李斯

基礎知識
  1. 李斯とは何者か
    李斯(りし)は、戦国時代末期から秦の始皇帝に仕えた政治家・思想家であり、秦の統一と中央集権体制の確立に貢献した人物である。
  2. 法家思想と李斯の関係
    李斯は韓非子と並ぶ法家の代表的な思想家であり、厳格な法治主義を推進し、始皇帝のもとで中央集権国家の制度を整えた。
  3. 焚書坑儒と思想統制
    李斯は、異なる思想を弾圧するために「焚書坑儒」を主導し、法家思想に基づく国家統治を強化した。
  4. 秦の中央集権制度の構築
    李斯は郡県制を導入し、地方豪族の力を削ぎ、官僚制を強化することで、皇帝を頂点とする強力な中央集権国家を築いた。
  5. 李斯の失脚と
    始皇帝後、宦官趙高との政争に敗れ、偽詔によって捕らえられ、最終的に処刑されるという悲劇的な末路を迎えた。

第1章 李斯とは何者か ― 戦国の動乱を生き抜いた男

寒門からの挑戦 ― 荀子のもとで学ぶ青年

李斯は戦国時代末期、楚のの小さなに生まれた。若い頃、地方役人として働くが、ある日、役所の倉でが食べ物を漁るのを見て人生観が変わる。宮殿のは豊かな食事を楽しむが、倉のは常に飢えと危険にさらされていた。李斯は「環境が運命を決める」と悟り、上を目指す決意を固める。そして、斉のに渡り、名高い儒学者・荀子の門下に入る。荀子の教えの中でも「人の性はであり、教育と法によって正される」という考えが、後の李斯の思想の礎となる。

秦国への旅立ち ― 法家の道を選ぶ

荀子の門下にはもう一人、韓非という天才がいた。韓非は法家思想を極めたが、どもりがちで弁舌に優れなかった。李斯は彼の思想に共鳴しながらも、実践的な政治を志す。やがて、彼は「法家の思想を最も実現できるはどこか」と考え、強・秦へ向かう決意をする。当時の秦は商鞅の改革によって強大な軍事国家へと成長していた。李斯は秦王政(後の始皇帝)に仕える機会を得ると、自らの才覚と弁舌で頭角を現し、法家の理念を政治の場で実践する道を切り開いていった。

宮廷での台頭 ― 王の信頼を勝ち取る

李斯は最初、秦の宰相呂不韋のもとで働くが、すぐに秦王政の目に留まる。王に「天下統一のためには何が必要か」と問われた李斯は、「六伝統を残してはならない」と進言する。当時、秦の内部では「戦争が終われば、他の貴族や文化を尊重すべき」との意見もあった。しかし、李斯は「それでは再び分裂する」と断じた。法をもって秩序を築くという李斯の提案に、若き秦王政は深く感銘を受ける。ここから、李斯は単なる学者ではなく、秦の中枢で政策を動かす実務家としての道を歩み始める。

「天下統一」への布石 ― 歴史を動かす決断

李斯の出世は、戦国時代の終焉と深く結びついていた。彼は「統一後の国家運営こそが真の勝負」と考え、戦の各が持つ異なる制度や文化を統一するための政策を立案する。例えば、文字や度量衡の統一の構想は、この頃から李斯の頭の中にあった。彼は秦王政に「天下の覇権は軍事力だけでなく、統治の仕組み次第で決まる」と説き、中央集権体制の構築を進言する。この考えが、後の秦帝国の制度の根幹を形成していく。戦の混乱の中、一人の青年が歴史の表舞台へと躍り出たのである。

第2章 法家思想と李斯 ― 秦の統治哲学

覇道を支えた思想 ― 法家とは何か

戦国時代は、群雄割拠の混乱が続く中で、どのも生き残るために新たな統治の形を模索していた。その中で生まれたのが法家思想である。法家は「や礼では人は統治できない。国家を強くするには、厳格な法律と強力な権力が必要だ」と説いた。商鞅は秦でこの思想を実践し、農民に土地を与え、軍功によって身分を決める制度を作った。韓非はさらに「信賞必罰」、つまり功績を立てた者には必ず報酬を、法を破った者には容赦ない罰を与えるべきと主張した。李斯は、この韓非の思想をさらに現実的な政治に応用しようとしたのである。

韓非との出会い ― 友情と悲劇

李斯が学んだ荀子の門下には、もう一人、法家思想を極めた男がいた。韓非である。彼は天才的な思索家でありながら、生来の吃で弁論が苦手だった。しかし、彼の書いた『韓非子』は理論的に洗練され、李斯もその思想に深く影響を受けた。だが、二人の運命は残酷な方向へ進む。李斯は秦に仕官し、韓非は故・韓に留まる。やがて秦が韓を攻めると、韓非は捕らえられ、李斯は旧友を助けようとするが、宦官趙高の策略もあり、最終的に韓非は獄中でを飲んでぬ。李斯にとって、これは法家の理念を推し進める決意を固める一つの転機となった。

李斯の政治理念 ― 「君主のための国家」

李斯は「国家は君主のものであり、民衆は法によって統治されるべきだ」と考えた。彼は儒家のように道を重視する思想には批判的であり、「人は生まれながらに私利私欲を持つため、厳格な法によってのみ秩序が保たれる」と主張した。彼は秦王政(後の始皇帝)に対し、法を中とした政治を説き、「官僚の才能によってを運営し、地方の権力を削ぎ、皇帝を頂点とする統一国家を作るべきだ」と進言した。李斯の政治哲学は、個人の自由よりも国家の安定を最優先とするものであり、これがのちに秦の統治体制の根幹となる。

「法治国家」の誕生 ― 秦を変えた改革

李斯は、秦の支配を盤石にするため、々の制度改革を断行した。まず、法令を全に統一し、どの地域でも同じ基準で裁かれる仕組みを整えた。さらに、度量衡や文字の統一を進め、異なる文化を持つ六の住民を「秦人」として一つにまとめ上げた。また、伝統的な封建制度を廃止し、郡県制を導入することで、王の命令が全隅々まで届く仕組みを作った。李斯の改革は、のちの中国家体制の礎となり、中央集権国家の始まりを告げるものとなったのである。

第3章 秦の統一と李斯の役割

戦国最後の戦い ― 天下統一への道

紀元前230年、秦王政(後の始皇帝)は、戦七雄を滅ぼし、中統一を果たす決意を固めた。この壮大な計画の陰には、李斯の知略があった。まず、韓を降し、次いで趙・魏を攻略し、李斯は外交と謀略で戦を有利に進めた。趙を滅ぼす際、李斯は敵将李牧を内部から離反させ、魏に対しては秦の軍事力を誇示して降伏させた。こうして、秦はわずか10年余りで燕・楚・斉をも平定し、紀元前221年、ついに中統一を達成する。だが、これは新たな国家体制を築くための始まりに過ぎなかった。

征服から統治へ ― 李斯の戦略

統一後、秦の最大の課題は「どう統治するか」だった。六文化や制度はバラバラであり、そのままでは再び分裂の危険があった。李斯は、戦国時代の封建制を廃止し、郡県制を導入することで、秦の支配を全に徹底させようとした。さらに、六の貴族たちを都・咸陽へ移住させ、地方の権力を削ぎ取る政策を提案した。こうした改革により、秦の支配は確立されたが、各地では反発も強まっていた。それでも李斯は「法による統治こそが乱世を終わらせる唯一の道」と信じていた。

統一の象徴 ― 文字・度量衡の統一

李斯は、秦を真の意味で統一するため、制度改革を進めた。まず、各で異なっていた文字を「小篆」という新たな書体に統一し、官僚や庶民が共通の言葉を用いる環境を整えた。また、貨幣や度量衡を統一することで、経済活動の円滑化を図った。これは、国家の統一だけでなく、商業の発展にも貢献した。李斯の改革は、単なる軍事的征服ではなく、「文化」と「経済」による支配を目指したものであり、秦帝国が短期間で巨大な国家として機能した理由の一つであった。

天下統一の功労者か、それとも冷徹な策士か

李斯の政策は、強大な国家を作る一方で、多くの敵を生んだ。六の貴族や士人は不満を抱き、民衆は厳しい法に苦しんだ。しかし、李斯自身は「分裂を防ぐにはこれしかない」と信じていた。彼は単なる政治家ではなく、統一国家を実現するための冷徹な戦略家であった。秦の統一は、彼の知略と法家思想なしには成し得なかった。だが、この統治の在り方が、後の秦の崩壊へとつながることを、李斯自身はまだ知る由もなかった。

第4章 焚書坑儒 ― 思想弾圧の実態

異なる思想は危険か ― 法家の独裁

秦の天下統一は軍事的な勝利だけでは終わらなかった。李斯はの安定を保つには思想の統一が不可欠と考えた。当時、儒家の学者たちは古代の聖王の教えを説き、伝統を重んじたが、これは李斯にとって危険なものであった。「統治者は強い法律によってを治めるべきだ」とする法家の理念とは相反するからだ。李斯は始皇帝に対し、「異なる思想を放置すれば、いずれは乱れる」と説き、言論統制を強化することを提案した。そして、この方針が後に「焚書坑儒」という壮絶な事件へとつながることになる。

書物の炎 ― 失われた知識

紀元前213年、李斯は「国家に不要な書物」を焼くよう進言した。彼の狙いは、儒家や道家の古典を排除し、法家思想を唯一の指導原理とすることであった。命令が下ると、各地で史書や詩経などの古典が集められ、炎の中へと投じられた。儒者たちは憤り、密かに書物を隠そうとしたが、密告が相次ぎ、多くの貴重な書が失われた。しかし、軍事・医療・占いに関する書物は例外とされたため、完全な知識の破壊ではなかった。それでも、この「焚書」は、後世において始皇帝の圧政の象徴として語り継がれることとなる。

生き埋めの恐怖 ― 坑儒の真相

焚書から一年後、李斯はさらなる行動に出る。ある日、始皇帝の宮廷で儒者たちが帝の統治を批判した。彼らは「天命を受けた王のみが天下を治めるべきだ」と唱え、秦の統治に疑問を投げかけた。李斯はこれを国家の危機と捉え、「不満分子を排除しなければ、統一は揺らぐ」と進言する。結果として、460人以上の儒者が捕らえられ、生き埋めにされたとされる。この事件は「坑儒」と呼ばれ、後世には秦の暴政の象徴として非難されることになる。しかし、当に460人もの儒者が殺されたのか、それとも一部の反乱分子を粛しただけなのか、議論は今も続いている。

焚書坑儒の功罪 ― 秦が残したもの

焚書坑儒は、当時の知識人社会にとって恐るべき出来事であった。しかし、これにより秦の支配体制は一時的に安定し、統治の混乱は抑えられたともいえる。李斯の目的は、国家を一つの理念のもとにまとめ、分裂を防ぐことだった。しかし、思想の弾圧は知識層の反発を招き、後の秦の崩壊の一因にもなった。皮肉にも、李斯自身が後に粛の波に飲み込まれ、悲劇的な最期を迎えることになる。焚書坑儒は、法による統治が行き過ぎたとき、どのような悲劇が生まれるのかを示す象徴的な事件であった。

第5章 郡県制と秦の中央集権国家

封建制の終焉 ― なぜ郡県制が必要だったのか

秦が天下を統一する以前、中の各は「封建制」によって統治されていた。これは、王が有力な一族や功臣に土地を与え、その支配を認める制度である。しかし、戦国時代には諸侯が次第に独立し、中央の王権を脅かすようになった。秦王政(始皇帝)は、この封建制を「分裂の元凶」と考え、李斯と共に新たな統治制度を構想した。彼らは、「皇帝の命令が直接地方に届く仕組み」を作ることで、二度と戦のような混乱が起こらない国家を目指した。そして、ここに「郡県制」という革新的な制度が誕生する。

郡県制の導入 ― 秦が全国を支配する仕組み

李斯の指導のもと、秦は全を36の「郡」に分け、その下に「県」を設置した。各郡・県の長官は皇帝が直接任命し、任期を決めることで権力の独占を防いだ。これにより、地方の支配者が独立することを防ぎ、中央政府の命令が素早く全へ行き渡る仕組みが完成した。さらに、行政の役人は「法」に従って統治することが義務付けられ、個人の感情や地縁による支配は否定された。李斯のこの制度は、中史上初めての格的な中央集権体制を築き上げ、後の帝国統治のモデルとなった。

度量衡の統一 ― 経済と社会の安定化

李斯は、統治の基盤は軍事力だけでなく、経済の安定にもあると考えた。そこで、貨幣、長さ、重さ、容量といった度量衡を全で統一し、商取引や税の徴収を円滑にした。たとえば、それまで地域ごとに異なっていた貨幣制度を「半両銭」に統一し、物流を活性化させた。また、車輪の幅を全で統一することで、道の整備と軍事輸送の効率を向上させた。これらの改革により、秦の経済は大きく発展し、郡県制の安定した運用を支えることになった。

中央集権の功罪 ― 国家の安定と民衆の苦難

郡県制の導入により、秦はかつてないほど強固な統治を実現した。しかし、それは同時に、地方の自主性を奪い、多くの人々にとって過酷な制度ともなった。地方貴族は権力を失い、庶民は厳格な法に縛られた。さらに、重税と労役によって多くの民衆が苦しむこととなる。秦の中央集権体制は短期間で中全土を統治する力を生んだが、その厳格さがやがて不満を呼び、統一後わずか15年で帝国の崩壊を招くこととなる。李斯の理想は、強すぎる統治のもとで、自らの未来をも危うくしていたのである。

第6章 李斯と始皇帝 ― 信頼と対立

君臣の出会い ― 秦王政と李斯の野望

李斯が秦に仕官した頃、若き秦王政(後の始皇帝)は、六を滅ぼし天下統一を目指していた。李斯は「六伝統を残せば、いずれ分裂する」と進言し、秦王政の信頼を得た。彼は法家思想に基づき、「法による絶対的支配」を提唱し、強大な中央集権国家の構築を助けた。李斯の理想と秦王政の野望は一致していた。二人は、単なる王と臣下ではなく、「新しい世界を築く」同志として結ばれていた。しかし、この関係が後に微妙な変化を見せることとなる。

皇帝の支配と李斯の役割

紀元前221年、ついに秦が中を統一し、秦王政は「始皇帝」と名乗った。このとき李斯は、制度設計の中枢にいた。彼は封建制を廃止し、郡県制を導入し、国家統治の礎を築いた。また、度量衡や貨幣の統一、さらには文字改革を進め、始皇帝の絶対支配を実現する仕組みを作った。始皇帝は李斯を重用し、宰相の位にまで引き上げた。しかし、次第に皇帝の考えは変わり始めた。彼は不老不を求め、方士たちの言葉に耳を傾けるようになり、李斯の進言にも耳を貸さなくなった。

信頼の崩壊 ― 始皇帝の孤独な道

李斯は現実主義者であり、始皇帝の不老不への執着を危険視していた。彼は方士たちの言葉を「荒無稽」と批判し、実用的な政治を優先すべきだと訴えた。しかし、始皇帝はますます秘思想に傾倒し、徐福をはじめとする方士たちに海を渡らせ、不の薬を探させた。李斯はかつての同志であった皇帝と距離を感じ始めた。さらに、宦官の趙高が皇帝の側近として台頭し、李斯の影響力は徐々に弱まっていった。かつての信頼関係は、いつしか崩れつつあった。

最期の忠言 ― 皇帝の死と李斯の苦悩

紀元前210年、始皇帝は東方巡幸の途中で急した。皇帝の遺詔には、長男の扶蘇を後継者とする意思があった。しかし、趙高はこれを握り潰し、李斯を巻き込んで偽詔を作成し、次男の胡亥を即位させた。李斯は迷いながらも趙高の計画に従った。しかし、それが彼自身の運命を大きく変えることになる。かつて秦を作り上げた男は、今や政争の渦中に巻き込まれ、自らが築いた国家に翻弄されることとなった。

第7章 始皇帝の死と権力闘争

突然の死 ― 遺詔に隠された秘密

紀元前210年、始皇帝は全巡幸の途中、沙丘(現在の河北省)で突如去した。彼は天下統一を成し遂げた後も、不老不を求め続け、方士の言葉に従い仙薬を探していた。しかし、長年の過労と服用した薬の影響で、ついに最期の時を迎えた。皇帝の遺詔には、長男の扶蘇を後継者とする旨が記されていた。しかし、皇帝のはすぐには公表されず、宦官の趙高、宰相の李斯、そして末子の胡亥による極秘の謀略が進められていた。この瞬間から、秦帝国を揺るがす政変が幕を開けたのである。

趙高の策略 ― 胡亥の擁立

始皇帝後、趙高は李斯を説得し、扶蘇の即位を阻止する計画を立てた。扶蘇は軍を率いる名将・蒙恬とともに北方に駐屯しており、即位すれば軍の支持を得て強力な皇帝となる可能性があった。趙高はこれを脅威とみなし、李斯に偽の遺詔を作らせた。そこには「扶蘇は帝に背いたため、自害せよ」と記されていた。蒙恬は疑念を抱いたが、扶蘇は父の命令を信じ、自ら命を絶った。こうして、後継者の座は胡亥に渡り、趙高と李斯の支配する政権が誕生したのである。

李斯の誤算 ― 新皇帝の暴政

胡亥は即位すると、二世皇帝として振る舞い始めた。しかし、皇帝としての資質を持たぬ彼は、趙高の操り人形となり、政治は急速に混乱していった。李斯は当初、国家の安定を維持するために胡亥を擁立したが、胡亥は猜疑が強く、贅沢に溺れ、民の不満を無視した。さらに、趙高は皇帝を意のままに操り、李斯の影響力を次第に奪っていった。李斯は、この選択が誤りだったことを悟るが、もはや引き返すことはできなかった。彼のかつての力は衰え、政権の実権は完全に趙高の手に渡っていた。

権力の終焉 ― 李斯の孤立

やがて趙高は、李斯をも排除する決意を固めた。彼は李斯に謀反の罪を着せ、裁判にかけた。李斯はかつて自ら築き上げた法治国家の法によって裁かれることとなる。拷問を受けた李斯は、ついに罪を認めるしかなかった。処刑の日、彼は鎖につながれたまま息子とともに引きずられ、刑場へと向かった。「鹿を追うより、兎を狩るべきだった」と嘆いたが、すでに遅かった。かつて秦を支えた男は、己の築いた国家に飲み込まれ、無残な最期を迎えることとなったのである。

第8章 李斯の最期 ― 趙高の陰謀と処刑

権力の掌握 ― 趙高の野望

李斯は秦帝国の宰相として長年政権を支えてきたが、彼の運命は急速に暗転した。二世皇帝・胡亥が即位すると、実権を握ったのは宦官の趙高であった。趙高は法家の厳格な統治を用し、密告制度を強化して政敵を粛し始めた。李斯は次第に孤立し、かつての盟友が敵へと変わるのを目の当たりにした。彼は趙高に忠誠を誓うことで生き延びようとしたが、それは皮肉にも彼自身が築いた法制度によって裁かれる運命の始まりだった。

偽りの罪 ― 李斯の逮捕

趙高は李斯を失脚させるため、「謀反の疑いがある」との偽りの罪をでっち上げた。皇帝に近づく機会を減らされていた李斯は、自らの弁の場すら与えられなかった。宮廷では趙高の陰謀に誰も逆らえず、李斯の罪は一方的に認定された。彼は捕らえられ、長安の獄に幽閉された。李斯は拷問を受けながらも「私は帝国を作った忠臣である」と訴えたが、もはや誰も彼の声に耳を傾ける者はいなかった。

獄中の嘆き ― 最期の願い

李斯は獄中で息子と対面し、「鹿を追うより、兎を狩るべきだった」と嘆いた。これは、自らの理想を追い求めすぎたことを後悔する言葉であった。彼は生涯をかけて秦の統一を支えたが、最終的には政治の策略に敗れた。最後の願いは「故郷の楚の地を息子と歩きたい」という小さなだった。しかし、それが叶うことはなかった。かつて国家を支えた男は、自ら築いた法の前に無力だったのである。

処刑の日 ― 権力の無情

紀元前208年、李斯は息子とともに腰斬刑に処された。都の大通りを引きずられながら、彼は自分が作り上げた国家の非情さを噛みしめた。民衆は沈黙し、かつての英雄が処刑されるのを見守るしかなかった。趙高の策略によって、秦帝国の最も重要な知識人は消え去った。しかし、皮肉にもそのわずか3年後、秦は滅亡する。李斯のは、秦の終焉の序章であり、法家統治の限界を示す悲劇的な象徴となったのである。

第9章 李斯の評価 ― 英雄か悪臣か

秦帝国の礎を築いた功績

李斯は、中史上初の中央集権国家・秦帝国の礎を築いた立役者である。郡県制の導入、文字や度量衡の統一、厳格な法治国家の確立は、彼の知略と政治手腕によるものであった。もし李斯がいなければ、秦の統一は一時的なもので終わり、再び群雄割拠の混乱に戻ったかもしれない。彼の行政改革は、後の王朝にも受け継がれ、中国家運営の基形を作り上げた。こうした点から、李斯は秦の「建築家」とも言える存在であり、歴史的な功績は計り知れない。

専制政治の闇 ― 恐怖の統治

一方で、李斯の政策は徹底した法家思想に基づくものであり、統治の安定のために厳格な法と恐怖政治を用いた。焚書坑儒による思想統制、密告制度の強化、残酷な刑罰は、人々に自由を奪い、秦帝国を圧政の象徴とした。彼の考えは「国家の安定のためには個人の犠牲もやむを得ない」というものであったが、その過酷な統治は、結果的に民衆の反感を招いた。彼の政策がなければ、秦はもう少し長く続いたのではないかという議論もある。

後世の評価 ― 賛否の分かれる政治家

李斯の評価は、歴史の中で大きく分かれている。司遷の『史記』では、彼の狡猾さや権力への執着が強調され、奸臣のように描かれる。しかし、法治主義を重視した視点から見れば、彼の政策は理にかなったものであり、中統一を維持するためには必要だったとも言える。彼は単なる冷酷な政治家ではなく、時代の変革者であり、秦の国家体制を支えた天才的な官僚でもあった。李斯をどう評価するかは、国家とは何かという問いに対する答えにもつながる。

「英雄」と「悪臣」の狭間で

李斯は、国家の発展を第一に考えた政治家であった。しかし、彼の築いた制度は最終的に彼自身をも飲み込み、処刑されるという皮肉な結末を迎えた。彼の生涯は「国家のために尽くした者が、国家によって滅ぼされる」という歴史の冷徹な一面を示している。李斯は果たして英雄だったのか、それとも冷酷な臣だったのか。あるいは、その両方を併せ持つ、稀代の政治家だったのかもしれない。彼の人生は、権力と国家質を考える上で、今なお重要な問いを投げかけている。

第10章 李斯の遺産 ― 現代への影響

法家思想の遺産 ― 中央集権国家の礎

李斯が推し進めた中央集権体制は、秦の滅亡後も中政治制度に大きな影響を与え続けた。王朝は秦の厳格な法治主義を一部修正しつつも、郡県制を継承し、中央からの官僚統治を維持した。その後の王朝も、地方分権ではなく中央集権を基とし、国家の統治モデルを確立していった。李斯が設計した官僚制度や法による支配の理念は、中のみならず、日や朝鮮の統治モデルにも影響を与え、東アジア政治の在り方を決定づける重要な役割を果たした。

法治主義と独裁の狭間

李斯の法家思想は、「法に基づく支配」という原則を重視した。この考え方は、現代における法治国家の基盤と共通する部分も多い。しかし、同時に秦のような過度な中央集権と強権政治は、権力者による独裁を招く危険性も孕んでいた。歴史上、多くの専制国家が「法の名のもと」に統治を強化し、自由を抑圧してきた。李斯の思想は、法治の重要性とその限界を示しており、現代の政治においても「どこまで国家が権力を持つべきか」という永遠の問いを投げかけている。

焚書坑儒の影響 ― 知識と権力の関係

焚書坑儒は、思想弾圧の象徴として歴史に刻まれた。知識や言論を統制し、国家の安定を優先する考え方は、その後も世界各地で繰り返されてきた。ナチス・ドイツの焚書や文化大革命など、権力が思想を抑圧する例は多い。しかし、知識や言論の自由を奪うことが国家の長期的な発展を妨げることもまた、歴史が示している。李斯の政策は、統一国家の維持には有効だったが、知識の多様性を抑えたことで秦の柔軟性を失わせた。この教訓は、現代社会においても重要な意味を持つ。

李斯は現代に何を問いかけるのか

李斯の生涯は、国家とは何か、権力とは何かを考えさせる。彼は秦の統一を成し遂げ、強固な国家を築いたが、その体制はわずか15年で崩壊した。法による統治は秩序を生み出すが、それが極端になれば人々の不満を招き、国家を危うくする。李斯の思想は、国家運営の成功と失敗を同時に示している。現代においても、国家の統制と個人の自由のバランスは重要な課題であり、李斯の遺産は、私たちに「統治の在り方」について深く考える機会を提供しているのである。