基礎知識
- 農奴制の起源と発展
農奴制は中世ヨーロッパの封建制度に由来し、ロシアでは16世紀に法的に確立され、18世紀に最も厳格な形態へと発展した。 - アレクサンドル2世と改革の背景
ロシア皇帝アレクサンドル2世は、クリミア戦争での敗北と経済的停滞を背景に、1861年に農奴解放令を発布し、帝国の近代化を進めた。 - 農奴解放令の内容と影響
農奴解放令は農奴に自由と土地を与えたが、土地取得には償還金を支払う義務が課され、多くの農民が経済的困難に直面した。 - 社会・経済への影響
解放令後、農村経済の変化により工業化が進み、労働力が都市へ移動し、新たな社会階層が生まれたが、農民の貧困は続いた。 - 世界史における農奴解放の位置づけ
ロシアの農奴解放令は、アメリカの奴隷解放や西欧の自由主義的改革と比較され、近代国家形成の一環として重要視される。
第1章 ロシア農奴制の起源と発展
封建制度の影響とロシアの特殊性
ロシアの農奴制は、ヨーロッパの封建制度とは似て非なるものだった。中世ヨーロッパでは、領主と農民の関係は「相互の義務」に基づいていたが、ロシアでは農民は徐々に完全な支配下に置かれた。16世紀、イヴァン4世(雷帝)は「オプリーチニナ」と呼ばれる政策を実施し、貴族層を再編成すると同時に、農民の移動を厳しく制限した。こうした政策は、国土の広大さと人口の少なさというロシア独自の条件のもとで生まれた。西欧では黒死病後に労働力の価値が高まり農民の自由が増したが、ロシアでは逆に農民の権利は奪われ、完全な農奴制へと向かっていったのである。
16世紀の法制化と農民の束縛
ロシアの農奴制が決定的になったのは、1581年の「逃亡農民禁止令」である。これは、イヴァン4世が農民の土地移動を一時的に禁じた法令であったが、のちに恒久的なものとなった。次いで、ボリス・ゴドゥノフの治世下では、農民の移動がさらに厳しく制限され、土地とともに売買される存在となった。1649年、アレクセイ・ミハイロヴィチのもとで「法典」が制定され、農民の身分は固定され、地主の私有財産として扱われるようになった。この制度は、西欧の封建制と異なり、土地を持たない貴族層が国家から土地を与えられる代わりに、農奴を従属させる仕組みを作り上げた。
ピョートル大帝と農奴制の強化
18世紀に入り、ピョートル1世(ピョートル大帝)はロシアを強国へと変貌させるため、軍事・経済改革を断行した。しかし、この改革は農民にとってさらなる負担をもたらした。ピョートルは「人頭税」を導入し、農奴たちは労働力だけでなく税負担の面でも貴族の利益のために利用された。また、軍事国家化の一環として、多くの農民が強制的に工場労働へと駆り出され、ウラル地方の鉱山や武器工場で酷使された。これにより、農民の生活は極度に悪化し、各地で反乱が頻発した。ピョートルの死後もこの流れは続き、農奴制はさらに深化していくこととなった。
18世紀の反乱と農民の抵抗
農奴制の拡大に対し、農民たちは決して黙っていたわけではない。18世紀には、農民の絶望が爆発し、大規模な反乱が相次いだ。その中でも最大のものが、1773年のプガチョフの乱である。エメリヤン・プガチョフは、農民・コサック・逃亡奴隷を率いて政府軍に反旗を翻し、一時はウラル地方からヴォルガ流域にかけての広大な地域を支配した。しかし、最終的に鎮圧され、プガチョフは処刑された。こうした反乱は、ロシア社会が大きな変革を必要としていることを示していたが、支配者たちは農奴制を維持し続けた。ロシアの農奴制は、19世紀に至るまで帝国の礎として存続し、ついにアレクサンドル2世の改革を迎えることになる。
第2章 アレクサンドル2世と解放令の決断
若き皇帝、変革の時代へ
1855年、アレクサンドル2世は父ニコライ1世の死を受け、ロシア皇帝として即位した。ロシア帝国は広大な領土を誇っていたが、経済の停滞と社会の閉鎖性が深刻な問題となっていた。西欧諸国は産業革命によって急成長していたが、ロシアは依然として農奴制に依存し、経済発展を妨げられていた。さらに、皇帝の即位直前に始まったクリミア戦争はロシア軍の後進性を露呈し、近代化の必要性を強く印象づけた。若きアレクサンドル2世は、父の強硬な統治とは異なる新たな道を模索し、改革の時代を築こうと決意したのである。
クリミア戦争が突きつけた現実
ロシア軍は広大な領土を持ちながらも、西欧の近代的な軍事力に歯が立たなかった。1853年に始まったクリミア戦争では、イギリス・フランス・オスマン帝国の連合軍と対峙したが、鉄道も十分に整備されておらず、兵士の移動に膨大な時間がかかった。さらに、兵士の大半が農奴であり、教育も受けておらず、戦闘能力は低かった。1856年のパリ講和条約で敗北を認めたロシアは、国際社会での地位を失い、軍事力と経済の抜本的な改革が必要不可欠であることを痛感した。この戦争の敗北は、アレクサンドル2世が農奴制廃止に向けた決断を下す大きな契機となった。
改革派の圧力と皇帝の決断
アレクサンドル2世の周囲には、改革を求める知識人や官僚たちがいた。特に、ミハイル・スピリドフやヤコブ・ロストフツェフのような高官は、農奴制の存続がロシアの発展を阻害していると主張した。一方で、保守派の貴族たちは農奴制廃止に強く反対し、自らの権利が奪われることを恐れていた。アレクサンドル2世は慎重に議論を重ね、1861年に農奴解放令を発布する決断を下した。この決断は、単なる農民の解放ではなく、ロシア帝国の未来を左右する一大改革であり、皇帝の政治的な賭けでもあった。
「上からの改革」か「下からの革命」か
アレクサンドル2世は、もし政府が農奴制を自らの手で廃止しなければ、農民が反乱を起こし、「下からの革命」が避けられないと考えていた。実際に、過去数十年間、農民の暴動は各地で頻発しており、ピョートル大帝時代の反乱を彷彿とさせるものもあった。フランス革命が貴族階級を一掃したように、ロシアでも社会不安が高まれば帝国の存続すら危うくなる可能性があった。農奴解放令は、こうした危機を回避するための「上からの改革」として進められたのである。改革は痛みを伴うものだったが、ロシアの未来にとって不可欠な一歩だった。
第3章 1861年農奴解放令の内容
歴史的瞬間:皇帝の布告
1861年3月3日、アレクサンドル2世はロシア史上最大の改革のひとつを発表した。サンクトペテルブルクの宮廷では、厳かな空気の中で皇帝の声明が読み上げられた。「農奴制度は、ロシアの発展を阻害するものである。よって、我が帝国の農民たちに自由を与える」と。これは単なる法律ではなく、国家の未来を変える一大決断であった。農奴は封建的な束縛から解放され、法的に自由な市民となることが保証された。しかし、その自由には多くの制約があり、農民たちがすぐに独立した生活を送れるわけではなかった。
「自由」と引き換えの土地問題
解放令の核心は「土地の所有権」にあった。農民は自由を得たが、住んでいた土地を無条件で受け取れるわけではなく、一定の償還金を支払う必要があった。政府は地主に補償金を払い、農民がその費用を長期分割で返済する仕組みを作った。しかし、割り当てられた土地は限られ、農民は経済的に厳しい立場に追い込まれた。特に、肥沃な土地は地主が保持し、農民は生産性の低い土地に押し込められた。自由を得たはずの彼らは、経済的な束縛から抜け出すことができず、新たな困難に直面することとなった。
コミューン制度の存続と自治の始まり
農奴解放令は、単に個人の自由を認めるものではなく、農村社会全体の再編成も促した。農民は「ミール(共同体)」に属し、土地は個人ではなく共同体の管理下に置かれた。ミールは土地の分配や税の支払いを決定し、農民は共同体のルールに従わざるを得なかった。この制度は、農民の生活を安定させる役割を果たした一方で、新たな制約を生むことになった。個々の農民が自由に土地を売買できず、経済的な自立が難しくなったのである。こうして、解放令の目的とは裏腹に、農村社会の構造は大きく変わらなかった。
貴族と政府の思惑
農奴解放令は、農民だけでなく貴族や政府にとっても大きな影響を与えた。多くの地主は、労働力の喪失によって財政的な打撃を受けたが、一方で政府からの補償金によって新たな産業へ投資する者もいた。アレクサンドル2世は、単に農民を解放するのではなく、ロシアの社会全体を近代化し、国家の発展を促進する狙いがあった。だが、農奴制を廃止したことで社会が一気に安定することはなく、むしろ新たな不満と課題が噴出した。自由を得た農民と、特権を失った貴族の間に生まれた緊張は、やがてロシア全土を揺るがす大きな波へとつながっていくのである。
第4章 農民の生活はどう変わったのか
「自由」を手にした農民たちの現実
1861年、農奴解放令が発布されると、ロシア中の農民たちは歓喜に包まれた。彼らは祖先が何世紀にもわたって束縛されてきた鎖を断ち切り、新たな人生を歩み始めるはずだった。しかし、その自由は思ったほど甘美なものではなかった。農民たちは土地を得るために償還金を支払わなければならず、経済的な重圧に直面した。政府から与えられた土地は、肥沃なものではなく、生産性の低い小規模な区画が多かった。これでは生活が成り立たず、多くの農民が困窮し、「自由」とは名ばかりの苦しい生活を送ることになった。
「ミール」の束縛と農民の葛藤
農民たちは個人の自由を手にしたが、社会の中では依然として「ミール(共同体)」に縛られていた。ミールは土地の管理を行い、農民たちはその決定に従わなければならなかった。税の支払いや徴兵の選定もミールを通じて行われたため、国家の支配は以前と変わらず農民に重くのしかかった。さらに、土地の売買が自由にできず、個人での移動も制限されることがあった。こうした状況により、農奴制が形式上は廃止されたものの、実質的には農民の生活はあまり変わらず、封建的な体制がしぶとく残り続けた。
農民の都市流出と労働者階級の誕生
農村での生活が厳しくなるにつれ、多くの農民が都市へと移動し始めた。サンクトペテルブルクやモスクワの工場には、貧しい農民たちが流れ込み、新たな労働者階級が形成された。彼らは過酷な労働環境のもとで働きながらも、農村とは異なる自由を手に入れた。教育を受ける機会が増え、政治への関心も高まっていった。こうして、都市に集まった農民たちは、後のロシア革命へとつながる社会の変革を生み出す原動力となっていく。解放令は、単なる農村の変化ではなく、ロシア社会全体の変革の始まりでもあった。
変わる生活、変わらぬ貧困
解放令から数十年が経過しても、多くの農民の生活は改善されなかった。償還金の負担は重く、作物の収穫が不作であれば借金が膨らんだ。ミールの管理のもと、農民たちは経済的に独立することが難しく、依然として貧困の中で生きていた。一方で、一部の農民はより良い土地を得たり、商売を始めたりして成功する者もいた。こうして、ロシアの農村社会は一様ではなくなり、貧富の格差が広がっていった。自由を得た農民たちは、新たな時代の波に乗る者と、苦しみ続ける者とに分かれていったのである。
第5章 都市化と産業発展への影響
解放された農民、都市へ向かう
農奴解放令が発布された1861年以降、多くの農民が農村の貧困を逃れ、新たな生活を求めて都市へ移動し始めた。サンクトペテルブルクやモスクワのような大都市では、工場が次々と建設され、労働者の需要が高まっていた。かつて農地に縛られていた農民たちは、賃金を得る新たな機会を見つけた。しかし、都市の生活は決して楽ではなかった。狭い集合住宅に詰め込まれ、長時間労働と低賃金に苦しむ者も多かった。それでも、都市へ出た農民たちは新たな社会の一員となり、ロシアの経済と社会構造の変化を加速させる原動力となった。
鉄道の発展とロシアの近代化
都市への人口流入を促進した要因のひとつが、鉄道の発展である。農奴解放とほぼ同時期に、ロシア政府は鉄道建設を国家の優先事項とした。1860年代から1890年代にかけて、シベリア鉄道をはじめとする広大な鉄道網が敷かれ、地方の農民たちはより容易に都市へ移動できるようになった。鉄道はまた、産業発展にも大きな影響を与えた。石炭や鉄鋼などの資源が遠方から工場へ運ばれ、製造業が急成長した。農奴解放は単に社会改革にとどまらず、ロシア経済の近代化を促進するきっかけとなったのである。
新たな産業と労働環境の変化
農民たちが都市へ移動したことで、ロシアの工業化は加速した。紡績業や製鉄業をはじめとする産業が発展し、大規模な工場が建設された。しかし、労働者たちは厳しい環境の中で働かざるを得なかった。1日12〜14時間の長時間労働、劣悪な衛生環境、低賃金といった問題が深刻化し、労働者たちの不満が蓄積していった。一方で、労働者たちは都市生活を通じて新たな考え方を学び、労働組合の結成やストライキなどの抵抗運動が次第に活発化していった。これが後のロシア社会の大きな変革へとつながっていくのである。
商業の発展と中産階級の台頭
都市の成長は、商業の発展にもつながった。商人や起業家たちは、新たな市場を求めて事業を拡大し、銀行業や金融業が発展した。これにより、ロシアに新たな中産階級が誕生した。かつて農奴として生まれた者の中には、商売で成功し、富を築いた者もいた。しかし、急速な都市化と産業発展は社会の格差を生むことにもなった。貧しい労働者たちと、成功を収めた中産階級との間に大きな経済的な差が生じ、ロシア社会は新たな対立を抱えることになったのである。
第6章 貴族と地主の反応
貴族階級の衝撃と動揺
1861年の農奴解放令は、ロシアの貴族階級にとって衝撃的な出来事であった。長年、農奴制によって支えられてきた彼らの権力と財産が、一夜にして揺らぎ始めた。かつて地主たちは、自らの土地で農奴たちを働かせることで富を築いていたが、解放令の後、彼らは労働力を失い、多くの者が経済的に困窮することとなった。特に、小規模な地主たちは影響を強く受け、一部は土地を手放し、都市へ移住する者も現れた。こうして、ロシアの貴族社会はゆっくりと、しかし確実に変貌を遂げていった。
経済的打撃と新たな地主像
農奴の労働力を失った貴族たちは、財産を守るために新たな経済戦略を模索した。裕福な地主の中には、西欧の農業経営をモデルにし、農民に賃金を支払って雇う方法を取り入れる者もいた。しかし、多くの地主は経営能力に乏しく、農業の近代化に適応できなかった。その結果、ロシアの地方経済は混乱し、農村の生産性は低下した。これにより、地主の間でも格差が生まれ、事業に成功した者と没落する者に二極化していった。もはや、貴族が絶対的な支配者である時代は終わりを迎えようとしていた。
地方自治の変革と新しい権力
農奴解放は、貴族だけでなく地方政治にも大きな影響を与えた。政府は、農民の自治を促進するために「ゼムストヴォ(地方自治機関)」を創設し、貴族だけでなく農民階級にも行政参加の道を開いた。これにより、地方政治の構造が変化し、貴族たちはもはや絶対的な権力を握ることができなくなった。とはいえ、依然として彼らはゼムストヴォの中心に位置し、地方行政を支配し続けようとした。こうして、旧来の貴族支配と新たな自治制度がせめぎ合いながら、ロシアの地方統治はゆるやかに変化していった。
革命の萌芽と貴族の苦悩
農奴解放による経済的・政治的変化は、ロシア社会全体に新たな緊張を生んだ。貴族の中には、かつての特権を失ったことを嘆く者もいれば、変革の流れに適応しようとする者もいた。一方で、都市へ流入した農民や労働者たちは、新たな政治意識を持ち始め、社会の不平等に対する不満を募らせていった。この動きはやがて革命へとつながる火種となる。貴族たちは、かつて自らが支配していた民衆が、新たな力として台頭する姿を前に、大きな不安を抱えながら時代の変化を見守ることしかできなかったのである。
第7章 政府と地方行政の改革
農奴解放後の新たな統治の必要性
農奴解放令が発布されると、ロシア政府は国内の統治制度を大きく見直さざるを得なくなった。それまで、農奴は地主の支配下にあり、行政の中心も貴族階級にあった。しかし、解放令によって農民が独立した身分となると、国家は彼らを直接統治しなければならなくなった。農村では税の徴収や治安維持の責任が問われ、新たな地方行政の仕組みが求められた。皇帝アレクサンドル2世は、農民を統治する新たな枠組みを作ることで、帝国の安定を図ろうとしたのである。
ゼムストヴォの創設と地方自治の始まり
1864年、政府は地方自治制度として「ゼムストヴォ(地方議会)」を創設した。これは地方の行政やインフラ整備、教育、医療を管理する組織であり、貴族、都市市民、農民の代表が参加する仕組みであった。ゼムストヴォはそれまで中央政府が担っていた行政業務を地方に分散し、住民自身が地域の課題を解決できるようにする狙いがあった。しかし、貴族層の影響力は依然として強く、農民の意見が十分に反映されることは少なかった。それでも、この新しい制度はロシアにおける民主的統治の第一歩となったのである。
司法改革と法の平等化
アレクサンドル2世の改革は行政だけにとどまらず、司法制度にも及んだ。1864年には大規模な司法改革が行われ、西欧の法律制度を参考にした新たな裁判制度が導入された。それまでのロシアでは、貴族と農民では適用される法律が異なり、地主の裁量で農民を処罰することが可能だった。しかし、新制度ではすべての市民が同じ裁判所で審理を受けることが定められた。また、陪審制度が導入され、公正な裁判を実現する仕組みが整えられた。この改革により、ロシア社会の法的平等が一歩前進したのである。
軍制改革と近代化への道
クリミア戦争での敗北を受け、ロシア軍の近代化も急務となった。1860年代後半、政府は徴兵制度を改革し、すべての成年男子が軍務に就く義務を負うことになった。これにより、それまで特権階級の兵士が中心だった軍隊が、一般市民を含むものへと変わっていった。さらに、徴兵期間が大幅に短縮され、軍務を終えた兵士が社会に戻り、技術や知識を伝える役割を果たすようになった。こうしてロシア軍は近代化され、国全体の技術水準も向上することになったのである。
第8章 比較視点:世界の農奴解放
フランス革命と農民の自由
1789年、フランス革命が勃発すると、農民たちは封建制度からの解放を求めて立ち上がった。革命政府は「封建的義務の廃止」を宣言し、農民は土地の所有権を手に入れた。フランスの農民解放はロシアの農奴解放と異なり、政府が仲介することなく、地主の権力を直接取り除く形で進められた。これにより、農民は真の自由を獲得し、独立した農業経営者としての地位を確立した。フランスの成功は、後にヨーロッパ各国の農奴制廃止にも影響を与え、ロシアの改革派にも希望を抱かせる事例となった。
プロイセンの農奴解放と近代化
19世紀初頭、ナポレオン戦争の影響を受けたプロイセンでは、シュタイン・ハルデンベルク改革によって農奴制が廃止された。プロイセンの改革は、ロシアとは異なり、国家主導で計画的に進められた。農民は土地を所有し、自由な経済活動が許される一方、地主たちも新たな経営モデルに適応し、近代的な農業経済へと移行していった。この改革はプロイセンの工業化を後押しし、19世紀後半にはドイツ統一と経済発展の礎となった。ロシアはプロイセンの成功を意識しながらも、自国の農奴解放をより慎重に進めることになった。
アメリカ南北戦争と奴隷解放
ロシアの農奴解放令とほぼ同時期、アメリカでも奴隷制の存続をめぐる戦いが繰り広げられていた。1861年に始まった南北戦争は、1863年のリンカーン大統領による「奴隷解放宣言」によって大きく動いた。この宣言はアメリカ南部の奴隷たちを自由とし、戦争終結後の1865年には正式に奴隷制が廃止された。しかし、アメリカの黒人たちは土地を持たず、経済的に厳しい状況に置かれた点で、ロシアの農民と共通していた。形式的な自由を得た後も、両国の解放民は長い差別と格差の問題に直面し続けたのである。
世界史の中でのロシア農奴解放
ロシアの農奴解放令は、世界史の中でどのように位置づけられるべきだろうか。フランスやプロイセンの改革と比べると、その進展は遅く、地主層への配慮が強かった。一方で、アメリカの奴隷解放と比較すると、国家が強い管理のもとで変革を進めた点に特徴があった。ロシアの農奴解放は、完全な自由を即座に実現したわけではなかったが、それでも帝国の近代化における大きな転換点となったのである。他国の改革と比較することで、ロシアの解放令が持つ特異性と限界がより鮮明に浮かび上がるのだ。
第9章 農奴解放令の限界と評価
「自由」の代償:経済的な苦境
農奴解放令は、農民に自由を与えたが、その自由は経済的な重圧と引き換えだった。解放された農民は土地を持つ権利を得たが、その取得には政府への償還金の支払いが必要だった。多くの農民は、高額な負担に苦しみ、生活の向上どころか、以前より厳しい状況に陥った。土地は共同体(ミール)が管理し、個人が自由に売買できないため、貧しい農民が土地を手放して都市へ移ることも難しかった。こうして、農奴解放後も農民は依然として貧困と束縛の中で生き続けたのである。
改革の矛盾:貴族層の反発と適応
農奴制の廃止に最も反発したのは貴族階級であった。彼らは農奴を労働力として頼っており、その損失は経済的打撃となった。しかし、政府からの補償金を活用し、新たな事業に乗り出した者もいた。都市での商業投資や工場経営に転じる貴族も現れ、結果的にロシアの経済構造が変化するきっかけとなった。一方で、時代の変化についていけなかった地主たちは没落し、貴族層は急速に分裂していった。改革は貴族にとって痛みを伴ったが、すべての者にとって悪い結果だったわけではなかった。
農民の不満と社会の不安定化
解放後の農民たちは、生活が困窮する中で政府に不満を抱くようになった。期待した自由は実質的に制限され、経済的負担は増すばかりだった。各地で小規模な暴動が発生し、農民たちは時に武力で抗議した。政府は治安維持のために軍を派遣し、反乱を鎮圧したが、そのたびに農民の怒りは深まった。こうして、農奴解放はロシア社会の安定をもたらすどころか、新たな社会的不満を生み出し、革命への土台を築く結果となったのである。
「中途半端な改革」の歴史的評価
農奴解放令はロシア史において画期的な出来事だったが、成功とは言いがたい。西欧諸国のような自由経済の確立には至らず、農民の生活はほとんど改善されなかった。しかし、この改革がなければ、ロシアの近代化はさらに遅れていたことも事実である。アレクサンドル2世は慎重な改革を目指したが、その中途半端さが社会の不満を増幅させ、結果的にさらなる大きな変革を引き起こす要因となった。農奴解放令はロシア帝国の転換点であり、その影響は後の革命へと続いていくのである。
第10章 20世紀への影響:革命への道
農奴解放令が残した社会のひずみ
農奴解放令はロシアを近代化へと導くはずだったが、結果的に新たな不満と矛盾を生んだ。農民は自由を得たものの、土地を手に入れるための償還金に苦しみ、経済的な自由を得ることはできなかった。都市へ移住した労働者たちも、過酷な労働環境の中で搾取され、貴族や資本家との格差が広がった。社会の底辺に取り残された人々の不満は次第に蓄積し、政府に対する不信感が高まっていった。この不満はやがて、ロシア帝国そのものを揺るがす大きなうねりへとつながっていく。
革命思想の広がりと知識人の台頭
19世紀後半から20世紀初頭にかけて、ロシアでは革命思想が急速に広がった。農奴解放令の不十分さに憤った知識人たちは、政府を批判し、新たな政治体制を模索し始めた。ナロードニキ(人民主義者)は農民の力による変革を訴え、マルクス主義者たちは労働者階級の革命を主張した。こうした思想が広がる中で、レーニンやプレハーノフといった革命家が登場し、帝政打倒の機運を高めていった。彼らは新聞やパンフレットを通じて民衆を啓蒙し、ロシア社会の変革を促そうとしたのである。
第一次ロシア革命と帝政の動揺
1905年、ロシア帝国は大きな転換点を迎えた。日露戦争での敗北により、国民の不満が爆発し、労働者のストライキや農民の暴動が相次いだ。首都サンクトペテルブルクでは「血の日曜日事件」が発生し、武装していない民衆が政府軍に射殺される惨劇が起こった。この事件は全国の怒りを招き、最終的に皇帝ニコライ2世は立憲制の導入を約束し、ロシア初の議会であるドゥーマを設立することを余儀なくされた。しかし、この譲歩は一時的なものであり、帝政の本質は変わらず、社会の不満は解消されなかった。
1917年革命への決定的な流れ
第一次世界大戦の勃発は、ロシア帝国にとって決定的な打撃となった。戦争の長期化により食糧不足と経済混乱が深刻化し、兵士たちは士気を失い、国民の怒りは頂点に達した。そして1917年、二月革命が起こり、ついにロマノフ朝は崩壊した。臨時政府が樹立されたものの、労働者と農民の不満は依然として強く、十月革命でボルシェヴィキが政権を掌握することとなる。こうして、農奴解放令から約半世紀を経て、ロシアは帝政を完全に終わらせ、社会主義国家への道を歩み始めたのである。