揚雄

基礎知識
  1. 揚雄とは誰か
     揚雄(前53年〜後18年)は、前末期から後初期にかけて活躍した文人・思想家であり、雄弁な辞賦や哲学的著作を通じて、儒家と道家の思想を融合させた。
  2. 『太玄経』とその思想
     『太玄経』は揚雄が執筆した宇宙観や運命論に関する書であり、易経の体系を参考にしつつ、独自の哲学を展開した書物である。
  3. 代の学術と辞賦の発展
     代には「辞賦」と呼ばれる華麗な詩的散文が発展し、揚雄は司相如に続く辞賦の大家として、国家や宇宙観を題材にした作品を残した。
  4. 王朝の政治と揚雄の関わり
     揚雄は武帝以降の儒学重視の風潮の中で活動し、成帝・哀帝・王莽の時代に政治文化の変遷を批判的に見つめたが、積極的な政治参加は避けた。
  5. 王莽の新朝と揚雄の評価
     王莽が建てた新朝(8年~23年)は儒学的な理想国家を目指したが、多くの改革が失敗し、揚雄は新朝の政策に対して慎重な立場を取り続けた。

第1章 時代の変革者、揚雄の登場

激動の時代に生まれた才子

紀元前53年、揚雄は蜀(現在の四川省)に生まれた。当時の中は前の後期に差し掛かり、政治の腐敗が進み、社会の安定は揺らぎ始めていた。武帝の時代に確立された儒学の支配が、国家の思想基盤となっていたが、庶民の生活は依然として厳しかった。そんな時代にあって、揚雄は幼い頃から学問に没頭し、特に辞賦(華麗な詩的散文)を好んだ。彼の故郷である蜀は、文化的には辺境と見なされていたが、それゆえに独自の視点を育む土壌となった。揚雄は卓越した才能を持ちながらも、中央での名声を得るには努力と機会が必要であった。

司馬相如との出会い(書物を通じて)

揚雄が最も影響を受けたのは、同じく蜀出身の大文豪・司相如である。司相如は、武帝の宮廷で華麗な辞賦を披露し、辞賦文学を政治と結びつけた第一人者だった。彼の代表作『子虚賦』は、壮大な自然描写と幻想的な表現を駆使し、皇帝に直接語りかけるような文体で知られていた。揚雄は若い頃、この作品に深く魅了され、自らも辞賦の道を歩もうと決意した。だが、彼はただ司相如の技法を模倣するのではなく、より哲学的なテーマを織り交ぜ、独自の思想を辞賦に込めていくことになる。

才能が導いた長安への道

地方の一文学青年だった揚雄にとって、中央の長安へ進むことは大きな挑戦であった。長安は当時の中政治文化の中心であり、多くの学者や文人が集まる場所であった。揚雄は地元で名声を得ると、その才能が評判となり、ついに長安へと招かれることになった。だが、彼の旅立ちは単なる成功物語ではない。長安では才能だけでは生き残れず、官僚社会の政治的駆け引きや、学者同士の熾烈な競争が待ち受けていた。揚雄は、自らの文学と哲学を武器に、この厳しい世界に足を踏み入れることとなる。

文学と哲学が交差する瞬間

長安に到着した揚雄は、華やかな宮廷文化に触れながらも、次第に思索の世界へと引き込まれていく。彼は辞賦だけではなく、宇宙の法則や道の在り方にも関心を持ち、儒学と道家思想を統合しようと試みた。その思考は後に『太玄経』へと結実するが、この時点ではまだ彼の中で模索の段階にあった。長安での生活は、彼に名声をもたらす一方で、孤独と内省を深めるものでもあった。こうして、文学と哲学を融合させた彼の独自のスタイルが、ここから形作られていくのである。

第2章 漢代辞賦の発展と揚雄

辞賦――帝王を魅了した文学

代の文学において、「辞賦」は単なる詩ではなかった。それは皇帝に献じられる華麗な散文詩であり、壮大な描写と流麗なリズムを持ち、時に政治的メッセージを含むものでもあった。司相如は『子虚賦』『上林賦』で辞賦の黄時代を築き、武帝の寵を受けた。彼の辞賦は、王の権威を讃えつつ、現実世界を超えた幻想的な景色を描いた。揚雄はこの伝統を受け継ぎながら、より哲学的な要素を加え、辞賦の可能性を広げていった。彼にとって辞賦は、美辞麗句の遊びではなく、真理を探求する手段でもあった。

司馬相如を超えることはできるのか?

相如の辞賦が華やかな宮廷文化を彩ったのに対し、揚雄の辞賦はより現実を映し出した。『羽獣賦』では動物たちの世界を借りて社会の秩序を描き、『甘泉賦』では皇帝の権威の質を問うた。彼は壮麗な表現を駆使しながらも、単なる誇張に終わらせず、読者に考えさせる余地を残した。だが、このような手法は必ずしも皇帝に喜ばれるものではなかった。彼の作品は、宮廷の歓心を買うものではなく、むしろ時代の矛盾を指摘するものだった。司相如を超えることはできるのか?それは揚雄にとって、文学の質を問う挑戦でもあった。

辞賦の革命家、揚雄

揚雄は、辞賦を単なる賛美の道具から、思想を表現する媒体へと変えた。彼の『長楊賦』では、狩猟の場面を通じて権力と道の関係を探り、『解嘲』では、自らの文学観を語ることで、辞賦が陥る虚飾を批判した。彼は美辞麗句を排し、より素朴で洗練された表現を追求したのである。この新しいアプローチは、後の儒学者たちに影響を与え、辞賦を単なる修辞的な遊びから、一つの知的な探求の形へと昇華させた。揚雄の辞賦は、単なる文学ではなく、一つの哲学であった。

辞賦は滅び、思想は生き続ける

揚雄の時代を最後に、辞賦の黄時代は終焉を迎えた。後に入ると、より簡潔で実用的な文章が重視され、辞賦は次第に衰退していった。しかし、揚雄が辞賦に込めた哲学的なアプローチは、思想の歴史の中で生き続けた。彼の作品は、後の学者たちに影響を与え、単なる文学の枠を超えて、中思想の発展に貢献したのである。辞賦は消えたかもしれないが、揚雄の思索は、時代を超えて響き続けている。

第3章 『太玄経』の思想体系

宇宙の法則を探る旅

揚雄が『太玄経』を著した背景には、彼の尽きることのない「真理」への探求心があった。前末期、儒学が国家の根幹となる一方で、世の中には依然として偶然や運命といった「説明できない力」があふれていた。揚雄は、儒学だけでは世界の全てを説明できないと考え、周の時代から伝わる『易経』を参考にしながら、宇宙の法則を明らかにしようとした。彼の問いは単純だった——人間の運命はどのように決まるのか?すべては偶然か、それとも秩序があるのか?この疑問を解き明かすために、『太玄経』の執筆が始まったのである。

『易経』からの影響と独自の体系

揚雄は『太玄経』を「新しい『易経』」として構想した。『易経』が「陰と陽のバランス」から世界を説明したのに対し、彼は「玄(深遠な原理)」という概念を軸に宇宙を捉えようとした。『太玄経』は81の章からなり、万物の変化や運命の流れを数理的に表現する試みがなされている。特に「玄図」と呼ばれる独自の図式を用いて、森羅万がどのように繋がり、動いていくのかを視覚的に示した。この発想は後に中思想の中で「数の学」として発展し、『易経』研究にも影響を与えた。

天命か、それとも人間の選択か?

『太玄経』の核心には、「人間の運命は決まっているのか?」という問いがある。儒学では「を積めば良い運命が訪れる」とされるが、揚雄はこれに疑問を持った。彼は「運命は偶然ではなく、ある法則に従って変化する」と考えたが、その法則は簡単には読み解けないものだった。彼の思想は、『道経』の「無為自然」に通じる部分もありながら、個人の努力が運命にどう影響するかについて独自の視点を示した。人間は天命に従うべきか、それとも自ら道を切り開くべきか?この問題は、『太玄経』の読者に深い思索を促した。

揚雄の思想が残したもの

揚雄の『太玄経』は、彼の生前には大きな評価を受けなかった。しかし、後の時代になると、彼の試みは高く評価されるようになった。代の学者は彼の「数的思考」に注目し、宋代には『易経』研究の一環として再評価された。彼の「運命と秩序」をめぐる探求は、儒学・道家・陰陽学の境界を越え、新たな思索の可能性を生んだのである。揚雄は、単なる辞賦の作家ではなく、時代を超えた哲学者でもあった。彼の思索は、今なお「世界の仕組み」を考える人々の心を刺激し続けている。

第4章 儒家か、それとも道家か?

学問の交差点に立つ揚雄

の終焉が近づくにつれ、儒家と道家の思想は二つの大きな潮流として確立されていた。儒家は、孔子の教えを軸に社会秩序と道を重視し、国家統治の理論として強く支持されていた。一方で、道家は老子や荘子の思想を受け継ぎ、自然の流れに従うことを理想とした。揚雄はこの二つの思想のどちらかに与するのではなく、独自の視点で両者の長所を見出し、新しい哲学を生み出そうとした。彼は儒家と道家の交差点に立ち、両者の違いを見極めながら、自分の思想を築き上げていった。

儒家への共感と批判

揚雄は、儒家の思想が社会の安定に貢献していることを認めていた。彼は、孔子の『論語』や孟子の教えに共感し、道や礼儀を重んじる姿勢を評価した。しかし、彼は儒家が過度に形式や伝統にこだわりすぎる点を批判した。特に、『法言』の中で、儒者たちが単に古典を暗記し、現実の社会に役立てることができていないことを嘆いている。揚雄にとって、学問とは生きた知恵であり、単なる過去の模倣ではなかった。彼は、儒家の教えを活かしながらも、より実践的な思想を模索していたのである。

道家への親近感と距離感

道家思想に対しても、揚雄は強い関心を持っていた。彼は荘子の自由な発想や、老子の「無為自然」という概念に魅了され、それを自身の思想に取り入れようとした。特に、『太玄経』の中では、道家が説く宇宙の流れと人間の関係について深く探求している。しかし、彼は道家が現実社会の問題を無視しすぎることにも疑問を抱いていた。荘子のように「世俗を超えた生き方」を理想とする道家の姿勢は、揚雄にとっては極端すぎた。彼は、道家の思想を吸収しつつも、現実世界での実践を重視したのである。

揚雄が目指した「第三の道」

揚雄は、儒家と道家のどちらにも完全には属さず、両者を融合させた独自の思想を築こうとした。彼にとって、理想の学問とは、儒家の社会的責任感と道家の自由な思考を組み合わせることにあった。彼は『法言』において、「賢者は中庸を知る」と述べ、極端に偏ることなく、柔軟な思考を持つべきだと説いた。この考え方は後の時代に影響を与え、代以降の学問の発展に大きく寄与することになる。揚雄が目指した「第三の道」は、単なる折衷ではなく、新たな哲学の探求だったのである。

第5章 王莽の新朝と揚雄の選択

革命か、理想の国家か?

紀元8年、王莽はの皇帝を廃し、新たな王朝「新」を樹立した。王莽は、古代の理想的な政治制度を復活させることで、儒学が説く「聖王の政治」を実現しようとした。彼は土地制度を改革し、貨幣制度を変更し、官僚制度を再構築した。しかし、それらの改革は急激すぎて、民衆の混乱を招いた。揚雄は、この変革をどのように見ていたのか?彼は王莽の理想主義に共鳴しつつも、その政策が現実とかけ離れていることに気づき、慎重に距離を取ることを選んだのである。

王莽の改革と揚雄の冷静な視線

王莽は、儒家の経典に基づいた「政」を掲げ、土地をすべて有化する「王田制」を導入した。また、新しい貨幣を発行し、経済の安定を図った。しかし、これらの政策は、既得権益を持つ貴族や富裕層の反発を招き、民衆も新しい制度に適応できず、不満が高まった。揚雄はこれらの政策を観察しつつ、政治に深く関わることは避けた。彼は『法言』の中で、急激な改革は必ずしもではなく、「過去の知恵を無視することは危険である」と暗に示している。彼の慎重な態度は、後に彼の思想の核心となる。

沈黙の選択——政治に巻き込まれぬために

王莽の改革が失敗に向かう中、多くの知識人や官僚が王莽の政権から離れていった。しかし、揚雄は王莽を公然と批判することはしなかった。彼は宮廷の争いに深入りするのではなく、自らの学問を深める道を選んだ。『太玄経』や『法言』の執筆に専念し、政治の混乱の中でも学問の探求を続けたのである。これは決して臆病な決断ではなく、彼なりの知的な抵抗であった。揚雄は、政治に巻き込まれることなく、後世に残る思想を築こうとしていた。

新朝の崩壊と揚雄の遺したもの

王莽の理想国家は、農民反乱と軍閥の台頭によって崩壊した。紀元23年、赤眉の乱によって王莽は殺害され、新朝はわずか15年で終焉を迎えた。揚雄はこの激動の時代を静かに見つめながら、学問の道に身を置き続けた。彼の著作は、この混乱の時代においても生き残り、後の儒学者や学者たちに影響を与え続けた。揚雄は、政治に翻弄されることなく、言葉と思想によって歴史に足跡を残したのである。

第6章 政治と文学の狭間で

揚雄に求められたもの

の成帝の時代、学者や文人は宮廷に招かれ、儒学の教えに基づく統治を支える役割を果たしていた。揚雄の優れた辞賦の才能は、すぐに朝廷の注目を集めた。彼は長安に召され、儒家の高官たちと共に働く機会を得た。しかし、彼の文学と思想は、単なる皇帝への賛美ではなく、より深い哲学的探求に根ざしていた。そのため、宮廷での役割に戸惑いを感じることもあった。揚雄は官僚としての道を進むべきか、それとも独立した学者として生きるべきかという選択を迫られることになる。

官職を得ながらも距離を置く

揚雄は一時的に宮廷に仕え、『甘泉賦』や『長楊賦』といった作品を献じた。これらの辞賦は、王の権威を象徴しつつも、その裏に社会への洞察を込めたものであった。しかし、彼は官僚社会の腐敗や派閥争いに嫌気がさし、次第に政治との距離を取るようになった。王莽の新朝が成立した際も、彼は積極的に参加することなく、文学と哲学の探求に没頭した。彼の著作には、官職に囚われることなく、真理を追求する姿勢が強く表れている。

それでも捨てられない政治への関心

揚雄は宮廷を離れた後も、完全に政治から距離を置いたわけではなかった。彼の著書『法言』は、孔子の『論語』に倣いながらも、政治や道に対する独自の見解を述べている。彼は、儒学の理想を重んじつつも、時代の現実を冷静に見極め、単純な道論では解決できない問題があることを理解していた。彼の関心は、単なる政治批判ではなく、より良い社会を築くための知恵を見出すことにあった。

揚雄の選択とその後

晩年の揚雄は、政治の表舞台に立つことなく、学問の深化に努めた。彼の姿勢は、後の知識人たちにとって一つの模範となった。官僚として権力に仕えるか、それとも学問を究めるか——揚雄は後者を選び、時代の流れに流されることなく、独自の思想を築き上げた。その選択は、彼の著作が後世まで読まれることにつながった。彼は政治の世界に囚われることなく、言葉と思想によって歴史に名を残したのである。

第7章 後世の評価と批判

揚雄をどう読むべきか?

揚雄の名は、歴史において複雑な位置を占める。彼の文学は司相如に並ぶ辞賦の傑作とされながらも、過度に哲学的で難解だと批判された。また、彼の思想は儒家と道家の狭間にあり、どちらにも属さない曖昧なものと捉えられることが多かった。しかし、これは彼が中庸を重んじたからこそ生じた評価でもある。彼の著作は、後の学者にとって「読むべきだが解釈が難しい」書物となり、後以降の儒学者たちの間で賛否が分かれる存在となった。

班固による辛辣な批判

漢書』の著者である班固は、揚雄を司相如の模倣者にすぎないと評価した。彼にとって、揚雄の辞賦は技巧的ではあるが、宮廷文学としての影響力には乏しく、真に時代を動かすものではなかったと考えられていた。また、揚雄の『太玄経』に対しては、『易経』の模倣でありながら十分に体系化されていないと酷評した。しかし、これは班固の視点であり、後の学者たちは異なる見方を示すようになる。

後世の儒学者たちの評価

代以降、揚雄の『法言』は儒学の補助的な書物として再評価された。特に宋代の朱子学者たちは、彼の考えが儒家思想の柔軟な解釈を可能にすると考えた。また、『太玄経』は易学の一部として研究され、明代には「揚雄は新しい哲学を創造した」と評価されるようになった。彼の思想は、儒家の枠を超えて、幅広い知的探求の対となっていったのである。

学者か、それとも思想家か?

揚雄の評価は、彼を「学者」と見るか、「思想家」と見るかによって変わる。彼は確かに多くの書物を残し、学問の体系を築いたが、その真価は彼の独創的な視点にある。彼は儒学の伝統を守るだけではなく、新しい視点を取り入れ、思想を発展させた。彼の思想は、後の時代になればなるほど価値を増し、「難解だが読むに値する書」として多くの学者たちに研究され続けたのである。

第8章 漢代学問の変遷と揚雄

学問の都・長安

王朝の首都・長安は、単なる政治の中心地ではなく、学問の発展の場でもあった。前武帝は、五経博士制度を導入し、国家が儒学を正式な学問として推奨する体制を築いた。これにより、多くの学者が長安に集い、儒学の解釈を競い合った。揚雄もまた、この学問の都に足を踏み入れた一人である。だが、彼は当時の儒学が形式化し、真理の探究よりも政治的道具と化していることに疑問を抱いた。彼の学問に対する姿勢は、当時の主流派とは異なる独自の道を歩むものだった。

五経博士と揚雄の距離

五経博士とは、儒学の根経典である『詩経』『書経』『礼記』『易経』『春秋』を専門的に研究する学者のことである。彼らは国家の官職を与えられ、学問を通じて政治にも影響を及ぼしていた。しかし、揚雄は彼らの学問が単なる伝統の継承に終始していることを批判した。彼は『法言』の中で「学問とは真理を求めるものであり、過去を暗記することではない」と述べ、知識の形式化を嘆いた。彼にとって、学問とは生きた探究であり、時代の変化に対応するものでなければならなかった。

許慎や鄭玄との比較

揚雄とほぼ同時代、またはその後の学者として、許慎や鄭玄といった人物が現れた。許慎は代最大の字書『説文解字』を編纂し、中語の語源研究を確立した人物であり、鄭玄は五経の注釈を体系化し、後の儒学に決定的な影響を与えた。揚雄の学問は彼らとは異なり、哲学的思索を重視するものであった。彼は文字や注釈の精密な研究には関心を持たず、より広範な「宇宙の法則」や「道質」を考察することに重きを置いた。

学問は誰のためのものか?

揚雄が問い続けたのは、学問の質である。彼は学問が支配者の正当性を裏付けるための道具と化していることに危機感を覚えていた。儒学が国家に利用されることで、来の「知の探究」が失われてしまうのではないか。彼の『太玄経』や『法言』は、そうした危機感から生まれた試みであった。彼の学問に対する姿勢は、後の時代の思想家にも影響を与え、「学問は実生活に役立つべきか、それとも純粋な知的探究であるべきか」という問いを投げかけ続けている。

第9章 揚雄の著作とその遺産

『法言』――新たな『論語』を目指して

揚雄の著作の中でも、『法言』は特に注目されるべき書物である。この書は、孔子の『論語』にならい、弟子との問答形式で構成されている。しかし、内容は単なる儒学の継承にとどまらず、時代の矛盾や人間の質に対する深い洞察を含んでいる。揚雄は、表面的な儒学の形式主義を批判し、真の知恵とは何かを問い続けた。彼の言葉は鋭く、皮肉と哲学が交錯する。そのため、後の学者たちにとっては解釈の難しい書でもあり、時代ごとに異なる評価を受けることとなった。

『太玄経』と運命の法則

『太玄経』は揚雄が晩年に完成させた壮大な宇宙論である。この書では、易経の体系を発展させつつ、独自の「玄(深遠なる理)」という概念を中心に世界を説明しようとした。彼は、世界のあらゆる出来事が法則に従って変化するという考えを提示し、人間の運命もまた、その法則の一部であるとした。この書は、哲学書であると同時に、未来を予測するための書としても読まれ、後の易学研究に大きな影響を与えた。しかし、あまりに独創的で難解であったため、当時の人々には十分に理解されなかった。

漢代における揚雄の位置づけ

代の学問の主流は儒学であり、経典の解釈が重視されていた。その中で、揚雄の著作は異端的な存在だった。彼は儒学を批判しながらも完全に否定するわけではなく、また道家の思想も受け入れつつ、一方的には寄らなかった。そのため、儒学者たちからは「中途半端」と見なされることもあった。だが、彼の思想は単なる儒学の枠を超えたものであり、代の学問の発展において独自の役割を果たしたのである。

後世に残した影響

揚雄の著作は、彼の生前には広く読まれることはなかった。しかし、代以降になると、『法言』は儒学の補助的な書物として再評価され、宋代の朱子学の形成にも影響を与えた。また、『太玄経』は易学の一部として研究され、明代には特に注目された。彼の思想は、単なる文学者や辞賦家としてではなく、一人の哲学者としての地位を確立する要因となった。揚雄の言葉は、時代を超えて知識人の探求心を刺激し続けているのである。

第10章 揚雄の歴史的意義とは

漢代の知識人としての挑戦

揚雄は、単なる文学者ではなく、一人の思想家として代における知的挑戦を続けた。彼の時代、儒学は国家の正統な学問とされ、学者たちは皇帝の統治を支える役割を担っていた。しかし、揚雄はこの枠にとらわれず、独自の哲学を探求した。彼は『法言』で孔子の教えを再解釈し、『太玄経』で宇宙の法則を探ろうとした。宮廷に迎えられながらも政治とは距離を取り、自由な思想を守り続けた揚雄は、時代に流されることなく知を追求した代の知識人の象徴である。

司馬遷・班固との比較

代の歴史を語る上で、司遷や班固といった歴史家たちは欠かせない存在である。司遷は『史記』を通じて人間の生きざまを描き、班固は『漢書』で国家の歴史を体系化した。一方、揚雄は歴史家ではなく哲学者であり、彼の著作は直接的な歴史記録ではない。しかし、彼の思索は時代を深く映し出し、司遷や班固の歴史書と同じく、後世に残る知的遺産となった。彼らが歴史を記録することで後世に知識を伝えたのに対し、揚雄は思索を通じて知識質そのものを探求したのである。

揚雄の現代的意義

揚雄の思想は、現代においても新たな示唆を与える。彼は伝統を尊重しつつも、それを盲信せず、自らの視点で批判的に再解釈した。今日の学問においても、新しい理論や技術が次々と登場する一方で、古典的な知識との折り合いが求められる。揚雄の姿勢は、過去と未来を結びつける学問の在り方を示している。また、彼の中庸の精神は、極端な思想や偏った価値観に流されない知的バランスの重要性を教えてくれる。

永遠に問い続けられる知の価値

揚雄の著作は、後世において何度も再解釈され、そのたびに新たな意味を持つようになった。『法言』は儒学の一部として研究され、『太玄経』は易学の文脈で読み直された。彼の思想は、一つの時代に閉じることなく、読み手によって異なる視点を与えられる。これは、彼が単なる答えを提示するのではなく、問いを生み出す哲学者であったことを示している。知識とは何か、学問とはどうあるべきか——この問いに対する答えを求める限り、揚雄の名は消えることはない。