基礎知識
- ベトナム戦争の発端と冷戦構造
ベトナム戦争は、冷戦の代理戦争として、共産主義陣営と資本主義陣営の対立が顕在化した事例である。 - 南北ベトナムの分断
ベトナムは、1954年のジュネーヴ協定により北ベトナム(共産主義)と南ベトナム(反共主義)に分断された。 - アメリカの関与とドミノ理論
アメリカは、共産主義の拡大を防ぐため「ドミノ理論」に基づき、南ベトナムを支援して戦争に介入した。 - 戦争の民間人への影響
ベトナム戦争は、民間人に甚大な被害をもたらし、枯葉剤の使用や大量の難民の発生などが特徴的である。 - 戦争終結と統一
戦争は1975年のサイゴン陥落により北ベトナムが勝利し、翌年にはベトナム社会主義共和国として統一された。
第1章 冷戦とベトナム—戦争の舞台裏
冷戦の幕開けと東西の対立
第二次世界大戦の終結とともに、世界は二つの異なる陣営に分かれた。アメリカを中心とする資本主義陣営と、ソ連を中心とする共産主義陣営である。この「冷戦」と呼ばれる対立は、直接的な軍事衝突を避けつつも、各地で代理戦争を引き起こすきっかけとなった。ヨーロッパではベルリンの壁が象徴的な分断を示し、アジアでは中国が共産主義を採用し、周辺国への影響を拡大していった。こうした中、インドシナ半島のベトナムは、冷戦の緊張が最も激しく反映される地域の一つとなりつつあった。
ベトナムとフランス—植民地の軋轢
ベトナムは長年フランスの植民地であり、フランスはその豊富な資源を求めて支配を強化していた。しかし、20世紀初頭には独立を求める動きが高まり、特にホー・チ・ミンの率いるベトミン(ベトナム独立同盟)は強力な抵抗運動を展開した。第二次世界大戦中、フランスがナチスに占領されると、ベトナムは一時的に日本に占領されたが、戦後には再びフランスが支配を試みた。これが第一次インドシナ戦争(1946–1954)を引き起こし、ベトナムの独立を求める運動はさらに激化した。
ジュネーヴ会談がもたらした希望と分裂
1954年、ディエンビエンフーの戦いでフランスが敗北し、ベトナムの独立が国際的に議題となった。スイスのジュネーヴで開かれた会議では、ベトナムを北緯17度線で北と南に分割するという合意がなされた。北は共産主義のホー・チ・ミンが統治し、南は反共主義のゴ・ディン・ジエムを中心とした政府が形成された。しかし、この一時的な分断は平和への道筋を示すものではなく、新たな対立を生む種を蒔くこととなった。冷戦の構造がベトナム全土に影響を及ぼし始める瞬間であった。
ベトナムが冷戦の中心地となるまで
冷戦の代理戦争は韓国やドイツなど他の地域でも行われていたが、ベトナムは独自の地政学的特性を持っていた。アジアにおける共産主義拡大の最前線であり、アメリカやソ連だけでなく中国もその未来に深く関与した。さらに、国内には民族的・政治的対立が複雑に絡み合っていたため、ベトナムは冷戦の象徴的な舞台となった。こうして、冷戦の大きな潮流がベトナム戦争へと繋がる序章が展開されることになる。
第2章 ジュネーヴ協定とベトナムの分断
ディエンビエンフー—植民地時代の終焉を告げる戦い
1954年、フランス軍が要塞を築いたディエンビエンフーで、ベトミン(ベトナム独立同盟)が圧倒的な勝利を収めた。この戦いは、植民地支配に挑むベトナムの独立運動における決定的瞬間であった。フランス軍の補給線を断ち、包囲作戦で徹底的に追い詰めたホー・チ・ミンの戦略は、世界中に驚きを与えた。敗北を喫したフランスは、ベトナムから撤退するほか選択肢がなくなり、戦後の進路が国際的な議論の場に委ねられることとなった。これがジュネーヴ会談のきっかけとなったのである。
ジュネーヴ会談—希望の裏に潜む緊張
ジュネーヴ会談は、冷戦下の複雑な政治的緊張の中で開催された。会談ではアメリカ、ソ連、中国、フランス、イギリスなどの大国が集まり、ベトナムの未来を議論した。その結果、ベトナムは北緯17度線を境に北と南に分断されることが決定された。北はホー・チ・ミン率いる共産主義政府が、南は反共主義者のゴ・ディン・ジエムが統治する形となった。一見、平和を取り戻すための合意のように見えたが、この決定は実際には新たな対立の種を蒔くものであった。
分断国家—異なる道を歩む南北ベトナム
北ベトナムは社会主義国家としてソ連と中国から支援を受け、南ベトナムはアメリカの支援を受けた資本主義陣営の一員となった。この分断は一時的な措置であり、1956年には全国統一選挙が行われる予定だったが、ゴ・ディン・ジエムが選挙を拒否したことで緊張が激化した。南北それぞれのイデオロギーと支援する大国の思惑が複雑に絡み合い、両者の間には妥協の余地がほとんどなかった。こうして、二つの異なる世界観がベトナムという舞台で対峙することとなったのである。
新たな戦争への道筋
ジュネーヴ協定がもたらした平和は、長続きしなかった。北は全国統一のための革命を推進し、南は共産主義の浸透を防ぐために独自の防衛策を強化していた。北のホー・チ・ミンが掲げる統一の理想と、南のゴ・ディン・ジエムの反共主義政策は、両者の衝突を避けられないものとした。国際社会の期待とは裏腹に、ベトナムはさらなる戦争に向かう道を進み始めたのである。この時点で、冷戦の波はベトナム全土に深く根を張りつつあった。
第3章 ドミノ理論とアメリカの介入
ドミノが倒れる恐怖
1950年代、アメリカ政府は「ドミノ理論」という戦略的見解を掲げた。ドミノ理論とは、一国が共産主義に陥れば、その影響が隣国に広がり、最終的には地域全体が共産主義化するという考え方である。冷戦の最中、アジアで中国が共産主義化したことがこの理論を現実味あるものに見せた。特に、フランスの植民地支配が崩壊した後のベトナムは、アメリカにとって「次に倒れるかもしれないドミノ」と映った。この理論が、アメリカの外交政策を急速に軍事介入へと向かわせるきっかけとなった。
ケネディ政権と軍事支援の始まり
ジョン・F・ケネディ大統領は、ベトナムの共産主義化を防ぐための軍事支援を増強した人物である。彼は南ベトナムのゴ・ディン・ジエム政権に対し、アドバイザーや資金、そして最新の軍事装備を提供した。しかし、南ベトナム内部では政治的腐敗が深刻で、農村部では共産主義勢力であるベトコンの影響が拡大していた。ケネディは農村部の「心と頭」を取り戻すべく「戦略村計画」を支持したが、効果は限定的であった。この状況がアメリカをさらに深い介入へと引き込む要因となった。
ジョンソン政権とトンキン湾事件
1964年、リンドン・B・ジョンソン大統領の下でトンキン湾事件が発生した。この事件では、北ベトナム軍がアメリカの駆逐艦を攻撃したとされ、ジョンソンはこれを理由に「トンキン湾決議」を議会で成立させた。この決議により、大統領は議会の承認なしに軍事力を行使する権限を得た。この事件を契機にアメリカのベトナム介入は本格化し、空爆作戦「ローリングサンダー」や地上部隊の派遣が開始された。しかし、トンキン湾事件の詳細には疑念が残り、後に操作された情報があったことが明らかとなる。
民主主義の理想と現実の狭間で
アメリカはベトナム戦争を「民主主義の防衛」と位置づけていた。しかし、南ベトナム政府の腐敗やアメリカの軍事作戦による民間人の被害が増える中で、この理想は次第に現実と乖離していった。国内外で反戦運動が広がり、戦争の正当性が疑問視されるようになる。ドミノ理論のもとに始まった介入は、やがてアメリカの国民自身をも分断する問題へと発展していく。こうして、アメリカの介入は冷戦という大きな戦略の中で新たな混乱を生み出す結果となった。
第4章 北ベトナムと南ベトナム—内戦の構図
ホー・チ・ミンの夢と北ベトナムの理想
ホー・チ・ミンは「すべてのベトナム人のための独立」を掲げ、北ベトナムを社会主義国家として建設した。彼は、マルクス・レーニン主義をベースに、労働者と農民が中心の社会を目指した。首都ハノイでは教育改革や土地改革が行われ、農村部では地主から土地を没収して農民に分配する政策が進んだ。しかし、これらの政策は時に過酷で、反発を招くこともあった。一方で、北ベトナムはソ連と中国からの支援を受け、軍事力を強化し、南の「解放」に向けた準備を着々と進めていた。ホー・チ・ミンの理想は国内だけでなく、冷戦の大国にも影響を及ぼしたのである。
ゴ・ディン・ジエムと南ベトナムの闇
南ベトナムの初代大統領ゴ・ディン・ジエムは、強力な反共主義者として知られていた。彼はアメリカの支援を受け、サイゴンを拠点に政府を構築した。しかし、ジエム政権は腐敗が深刻で、特権階級が富を独占し、多くの農民が困窮した。さらに、カトリックであるジエムは仏教徒多数派の声を抑圧し、国民の不満を増幅させた。これにより、南部では共産主義勢力の支持が拡大し、ベトコン(南ベトナム解放民族戦線)が形成された。ジエムは国内の統一を目指したが、そのやり方はしばしば強権的で、国民を分断する結果となった。
国際支援と南北対立のエスカレート
北ベトナムはソ連と中国という二大共産主義大国から支援を受け、武器や訓練、資金が供給された。一方、南ベトナムはアメリカからの多額の経済支援と最新の軍事装備を受けた。これにより、南北の争いは単なる国内紛争にとどまらず、冷戦の代理戦争へと変貌を遂げた。国際的な支援は一方では南北間の緊張を激化させ、もう一方では大国同士の権力争いをさらに複雑にした。両陣営は、国民を動員し、思想的な戦いに加えて実際の戦場での戦闘準備を加速させていった。
南北が見た異なる未来
南北ベトナムはそれぞれが異なる国家像を掲げていた。北は社会主義革命による全国統一を目指し、南はアメリカの支援を頼りに独立と反共主義を守ることに必死だった。しかし、どちらのビジョンも民衆の間に深い分断をもたらしていた。北の革命は農民に希望を与えつつも犠牲を強い、南の繁栄の夢は一部の特権層にのみ恩恵をもたらした。この二つの異なる未来像の衝突は、避けられない戦争への道を形作っていったのである。
第5章 戦場と戦術—ゲリラ戦とテクノロジーの進化
密林に潜む影—ゲリラ戦術の巧妙さ
ベトコンのゲリラ戦術は、ジャングルの密林という地形を最大限に活用した。彼らは秘密のトンネル網を構築し、奇襲攻撃を行い、敵が気づく前に姿を消した。これらの戦術は、従来の正規戦を得意とするアメリカ軍を苦しめた。村人たちがベトコンを支援し、隠れ家や物資を提供することで、ゲリラ戦はさらに効果的になった。戦場では罠やブービートラップが多用され、アメリカ兵は心理的にも疲弊していった。こうした戦いは、南ベトナム全土でアメリカの軍事力を分散させる役割を果たした。
空からの支配—アメリカの空爆戦略
アメリカ軍は、ベトコンと北ベトナム軍を弱体化させるため、「ローリングサンダー」作戦を開始した。この空爆作戦では、爆弾が無数に投下され、村やインフラが破壊された。しかし、北ベトナムの防空能力は予想以上に強く、旧式ながらも効果的な地対空ミサイルでアメリカの航空機を撃墜した。また、ホーチミン・ルートと呼ばれる物資補給路は空爆にも耐え、北から南への補給が続けられた。結果として、アメリカの空爆は北ベトナムの士気をくじくどころか、戦意を高める結果となった。
科学技術の進化と枯葉剤の使用
アメリカ軍は、科学技術を用いて戦争に勝利しようとした。特に「枯葉剤」と呼ばれる化学物質をジャングルの除草に使用し、ベトコンの隠れ場所を排除しようとした。しかし、この化学物質は周辺住民や兵士たちに深刻な健康被害をもたらし、後の世代にまで影響を残した。また、高度な兵器や監視技術が導入されたが、それでもゲリラ戦術の柔軟性に完全には対応できなかった。科学技術は戦争の性質を変えたが、その結果は予期せぬ代償を伴うものとなった。
戦術の衝突—正規戦対ゲリラ戦
アメリカ軍は、圧倒的な軍事力を持つ正規軍であったのに対し、北ベトナム軍とベトコンは流動的なゲリラ戦を展開した。アメリカは火力と物量で勝利を目指したが、相手の忍耐力と地の利には苦戦を強いられた。一方、北ベトナム側は、少ない資源で長期戦を耐え抜く戦略をとった。この戦争は、軍事力の単なる比較では語れない複雑な要素を持ち、双方の戦術がどのように国際社会の注目を集め、戦争の形を変えたかを象徴するものであった。
第6章 民間人と戦争—枯葉剤と人道危機
村が戦場に変わる日常
ベトナム戦争は、戦場が村々にまで及んだ「全面戦争」であった。民間人はベトコンやアメリカ軍の間で挟まれ、どちらに協力しても命の危険にさらされた。農民たちはベトコンに食糧や隠れ場所を提供する一方で、アメリカ軍の掃討作戦で家を失うこともあった。「自由火災地帯」と名付けられた地域では、すべての人間が敵とみなされ、無差別の爆撃が行われた。このようにして、日常生活そのものが戦争に巻き込まれる状況が生まれ、民間人はどちらの側からも敵意を受ける立場に置かれた。
枯葉剤の傷跡—化学兵器の暗い影
アメリカ軍は、ジャングルに隠れるベトコンを排除するため「枯葉剤」と呼ばれる化学物質を大量に散布した。この枯葉剤は、植物を枯らす目的で使用されたが、その毒性は人々の健康に深刻な被害をもたらした。皮膚疾患や癌、さらには次世代にわたる先天性疾患が発生した。特に枯葉剤の成分「ダイオキシン」は強力な毒性を持ち、環境そのものを破壊した。農村部の住民は生活基盤を奪われ、食糧不足や健康問題に直面し、多くの人々が避難を余儀なくされた。
ミライ事件—戦争の暗部を暴く悲劇
1968年、ミライ村でアメリカ軍が民間人を大量虐殺する事件が発生した。この事件では、女性や子供を含む500人以上が殺害された。事件は当初隠蔽されたが、後に報道され、アメリカ国内外で激しい非難を浴びた。この悲劇は、ベトナム戦争が持つ非人道的な側面を象徴する出来事であり、戦争の正当性に疑問を投げかけた。兵士たちは命令に従ったと弁明したが、この事件は軍の規律の問題だけでなく、戦争そのものがいかに人々の倫理観を歪めるかを浮き彫りにした。
難民となった人々の苦難
戦争は、ベトナム国内で多くの人々を難民に追いやった。アメリカ軍の空爆や地上戦により、何百万人もの人々が住む家を失い、避難生活を余儀なくされた。南ベトナムの都市部には難民キャンプが急増し、過密状態や物資不足が続いた。さらに、一部の難民は国外へ脱出し、ボートピープルとして知られるようになった。海を渡る彼らの旅は危険に満ち、亡命先でも厳しい生活が待っていた。難民たちの物語は、戦争がいかにして人々の生活を根底から変えたかを語る象徴的な例である。
第7章 国際社会の反応—戦争とメディア
テレビが伝える戦場の現実
ベトナム戦争は「テレビ戦争」と呼ばれる初の紛争であり、戦場の映像が毎日のニュースで家庭に届けられた。アメリカの視聴者たちは、兵士たちの戦闘や爆撃の場面、民間人の悲劇的な姿を目の当たりにした。戦争が抽象的な出来事ではなく、生々しい現実として感じられるようになったのは、この映像の力である。ジャーナリストたちがカメラを携え、戦場の真実を追い求めた結果、政府の発表と現実のギャップが浮き彫りにされた。この報道は、人々に戦争の悲惨さを認識させると同時に、反戦運動を活性化させるきっかけともなった。
国際反戦運動の広がり
ベトナム戦争に反対する動きは、アメリカ国内にとどまらず、国際的な規模で展開された。特にヨーロッパやアジアの学生たちは、デモや集会を通じて声を上げた。パリでは学生運動が盛り上がり、東京では市民がアメリカ大使館前で抗議を行った。一方、アメリカ国内ではケント州立大学での学生射殺事件が世論を揺るがし、反戦感情をさらに高めた。ジョン・レノンの「平和を我らに」といった音楽も、人々を結びつける象徴的な役割を果たした。このように、反戦運動は多くの国で共感を呼び、世界中で人々の価値観を再考させたのである。
政府の情報操作と信頼の崩壊
アメリカ政府は、戦争を支持する世論を維持するために情報操作を行った。戦場での成功を誇張し、民間人の犠牲を隠蔽することもあった。しかし、1968年のテト攻勢で北ベトナム軍が一斉攻撃を仕掛けた際、これまでの政府の発表とは異なる現実が明らかになった。この出来事は、「勝利が近い」という主張を信じていた国民に衝撃を与えた。ウォルター・クロンカイトなどの有名なニュースキャスターが批判的な報道を行ったことで、政府への信頼が大きく揺らいだ。こうして、戦争の「真実」を巡る議論が激化していった。
平和への声と国際社会の圧力
反戦運動が激化する中で、国際社会はアメリカに対する圧力を強めた。国連では、戦争終結を求める決議案が議論され、スウェーデンやカナダなど中立的な立場の国々が平和的解決を提案した。さらに、隣国ラオスやカンボジアでの空爆拡大に対する批判も高まり、アメリカは孤立しつつあった。このような状況下で、リンドン・ジョンソン大統領は再選を断念し、和平交渉への道筋を模索することを余儀なくされた。平和を求める世界の声は、戦争の方向性を変える原動力となったのである。
第8章 戦争の転機—テト攻勢と和平交渉
夜明けを告げる攻勢—テト攻勢の衝撃
1968年1月、ベトナムの旧正月「テト」の期間中、北ベトナム軍とベトコンはアメリカと南ベトナム軍に対する大規模な攻勢を開始した。このテト攻勢は、100以上の都市や軍事拠点を標的とし、サイゴンのアメリカ大使館までもが一時的に攻撃を受けた。この奇襲は、アメリカ軍の圧倒的な軍事力にもかかわらず、北ベトナムがいかに戦略的に優れているかを示すものだった。最終的にアメリカと南ベトナム軍が反撃し、軍事的には北ベトナムの敗北となったが、政治的にはアメリカの戦争継続の正当性を大きく揺るがした。
メディアが捉えた真実と世論の変化
テト攻勢の映像と写真は、アメリカ国内のメディアを通じて瞬時に広まった。特に、サイゴンでの路上処刑の写真は、戦争の残酷さを象徴するものとして衝撃を与えた。これにより、アメリカ国内では戦争への支持が急速に低下し、反戦運動が一層勢いを増した。ウォルター・クロンカイトなどの著名なニュースキャスターが「この戦争は膠着状態にある」と語ったことで、世論はさらに戦争終結を求める方向に傾いた。メディアは単なる情報の提供者ではなく、戦争の行方を変える強力な力を持つ存在となった。
ジョンソン大統領の決断と限界
テト攻勢後、リンドン・ジョンソン大統領は軍事的拡大を続けるか、それとも和平交渉に向かうかという難しい決断を迫られた。彼は追加の兵力派遣を控え、北ベトナムとの和平交渉の準備を始めた。1968年3月、ジョンソンは再選を断念することを発表し、アメリカ国民と戦争政策の転換を約束した。この決断は、戦争の解決を望む国際的な圧力や国内の反発を考慮したものであったが、すでにアメリカのベトナム政策は重大な転機を迎えていた。
パリ和平会談への道
テト攻勢の余波の中で、北ベトナムとアメリカはフランス・パリで和平交渉を開始した。この会談では、停戦や部隊撤退、南ベトナムの将来に関する複雑な議題が議論された。しかし、交渉は難航し、双方の妥協の欠如により結論に至るまで数年を要した。それでも、この会談は戦争終結への最初の一歩となり、アメリカがベトナムから徐々に撤退する道筋を作る重要な転換点となった。パリ和平会談は、戦争の終わりが視野に入りつつある希望を象徴する瞬間であった。
第9章 サイゴン陥落と戦争の終結
サイゴンに迫る最後の戦い
1975年4月、北ベトナム軍はついに南ベトナムの首都サイゴンを包囲した。この「ホーチミン作戦」と呼ばれる最終攻勢では、北ベトナム軍は大量の兵士と戦車を動員し、アメリカの支援を失った南ベトナム軍を圧倒した。南ベトナム軍の防御線は次々と崩壊し、サイゴン市内には恐怖と混乱が広がった。市民たちは逃げ道を探し、アメリカ大使館の屋上では混雑するヘリコプターが避難者を運び出す光景が見られた。この瞬間は、戦争が決定的な終焉を迎える象徴的な場面として記憶されている。
サイゴン陥落—戦争の幕引き
4月30日、北ベトナム軍の戦車がサイゴンの大統領宮殿に突入し、南ベトナム政府の降伏が正式に宣言された。この日をもって、南ベトナムは消滅し、戦争は終結した。北ベトナムの勝利は、数十年にわたる独立と統一を目指す闘争の到達点であった。しかし、戦争の爪痕は深く、街並みは破壊され、数百万の命が失われた。サイゴンは「ホーチミン市」に改名され、社会主義国家として新たな一歩を踏み出すこととなった。戦争が残した傷跡と未来への希望が、この都市には交錯していた。
アメリカの敗北とその影響
アメリカにとってベトナム戦争は、軍事的敗北と国内の分裂を象徴する出来事となった。冷戦期のアメリカは、圧倒的な軍事力で自由主義を守るという理想を掲げていたが、ベトナムでの長期戦と戦費の膨張により、その限界が明らかになった。また、帰還兵たちは精神的なトラウマを抱え、アメリカ社会では反戦運動の余波が続いた。国内外での信頼が揺らぎ、アメリカは冷戦戦略を再考する必要に迫られた。ベトナム戦争は、単なる敗北ではなく、アメリカの外交政策に深い教訓を与えるものとなった。
統一されたベトナムの試練
戦争終結後、ベトナムは社会主義国家として再建を始めたが、その道は決して平坦ではなかった。南北間の経済格差やイデオロギーの違いは、国内の緊張を生んだ。また、戦争による被害の復旧や国際的な孤立の克服も課題であった。難民問題や冷戦期の経済制裁が進展を妨げる一方、ベトナムは土地改革や教育政策を通じて新しい社会を築こうとした。ベトナム統一は新たな時代の始まりであり、試練と希望が交錯する歴史の一ページとなったのである。
第10章 戦後のベトナム—統一と再建の課題
新たな国家の幕開け
1976年、北と南が統一され「ベトナム社会主義共和国」として新たなスタートを切った。首都はハノイに定められ、ホー・チ・ミンの理念を基に社会主義国家が築かれ始めた。新政府は農業集団化や産業の国有化を進め、貧富の差を縮めることを目指した。しかし、戦争で荒廃したインフラや経済を立て直すのは容易ではなかった。さらに、南ベトナムで資本主義的な生活に慣れた人々の反発もあり、国内の統一には課題が山積していた。それでも、ベトナム人たちは新たな国家を築く希望を胸に歩み出した。
戦争の傷跡とその克服
ベトナム戦争は、国全体に深い傷跡を残した。地雷や不発弾が未だに多くの地域に残り、農業や生活を脅かしている。また、枯葉剤の影響で先天性疾患を抱える子供たちや健康被害に苦しむ人々が増え続けた。一方で、政府や国際機関の支援により、徐々に地雷除去や被害者支援が進められた。戦争の記憶を風化させないため、ホーチミン市やハノイには戦争博物館が建設され、多くの人々が訪れるようになった。戦争を克服する努力が、新たな世代に平和の重要性を伝え続けている。
国際社会との関係修復
戦後のベトナムは、冷戦の影響で国際社会から孤立する時期が続いた。特にアメリカとの関係は、経済制裁や外交の断絶により困難を極めた。しかし、1995年に両国は国交を正常化し、新たな経済的協力が始まった。ASEAN(東南アジア諸国連合)への加盟も、地域の一員としての役割を強化した一歩であった。これにより、ベトナムは国際舞台での地位を回復しつつあり、世界各国との貿易や観光業の拡大を通じて経済成長を遂げた。
経済発展と新たな課題
2000年代以降、ベトナムは急速な経済成長を遂げ、「ドイモイ(刷新)」政策が成功を収めた。市場経済の導入により、外国投資が増加し、都市部は近代化が進んだ。一方で、経済格差や環境破壊などの新たな課題も浮き彫りとなった。農村部では貧困が続き、都市と地方の間の不平等が広がった。それでも、若い世代は教育を受け、技術革新に取り組む姿勢を見せている。ベトナムは、過去の教訓を基に持続可能な未来を築こうと、挑戦を続けている。