基礎知識
- 絶対王政とルイ14世の確立
ルイ14世は絶対王政の象徴的存在であり、権力を強化して中央集権体制を確立した。 - ヴェルサイユ宮殿と宮廷文化
ルイ14世はヴェルサイユ宮殿を建設し、豪華な宮廷文化を通じてフランスの権威と華やかさを誇示した。 - 三十年戦争とフランスの台頭
三十年戦争後、フランスは欧州の大国として台頭し、ルイ14世の外交政策の基礎が築かれた。 - ジャン=バティスト・コルベールと財政改革
ルイ14世の財政を支えたコルベールは、重商主義政策を通じてフランスの経済力を増強した。 - ユグノーの追放と宗教政策
ルイ14世は1685年にナントの勅令を廃止し、プロテスタントであるユグノーを迫害してカトリックを強制した。
第1章 太陽王の登場 – ルイ14世とその時代背景
王の誕生と動乱の時代
ルイ14世が生まれた1638年、フランスは激しい戦争と内乱に揺れていた。彼が誕生した頃、三十年戦争が続き、ヨーロッパ全土が不安定な時代であった。フランス国内でも貴族たちが権力を巡って争い、民衆は困窮していた。ルイの父であるルイ13世が王であったが、体調が悪く、その影響で母アンヌ・ドートリッシュが多くの政治的役割を担った。このような緊張状態の中で王子が誕生したことは、フランス王国にとって新しい希望の光であり、国内外で王の誕生が祝福された。人々はこの新しい王子が平和と安定をもたらすことを期待した。
少年王の試練と成長
ルイ14世が5歳のときに父が亡くなり、彼は幼くして王座を継ぐこととなった。しかし、若きルイを待ち受けていたのは厳しい試練であった。母アンヌが摂政を務め、枢機卿マザランが政治を取り仕切るも、権力争いが激化し、フロンドの乱という貴族たちの反乱が勃発した。パリ市民も巻き込んだこの混乱の中、ルイは自らの身を危険にさらされ、王族としての立場が不安定であることを痛感した。この苦難の時期に、幼いルイは信頼できる者の重要性や、王としての覚悟を学び、後に「絶対王政」を目指す強い信念を形成する礎を築いた。
枢機卿マザランと権力の継承
ルイが成長する中で、枢機卿マザランは彼の重要な政治的指導者であり、教師でもあった。マザランはルイ13世に仕え、三十年戦争の終結に大きく貢献した人物で、外交や政治の手腕に優れていた。彼はルイに「絶対王権」を支えるための政治の手法を教え、王が自らの権力を確立するための準備を進めた。マザランの指導により、ルイは政治の機微や、国内外での外交術について学ぶ機会を得、国王として自らが全権を握る覚悟を固めていった。マザランの死後、ルイは「自らがすべてを統治する」と宣言し、独裁の道を歩み始めるのである。
新たな時代の幕開け
1661年、ルイ14世は正式に政権を掌握し、自らの時代を宣言する。この年、彼は「宰相も第一大臣も置かない」という決断を下し、国王自らがフランスのすべてを支配することを決意した。この象徴的な宣言により、ルイは「太陽王」として絶対王政の頂点に立つことを目指すのである。彼の治世は新しい秩序と輝かしい宮廷生活を予感させ、多くの貴族や民衆が注目した。このようにしてルイ14世の壮大な時代が幕を開け、彼はフランスを欧州で最も強大な国家へと導こうとする。
第2章 権力の集中 – 絶対王政の確立
神の代理人としての王
ルイ14世は、王権神授説を信じ、「王の権力は神から授けられたもの」と主張した。これにより、王の権威は誰にも挑まれるべきではないとし、反論を許さない統治体制を築き始める。この考えは、フランス国内で絶対的な忠誠を生む一方、教会や貴族たちにとっても新しい秩序の受け入れを余儀なくさせた。ルイのこの宣言は、国民にとっての安定の約束であり、貴族にとっての警告でもあった。王が自ら「私は国家である」と述べたのは、単なる修辞ではなく、フランスの未来を決定づける強い覚悟の表れであった。
影の支配者マザランの役割
ルイ14世が若き王であったころ、フランスを支配していたのは枢機卿マザランであった。マザランは、ルイの後ろ盾として政治の表舞台に立ち、内政から外交まで幅広く影響を及ぼした。彼は、三十年戦争後の混乱を収束させ、貴族たちの勢力を抑え込むことで、若きルイが力を蓄えられる環境を整えたのである。しかし、マザランの権力への野心は国内で不満を生み、フロンドの乱が起こるなど、国を二分する争いが絶えなかった。この混乱の中でルイは、「真の王としての権力とは何か」を深く学び、絶対的な統治への意志をさらに強めていった。
ルイの決意と大胆な宣言
1661年、枢機卿マザランの死をきっかけに、ルイ14世は自らが全権を握ると宣言する。彼は、これまで王を支えてきた大臣や顧問に対し、「もはや第一大臣は置かない」と言い放ち、誰の助けもなく国家を治める決意を示した。この大胆な宣言に、貴族たちは驚き、恐れを抱いた。同時にルイは、全ての政治的決定が自らの手によって行われることを強調し、自身が国家の中心であるとする絶対王政を確立する準備を進めたのである。ここからルイの独裁政治が本格的に動き出し、フランス全土に強力な王権が浸透していった。
中央集権体制の完成
ルイは絶対王政の理念を実現するため、地方の貴族の権力を抑え、全国を自らの指揮下に置いた。彼は地方行政の監視を強化し、各地に官僚を送り込んで政策を実施させた。これによりフランスの全域に王の権威が行き渡り、地方ごとの自治や貴族の支配力は弱体化した。ルイの手で築かれた中央集権体制は、フランスの繁栄と平和を促進する一方で、貴族たちの反発を招き、次第に社会に緊張をもたらすことにもなる。この時期に確立された体制は、フランス革命へと続く布石ともなり、王と国家の未来を大きく揺るがす影響を残した。
第3章 ヴェルサイユの誕生 – 華やかな宮廷生活
王の夢、ヴェルサイユ宮殿の建設
ルイ14世はフランスの威光を象徴する宮殿を夢見、パリの喧騒から離れたヴェルサイユに壮大な宮殿を建設することを決意した。ヴェルサイユはもともと父ルイ13世が小さな狩猟用の館として築いた場所であったが、ルイ14世はそれを華麗なる宮殿へと拡大させた。建設には建築家ル・ヴォー、画家ル・ブラン、造園家ル・ノートルといった当時最高の芸術家たちが起用され、広大な庭園や豪華な装飾が施された。この宮殿の壮麗さは瞬く間にヨーロッパ中で評判となり、ルイ14世の権力を象徴する存在となっていく。
ヴェルサイユの光と影
ヴェルサイユ宮殿は、ただの宮殿ではなく、政治と権力の中心としての役割を持った。ここでは毎日のように華やかな舞踏会や晩餐会が開かれ、貴族たちは贅を尽くして宮廷文化に参加した。しかし、この豪奢な生活には貴族の忠誠を繋ぎとめ、彼らの生活を支配するというルイ14世の狙いがあった。貴族たちは宮殿に住み込み、王の意向に従いながら過ごすことが義務づけられ、故郷の領地を離れた生活が続いた。このようにして、ルイ14世は華やかな宮廷の陰で貴族の力を巧みに抑制していたのである。
儀礼に込められた王の威厳
ヴェルサイユ宮殿での生活には厳格な儀礼があり、特に「ル・ヴェ・ル・ドゥ・ロワ(王の目覚め)」や「クーシェ・ドゥ・ロワ(王の就寝)」の儀式は象徴的であった。ルイ14世が目を覚ますときや寝るときには、特権ある貴族たちが順にその場に入れることを許された。王の日常が一つの儀式となることで、貴族たちは王に近づくことが特別な栄誉と感じ、服従の念を抱くようになる。こうした儀礼によってルイは、自身が絶対的な存在であることを日常的に貴族たちに示し続け、権威を確立していったのである。
世界に広がるヴェルサイユの影響
ヴェルサイユ宮殿の豪華さは他国の君主にも大きな影響を与え、模倣されるようになった。スペインのエスコリアル宮殿やプロイセンのポツダム宮殿など、ヨーロッパ各国でヴェルサイユを参考にした宮殿が建設された。また、ヴェルサイユの洗練された建築様式や庭園デザイン、華やかな宮廷儀礼も輸出され、フランスの文化がヨーロッパ中で広まった。ヴェルサイユは単にフランスの象徴としてではなく、ヨーロッパの君主制文化にまで影響を与える存在となった。こうして、ルイ14世はフランスの威信を示しつつ、その影響力を国境を超えて拡大していったのである。
第4章 コルベールの重商主義と経済政策
コルベール登場、経済の立て直し
ルイ14世の財政を担うこととなったのが、才覚にあふれるジャン=バティスト・コルベールである。彼はフランスの経済を強化するため、王国の産業と貿易を積極的に発展させる計画を立てた。フランスは長年の戦争と豪華な宮廷生活による出費で財政が圧迫されていたが、コルベールはそれを打破し、王国の繁栄を取り戻すべく奮闘した。彼の目標は単なる財政改革にとどまらず、フランスを世界の経済舞台で優位に立たせることであった。そのために「重商主義」を基本とし、王国の利益を最優先にする経済政策を導入したのである。
産業育成と工業振興政策
コルベールの政策の一環として、特に重要視されたのが国内産業の育成であった。彼は、織物やガラス、家具といった高品質の工業製品をフランス国内で生産するよう奨励し、輸出品として世界に広めることを狙った。特に「ゴブラン織工場」や「サン・ゴバンガラス工場」などの王立工場を設立し、ヨーロッパ市場でフランス製品の評価を高めることに成功した。これによりフランスは自国の製品で経済を回すことができ、輸入を減らして貿易赤字を改善する道を開いた。コルベールの工業政策は、フランス経済に安定した成長の基盤をもたらしたのである。
植民地と貿易の拡大
国内産業の発展だけでなく、コルベールは貿易による利益の拡大も目指し、植民地開拓を積極的に進めた。彼はカナダ、インド、西インド諸島などに貿易拠点を築き、フランスの影響力を海外に広げた。また、東インド会社や西インド会社を設立し、アジアやアメリカとの貿易を活性化させることで莫大な利益を得ようとした。こうしてフランスは植民地からの資源をもとに繁栄し、国際競争でイギリスやオランダと対等に渡り合う経済力を手に入れたのである。
財政改革の影響と限界
コルベールの改革はフランスの財政を強化し、国家の富を増やしたが、一方で農民や労働者への負担が増加するという負の側面もあった。彼は王国の財政収入を増やすため税制度を改良したが、農民や都市労働者にとっては重税が課され、生活が厳しくなった。また、コルベールの重商主義政策は短期的には成功を収めたが、後に他国との対立を引き起こし、経済的な摩擦が生まれることにもなった。このようにして、コルベールの改革はフランスの力を一時的に高めたものの、後の世代には解決すべき課題も残すことになった。
第5章 宗教政策とナントの勅令廃止
信仰統一への強い意志
ルイ14世は、フランス国内の信仰をカトリックに統一することを強く望んでいた。王の「一つの信仰、一つの王、一つの法律」という理念は、国内の宗教的対立を抑え、強い国家の基盤を築くためのものだった。しかし、フランスにはプロテスタントのユグノーが多く存在し、カトリックと異なる信仰を守り続けていた。ユグノーはルイの目から見れば、国の団結を乱す存在であった。こうしてルイは信仰の統一を目指し、カトリックを強化する一連の政策を進めることを決意したのである。
ナントの勅令の廃止とユグノーの苦難
1685年、ルイ14世は「ナントの勅令」を廃止し、プロテスタントの信仰を公式に禁止した。この勅令はもともと、ルイの祖父アンリ4世によって発布され、ユグノーに宗教の自由と平和を保障していた。ルイは、国内の完全なカトリック化を目指し、この長年の寛容策を打ち切った。この決定により、ユグノーたちは強制改宗を求められ、拒む者は職業の制限や財産の没収、さらには国外追放の処罰を受けた。こうして多くのユグノーが国外へ逃れ、フランスは国内での宗教の多様性を失うことになった。
改宗キャンペーンと軍事圧力
ナントの勅令廃止後、ルイは「改宗キャンペーン」を展開し、ユグノーのカトリック改宗を強制した。この政策には「竜騎兵ドラグーン」が用いられ、軍人たちはユグノーの住居に宿泊して改宗を圧力で促した。彼らはしばしば暴力的な手段を用い、ユグノーたちを恐怖に陥れた。このような厳しい軍事的圧力の中、多くのユグノーは改宗せざるを得なくなったが、改宗を拒み続けた者たちはさらなる迫害にさらされた。この激しい圧力政策はフランス全土に宗教的な恐怖と混乱をもたらした。
宗教政策の影響と後世への影響
ルイの宗教政策は国内のカトリック化を進めたが、ユグノーの国外逃亡によってフランスの経済と社会に大きな影響を及ぼした。優れた商人や職人であったユグノーの多くがイギリスやオランダに逃れ、彼らの技能と資本も国外に流出した。結果として、フランスの経済力は弱体化し、他国の商業競争力を高めることになった。また、この厳しい宗教政策は後世においてフランスの宗教的寛容性への反発を引き起こし、次第に宗教と政治の分離が求められるきっかけともなったのである。
第6章 外交政策と戦争 – フランスの拡張主義
ルイ14世の野心、欧州への進出
ルイ14世はフランスをヨーロッパの頂点に立たせることを目指し、外交と戦争による領土拡張に情熱を注いだ。彼は「フランスの自然国境」を理由に、アルプス山脈やピレネー山脈、ライン川といった地理的な障壁までフランスの影響力を拡大しようとした。この野心を実現するため、ルイは膨大な予算を軍事力の強化に費やし、当時最強とされる軍隊を築き上げた。彼の外交方針は、単なる友好関係ではなく、フランスの優位を保証するためのものであり、この強い姿勢が隣国との摩擦を増大させていった。
オランダ戦争と経済戦略
フランスの拡張政策の中でも特に重要なのが、1672年から1678年にかけて行われたオランダ戦争である。ルイ14世は経済的に成長するオランダを脅威と見なし、これを抑えるためにオランダに対して戦争を仕掛けた。フランス軍はスペインやイングランドなどと同盟を結び、オランダを追い詰めたが、オランダも強力な水防線と同盟国の支援で必死に抵抗した。この戦争は結局、フランスに有利な形で終結し、オランダとの競争に勝利することでフランスの経済的、軍事的な優位が一段と強化された。
九年戦争と外交の複雑化
オランダ戦争の成功にもかかわらず、ルイ14世の膨張主義的な外交は、やがて他のヨーロッパ諸国を脅かし始めた。1688年には「九年戦争」が勃発し、フランスはオランダ、イングランド、スペイン、神聖ローマ帝国などの強力な連合軍と戦うことになった。この戦争では長期間にわたってヨーロッパ各地で激しい戦闘が繰り広げられ、ルイにとっては財政的にも人材的にも大きな負担となった。最終的にはリスウィック条約によって講和が成立したが、フランスは多くの資源を費やし、経済的なダメージを残すことになった。
王の戦争とフランスの影響力
ルイ14世の外交政策と戦争はフランスを一時的に強大な国家へと押し上げたが、同時にヨーロッパ全土での敵対心を招いた。彼の行動により、各国はフランスの拡張主義を抑えるために次々と同盟を結成し、フランスに対抗する「ヨーロッパ均衡」の考え方が広まっていった。これによりフランスは孤立し、次の大戦の布石が打たれることになった。ルイの戦争政策は一時的には成功したものの、最終的にはフランス国内に負担を残し、後のフランス革命の遠因となる不満と困窮を生み出す結果となったのである。
第7章 スペイン継承戦争とその影響
空位のスペイン王位を巡る争い
1700年、スペイン王カルロス2世が後継者を残さずに没すると、ヨーロッパは新たな王位の行方に注目した。ルイ14世は孫のフェリペをスペイン王に推し、フランスとスペインの統合を狙った。この動きは、スペインがフランスの影響下に置かれることを恐れたイギリス、オランダ、神聖ローマ帝国を中心とする諸国に強い危機感を抱かせた。こうしてフランスと同盟国に対抗する「大同盟」が結成され、王位を巡る壮絶な戦争の幕が開いたのである。この争いはヨーロッパ全土を巻き込み、長期にわたる激戦を招いた。
ヨーロッパ全土を揺るがす戦場
スペイン継承戦争は、ヨーロッパ各地で広範囲にわたって繰り広げられた。イギリスの名将マールバラ公ジョン・チャーチルや神聖ローマ帝国のプリンツ・オイゲンといった名だたる将軍たちが戦場を駆け巡り、名誉と勝利を求めた。ルイ14世の軍は強力であったが、連合軍の連携と戦略的な攻撃によってフランスは次第に押されていった。激戦が続く中でフランスは多大な資金と人員を投入し、国内経済にも深刻な影響を及ぼすほど消耗した。この戦争はヨーロッパの政治地図を一変させるものとなったのである。
ユトレヒト条約による平和
1713年、長く続いた戦争は、ついに「ユトレヒト条約」の締結によって終結を迎えた。この条約により、ルイ14世の孫フェリペはスペイン王位を保持したが、フランスとスペインの王位が一体化することは禁じられた。さらにフランスは多くの植民地をイギリスに割譲し、ヨーロッパのパワーバランスは大きく変化した。条約によって一時的な平和が訪れたものの、フランスが戦争で失ったものは多く、国家の力が徐々に衰退していくことがこの時点で明らかとなっていた。
戦争が残した影とフランスの未来
スペイン継承戦争は、ルイ14世のフランスに多大な負債と社会的不安をもたらした。連続する戦争によって財政は疲弊し、増税によって国民の生活も圧迫された。また、各国が戦後も力を拮抗させる「勢力均衡政策」を重視し始めたことで、フランスの拡張主義は制約を受けた。こうしてフランスは戦争に勝利したものの、多くの代償を払わざるを得なくなった。この戦争は、フランス国内の不満を募らせ、やがてフランス革命へと続く道の一端を形作ることになる。
第8章 フランス文化の黄金時代 – 芸術と文学
宮廷の後ろ盾、文化の育成
ルイ14世は文化と芸術の愛好者であり、ヴェルサイユ宮殿を舞台にフランス文化を支援した。彼はアカデミー・フランセーズやアカデミー・ロワイヤルを設立し、詩人、劇作家、画家、音楽家たちを集めた。特にジャン=バティスト・モリエールやジャン・ラシーヌの作品は、宮廷での上演を通じてフランス劇の黄金期を迎えた。ルイの庇護のもと、芸術家たちは自由に創作に取り組むことができ、宮廷文化はフランスの一大名物として、ヨーロッパ中にその影響を広げた。このようにしてルイは、文化によってフランスの威厳を示したのである。
音楽のパトロン、王が奏でる旋律
音楽もまた、ルイ14世の時代に大きな発展を遂げた。彼はリュリやクープランなどの音楽家を支援し、華麗なバロック音楽の発展に寄与した。リュリの作曲した宮廷バレエは、ルイ自らが踊ることもあり、宮廷の人気を集めた。リュリのバレエやオペラは単なる音楽ではなく、フランス王権の威厳や洗練を象徴するものであり、バロック音楽の中心としても注目を集めた。こうして音楽もまた、フランス文化の強い個性と魅力を広める手段となり、ルイはその支援者として歴史に名を刻んだ。
建築の革新とヴェルサイユ宮殿
ヴェルサイユ宮殿は、単なる居城を超えた壮大な建築芸術の象徴であった。宮殿の建築にはルイ・ル・ヴォーやジュール・アルドゥアン=マンサールといった名建築家が関わり、バロック様式と古典様式が融合したデザインが取り入れられた。広大な庭園はアンドレ・ル・ノートルによって設計され、精緻に整えられた噴水や並木道が訪れる者を魅了した。ヴェルサイユはまた、フランス文化の中心地として各国の使節が集まり、フランスの美意識がヨーロッパ全土に影響を与えた。宮殿はルイ14世の絶対王政を象徴し、世界が憧れる文化の発信地となったのである。
フランス語の普及と文学の躍進
ルイ14世はフランス語を文化と外交の公用語に定め、文学の発展を強力に後押しした。フランス語は洗練された言語とされ、アカデミー・フランセーズがその基準を定める役割を担った。この政策の結果、フランス語はヨーロッパの王侯貴族に広まり、外交や知識人の間でも主流の言語としての地位を確立した。文学界でもラ・フォンテーヌの寓話やボシュエの説教が高く評価され、フランス語の美しさがヨーロッパに称賛された。ルイ14世の治世下でフランス語と文学は黄金時代を迎え、フランスの文化的影響は王の時代を超えて永遠に残るものとなった。
第9章 晩年とフランスの財政問題
王国を覆う重い財政負担
ルイ14世の晩年、長年の戦争と豪華な宮廷生活によりフランスの財政は逼迫していた。特にスペイン継承戦争の影響で多額の借金が積み重なり、フランスは深刻な財政赤字に陥った。これにより国民に対する増税が不可避となり、農民や都市労働者の生活は苦しくなっていった。増税に対する不満は徐々に広がり、国民のルイ14世に対する信頼にも影響を与え始める。かつて「太陽王」と称賛されたルイも、国内の不満を前にして王としての威厳を保つことが難しくなっていた。
戦争の影響が残した傷跡
戦争はフランス国内に深刻な爪痕を残した。兵士たちは戦地から戻らず、農業や工業の労働力が不足したため、生産力も低下していた。さらに、戦費が膨らむ中で軍事費の支出が優先され、国内のインフラ整備や経済支援が遅れていた。農民たちは貧困に苦しみ、都市の労働者階級も増税と物価の上昇に直面していた。このように、戦争の影響は王国のあらゆる層に波及し、社会の安定は揺らぎ始めていたのである。
豪華な宮廷生活がもたらす影
ルイ14世の華やかな宮廷生活は、ヴェルサイユ宮殿での贅沢な祭典や生活スタイルに象徴されていた。しかし、この豪華な生活には巨額の費用がかかり、財政難の一因となった。ヴェルサイユ宮殿での宮廷儀礼や贅沢な舞踏会は貴族たちの忠誠を引き出す手段でもあったが、庶民にとっては権力の象徴であり、増税の原因として批判されることも多かった。ルイは宮廷の華やかさを誇示し続けたが、財政難の中でこれを維持することは大きな負担となり、宮廷生活の陰に暗い影を落としていた。
終焉と王国に残された課題
1715年、ルイ14世は多くの遺産を残して世を去ったが、その死は王国に多くの課題も残した。特に深刻だったのは、財政難と広がる貧困であった。ルイの死後、フランスは長期的な改革を必要とする状況に直面し、次の世代の王たちはこの問題を解決する責務を負うことになった。絶対王政のもとで築かれたフランスの威光は強力であったが、それを支える基盤が揺らいでいた。こうしてルイ14世の死後、フランスは新たな時代を迎えることとなり、後に訪れる激動の時代への布石が打たれたのである。
第10章 ルイ14世の死とその遺産
太陽王の終焉
1715年、72年間にわたりフランスを治めたルイ14世は壮大な生涯を終えた。晩年の彼は多くの戦争と財政難に悩み、国民からの不満も増大していたが、その存在はフランス全体に影響を与え続けた。ルイの死はフランスだけでなくヨーロッパ中で大きなニュースとなり、多くの人々がこの「太陽王」の死に複雑な感情を抱いた。彼の死後、フランスは新たな王を迎えることになるが、ルイが築き上げた絶対王政はその後のフランス政治の基盤に大きく影響を及ぼした。
絶対王政の遺産
ルイ14世が築いた絶対王政は、後のフランス王たちにも受け継がれたが、同時に重い負担ともなった。ルイは中央集権化を進め、宮廷をヴェルサイユに移すことで貴族の権力を抑えたが、この体制は財政的に持続困難であった。特権を持つ貴族階級と一般市民の間には経済的な格差が広がり、社会的な不満が蓄積した。ルイが築いた強力な王政は、次世代の王たちにはあまりに大きな負担となり、やがてその揺らぎがフランス革命という形で現れることとなる。
ヨーロッパに与えた影響
ルイ14世の治世は、ヨーロッパ全体に大きな影響を及ぼした。彼が推し進めたバロック文化や建築は、多くの王国で模倣され、君主たちの権力の象徴として広まった。また、彼の外交政策は、ヨーロッパに「勢力均衡」という考え方を根付かせ、各国が協力して一国の力を抑える戦略が形成されるきっかけを作った。ルイの政治と文化の影響は、彼が死んだ後も長くヨーロッパ各国に受け継がれ、各国の王室にとって一つの理想像となり続けた。
革命への遠い布石
ルイ14世が残した絶対王政は、彼の死後も続いたが、社会の中での不満は膨れ上がり続けた。増税と経済的格差は、フランス国内で徐々に市民の不満を集め、啓蒙思想が広まるにつれて変革の声が強まった。絶対王政の基盤は、社会構造の硬直性と格差がもたらす不安定さを抱え込んでいたのである。こうして、ルイ14世が築き上げた栄光の時代は、やがて18世紀末のフランス革命への遠い布石となり、歴史の転換点への序章として記憶されることになる。