キプロス

基礎知識
  1. キプロスの古代文明の起源
    キプロスの歴史は紀元前9,000年頃の新石器時代に遡り、フェニキア人やギリシャ人など多様な文明が影響を与えた場所である。
  2. キプロス十字軍
    12世紀末から15世紀にかけて、キプロス十字軍国家として繁栄し、西欧との結びつきを強め、重要な中継地となった。
  3. オスマン帝支配とその影響
    16世紀から19世紀末にかけて、オスマン帝キプロスを支配し、イスラム文化や行政制度が導入された。
  4. イギリス統治とキプロスの独立
    1878年から1960年までイギリスの統治下にあり、その間、キプロス独立運動が展開され、最終的に1960年に独立した。
  5. 1974年のトルコ軍侵攻と分断
    1974年にギリシャ系住民のクーデターに対し、トルコが北部を侵攻し、島は南北に分断されたままとなっている。

第1章 キプロスの古代史と文明の興隆

キプロスの始まり: 新石器時代の発見

キプロスの歴史は紀元前9,000年頃に遡る。新石器時代に、人々がこの島に初めて定住し、農耕と牧畜を始めた。初期の住民たちは、主に小麦や大麦を栽培し、羊やヤギを飼育して生活を成り立たせていた。島の豊かな自然環境は、彼らが集落を作り、次第に社会が発展することを後押しした。また、発掘された遺跡からは、独自の石造建築や陶器の技術が確認されており、当時の人々が高度な文化を築いていたことがわかる。初期のキプロスはまさに文明の誕生地であり、その後の発展の礎となった。

フェニキア人との交易と文化の交流

紀元前1500年頃、フェニキア人がキプロスに到来した。彼らは地中海全域で活躍する交易の達人で、キプロスはその戦略的な位置ゆえに、貴属や香料を運ぶための重要な拠点となった。フェニキア人はキプロスに港を建設し、ギリシャエジプトなど周辺地域との交易を盛んに行った。また、フェニキア文化キプロスに影響を与え、文字の使用や宗教儀式の一部が導入された。特に、キプロスで見られる殿や彫刻は、フェニキア文化ギリシャ文化が融合した独自のものであり、彼らの存在が島に深い影響を与えたことがうかがえる。

ミケーネ文明とギリシャ文化の浸透

紀元前1200年頃、ギリシャ土からミケーネ人がキプロスに到来した。彼らは島に新たな都市を築き、ギリシャ文化を広めた。特に、ミケーネ人は高度な建築技術を持ち込み、堅牢な城壁や宮殿を建設したことで知られている。これにより、キプロスギリシャ文明の一部となり、宗教話、言語など、多くのギリシャ的要素が島に定着した。々への信仰ギリシャ風に変わり、特にアフロディーテがキプロスの守護として崇拝されるようになった。彼女は後に「キプロスの女」として知られることとなる。

古代キプロス: 戦略的要地としての役割

キプロスは地中海の真ん中に位置し、そのため紀元前1000年以降、多くの勢力がこの島をめぐって争った。ギリシャエジプト、ペルシャなどの大にとって、キプロスは交易の要衝であり、軍事的にも重要な拠点であった。例えば、ペルシャ帝は島を支配下に置き、ギリシャとの戦いにおいてキプロスを利用した。戦略的な位置が、キプロスの歴史を通じて繰り返される争いの背景にある。こうして、キプロスは多くの文明がぶつかり合う場所となり、その結果、多様な文化が共存し、豊かな遺産を築き上げることとなった。

第2章 地中海の交差点としてのキプロス

ローマ帝国の守護下で栄えるキプロス

キプロスは紀元前58年にローマに組み込まれた。この時代、ローマの広大な領域は地中海を「我らが海」と呼ぶほど支配しており、キプロスもその一部として重要な役割を果たした。特にローマ時代のキプロスは、ワインオリーブオイルの輸出地として繁栄した。街道が整備され、港が拡充されることで、キプロスは東地中海全域との交易の中心地となった。ポンペイウスやユリウス・カエサルなどローマの有名な政治家たちもこの島の重要性を認識していた。こうしてキプロスは、ローマの下で安定と繁栄を享受することになったのである。

ビザンツ帝国の影響とキリスト教の台頭

ローマが東西に分裂すると、キプロスは東のビザンツ帝の支配下に入った。この時期、キリスト教が島の主要な宗教となり、多くの教会が建設された。特に、使徒パウロとバルナバがキプロスキリスト教を広めたことが知られており、彼らの布教活動は、島の信仰の基盤を築いた。ビザンツ時代、キプロス宗教的にも文化的にも大きな変革を迎え、キリスト教の影響力がますます強まっていった。各地に立てられた美しいモザイク装飾が施された教会は、ビザンツ帝の栄華を示す遺産となっている。

アラブ人の襲撃と再興

7世紀から9世紀にかけて、キプロスはアラブ人の度重なる襲撃を受け、しばしば略奪された。ビザンツ帝とアッバース朝の戦争の中で、キプロスはしばしば最前線となり、住民は戦火にさらされた。しかし、その後、ビザンツ帝が再び勢力を取り戻し、島は再興を遂げる。特に10世紀には、再びキプロスは商業の中心地として復興し、地中海全域との交易が再開された。アラブの文化も影響を与え、建築美術に新たな様式が取り入れられた。こうして、キプロスは多文化が共存する独自の文化を形成していった。

十字軍国家への道

ビザンツ帝が衰退する中、12世紀末に十字軍キプロスに進出した。1191年、イングランド王リチャード1世がキプロスを征服し、後に十字軍国家としてキプロスは独立した王となる。十字軍国家時代、キプロスは西欧と東地中海を結ぶ重要な中継地として栄え、ヨーロッパの騎士たちが往来する拠点となった。この時期、キプロスには西洋文化が大きく影響を及ぼし、特にカトリック教会が強い影響力を持つようになった。キプロスは再び際的な舞台で重要な役割を果たすようになり、多様な文化が交差する地としての地位を確立した。

第3章 キプロス十字軍王国の栄華と衰退

リチャード獅子心王の征服

1191年、イングランド王リチャード1世、通称リチャード獅子心王は第三回十字軍の途中でキプロスに上陸した。リチャードは当時、ビザンツの反逆者であるイサキオス・コメノスが島を支配していたことを知り、これを征服した。キプロス十字軍の重要な拠点となり、リチャードはこの島をヨーロッパの騎士たちに売却した。この出来事は、キプロスが西欧と東地中海の中継地としての役割を担い始めた瞬間であった。この時点で、キプロス中世ヨーロッパの戦略的な要所として、その存在感を高めることになった。

ルシニャン家の統治

リチャード獅子心王は、キプロスフランスの貴族であるギー・ド・ルシニャンに売却し、これがルシニャン家による統治の始まりとなった。ルシニャン家は約300年にわたってキプロスを支配し、その間、キプロス文化と経済の面で繁栄した。ルシニャン家の統治下では、島に多くの城や教会が建設され、中世ヨーロッパ建築様式が取り入れられた。また、商業も発展し、地中海を行き交う交易品の重要な中継地となった。ルシニャン家の統治は、キプロスに西欧の文化を根付かせ、島の発展に大きく貢献した。

西欧との文化交流

十字軍国家としてのキプロスは、ヨーロッパと東地中海の文化が交わる場所となった。特にルシニャン家の時代、ヨーロッパの騎士たちはキプロスに集まり、城を築き、カトリック教会を中心に宗教活動を行った。これにより、キプロス文化は大きく西欧化し、島にはフランスイタリア、さらには中東からの影響が混じり合った。また、カトリック教会キプロスで強い影響力を持ち、特に聖職者たちが重要な役割を果たしていた。この時代、キプロスは多様な文化が共存する独特な社会を形成していたのである。

ビザンツとの関係

ルシニャン家の統治下で、キプロスはビザンツ帝との関係を保ち続けた。西欧の影響が強まる中でも、ビザンツ文化や正教会の伝統は残り続けた。キプロスはビザンツ帝からの宗教的・文化的影響を受けつつも、西欧の騎士文化政治制度が導入され、独自の文化的なハイブリッドを形成した。また、ビザンツ帝との関係は時に緊張し、時に友好的であったが、常にキプロスの安全保障にとって重要な要素であった。このように、キプロスは西欧と東欧の間に立つ独特な文化アイデンティティを持ち続けた。

第4章 オスマン帝国の支配と社会変革

オスマン帝国の征服とその影響

1571年、オスマン帝キプロスを征服し、島は約300年にわたってオスマンの支配下に入った。この征服は、キプロスの歴史に大きな変化をもたらした。オスマン帝は、島に新しい行政制度を導入し、キリスト教徒とイスラム教徒が共存する社会を形成した。税制や土地所有制度も改編され、特にイスラム教徒には優遇措置が取られた。この時代、キプロスの経済はオスマン帝全体と連動しており、特に農業生産や商業活動が重要な役割を果たしていた。キプロスはオスマン帝の一部として、その繁栄に貢献した。

宗教と文化の多様性

オスマン帝支配下のキプロスでは、宗教の多様性が尊重された。オスマン帝イスラム教教としていたが、キプロスギリシャ正教徒は比較的自由に信仰生活を送ることができた。キリスト教徒は特別税を支払う義務があったものの、宗教的な自律性を持っており、正教会の指導者たちは島内で大きな権力を保持していた。この時代、モスクや教会が共存し、文化的な融合が進んだ。また、オスマン帝の影響により、島にはイスラム文化建築様式も取り入れられ、キプロス文化はさらに豊かになった。

オスマン帝国の行政とキプロスの統治

オスマン帝キプロスに独自の行政制度を導入し、効率的な統治を目指した。島は「カザ」と呼ばれる行政区に分けられ、各地区には行政官が配置された。また、地方の支配者である「ムフティー」や「カーディー」といった役職者たちが司法や宗教問題を取り仕切っていた。このような制度により、キプロスはオスマン帝全体の一部として統治され、オスマンの法律や規則が厳格に施行された。一方で、地元のギリシャ系住民たちは、自分たちの共同体の運営を一定程度自主的に行うことが許されていた。

キプロスのイスラム化と社会変容

オスマン帝時代には、キプロスイスラム教が広まり、多くのトルコ人が移住してきた。これにより、島の人口構成は変化し、イスラム教徒が増加していった。オスマン帝は土地の再分配を行い、特に移住してきたトルコ系住民には新しい土地が与えられた。一方で、既存のギリシャ系住民たちは農業を続け、地元経済に貢献し続けた。この時代、キプロスは多民族社会となり、異なる文化宗教が共存する独特の社会構造を持つようになった。イスラムとキリスト教の共存は、キプロス社会に多様性をもたらし、今日まで続く島の文化的基盤となった。

第5章 イギリス統治と近代化への歩み

イギリス支配の始まり

1878年、キプロスはオスマン帝からイギリスに譲渡された。これはロシアの南下を恐れたイギリスが、東地中海の戦略的拠点を確保するためであった。キプロスは公式にはオスマン領だったが、実質的にはイギリスが島の管理を行い、キプロスイギリスの重要な一部となった。イギリスは新たな行政制度を導入し、島のインフラ整備を推進した。これにより、キプロスは徐々に近代化していったが、イギリス支配への不満も次第に高まり始めた。この不満が後に、キプロス独立運動の基盤となっていく。

経済発展とインフラ整備

イギリス統治下で、キプロスの経済は飛躍的に発展した。鉄道や港湾が整備され、特にの採掘業が重要な産業となった。また、農業も発展し、キプロス産のオリーブオイルやワインは世界中に輸出された。島内の道路網も整備され、これにより、キプロスの各地が繋がりやすくなった。さらに、教育や医療制度も改良され、島民の生活準が向上した。しかし、この近代化の恩恵を受けたのは一部の人々に限られ、特に農部では、依然として貧困が続いていた。この格差が、後の政治的不安定を引き起こす要因となる。

エノシス運動とギリシャ統合への夢

イギリス統治下で、キプロスギリシャ系住民の間では「エノシス」と呼ばれる運動が広がった。エノシスとは、ギリシャとの統合を目指す運動であり、キプロスの多くの人々がこれを支持した。彼らは、ギリシャ独立戦争に続いて、キプロスギリシャの一部になるべきだと考えていた。しかし、イギリスはこの要求を拒否し、キプロスの自治権を制限した。この対立は、後にギリシャ系住民とイギリス当局の間での緊張を高め、島内の政治情勢を一層複雑にすることとなった。

独立運動の高まり

1950年代に入ると、キプロスの独立運動はさらに激化した。ギリシャ系住民を中心に、独立を求める声が強まり、武装組織EOKAがイギリス支配に対してゲリラ戦を展開した。これにより、キプロス際的な注目を集めるようになった。一方で、トルコ系住民はギリシャとの統合に反対し、独立運動はギリシャ系とトルコ系の間でも緊張を引き起こした。こうして、キプロスイギリスからの独立を目指す一方で、内部の民族対立も深まっていった。この時期の出来事が、後のキプロス問題の根的な要因となる。

第6章 キプロス独立への道程

エノシス運動の高まり

1950年代に入ると、キプロスギリシャ系住民の間で「エノシス」、つまりギリシャとの統合を目指す運動が活発化した。この動きは、長年のギリシャ正教会の影響と、ナショナリズムの高まりに由来していた。特に、ギリシャとの統合を支持するEOKAという武装組織が、イギリスに対してゲリラ戦を開始したことにより、事態はさらに緊迫した。彼らは、キプロスギリシャと一体化させるため、島内各地で攻撃を行い、イギリスの支配に強く反発した。この時期、キプロス政治的混乱と暴力に包まれた。

トルコ系住民との対立

ギリシャ系住民のエノシス運動が激化する中、キプロストルコ系住民は大きな不安を抱えていた。彼らにとって、ギリシャとの統合は自分たちのアイデンティティや権利が脅かされるものであった。このため、トルコ系住民はギリシャとの統合に強く反対し、自分たちの利益を守るために独自の防衛組織を結成した。イギリス当局は、この対立を利用して島を統治し続けようとしたが、次第に両者の間での暴力がエスカレートしていった。この民族間の緊張は、キプロス独立後も続く分断の根的な要因となる。

独立交渉とチューリヒ・ロンドン協定

イギリスギリシャトルコ、そしてキプロス代表が参加する際的な協議が行われ、最終的に1959年、キプロスの独立に向けた合意が成立した。チューリヒとロンドンで結ばれたこの協定により、キプロスは1960年に独立を果たすこととなる。協定では、ギリシャ系とトルコ系住民の平等な権利が保障され、二つの民族の代表が共に政府を運営する仕組みが導入された。しかし、この新しい政治体制には多くの問題が潜んでおり、後に島内でさらなる対立を引き起こすことになる。

独立キプロスの誕生

1960年816日、キプロスは正式に独立を宣言し、新たなとしての一歩を踏み出した。最初の大統領にはギリシャ系のマカリオス3世が選ばれ、副大統領にはトルコ系のファズル・キュチュクが就任した。この二人のリーダーが協力して新しいを導こうとしたが、民族間の対立は続いていた。キプロス憲法では、ギリシャ系とトルコ系の共同統治が求められたが、現実には多くの課題が残されていた。独立は達成されたものの、キプロスはその後も長い間、平和への道のりを模索することになる。

第7章 1974年の危機と分断の始まり

ギリシャ系クーデターとその背景

1974年、キプロス政治は大きな混乱に見舞われた。ギリシャ軍政が支援する極右のギリシャ系組織がクーデターを起こし、キプロス大統領マカリオス3世を追放した。クーデターの背後には、キプロスギリシャに統合しようとする「エノシス」を支持する勢力の思惑があった。この動きは、ギリシャ系住民の間でも賛否が分かれ、島内の緊張が一層高まった。クーデターは成功したものの、これがキプロスの運命を大きく変えることとなる。特にトルコ系住民にとっては、未来に対する不安をさらに強める出来事となった。

トルコ軍の侵攻と分断

クーデターに対し、トルコ政府はキプロストルコ系住民を保護するという名目で、軍事介入を決定した。1974年7トルコ軍が北部キプロスに上陸し、島の一部を占拠した。この侵攻は、島全体を震撼させ、南北に分断される結果を招いた。トルコ系住民が多数住む地域はトルコ軍によって守られ、一方でギリシャ系住民は南部に追いやられた。以降、キプロスは事実上、北のトルコ系と南のギリシャ系に分断され、島の統一は大きな課題となる。この分断は今日まで続いている。

国際社会の反応と国連の介入

トルコの侵攻を受けて、際社会はキプロス問題に注目するようになった。特に連は即座に介入し、停戦を呼びかけるとともに、キプロス平和維持軍を派遣した。連は、キプロスの南北を隔てる「グリーンライン」と呼ばれる非武装地帯を設置し、分断を管理する役割を担った。また、際的な交渉が試みられたが、ギリシャトルコの対立、そして島内のギリシャ系とトルコ系の住民の間の緊張が解決を難しくしていた。連の努力にもかかわらず、キプロス問題は長引くこととなる。

分断の影響とその後の状況

1974年の分断は、キプロス政治、経済、社会に大きな影響を与えた。多くの住民が住む場所を失い、島内で大規模な難民問題が発生した。特に北部に住んでいたギリシャ系住民は南部へ移住し、逆にトルコ系住民は北部に集まることとなった。また、分断により、島の経済は二つに分断され、南北間の交流がほとんど途絶えた。1974年以降、南北の分断は解消されることなく、現在も続いている。キプロスの統一を目指す取り組みは今も続けられているが、課題は山積している。

第8章 キプロス問題と国際政治

国連の介入と和平交渉

1974年のトルコ軍侵攻後、際社会はキプロス問題の解決に向けて動き出した。特に連は、島の南北分断を和らげるために和平交渉を主導した。連は非武装地帯「グリーンライン」を設置し、両地域の間での対立を防ぐために平和維持軍を配置した。また、ギリシャ系とトルコ系のリーダーたちを交渉の場に呼び、共存のための合意を模索し続けた。しかし、双方の要求や歴史的な対立は根深く、具体的な進展が見られないまま交渉は難航した。この問題は際社会にとっても大きな課題となった。

EU加盟とその影響

2004年、キプロス欧州連合EU)に加盟した。この出来事は、キプロス問題に新たな局面をもたらした。キプロス全島がEUの一部となったが、実際にはギリシャ系が支配する南部のみがEUの法律を適用している。トルコ系が住む北キプロスは、際的にはトルコ以外のから承認されておらず、EUの恩恵も受けられない。EU加盟は南部の経済発展を促進したが、北部との経済格差を拡大させる結果ともなった。また、トルコEU加盟を目指す中で、キプロス問題がその障害となっていることも大きな課題である。

トルコとの緊張

キプロス問題はギリシャトルコの関係にも大きな影響を与えてきた。トルコは北キプロスを支持し、現在も駐留軍を置いている。一方で、ギリシャは南部のギリシャ系住民を支援しており、両の対立が続いている。この緊張は、エネルギー資源の問題でも浮き彫りとなった。近年、地中海東部での天然ガスの発見により、キプロス周辺の海域が注目されているが、トルコキプロス間での領有権を巡る争いが続いている。この地域での資源開発は、新たな対立の火種となる可能性がある。

統一への模索

キプロスの統一に向けた取り組みは今も続けられている。ギリシャ系とトルコ系の指導者たちは何度も和平交渉を試みてきたが、双方の主張の違いから進展は難しい状況が続いている。しかし、2010年代には、連の仲介で幾度かの和平プロセスが再開され、島を再び一つにする可能性が議論された。両民族間での信頼醸成や経済協力が進められる一方で、政治的な障壁は依然として高い。キプロスの統一が実現すれば、東地中海全体にとっても安定への大きな一歩となるが、解決にはまだ時間がかかるだろう。

第9章 キプロスの経済と文化復興

分断後の経済復興

1974年の分断後、キプロスの経済は大きな打撃を受けた。特に、北部に多くの農地や観光資源が集中していたため、南部は復興が必要だった。しかし、ギリシャ系住民は困難を乗り越え、経済を再構築した。観光業を中心に新しい収入源が確立され、南キプロスは世界中の観光客を引き寄せる人気のスポットとなった。また、融業も発展し、キプロスはビジネス拠点としての地位を確立していった。経済の復興は島全体の希望を象徴し、特に南部の繁栄はキプロスが持つ回復力を示している。

文化遺産の保護と再評価

キプロスは豊かな歴史を持つ島であり、古代から中世にかけての遺跡や建造物が数多く存在する。分断後、文化遺産の保護が重要視され、多くの遺跡が修復され、保護されるようになった。特に、ビザンツ時代や十字軍時代の教会、城郭などは世界遺産にも登録され、観光客にとっても大きな魅力となっている。これにより、キプロス文化価値際的にも再評価されるようになった。歴史を振り返り、島のアイデンティティを見直すことで、キプロス文化遺産を未来へと繋げている。

観光業と経済の成長

キプロス観光業は、島の主要な産業の一つである。特に1970年代以降、分断された南部が観光業に力を入れたことで、島は世界中から訪れる観光客を迎え入れるようになった。美しいビーチや温暖な気候、そして古代遺跡が魅力のキプロスは、ヨーロッパだけでなく中東からも多くの観光客を惹きつけている。観光業の発展により、ホテル業やレストラン業も成長し、多くの雇用が生まれた。観光業の成功は、キプロスの経済成長を牽引し、島の近代化を加速させた。

南北経済格差と課題

一方で、南北に分断されたキプロスには、経済格差という大きな課題が残っている。南キプロス観光業や融業を中心に経済成長を遂げたが、際的に承認されていない北キプロスは経済的に苦しい状況が続いている。北部はトルコからの援助に頼る形となり、南北間での経済的な不均衡が島の再統一を妨げる一因となっている。両地域が連携して経済を発展させるための道は模索されているが、政治的な対立がその進展を遅らせている。統一に向けた経済的な統合が、今後の大きな課題である。

第10章 キプロスの未来と統一への道

統一に向けた和平交渉の再開

近年、キプロスの統一を目指す和平交渉が再び活発になっている。ギリシャ系とトルコ系の両リーダーたちは、連の仲介のもと、共存のための道を模索している。和平プロセスでは、両地域の自治を認めた連邦制の導入が議論されている。しかし、南北の意見の違いや過去の対立が根強く、交渉は一筋縄ではいかない。それでも、お互いの未来を共に築くため、交渉のテーブルに向かう意志は強く残されている。キプロスの統一が実現すれば、島全体の安定が訪れるだろう。

経済協力と信頼構築の努力

和平の鍵は、経済的な協力と信頼の構築である。南キプロス観光業や融業で経済的に発展しているが、北キプロス際的な承認を得ていないため、経済発展に遅れをとっている。こうした南北の格差を縮めるために、共同の経済プロジェクトが計画されている。特にエネルギー分野では、地中海の天然ガスを共同で開発することで、両地域の利益を共有し、信頼関係を築くことが期待されている。経済的な協力が進めば、和平への道もより現実味を帯びるだろう。

国際的支援と地域の安定

際社会は、キプロスの統一を強く支援している。特に欧州連合EU)や連は、和平プロセスを促進するために多くのリソースを投入している。EUキプロス全島が一つのとして経済的、政治的に統一されることを望んでおり、これが東地中海地域全体の安定にも寄与すると考えている。また、連の平和維持部隊が今もキプロスに駐留し、南北の緊張を和らげている。際的な支援が今後も続けば、キプロスの統一に向けた道のりはさらに前進するだろう。

課題と希望

キプロスの統一には、まだ多くの課題が残されている。民族間の歴史的な対立、政治的な不信感、経済的な格差といった問題は簡単には解決できない。しかし、未来に対する希望も大きい。若い世代は過去の対立よりも、共に繁栄する未来を望んでいる。文化や経済の交流が徐々に進む中で、南北の隔たりは少しずつ薄れてきている。統一はすぐには実現しないかもしれないが、キプロスの人々が平和で豊かな未来を築くために努力を続ける限り、その日はいつか訪れるだろう。