び寄り、詩人の心を締めつける。李賀が「詩鬼」と呼ばれるのは、その独特の死生観にある。彼は、死を恐れるのではなく、それを通して人生を見つめた。彼の詩を読むことは、夢と現実、死と生が交錯する、不思議な世界を旅することに等しいのである。
第8章 李賀の評価の変遷:誤解された天才
生前の孤独な評価
李賀の生涯は短く、その詩風も特異であったため、生前の評価は決して高くはなかった。彼の幻想的で怪異に満ちた詩は、当時の主流だった杜甫や白居易の現実的な詩風とは異なり、異端視された。儒教的価値観が重んじられる唐代において、鬼神や夢を題材とする詩は軽んじられる傾向にあったのである。さらに、科挙の不遇も相まって、李賀の名は当時の詩壇で大きく称賛されることはなかった。しかし、彼の詩には熱烈な支持者もおり、特に韓愈は彼の才能を高く評価し、「奇才」として推奨していたことが記録されている。
宋代の再評価と文学的価値
時代が下るにつれ、李賀の詩の価値は再評価されていった。特に宋代になると、詩の評価基準が多様化し、彼の幻想的な作風が独自の魅力として認識されるようになった。蘇軾や欧陽脩といった文学者たちは、詩の表現の幅を広げることに関心を持ち、李賀の奇抜な表現や大胆な想像力を評価した。さらに、宋代は道教思想が再び盛んになった時期でもあり、李賀の詩に見られる幽玄な世界観は、時代の精神とも共鳴していた。その結果、彼の作品は単なる異端詩ではなく、独自の文学的価値を持つものと認識されるようになった。
明清時代の「詩鬼」としての確立
明清時代に入ると、李賀の評価はさらに高まり、「詩鬼」という異名が定着する。これは、彼の詩がまるで鬼神の声を宿しているかのような、不気味で神秘的な雰囲気を持っていることに由来する。この時代には、怪異や幻想をテーマとする文学が盛んになり、『聊斎志異』のような作品が生まれたこともあり、李賀の詩の妖しさや独特な美意識が、当時の文人たちの嗜好に合致したのである。特に、清代の王士禎は李賀を高く評価し、彼の詩風が後の怪異文学に与えた影響を強調している。
日本での受容と近代の評価
李賀の詩は、中国国内だけでなく、日本にも影響を与えた。平安時代には漢詩が盛んに詠まれ、藤原定家などの歌人たちは唐詩を学びながら和歌を洗練させたが、その中でも李賀の幻想的な詩風は、日本の美意識に合致する部分があった。近代に入ると、彼の詩は中国文学の研究者によって再び注目され、怪奇幻想文学の源流の一つとして評価されるようになった。現代においても、彼の詩の独特な表現や幻想的な世界観は、多くの読者を魅了し続けている。李賀は、時代を超えて愛される詩人として、その存在感を増しているのである。
第9章 李賀と後世の詩人たち:影響の系譜
宋代詩人たちへの影響
宋代に入ると、詩のスタイルは唐代の華麗な表現から、より理知的で洗練されたものへと変化していった。しかし、李賀の幻想的な詩風は、一部の詩人たちに強い影響を与えた。蘇軾は「詩に深みをもたらすのは、奇想と異色である」と述べ、李賀の大胆な比喩や神秘的な描写を称賛した。また、黄庭堅は李賀の詩を独自の韻律美と結びつけ、彼の幻想的な語彙を自身の作品に取り入れた。宋詩の主流は写実的であったが、李賀の異端的な美意識は、詩壇の奥深さを広げる役割を果たしたのである。
明清時代における再評価
明清時代には、詩の解釈が多様化し、李賀の「詩鬼」としての個性が改めて注目されるようになった。とくに、清代の王士禎は「神韻説」を唱え、詩の本質は言葉の響きや想像力の広がりにあると主張した。この観点から、李賀の詩が持つ夢幻的な響きや、幽玄な雰囲気が高く評価された。また、怪異をテーマにした文学が流行する中で、李賀の作品は『聊斎志異』などの奇談文学とも共鳴し、新たな視点で読まれるようになった。彼の詩は単なる古典詩ではなく、異世界への扉を開く鍵として受け入れられたのである。
日本文学への影響
李賀の詩は、日本の文学者にも影響を与えた。平安時代には、漢詩が貴族の教養として重視され、藤原公任の『和漢朗詠集』にも唐詩が多く収録されている。しかし、特に李賀の詩風が日本文学に影響を与えたのは江戸時代以降である。松尾芭蕉は『奥の細道』で幻想的な風景を詠み、世俗を超えた美意識を追求したが、これは李賀の詩に見られる「現実と夢の交錯」に通じるものがある。また、近代の萩原朔太郎は、「李賀の詩は詩の中の詩だ」と評し、その幻想性に強く共感していた。
近現代における李賀の遺産
李賀の詩は、現代においても独自の輝きを放ち続けている。20世紀の中国では、魯迅が彼の詩を高く評価し、「詩の可能性を広げた存在」として言及している。また、幻想文学や怪奇小説の分野でも、李賀の影響は無視できない。例えば、ラヴクラフトの「コズミック・ホラー」は、異世界の不可思議な美と恐怖を描くが、その感覚は李賀の詩に通じるものがある。現代の詩人や作家たちが李賀を再解釈し続けることで、彼の幻想世界は今もなお生き続けているのである。
第10章 李賀の詩と現代:幻想文学への影響
幻想文学の先駆者としての李賀
李賀の詩は、ただの古典詩ではなく、幻想文学の源流ともいえる存在である。彼の詩には、現実を超えた異世界が広がり、鬼神や妖怪、幽霊といった超自然的な存在が生き生きと描かれる。このような世界観は、後の中国怪奇小説や道教的神仙思想にも影響を与えた。例えば、明代の『聊斎志異』には、李賀の詩に通じる怪異の雰囲気が見られる。また、西洋の幻想文学と比較しても、彼の詩はエドガー・アラン・ポーやラヴクラフトのような、現実と夢の狭間にある怪奇な世界観を彷彿とさせるのである。
日本文学との交差点
李賀の幻想的な詩風は、日本文学にも影響を与えている。平安時代の貴族たちは、唐詩を愛し、藤原定家らの歌人はその詩情を学んだ。しかし、李賀の詩風が本格的に注目されたのは江戸時代以降である。江戸時代の俳人、松尾芭蕉は、李賀の詩に見られる「静けさの中に潜む異世界の気配」を好み、俳句の中にその感覚を取り入れた。また、近代になると、萩原朔太郎は李賀の詩を「幻想詩の極致」と称し、日本の幻想文学における指針とした。彼の詩の持つ幽玄な世界観は、日本の文学者たちにとっても大きな刺激となったのである。
近代文学と李賀の再評価
20世紀に入ると、李賀の詩は再び脚光を浴びるようになる。魯迅は李賀の詩を「詩の新たな可能性を開いたもの」と評価し、中国近代文学における「詩の自由な表現」を象徴するものとした。また、西洋では、フランスの象徴派詩人たちが李賀の詩と共鳴する表現を見せた。たとえば、ボードレールの『悪の華』に漂う幻想性や神秘性は、李賀の詩のもつ妖しさと共通する部分がある。李賀は、単なる歴史上の詩人ではなく、幻想文学という大きな潮流の中で再評価されているのである。
現代文化に息づく李賀の世界
李賀の詩の影響は、現代のポップカルチャーにも見られる。幻想的な世界を描くファンタジー文学やアニメ、ゲームの世界観の中に、彼の詩と共鳴するものがある。たとえば、中国の武侠小説や仙侠映画には、李賀の詩に見られる「神秘的な風景」や「死者の世界を旅する詩的イメージ」が色濃く反映されている。また、日本のアニメやゲームにおいても、彼の詩が持つ幻想的な美意識が活かされた作品が多く存在する。李賀の詩の魔力は、千年以上の時を超えてなお、人々の想像力を刺激し続けているのである。