トーマス・クーン

基礎知識
  1. パラダイムと科学革命の概念
    科学の進展は「通常科学」と「科学革命」の間で交互に進行し、革命によってパラダイムが劇的に変化するというクーンの理論である。
  2. 科学史における「累積的進歩」の否定
    科学の進歩は新たな発見の積み重ねではなく、異なるパラダイム間の不連続的な移行によるものであると主張した。
  3. 科学共同体の役割
    科学知識科学者集団の合意に基づくものであり、パラダイムの受容は集団の社会的・文化的影響を受けるものである。
  4. アノマリーとパラダイムシフト
    現行のパラダイムが説明できない「アノマリー」が蓄積すると、科学革命が起こり新たなパラダイムに移行するというメカニズムである。
  5. クーンの批判と影響
    クーンの理論は、科学哲学や他の分野にも多大な影響を与え、その後の学術的議論を刺激する重要な転換点となった。

第1章 科学の歴史を捉える新たな視点

科学史は直線的な進歩なのか?

人類は科学を積み重ね、より高度な知識を得てきたと考えがちである。ニュートンの力学はアリストテレスの考えを乗り越え、アインシュタインの相対性理論ニュートンの理論を拡張した——このような累積的な進歩の物語は広く信じられてきた。しかし、トーマス・クーンはこの見方に異議を唱えた。科学は単に新たな発見を積み上げるものではなく、ある時点で「革命」が起こり、それまでの常識が一変するものだという。まるで地図の塗り替えのように、科学者たちの世界観そのものが変わるのである。では、この考えはどのように生まれ、どのような影響を与えたのか?

クーンが見た「科学革命」のドラマ

トーマス・クーンは科学者ではなく、もともとは物理学の研究者だったが、科学史に興味を持ち、その探究へと進んだ。彼が注目したのは、歴史の中で科学がどのように発展してきたかという点である。彼はコペルニクス革命、ダーウィン進化論、アインシュタインの相対性理論などを詳しく調べた。そして気づいたのは、新しい理論が生まれるとき、単なる知識の追加ではなく、根的な発想の転換が起こっているということだった。例えば、天動説から地動説への移行は、単に新しい観測データの追加ではなく、世界の見方そのものを変えるものであった。このような変化をクーンは「パラダイムシフト」と呼んだのである。

「常識」が崩れる瞬間

クーンの研究が明らかにしたのは、科学の進歩には「安定期」と「変革期」があるということである。通常、科学者たちは既存の理論の範囲内で研究を進める。たとえば、19世紀物理学者たちはニュートン力学の枠内で問題を解決していた。しかし、やがて理論では説明できない現が積み重なり、科学者たちは混乱し始める。これが「アノマリー」の蓄積である。そしてある時、アインシュタインのような人物が登場し、新しい理論を提示する。すると、それまでの常識が急速に崩れ去り、科学界の「革命」が起こる。これは単なる知識の更新ではなく、科学の土台そのものを揺るがす出来事なのである。

科学史の見方が変わるとき

クーンの『科学革命の構造』が1962年に発表されると、多くの科学者や哲学者に衝撃を与えた。従来の「科学は積み重なるもの」という考え方が否定され、科学が時代ごとに異なる枠組みのもとで営まれてきたことが明らかになった。パラダイムという概念は、科学だけでなく、経済学や社会学など幅広い分野に影響を与えた。現在では、人工知能量子コンピュータの登場によって、また新たなパラダイムシフトが起こると考えられている。クーンの理論を知ることは、科学だけでなく、世界をどう理解するかという私たちの視点そのものを変えるきっかけになるのである。

第2章 パラダイムとは何か

科学者が見る世界の「フィルター」

科学者は客観的に事実を観察し、論理的に理論を積み重ねる——そう考えがちである。しかし、トーマス・クーンはこの見方に異を唱えた。彼によれば、科学者たちは「パラダイム」と呼ばれる枠組みを通じて世界を見ている。たとえば、17世紀の天文学者が星を観察するとき、彼らは「天動説」というパラダイムのもとでデータを解釈していた。一方で、21世紀の天文学者はビッグバン理論の視点から宇宙を理解している。パラダイムとは単なる理論ではなく、何を「事実」として受け入れるかを決定する強力なフィルターなのだ。

ニュートンもアインシュタインも、異なる「常識」の中にいた

クーンの考えを理解するために、ニュートンアインシュタインの物理学を比較してみよう。ニュートンの時代、宇宙は絶対的な時間空間の中に存在するという前提で考えられていた。しかし、20世紀初頭、アインシュタインは時間空間が観測者によって異なることを示した。この二つの理論は互いに対立するものではなく、それぞれ異なる「パラダイム」に基づいている。ニュートン物理学のもとでは、重力は万有引力によって説明されるが、アインシュタインの理論では時空の歪みが重力を生むと考える。このように、科学の進歩とは単なる知識の蓄積ではなく、世界の見方そのものが切り替わることなのである。

「事実」は変わるのか?

一見すると、科学とは客観的な事実を明らかにする活動のように思える。しかし、クーンは「何が事実かはパラダイムによって決まる」と指摘した。たとえば、19世紀化学者たちは「フロギストン」という物質が燃焼を引き起こすと考えていたが、後にラヴォワジエが酸素の概念を導入すると、その考えは完全に覆された。この変化は単に新しいデータが発見されたからではない。むしろ、科学者たちがどのデータを重要視し、どの理論を「正しい」と見なすかが変わったのである。事実は不変ではなく、科学者たちの「ものの見方」によって形作られるのだ。

パラダイムはどうやって生まれるのか?

パラダイムは突然生まれるものではなく、長い時間をかけて形成される。科学者たちはある理論に基づいて研究を行い、実験を通じてその理論の妥当性を確認する。しかし、やがてその理論では説明できない「アノマリー」が発見される。これが積み重なると、新しい説明が求められるようになり、やがて「革命」が起こって別のパラダイムが登場する。ガリレオが地動説を主張したときも、ダーウィン進化論を提唱したときも、当時のパラダイムにとっては異端の考えだった。しかし、歴史が証明するように、科学はこうした大胆な変化を通じて新たな世界観を生み出してきたのである。

第3章 通常科学の秩序

科学者は「パズル解き」をしている

科学と聞くと、多くの人は革命的な発見や大発明を思い浮かべるかもしれない。しかし、実際にはほとんどの科学者は日々、特定の枠組みの中で問題を解く「通常科学」に従事している。これは、まるで完成図が決まっているパズルを解く作業のようなものである。例えば、19世紀化学者たちは原子の性質を探る中で周期表を完成させようとした。彼らは新しい理論を作るのではなく、既存の理論を用いて未知の要素を埋める作業をしていた。科学のほとんどはこうしたパズル解きであり、決して常に「革命」ばかりが起こっているわけではない。

ガリレオの天体観測と「通常科学」

ガリレオ・ガリレイが望遠鏡を使って木星の衛星を発見したとき、彼はすぐに「革命家」となったわけではなかった。彼の観測は、当時の天文学の枠組みの中で説明しうるものであり、科学者たちはそれを受け入れた。しかし、地動説の立場からそれを解釈したとき、事態は一変した。つまり、科学者たちは基的に通常科学の枠内で作業し、新しいデータを既存の理論に当てはめようとする。しかし、それがうまくいかない場合、理論そのものを疑うことになる。通常科学は「安心できる科学」なのだが、時にそれが限界を迎えることがあるのである。

ルールの中での研究—なぜ科学者は異端を嫌うのか?

通常科学では、研究者は既存の理論を前提にして作業を行う。そのため、新しいアイデアを提唱することは、しばしば科学共同体の反発を招く。例えば、19世紀物理学では、は「エーテル」という媒質を伝わるものと信じられていた。マイケルソンとモーリーはエーテルの存在を確認するための実験を行ったが、予想外の結果が出た。当初、多くの科学者はこの実験結果を受け入れず、何らかの誤りがあると考えた。科学者は「革命」を起こすのではなく、まずは既存の枠組みの中で解決策を見つけようとするのだ。

通常科学は「科学革命」を準備する

しかし、通常科学は単なる「ルーティンワーク」ではない。むしろ、科学革命を準備する重要な役割を担っている。研究者たちは日々の作業の中で、小さな矛盾や説明のつかない現、つまり「アノマリー」を発見する。これが積み重なると、既存の理論では説明できない大きな問題が生じ、科学者たちは新しい視点を模索し始める。アインシュタインの特殊相対性理論も、ニュートン力学が説明できなかった光速一定の原理から生まれた。つまり、科学革命は突然起こるのではなく、通常科学の積み重ねの果てに訪れるものなのである。

第4章 アノマリーの発見とその影響

科学の「ほころび」が見えたとき

科学者たちは通常、既存の理論のもとで研究を進める。しかし、時折、理論では説明できない現が現れることがある。これを「アノマリー」と呼ぶ。例えば、19世紀物理学者たちは、ニュートン力学を前提にして惑星の軌道を計算していたが、水星の軌道だけが予測とズレていた。この小さなズレは当初、観測ミスと考えられた。しかし、何度計算してもズレは消えなかった。こうした「ほころび」はやがて理論の限界を示し、新たな理論の必要性を示唆することになる。科学は完全なものではなく、常に未知の要素が潜んでいるのである。

望遠鏡が明かした「天動説」の綻び

アノマリーの発見が科学革命を引き起こした例として、ガリレオの観測が挙げられる。彼は望遠鏡を使って木星の周囲に4つの衛星を発見した。これは、すべての天体が地球の周りを回るという天動説と矛盾していた。しかし、当時の学者たちはこの発見をすぐには受け入れなかった。彼らはガリレオの観測に問題があると考え、望遠鏡そのものを疑った。科学の世界では、理論に合わない事実が現れたとき、まずは理論を守ろうとする傾向がある。しかし、アノマリーが積み重なると、もはや無視できなくなり、パラダイムの変化が必要になるのである。

量子力学が示した常識の崩壊

20世紀初頭、物理学者たちはアインシュタインの相対性理論に驚かされたが、さらに衝撃的な発見が待っていた。それが、ミクロの世界でニュートン力学が通用しないという事実である。電子は粒子でありながら波の性質を持ち、観測することでその振る舞いが変わる。このようなアノマリーが続出したため、物理学者たちは「古典物理学」から「量子力学」へとパラダイムシフトを起こすことになった。科学の歴史は、理論を覆すようなアノマリーが発見されるたびに、大きく変わってきたのである。

科学の進歩とは何か?

アノマリーの発見は、科学の終わりではなく、新しい発展の始まりである。ダーウィン進化論も、当時の生物学の枠組みでは説明できなかった化石の発見が積み重なった結果、生まれたものだった。科学は間違いを正しながら前進していく。つまり、アノマリーは科学の失敗ではなく、新しい時代の幕開けの合図なのだ。私たちは、今後も未知のアノマリーを発見し、それによって科学地図を書き換えていくことになるだろう。

第5章 科学革命の構造

科学の「常識」が崩れる瞬間

ある時代の科学者たちは、既存の理論のもとで研究を進めている。しかし、アノマリーが蓄積すると、もはや従来の理論では説明がつかなくなる。このような状況に直面した科学界では、「革命」が起こる。例えば、17世紀コペルニクスが唱えた地動説は、長年信じられていた天動説と矛盾していた。しかし、ガリレオの観測やケプラーの計算によって、地動説が次第に支持を集めるようになった。最終的に、ニュートンが万有引力の法則を確立したことで、新しい宇宙観が定着した。このように、科学革命とは、古い理論が否定され、新たな理論が科学者たちの「常識」となる過程である。

科学革命は戦いである

新しい理論が登場しても、それがすぐに受け入れられるわけではない。科学者たちは長年の研究の成果を信じており、簡単には手放さない。ダーウィン進化論が発表されたとき、多くの学者や宗教界の指導者は強く反発した。なぜなら、それは「が生物を創造した」という当時の信念を揺るがすものだったからである。しかし、進化論を支持する証拠が次第に増え、科学界の多数派がこれを受け入れるようになった。このように、科学革命は単なる理論の変更ではなく、新旧の科学者たちの間で激しい論争が繰り広げられる「戦い」なのである。

科学革命の進み方にはパターンがある

クーンは、科学革命が無秩序に起こるのではなく、一定のパターンに従うと考えた。まず、既存の理論が正常に機能している「通常科学」の時代がある。しかし、やがてアノマリーが発見され、それを説明するために新しい仮説が登場する。次に、新旧の理論の対立が生じ、科学界全体が混乱する。そして、決定的な証拠や新たな視点によって、新しい理論が受け入れられる。この時点で、科学の「常識」が書き換えられ、次の通常科学の時代が始まる。このプロセスは、ニュートン力学からアインシュタインの相対性理論への移行など、多くの科学革命で見られるものである。

科学革命の影響は科学を超える

科学革命は、単に理論の入れ替えでは終わらない。それは哲学や社会、経済、技術にも影響を与える。例えば、ニュートン物理学が確立されると、それは産業革命を後押しし、機械工学の発展を促した。20世紀量子力学の登場は、電子工学やコンピュータ技術に大きな影響を与えた。さらに、ダーウィン進化論は生物学だけでなく、人間社会のあり方にも影響を及ぼした。このように、科学革命は単なる知識の変化ではなく、私たちの世界観や社会のあり方そのものを揺るがす出来事なのである。

第6章 科学共同体とその文化

科学者は個人ではなく「集団」で動く

科学の歴史にはガリレオニュートンアインシュタインのような天才が登場するが、実際の科学の進展は彼ら一人の力だけで成し遂げられたものではない。科学者たちは「科学共同体」と呼ばれる集団の一員であり、共通の理論、実験方法、評価基準を共有している。たとえば、アイザック・ニュートンの運動方程式は、当時の数学者や天文学者たちによる膨大な研究の上に成り立っていた。科学者は単独で真理を探求するのではなく、互いに競争しながらも協力し、理論を磨き上げるのである。

「正しい科学」は誰が決めるのか?

ある理論が科学として認められるためには、科学共同体による「審査」を通過しなければならない。論文の査読制度はこの仕組みの一例であり、新しいアイデアは専門家たちによって厳しく評価される。例えば、ダーウィン進化論もすぐに認められたわけではなかった。19世紀生物学者たちは、彼の理論を実験や観察によって検証し、徐々に受け入れていった。科学とは「客観的な事実の集積」であると考えられがちだが、その背後には、科学共同体の評価基準や合意形成という社会的なプロセスがあるのである。

科学にも「流行」がある

科学は純粋な知識の探求のように思われるが、実際には流行やトレンドが存在する。例えば、20世紀後半にはDNA研究が急速に発展し、多くの研究者がこぞって遺伝子解析に取り組んだ。現在では人工知能量子コンピュータ科学界の注目を集めている。このような流行は、科学者の関心や研究資の配分によって左右される。クーンの理論によれば、パラダイムが変化する過程では、科学共同体全体が新しい理論に向かって一斉に移行する。このダイナミックな変化こそが、科学進化させる原動力となっている。

科学は社会と無関係ではいられない

科学科学者の手の中だけで完結するものではなく、社会の影響を強く受ける。例えば、冷戦時代には、核兵器の開発や宇宙開発競争が科学技術の進歩を加速させた。また、気候変動問題は、環境科学だけでなく政治や経済と密接に関わっている。科学者たちは純粋な真理の探究を目指しているが、研究資の提供者や政治的な圧力によって方向が決まることもある。科学共同体は、単なる知識の集団ではなく、社会と相互に影響を及ぼし合いながら進化する存在なのである。

第7章 クーン理論への批判と擁護

科学は本当に「革命」で変わるのか?

トーマス・クーンの「パラダイムシフト」理論は、科学史を理解する新たな視点を提供した。しかし、この考えに異論を唱える者も多い。たとえば、科学哲学者カール・ポパーは、科学の発展は大胆な仮説と厳密な反証によって進むと考えた。彼にとって、科学は徐々に真理に近づく営みであり、「革命的な飛躍」は不要だった。また、クーンの理論は、あるパラダイムから別のパラダイムへの移行が「合理的に説明できない」と示唆しており、これが科学の客観性を否定するのではないかという批判も受けた。果たして、科学の進歩は連続的なのか、それとも断続的なのか?

相対主義の問題—科学は主観的なのか?

クーンの理論の中でも特に議論を呼んだのは、「異なるパラダイムの間では、科学者同士が理解し合えない」という主張である。これを「不可通約性」と呼ぶが、批判者たちはこれが「相対主義」に陥る危険性を指摘した。もしパラダイムごとに「真理」が異なるなら、科学は単なる意見の集まりに過ぎなくなってしまうのではないか。実際、科学者はパラダイムが違ってもデータを共有し、議論を通じて理論を検証している。たとえば、量子力学の登場によりニュートン力学は完全に否定されたわけではなく、異なる条件下では今も有効に機能している。クーンの考えは科学質を過度に主観的に描いているのかもしれない。

歴史はクーンを証明したのか?

クーンの理論が発表されてから数十年が経ったが、科学の実際の進展は彼の考えを証明しているのだろうか?たとえば、DNAの二重らせん構造の発見や、ビッグバン理論の確立は、確かに新しい視点をもたらしたが、完全に旧来の科学を否定するものではなかった。つまり、科学革命はしばしば過去の理論を吸収しながら発展している。クーンは、科学は不連続的に進むと述べたが、実際には連続的な側面も多い。科学革命とは、旧理論の完全な破壊ではなく、進化的な変化を伴うものなのかもしれない。

クーンの影響は今も生きている

クーンの理論は科学哲学だけでなく、社会科学や経済学、さらにはビジネスの分野にまで影響を与えている。「イノベーション」や「パラダイムシフト」という言葉は、科学革命の枠を超えて使われるようになった。実際、IT革命や人工知能の進展など、現代の技術革新を考える上でも、クーンの視点は重要である。彼の理論に対する批判は今も続いているが、科学が単なる「知識の積み重ね」ではなく、大きな変化を伴うことを示した点において、クーンの影響力は揺るぎないものとなっているのである。

第8章 クーンの影響を受けた学術分野

科学哲学に与えた衝撃

クーンの『科学革命の構造』は、科学哲学に革命をもたらした。従来の科学観では、科学は真理に向かって直線的に進歩するものと考えられていた。しかし、クーンは科学が「パラダイムシフト」を通じて進むことを示し、科学質に対する認識を根から変えた。この考えに影響を受け、イムレ・ラカトシュは「研究プログラム」という概念を提唱し、科学がいくつもの競合する理論の中で発展することを説明した。また、ポール・ファイヤアーベントはクーンの理論をさらに極端に押し進め、「科学に唯一の方法はない」と主張した。クーンの理論は、科学哲学を大きく揺るがす契機となったのである。

社会科学の視点を変えたクーン理論

クーンの「パラダイム」という概念は、自然科学だけでなく社会科学にも影響を与えた。社会学者のミシェル・フーコーは、歴史的な知の体系がどのように変遷するかを「エピステーメー」という概念で説明し、クーンの影響を色濃く受けた。また、経済学では、ジョセフ・シュンペーターの「創造的破壊」の理論がクーンの考え方と結びつけられた。企業や産業もまた、古いパラダイムが崩壊し、新しいイノベーションによって置き換えられる。科学における「革命」の考え方が、経済や社会の変化を説明するための強力な道具となったのである。

歴史学と人文学におけるクーンの影響

クーンの理論は、歴史学や文学研究にも波及した。歴史学者たちは、過去の出来事を単なる因果関係で説明するのではなく、当時の知識体系やパラダイムの変化の中で理解するようになった。たとえば、トニー・ジャットは近代ヨーロッパ史を、新たな政治的・経済的パラダイムの移行として分析した。文学研究では、構造主義やポスト構造主義の潮流の中で、「言語や文化の枠組み(パラダイム)」が人間の思考を規定するという考え方が強まった。クーンの影響は、自然科学の枠を超えて、人文社会科学の領域全体に広がったのである。

テクノロジーとビジネスにおける「パラダイムシフト」

現代のテクノロジーやビジネスの世界では、「パラダイムシフト」という言葉が頻繁に使われる。スティーブ・ジョブズiPhoneを発表したとき、それは単なる新製品ではなく、携帯電話の概念そのものを変える出来事だった。インターネット、人工知能、ブロックチェーン技術など、技術革新がもたらす変化は、まさにクーンが言う「革命」のプロセスを体現している。企業や市場もまた、古い価値観が崩れ、新しいビジョンが支配的になるパラダイムの転換を経験している。科学革命の概念は、現代社会のあらゆる変化を読み解くとなっているのである。

第9章 トーマス・クーンの思想的背景

科学者から哲学者へ

トーマス・クーンは1922年、アメリカのオハイオ州で生まれた。もともとは物理学を学び、ハーバード大学で博士号を取得したが、彼の関心は徐々に科学の歴史や哲学へと移っていった。きっかけは、科学史の講義を担当したことだった。彼はそこで、アリストテレス物理学が単なる誤った理論ではなく、当時の知の枠組みの中では合理的だったことに気づいた。この経験が、後に「パラダイム」の概念を生み出す土台となったのである。クーンは、科学が一歩ずつ積み重なるのではなく、革命的に変化するという視点を築いていった。

アメリカ的思想とクーンの発想

クーンの考え方は、アメリカ哲学の伝統とも深く結びついている。特に、ウィリアム・ジェームズやジョン・デューイといったプラグマティズムの影響を受けていた。プラグマティズムは「真理とは固定されたものではなく、社会や時代によって変化する」と考える。この発想は、クーンの「科学のパラダイムは歴史的に変化する」という理論と共鳴するものであった。また、冷戦時代のアメリカ社会は、科学技術の発展を絶対的なものとして信じる傾向があった。クーンの理論は、その前提を覆し、科学が絶対的な進歩ではなく、文化的・社会的影響を受けることを示した。

科学史研究のパラダイム転換

クーンの業績の核心は、科学史の見方そのものを変えたことである。従来の科学史は、ガリレオニュートンのような偉人たちが理論を積み重ね、真理へと近づく過程として描かれることが多かった。しかし、クーンはこの「累積的進歩」モデルに異議を唱えた。彼は、科学者たちは特定の「パラダイム」に基づいて研究を行い、それが限界に達すると革命的に新しい理論へと移行すると論じた。これは、単なる科学哲学の議論にとどまらず、科学史の研究方法そのものを変えるものだったのである。

クーンの遺産とその後の議論

クーンの理論は、科学哲学だけでなく、社会学や経済学、さらにはビジネスの分野にも大きな影響を与えた。特に「パラダイムシフト」という言葉は、技術革新や企業経営の変化を説明する概念としても広く使われるようになった。しかし、彼の考え方には多くの批判もあった。科学の発展は当に断続的なのか?異なるパラダイムの間に共通の議論の余地はないのか?クーンの理論は、科学の理解を深めると同時に、新たな問いを生み出し続けているのである。

第10章 クーン理論の現代的意義

21世紀の科学革命はすでに始まっている

クーンの「パラダイムシフト」という概念は、21世紀においても重要性を増している。たとえば、人工知能(AI)の急速な進化は、科学のあり方そのものを変えつつある。従来の科学は人間が理論を立て、実験を行い、データを解釈する形で進められてきた。しかし、AIは膨大なデータを処理し、従来の理論では説明できない新しい法則を発見しつつある。もしAIが自ら科学的発見を行う時代が来れば、これはまさにクーンの言う「科学革命」に匹敵する出来事となるだろう。今、科学は新たなパラダイムの転換点に立っているのかもしれない。

「真理」とは何か—クーンが問い続けたもの

クーンの理論が示唆するのは、「真理とは時代とともに変わる」という考え方である。例えば、かつて医療では「血を抜くことで病気を治す」という瀉血療法が信じられていた。しかし、19世紀に細菌学が発展し、感染症の原因が微生物であることが明らかになると、この治療法は科学的に誤りであると認識された。このように、科学の「真理」は時代ごとに異なるのである。もし現代の科学が絶対的に正しいと信じるならば、それは過去の科学者が自分たちの理論を疑わなかったのと同じ過ちを犯しているのかもしれない。

クーン理論は科学以外にも広がった

クーンの「パラダイムシフト」は、今や科学だけの概念ではない。経済学では、フィンテックや暗号資産の登場が伝統的な融システムを揺るがしている。教育の分野でも、従来の一斉授業のスタイルが、個別最適化されたオンライン学習へと移行しつつある。さらに、社会運動においても、新たな価値観が急速に広がり、政治文化の「パラダイム」が変化する場面が増えている。クーンの理論は、あらゆる分野に応用可能な強力な思考ツールとなっているのだ。

科学の未来とクーンの遺産

科学は今後どのように進化していくのか。人類が宇宙の起源や意識の正体を解き明かしたとき、今の科学の枠組みはどのように変化するのか。もしかすると、未来科学者たちは、私たちが「当然」と思っている理論を過去の遺物として振り返るかもしれない。クーンが示したのは、科学は固定されたものではなく、常に変化し続けるという事実である。パラダイムの転換はこれからも続き、科学未来は予測不可能なほどダイナミックに進化し続けるだろう。