アッバース1世

基礎知識

  1. アッバース1世の即位とサファヴィー朝の再興
    アッバース1世(在位1588-1629年)は、サファヴィー朝の混乱を乗り越え、中央集権を強化し国家の安定を取り戻した。
  2. 軍事改革とカプクル軍の創設
    彼はオスマン帝国を参考にしつつ、カプクル軍という常備軍を組織し、遊牧勢力に依存しない強力な軍事体制を築いた。
  3. イスファハーンの繁栄と文化の発展
    彼は新たな都イスファハーンを整備し、建築・工芸・絵画などの文化を奨励し、「世界の半分」と称される繁栄をもたらした。
  4. 対外関係と西洋との交流
    アッバース1世はオスマン帝国やウズベク・ハンと戦う一方、ポルトガルをホルムズ島から追放し、ヨーロッパと通商を強化した。
  5. 経済政策とシルクロード貿易の活性化
    彼は交易路の安全を確保し、特に貿易国家管理することで財政基盤を強化し、経済の発展を推進した。

第1章 サファヴィー朝の興亡とアッバース1世の即位

ペルシャを統べる新たな王朝の誕生

16世紀初頭、ペルシャの大地に新たな王朝が誕生した。イスマーイール1世によって建されたサファヴィー朝は、シーア派イスラムを教とし、オスマン帝国やウズベク・ハンと対峙しながらペルシャの統一を果たした。彼は詩人としても活躍し、軍事と文化の両面で強い影響を与えた。しかし、カリスマ的指導者の後、王は混乱の渦に巻き込まれる。後継者たちは権力争いにけ暮れ、宮廷は腐敗し、境では外敵が次々と侵攻してきた。かつて繁栄を誇ったペルシャは、大きな転換期を迎えていた。

王朝の危機とペルシャの暗黒時代

16世紀後半、サファヴィー朝は衰退の一途をたどった。オスマン帝国との戦いに敗れ、アナトリアやコーカサスの領土を奪われ、ウズベク・ハンは東方からの圧力を強めた。内部でも王族同士の争いが続き、政治は腐敗し、民衆の不満は募っていた。首都カズヴィーンでは官僚が私利私欲に走り、軍は弱体化し、交易路は荒廃した。ペルシャの誇り高き歴史が崩れ去ろうとしていたが、この混乱の中、一人の少年が王となることで歴史の流れが変わる。彼の名はアッバース。のちに「大王」と呼ばれることになる男である。

若き王アッバースの試練

1588年、16歳のアッバースは混乱の王を受け継いだ。しかし、彼の道のりは険しかった。即位の直前、彼は王位継承をめぐる陰謀の中で父を失い、幼少期から軟禁されるという運命を強いられていた。王として即位するも、実権は大臣ムルシド・クリー・ハーンに握られていた。若きアッバースは、無力な傀儡のままで終わるのか、それとも新たな時代を切り拓くのか。彼は忍耐強く機会を待ち続けた。やがて、自らの手で運命を変える日が訪れる。最初の一手は、大臣を排除し、王権を取り戻すことであった。

真の王への道

年の準備を経て、アッバースはついに動いた。1590年、彼は忠実な軍人たちと結託し、大臣ムルシド・クリー・ハーンを排除することに成功した。ついにサファヴィー朝の全権を握ると、彼は国家再建のための改革に着手する。軍事の再編、官僚の刷新、経済の活性化――アッバースの治世は、まるで嵐のような変革の連続だった。しかし、この若き王が当に成し遂げたかったことはただ一つ。衰退する祖を立て直し、ペルシャをかつての栄へと導くことであった。ここから、彼の壮大な物語が始まる。

第2章 アッバース1世の統治改革と中央集権化

崩れゆく王権と改革の必要性

アッバース1世が即位したとき、サファヴィー朝は崩壊寸前であった。地方の有力者たちは王権を無視し、自らの勢力を拡大。軍は弱体化し、官僚は腐敗し、国家財政は逼迫していた。さらに、オスマン帝国とウズベク・ハンの脅威が増し、ペルシャは存亡の危機にあった。このままでは王は瓦解する。若きアッバースは、国家の命運を背負い、大胆な改革に乗り出すことを決意した。まず彼が着手したのは、王権の強化であった。地方の実力者を抑え、中央集権的な統治を築くことこそ、国家再建のであった。

貴族の排除と忠実な官僚の登用

アッバース1世は、かつて王を操っていた有力貴族たちを排除し、新たな官僚制度を確立した。特に、以前の支配層であったクズルバシュ族の影響力を抑え、代わりに王に忠誠を誓う新たな官僚や軍人を登用した。彼はペルシャ人だけでなく、アルメニア人やジョージア人といった征服地の人材も重用し、多様な行政機構を整えた。さらに、汚職を取り締まり、地方総督の権限を制限することで、王がすべてを掌握できる体制を築き上げた。こうして、サファヴィー朝は王の命令が全に行き渡る、強力な国家へと変貌を遂げつつあった。

統治の要となる新たな税制改革

中央集権を強化するには、安定した財政基盤が不可欠であった。アッバース1世は、それまでの地方領主に依存した税収システムを改め、国家が直接税を徴収する制度へと改革した。遊牧民に課される税制を見直し、都市商人や職人階級からも公平な課税を行うことで、国家の収入を増やした。また、官僚の給与を国家が直接支払うことで、地方豪族による賄賂の影響を排除した。これにより、ペルシャ経済は活性化し、王の財政基盤も大幅に強化された。アッバースの改革は、単なる政治変革ではなく、経済の活性化にもつながる大きな一歩であった。

絶対王政への道

こうした改革の結果、アッバース1世は名実ともに絶対的な君主へと成長した。彼は自身を「影のカリフ」として、イスラム世界の指導者としての権威を確立し、宮廷には彼を称える詩や書簡があふれた。アッバースは、王権を象徴する宮殿を整備し、国家の威を誇示した。もはや、サファヴィー朝はかつてのような貴族の力が支配するではなく、王の手によって統治される強大な帝国となった。彼の改革は、単にサファヴィー朝を救うだけでなく、後のイラン国家体制にも深い影響を与えたのである。

第3章 軍事改革とオスマン帝国・ウズベクとの戦い

滅びか、再生か—軍の改革が必要な理由

サファヴィー朝の軍はかつて最強を誇ったが、アッバース1世の即位時には衰退していた。伝統的なクズルバシュ騎兵は派閥争いにけ暮れ、オスマン帝国の訓練されたイェニチェリ軍には歯が立たなかった。さらに、ウズベク・ハンは東方の境を脅かし、土は絶えず侵略の危機にあった。このままではサファヴィー朝の存続は危うい。アッバースは抜的な軍制改革を決意し、新たな軍隊の創設に取り掛かった。それは、旧来の貴族の軍ではなく、王自身が直接指揮する精鋭軍であった。

カプクル軍の創設—精鋭部隊への変革

アッバース1世はオスマン帝国イェニチェリを参考にし、新たに「カプクル軍」を創設した。この軍は奴隷制度を利用し、アルメニア人やグルジア人の少年を徴集し、イスラム教に改宗させたうえで厳しい軍事訓練を施すというものだった。火器の導入を進め、最新の大砲やマスケットを装備させることで、これまでの騎兵主体の軍とは異なる近代的な軍隊へと生まれ変わった。また、カプクル軍の兵士たちは王に直接忠誠を誓い、従来の地方領主の影響を受けることはなかった。こうしてアッバースは、王直属の強力な軍事力を手に入れた。

オスマン帝国との戦い—領土を奪還せよ

軍の改革を完了したアッバースは、宿敵オスマン帝国への反撃を開始した。彼はまず北西部の要衝タブリーズを奪還し、その後もアゼルバイジャンやコーカサス地方へと進軍した。特に1603年から1618年にかけての戦争では、バグダードを含むメソポタミアの一部を制圧し、オスマン軍に大打撃を与えた。巧みな戦術と近代兵器を駆使した戦闘は、従来のペルシャ軍とは一線を画していた。戦のたびに彼の名声は高まり、サファヴィー朝の威信は再び輝きを取り戻していった。

東の脅威—ウズベク・ハン国との対決

西方だけでなく、アッバースは東方の脅威にも目を向けた。ウズベク・ハンの騎兵たちは、たびたびホラーサーン地方を襲撃し、ペルシャの領土を脅かしていた。1598年、彼は自ら軍を率いてウズベク軍と戦い、ヘラートとマーシュハドを奪回した。この勝利はサファヴィー朝の東方防衛を強化するだけでなく、中央アジアにおけるサファヴィーの影響力を高めることにもつながった。こうしてアッバース1世は、内外の脅威を取り除き、サファヴィー朝の黄時代を築き上げたのである。

第4章 都市計画とイスファハーンの黄金時代

新たな都の誕生—イスファハーンへの遷都

アッバース1世は、サファヴィー朝の新たな象徴となる都を築こうと決意した。それまでの首都カズヴィーンは軍事的には有利だったが、政治・経済の中地とするには適していなかった。そこで彼は1598年、ペルシャ高原の中に位置するイスファハーンへの遷都を宣言した。この都市は交易路の要衝にあり、豊かなザーヤンデ川が流れ、繁栄する条件を備えていた。「イスファハーンは世界の半分」と称されるほど壮麗な都市へと変貌を遂げることになる。その建設計画は、サファヴィー朝の威を示す壮大なプロジェクトだった。

壮麗な広場と宮殿—ナクシェ・ジャハーン広場の奇跡

イスファハーンの中には、現在も残る「ナクシェ・ジャハーン広場」が建設された。この広場は「世界の姿」を意味し、王宮、モスク、市場が調和する完璧な都市設計の象徴であった。特に、イマームモスクの青いタイルが輝く壮麗な姿は、訪れる者を魅了した。また、アッバース1世はアーリー・ガープ宮殿を建設し、ここから重要な儀式や外交交渉を指揮した。広場ではポロ競技が催され、商人や旅行者で賑わった。イスファハーンは、単なる首都ではなく、文化と権力の中地として世界に名を轟かせたのである。

職人と芸術家の集結—イスファハーンの文化革命

イスファハーンの発展には、多くの芸術家や職人の貢献があった。アッバース1世は、ペルシャ絨毯職人や陶芸家、細密画の画家たちを宮廷に招き、芸術の保護と発展を奨励した。イスファハーンの工房では、鮮やかなミニアチュール絵画が生み出され、工芸品がヨーロッパへと輸出された。シルクロードの商人たちは、ここで最高級の織物や陶器を取引した。こうして、イスファハーンは単なる政治の中地にとどまらず、ペルシャ文化の黄時代を象徴する都市へと成長していったのである。

絢爛たる橋と庭園—都市美学の頂点

イスファハーンのしさは、庭園にも及んだ。ザーヤンデ川には33連アーチを持つ「シオセ」や、壮麗な「ハージュー」が架けられ、人々の憩いの場となった。王は「ペルシャの庭」と呼ばれる庭園文化を発展させ、と緑を活かした都市景観を整えた。噴の流れる涼やかな庭園は、王族や貴族だけでなく、市民にも開放された。こうして、イスファハーンはペルシャの伝統美学都市計画の粋を極めた都市となり、そのは今も多くの人々を魅了し続けている。

第5章 経済政策とシルクロードの復興

停滞する貿易と財政危機

アッバース1世が即位した当時、サファヴィー朝の財政は破綻寸前であった。オスマン帝国との戦争や内部の混乱により、交易路は荒れ果て、国家の収入源である税収も激減していた。さらに、かつて繁栄していたシルクロード貿易は、ポルトガルオランダの海上交易の発展により衰退しつつあった。アッバースは、国家の再建には経済の立て直しが不可欠であると考えた。そして、シルクロードの復興と商業の活性化を目指し、大胆な経済改革を開始したのである。

交易路の整備と商人の保護

アッバース1世は、交易の安全を確保するために、キャラバンサライ(隊商宿)の整備や道路の改修を進めた。彼は特にシルクロード上の都市を強化し、商人たちが安して行き来できる環境を整えた。さらに、外商人に対して寛容な政策を取り、オランダイギリスの商人にもペルシャでの取引を許可した。これにより、香辛料、陶器などの交易が活性化し、サファヴィー朝の経済は次第に回復していった。商人たちは、新たな交易の中地としてイスファハーンに集まるようになった。

王室管理の絹産業—財政の柱へ

アッバース1世は、特にペルシャの産業に目をつけた。彼はの生産と販売を国家管理のもとに置き、王室の収入源とした。従来は地方の領主や商人が主導していた貿易を、王自らが監督し、ヨーロッパとの取引を拡大した。特にヴェネツィアやオランダはペルシャを高く評価し、積極的に輸入を行った。こうして、サファヴィー朝は安定した財政基盤を築き上げ、軍事や都市開発に必要な資を確保することに成功したのである。

繁栄の頂点と経済政策の遺産

アッバース1世の経済改革により、サファヴィー朝の経済は黄時代を迎えた。イスファハーンのバザールには、インドや中ヨーロッパの商人が集まり、活気にあふれていた。彼の政策は単なる短期的な景気回復ではなく、ペルシャの経済構造そのものを変革し、持続可能な成長をもたらした。しかし、この繁栄が長く続くかどうかは、後継者たちの手腕にかかっていた。アッバースが築いた経済の土台は、サファヴィー朝の運命を大きく左右するものとなったのである。

第6章 外交戦略とヨーロッパ諸国との関係

ペルシャの宿敵、ポルトガルとの対決

16世紀末、ペルシャ湾の要衝ホルムズ島はポルトガルの支配下にあった。この島はインド洋貿易を握る戦略的な拠点であり、サファヴィー朝にとっても奪還すべき重要な地であった。アッバース1世は単独で戦うのではなく、ヨーロッパの新興勢力であるイギリス東インド会社と同盟を結んだ。1622年、ペルシャ軍はイギリスの援軍と共にホルムズを急襲し、ポルトガルを駆逐することに成功した。この勝利により、ペルシャは海上交易の主導権を取り戻し、ヨーロッパとの関係を一層強化していくことになる。

オスマン帝国とヨーロッパの狭間で

サファヴィー朝にとってオスマン帝国は最大の宿敵であったが、ヨーロッパにとっても同様であった。アッバース1世はこの状況を巧みに利用し、スペイン、ヴェネツィア、ローマ教皇庁と接触を図った。彼の目的は、オスマン帝国に対抗するための同盟を築くことであった。ペルシャから使節団がヨーロッパへ派遣され、軍事協力や貿易交渉が行われた。特にヴェネツィアとは武器取引を活発に行い、ペルシャ軍の近代化にも寄与した。こうしてアッバースは、地政学的なバランスを巧みに操り、サファヴィー朝の外交的地位を向上させたのである。

ペルシャ絹とヨーロッパの商人たち

アッバース1世の外交政策の重要な柱の一つが貿易であった。彼はヨーロッパ商人にペルシャ市場を開放し、特にヴェネツィア、イギリスオランダの商人たちと活発な交易を行った。彼らの最大の関は、ペルシャであった。当時、ヨーロッパでは中産のよりもペルシャが高く評価されていたため、サファヴィー朝はこの貿易国家の財源とした。イスファハーンには外商人のための商館が建設され、際的な交易都市としての地位を確立したのである。

使節団の派遣とペルシャの国際的地位

アッバース1世は外交を重視し、多くの使節団をヨーロッパへ派遣した。1600年にはイギリスエリザベス1世に使節を送り、軍事協力を申し出た。フランススペインにもペルシャの存在をアピールし、キリスト教世界との関係を築こうとした。ペルシャの王が西欧の宮廷と交渉するという前代未聞の外交戦略は、世界の歴史においても特筆すべきものであった。この外交政策により、サファヴィー朝は際的な影響力を拡大し、ペルシャは新たな大としての地位を確立していった。

第7章 宗教政策とシーア派の確立

シーア派国家の形成

サファヴィー朝は、シーア派イスラムを教とした最初の王朝であった。しかし、アッバース1世の即位当初、内にはスンニ派信仰を持つ者も多く、宗教的統一は達成されていなかった。彼はシーア派を国家の基盤とするため、ウラマー(宗教指導者)を支援し、神学の発展を奨励した。特にナジャフやクムといった聖地を重視し、巡礼を奨励した。これにより、シーア派の教義はペルシャ全土に浸透し、サファヴィー朝のアイデンティティの中となった。アッバース1世は、王権と宗教を結びつけることで、自らの統治を強固なものにしたのである。

ウラマーとの協力と宗教政策

アッバース1世は、シーア派のウラマーを宮廷に招き、国家宗教政策を共に進めた。彼はウラマーに土地を与え、教育機関を設立し、神学を学ぶ者を増やした。これにより、王権と宗教界の結びつきは強まり、ウラマーは国家の重要な支柱となった。特に、ムハンマド・バーキル・マジュリスィのような宗教学者は、シーア派の理論を体系化し、ペルシャ社会の価値観を形作った。アッバースは宗教指導者たちの支持を得ることで、統治の正当性を強調し、民衆の忠誠を確保したのである。

スンニ派との対立と宗教的統一

シーア派を教とする過程で、スンニ派との対立は避けられなかった。特に、スンニ派のオスマン帝国との戦争は、宗教的な対立をさらに激化させた。アッバース1世はスンニ派の影響を排除するため、内のスンニ派モスクをシーア派の礼拝所へと転用し、スンニ派宗教指導者の権限を制限した。また、シーア派の聖地であるカルバラーやナジャフへの巡礼を奨励し、宗教的な結束を強化した。こうしてペルシャは、スンニ派世界とは異なる独自の宗教アイデンティティを確立していった。

シーア派国家の確立とその影響

アッバース1世の宗教政策により、ペルシャは完全なシーア派国家となった。この変革は、単なる宗教政策にとどまらず、国家の枠組みそのものを変えるものだった。シーア派の聖職者は強大な影響力を持つようになり、宗教政治が一体化していった。この影響は、後のイランにおいても続き、現在のイラン宗教体制にもその名残が見られる。アッバース1世が築いたシーア派国家の基盤は、サファヴィー朝の統治を支えただけでなく、現代イラン宗教的な土台をも形作ったのである。

第8章 アートと文化の黄金時代

イスファハーンの芸術革命

アッバース1世の治世において、ペルシャの芸術はかつてないほどの発展を遂げた。彼の宮廷は、多くの画家、建築家、詩人たちを保護し、イスファハーンを芸術の都へと変貌させた。特に、宮廷画家のレザー・アッバースィは、ペルシャの細密画(ミニアチュール)の新たなスタイルを確立し、華麗で洗練された肖像画を描いた。彼の作品は、人物の優雅な動きと豊かな彩が特徴であり、イスファハーン派と呼ばれる芸術運動を生み出した。こうしてアッバース1世の宮廷は、ペルシャ芸術の新たな黄時代を築き上げたのである。

建築の頂点—壮麗なモスクと宮殿

アッバース1世の建築プロジェクトの中には、イスファハーンの「ナクシェ・ジャハーン広場」があった。この広場には、イマームモスクやシェイフ・ロトフォッラー・モスクといった壮麗な建築が建てられた。特に、イマームモスクの青とタイル装飾は、イスラム建築の最高傑作とされる。また、宮殿「アーリー・ガープ」は王の権威を象徴し、その壮大なテラスからは広場全体を見渡すことができた。これらの建築は、ペルシャ建築の頂点を極め、アッバース1世のビジョンを具現化したものであった。

詩と文学—文化の繁栄

ペルシャの詩と文学も、この時代に大きな発展を遂げた。アッバース1世の宮廷では、ハーフィズやサアディーの詩が重んじられ、詩人たちは王の庇護のもとで創作を続けた。また、この時期にはペルシャ語の歴史書や哲学書も多く書かれ、ペルシャ文学の黄期となった。宮廷では、詩の朗読会が頻繁に開かれ、詩人と学者が思想を交わした。アッバースの治世は、戦争の時代でありながら、文化的にも豊かな時代であったことが、この文学の発展からもわかるのである。

工芸と装飾美術—世界を魅了するペルシャの技

ペルシャの工芸技術も、アッバース1世の時代に絶頂を迎えた。特に、ペルシャ絨毯の生産は国家事業となり、細密なデザインと高品質の糸を用いた作品がヨーロッパへ輸出された。また、陶器や細工の工房も発展し、イスファハーンの市場には豪華な工芸品が並んだ。これらの作品は、ヨーロッパの貴族たちにも珍重され、ペルシャの意識が世界に広がるきっかけとなった。アッバース1世の奨励により、ペルシャの工芸文化は世界の舞台へと羽ばたいていったのである。

第9章 晩年と王位継承の問題

勝利の影に忍び寄る不安

アッバース1世は々の戦争に勝利し、サファヴィー朝を繁栄の絶頂へと導いた。しかし、その成功の裏で、彼のには次第に疑念が芽生えていった。宮廷には陰謀が渦巻き、王の周囲には敵か味方かわからぬ者たちがひしめいていた。特に、後継者問題が深刻化するにつれ、アッバースの猜疑は増し、自らの家族に対しても冷酷な決断を下すようになった。彼は長男を幽閉し、さらには他の王子たちをも粛するなど、サファヴィー朝の未来を揺るがす行動をとり始めたのである。

恐怖政治と王族の悲劇

アッバース1世の治世後期、宮廷は不穏な空気に包まれていた。王の猜疑極限に達し、忠実な家臣ですら信用できなくなった。彼は次第に宮廷の宦官や奴隷出身の側近たちを重用し、王族や貴族たちを遠ざけた。最も悲劇的だったのは、王子たちの運命である。アッバースは自身の権力を守るため、成人した息子たちを失脚させるか、あるいは暗殺させた。その結果、サファヴィー朝の王位継承は混乱を極め、次代の支配者たちは王としての能力を十分に培うことができなかったのである。

晩年の統治と衰えゆく王

晩年のアッバース1世は、かつての活力を失い、宮殿にこもることが多くなった。国家は依然として強大であったが、王自身の統治能力には陰りが見え始めていた。かつて自ら陣頭指揮を執った軍事作戦も、もはや部下に委ねられることが多くなった。さらに、王の病状は化し、宮廷内では誰が次の王となるかについての憶測が飛び交った。彼が生涯をかけて築き上げたサファヴィー朝の栄は、王の衰えとともに少しずつ揺らぎ始めていたのである。

サファヴィー朝の未来への影

1629年、アッバース1世は静かにこの世を去った。彼が残した遺産は計り知れないほど大きかったが、その一方で、王位継承の問題は未解決のままだった。後を継いだサフィー1世は、父のような強力な指導者ではなく、宮廷の宦官や側近たちの操り人形と化していった。こうしてサファヴィー朝の衰退の芽が生まれたのである。アッバース1世の治世は、サファヴィー朝の絶頂期であったと同時に、その終焉への序章でもあったのだ。

第10章 アッバース1世の遺産と歴史的評価

栄光の王とその功績

アッバース1世は、サファヴィー朝をかつてない繁栄へと導いた名君であった。彼の改革によって軍は強化され、経済は活性化し、イスファハーンは「世界の半分」と称される文化の中となった。さらに、外交戦略を駆使し、オスマン帝国ポルトガルといった強大な勢力に対抗した。彼の統治のもとでペルシャは際的な大へと成長し、その影響は中央アジアインド、さらにはヨーロッパにまで及んだ。サファヴィー朝の絶頂期を築いたアッバース1世の業績は、今なおイランの歴史の中で語り継がれている。

欧州の視点から見たアッバース1世

アッバース1世の時代、ヨーロッパではオスマン帝国が脅威とされていた。そのため、ペルシャのアッバース1世は西欧の々から「イスラム世界における対オスマンの盟友」と見なされた。イギリススペイン、ヴェネツィアは彼と同盟を結び、ペルシャを求めて貿易を盛んにした。イギリス東インド会社の旅行家たちは、彼の知略とカリスマ性を記録し、ペルシャが洗練された文国家であることを伝えた。ヨーロッパにおけるアッバース1世の評価は極めて高く、彼の外交と文化の影響は西欧世界にも深く刻まれたのである。

アッバースの遺産とサファヴィー朝の未来

アッバース1世の築いた中央集権体制は、サファヴィー朝の繁栄を支えた。しかし、彼が晩年に王族を粛したことで、有能な後継者が育たなかった。次代の王たちは宮廷の宦官や側近に操られ、統治能力を欠いた。彼の後、サファヴィー朝は次第に衰退し、18世紀初頭には滅亡することになる。しかし、アッバースが確立したシーア派国家伝統は、後のペルシャ王朝にも受け継がれ、イラン宗教政治の基盤として現代にまで影響を与えている。

現代イランへの影響

アッバース1世の改革と政策は、現在のイランにも濃く残っている。イスファハーンの壮麗な建築、シーア派の信仰、そして国家としてのアイデンティティは、彼の時代に形作られたものである。現代のイラン政府も、サファヴィー朝の遺産を誇りとし、文化的なルーツとして重視している。アッバース1世は単なる歴史上の英雄ではなく、イランの根幹を作り上げた人物として、今もなお民に敬され続けているのである。