基礎知識
- アーネスト・フェノロサの生涯と背景
アーネスト・フェノロサ(1853-1908)はアメリカ出身の哲学者であり、日本美術の保存と西洋への紹介に尽力した人物である。 - フェノロサと日本美術の関係
フェノロサは明治時代に日本に滞在し、日本美術の価値を再発見し、その保存活動を推進した。 - 明治維新と日本の近代化
フェノロサが活躍した明治時代は、日本が急速に近代化し、西洋文化を受け入れる一方で伝統文化が危機にさらされていた時期である。 - 美術と哲学の融合
フェノロサは美術に哲学的な視点を導入し、東洋美術の精神性を西洋に伝える橋渡しを行った。 - 東西文化交流の先駆者としての意義
フェノロサの活動は単なる美術保存にとどまらず、東西文化の相互理解を深める重要な役割を果たした。
第1章 アーネスト・フェノロサとは誰か
19世紀のアメリカから始まる物語
1853年、アメリカのサマセットで生まれたアーネスト・フェノロサは、当時の新しい思想や科学に触れながら成長した。彼の家族は教育熱心で、彼自身も文学や哲学に興味を示した。ハーバード大学では特に哲学と美術に才能を発揮し、その後、東洋文化への関心を深めていく。19世紀のアメリカでは、東洋への関心が広がりつつあり、フェノロサもその潮流に乗った。彼の心に強く響いたのは、日本という国が持つ神秘的で深遠な文化だった。アメリカでの教育を経て、やがて日本行きの道が開かれる。
明治日本への旅立ち
1878年、フェノロサは日本政府の招きで来日する。当時の日本は明治維新の真っ只中で、西洋文化が急速に取り入れられていた。そんな中、伝統的な美術や文化は衰退の危機にあった。フェノロサはこの状況に驚き、伝統美術の価値を再認識する使命を感じるようになる。特に彼を惹きつけたのは、京都や奈良に残る仏教美術であった。これらの作品には、彼がアメリカで学んだ西洋美術にはない精神性が宿っていると感じた。フェノロサは、異文化の中に身を置くことで、日本の美の本質を発見し始める。
美術保存活動の始まり
日本滞在中、フェノロサは東京帝国大学(現・東京大学)で教鞭を執りつつ、日本の伝統美術の保存活動を推進する。彼は古寺や古美術品を訪ね歩き、その価値を理解するだけでなく、日本人にもその重要性を訴えた。例えば、法隆寺の仏像や金剛峯寺の書物といった貴重な文化財に触れ、これらが単なる物質ではなく、日本の精神そのものであると説いた。このような活動を通じて、日本国内でも美術保存の必要性が認識されるようになった。フェノロサは文化の架け橋としての役割を確立していく。
日本美術への愛とその広がり
フェノロサの活動は日本国内だけにとどまらず、彼の美術観を通して日本の文化が世界に広がるきっかけを作った。彼の講義や文章は、アメリカやヨーロッパで東洋美術への関心を呼び起こした。彼が書いた日本美術に関する論文やスピーチは、明治期の日本の伝統文化の重要性を再評価させるものだった。特に、「東洋と西洋の美の融合」という彼の信念は、多くの人々の心を打った。フェノロサの日本美術への愛は、単なる学問的な興味を超え、文化を守るという使命感に基づいたものであった。
第2章 明治維新と文化の変革
西洋化の嵐に飲まれる日本
1868年の明治維新は、250年以上続いた徳川幕府を終わらせ、日本を劇的に変えた。新政府は「文明開化」を掲げ、西洋の技術や文化を急速に取り入れた。その影響は衣食住だけでなく、社会全体に及び、伝統的な習慣や価値観が次々と姿を消していった。例えば、刀を持つ侍の姿は廃刀令によって消え、洋装を着た人々が増えていった。この変化は進歩的であった一方、日本古来の文化財や芸術に深刻な影響を与えた。多くの寺院や美術品が放置され、壊される危機に直面していた。フェノロサが来日した時、日本はまさにこの文化的転換点に立っていたのである。
美術品の危機と廃仏毀釈
明治維新後、日本は仏教を否定的に捉える政策を取り、「廃仏毀釈」という現象が起きた。仏教寺院は破壊され、仏像や経典が捨てられることも珍しくなかった。これは新しい時代の「神仏分離」の流れに基づくものであったが、結果として貴重な文化財が失われる原因となった。奈良の古寺や京都の仏教美術は、この廃仏毀釈の波にさらされ、消滅の危機に瀕していた。このような状況を目の当たりにしたフェノロサは、日本の文化がこのまま失われてしまうのではないかと深く憂慮した。彼の使命感はここから生まれたと言っても過言ではない。
文明開化がもたらした功罪
西洋文化の導入は、科学技術の進歩や教育制度の発展など、確かに日本社会に多くの利益をもたらした。鉄道や郵便制度が整備され、東京や大阪といった都市では電灯が街を照らすようになった。しかし、その代償として、伝統文化への関心が急速に薄れていった。例えば、日本画は「古臭い」と見なされ、洋画がもてはやされるようになった。多くの人々が西洋化を進歩と信じ、日本の美術品や工芸品はただの古物とされることが増えた。このような中、フェノロサの目には、日本が大切な「心」を失っていくように映ったのである。
フェノロサの目に映る日本の変貌
来日したフェノロサは、急速に変化する日本の姿に驚きを隠せなかった。一方で、彼は京都や奈良を訪れ、日本の伝統美術や文化が持つ深い精神性に魅了された。法隆寺の仏像や唐招提寺の建築物は、彼にとって単なる「遺物」ではなく、過去と現在を結ぶ「生きた遺産」であった。彼はこれらの文化財を守ることで、日本が失いつつある文化の誇りを取り戻す手助けができると考えた。フェノロサの日本美術への情熱は、この時期にさらに燃え上がり、彼を美術保存運動へと駆り立てる原動力となった。
第3章 美術と哲学の対話
フェノロサの哲学的ルーツ
アーネスト・フェノロサの哲学的視点は、アメリカでの教育に深く根ざしている。彼はハーバード大学で哲学を学び、特にヘーゲルの「弁証法」やプラトンの「イデア論」に影響を受けた。これらの思想は「美とは何か」という問いを彼に投げかけ、日本美術との出会いによってその答えを探求する旅が始まった。フェノロサは、美とは単なる形や色ではなく、人間の精神や自然の調和を映し出すものと考えた。日本の仏像や絵画の中に、彼は西洋美術にはない「見えないものを表現する力」を感じ、その哲学的な価値を深く理解した。
仏教美術と西洋哲学の交差点
奈良や京都の寺院を訪れたフェノロサは、仏教美術の中に哲学的な真理を見出した。例えば、東大寺の大仏は単なる彫刻ではなく、宇宙の真理を象徴する存在であると彼は考えた。これに対して西洋美術は、個々の感情や現実の美しさを重視している。フェノロサは、この違いを「内なる精神性」と「外なる写実性」の対比として捉えた。そして、東洋の美術が伝える「無我」や「空」といった仏教的概念を、西洋哲学の枠組みで分析し、新たな美術理論を構築しようと試みた。これにより、東洋と西洋の思想が初めて本格的に交差した。
美術鑑賞における精神性の重要性
フェノロサは、日本美術の鑑賞において「精神性」の役割を強調した。彼は、表面的な技術や豪華さではなく、作品が持つ「精神的な深さ」に注目すべきだと説いた。例えば、禅宗の墨絵には、シンプルな筆遣いの中に宇宙の広がりが感じられるという。彼はこの感覚を「沈黙の中の美」と呼び、日本美術が持つ独自性を西洋人に伝えようとした。さらに、彼の講義では、観客が作品を鑑賞する際に心を静かにし、自己を見つめ直すことが重要だと強調された。これにより、日本美術への理解が深まり、多くの人々がその魅力に気づくようになった。
美術保存への哲学的アプローチ
フェノロサにとって、美術保存は哲学的行為でもあった。彼は、日本の仏像や絵画が単なる物質的遺産ではなく、人間の精神性や歴史を伝える「生きた存在」として扱われるべきだと主張した。例えば、彼が訪れた法隆寺の仏像群には、千年以上にわたる人々の祈りが込められていると考えた。これを守ることは、単に物を保存するだけでなく、人間の精神や文化を未来へつなぐことだと彼は語った。フェノロサの哲学的な視点は、美術保存の意義を深めるとともに、東洋美術が世界的に再評価される道筋を作ったのである。
第4章 日本美術再発見の旅
京都・奈良に眠る宝物
アーネスト・フェノロサが最初に日本美術の真髄を目の当たりにしたのは、京都と奈良の古都を訪れた時である。特に奈良の東大寺大仏殿で感じた圧倒的なスケールと精神性は、彼の人生を変えた。東大寺の大仏は、単なる彫刻ではなく、日本の仏教美術が持つ哲学と文化の象徴であると彼は理解した。また、法隆寺に残る飛鳥時代の仏像群は、彼に「千年以上の時を超えて語りかける存在」と映った。これらの作品は、彼にとって日本の美術が持つ精神的な豊かさを再認識させるきっかけとなったのである。
美術保存の使命に目覚める
フェノロサが訪れた明治時代の日本では、廃仏毀釈の影響で多くの寺院や仏像が破壊され、文化財が消失する危機にあった。彼は、これを目の当たりにして強い使命感を抱いた。特に、奈良の興福寺の仏像群や、唐招提寺にある鑑真和上像の保存が急務であると考えた。フェノロサは、それらが日本の歴史と精神を語る重要な遺産であり、ただの「古い物」ではないと説いた。彼の情熱的な活動により、地元の人々も伝統美術の重要性に気づき始め、文化財保護の意識が次第に広がっていった。
国宝保存法への道筋
フェノロサの活動は、日本の美術保存の制度化にも影響を与えた。彼の提言は、後の「国宝保存法」の制定に繋がったと言われる。彼は単なる美術愛好家ではなく、日本の政府や学術機関に積極的に働きかけた人物である。例えば、彼の尽力により、興福寺の「阿修羅像」や法隆寺の「玉虫厨子」などの文化財が保護されるようになった。これらの活動を通じて、日本美術の価値が国内外で認識されるようになり、美術保存の必要性が広く共有されるようになったのである。
フェノロサと東洋美術の未来
フェノロサは、単に日本の美術を保存するだけでなく、その価値を未来へ伝えることを目指した。彼は、東洋美術が持つ独自性が世界の美術史を豊かにするものであると信じていた。特に、彼が記録した法隆寺や唐招提寺の文化財は、現在でも日本文化の象徴として高く評価されている。フェノロサの旅と活動は、日本が失いかけていた自国文化の価値を再認識するきっかけとなり、それが世界に向けて新しい視点を提供する原動力となったのである。
第5章 フェノロサと岡倉天心
偶然の出会いが運命を変える
アーネスト・フェノロサと岡倉天心の出会いは、明治時代の文化復興における重要な転機であった。1880年代、フェノロサは東京帝国大学の哲学教授として活動し、日本の美術に対する情熱を高めていた。一方、若き岡倉覚三(後の岡倉天心)は東京大学で西洋文化を学びながら、日本文化の価値に目覚めつつあった。二人は美術保存活動を通じて親交を深め、互いの思想を共有した。フェノロサは、岡倉に西洋哲学を伝えつつ、日本美術の精神性を守る重要性を説いた。この出会いは、二人を文化運動の中心へと導き、日本美術の再興に向けた大きな力となった。
東京美術学校の誕生
フェノロサと岡倉天心の協働は、東京美術学校の設立という具体的な形で結実した。1890年、二人は日本の伝統美術の保存と発展を目的としたこの学校を開校した。フェノロサは外国人顧問として、西洋の教育手法を導入しつつも、日本の独自性を尊重したカリキュラムを提案した。岡倉は、学校運営の中心人物として、優れた芸術家や学者を育成する体制を整えた。例えば、ここでは横山大観や菱田春草といった後に近代日本画を代表する画家たちが育った。この学校の設立は、日本美術の未来を形作る重要な一歩であった。
美術保存運動と二人の役割
フェノロサと岡倉天心は、美術保存運動においても中心的な役割を果たした。二人は、日本全国を巡り、寺院や古美術品の保存活動を進めた。例えば、奈良や京都では、仏像や絵画が廃棄される危機にあった中、これらを救い出すための具体的な施策を提案した。フェノロサは西洋の美術理論を基に、日本美術の価値を論理的に説明し、国際的な支持を得るための基盤を築いた。一方、岡倉は日本国内での意識改革に力を入れ、美術品を単なる装飾品ではなく、国の誇りとして守るべきだと訴えた。
新しい日本文化への展望
フェノロサと岡倉天心の活動は、単なる美術保存にとどまらず、新しい日本文化の創造を目指していた。二人は、伝統美術を未来へ受け継ぐだけでなく、それを新しい時代の中で発展させることに情熱を注いだ。フェノロサは、東洋と西洋の美術が融合することで生まれる可能性に注目し、岡倉は「茶の本」などの著作を通じて日本文化の真髄を世界に発信した。二人の協働は、日本が近代化の中で失いかけていた文化の価値を取り戻し、それを新しい形で生かすための基盤を築くものであった。
第6章 日本文化の魅力を西洋へ
フェノロサが語る日本の美
アーネスト・フェノロサは、アメリカやヨーロッパで数多くの講義を行い、日本美術の魅力を広めた。彼の講義は、日本の仏像や絵画を単なる装飾品ではなく、精神性を持つ芸術作品として紹介した。例えば、彼は奈良の東大寺の大仏を例に挙げ、「これは日本の人々の信仰と宇宙観が形になったものだ」と熱弁した。このように、彼は日本美術が持つ深い哲学と精神性を、西洋の聴衆にわかりやすく伝えた。フェノロサの情熱的な語り口は、聴衆に強い印象を与え、日本文化への関心を呼び起こす原動力となった。
展覧会が開く新たな視野
フェノロサの努力は講義だけにとどまらず、展覧会の開催にも及んだ。例えば、ボストン美術館で行われた日本美術展覧会では、彼が収集した日本の屏風絵や掛け軸が展示され、西洋人に新たな美の価値観を示した。この展覧会は、当時のアメリカやヨーロッパの美術愛好家にとって衝撃的な体験となり、多くの評論家が日本美術の精神性や独自性を称賛した。特に琳派の装飾的な美や禅の墨絵のシンプルさは、彼らにとって新鮮で革新的であった。これにより、日本美術は西洋で新しい評価軸を獲得したのである。
日本文化が世界に広がる瞬間
フェノロサの活動は、単に日本美術を紹介するだけでなく、日本文化全体を西洋社会に広める結果を生んだ。彼が収集した美術品は、ボストン美術館だけでなく、アメリカやヨーロッパ各地の美術館に寄贈され、そこで多くの人々に感動を与えた。また、フェノロサの講義や展覧会をきっかけに、西洋の芸術家や作家たちは日本文化に触発されるようになった。たとえば、印象派の画家たちは浮世絵に影響を受け、日本の構図や色彩の大胆な使い方を自らの作品に取り入れた。
美の架け橋としてのフェノロサ
フェノロサは、東洋と西洋の美術をつなぐ架け橋としての役割を果たした。彼の活動は、日本文化が「閉じた国」のものから、「世界の宝」へと変わる契機となったのである。フェノロサは、東洋と西洋の双方が持つ美の価値を認め合い、互いに学び合うことで新しい文化が生まれると信じていた。この理念は、彼の講義や展覧会だけでなく、彼が著した日本美術に関する書籍にも表れている。フェノロサが残した足跡は、現代の国際文化交流の基盤となるものであり、その意義は今も色あせることがない。
第7章 東洋と西洋の美術の融合
新しい美の可能性を探る
アーネスト・フェノロサは、西洋と東洋の美術が互いに学び合うことで、新しい美の可能性が生まれると信じていた。彼は、西洋美術が持つ技術的な精密さと東洋美術が表現する精神性が融合すれば、全く新しい芸術の形が誕生すると考えた。例えば、日本の浮世絵の大胆な構図は、西洋の印象派画家に影響を与え、モネやゴッホの作品にその痕跡が見られる。一方、フェノロサは西洋のルネサンス美術の中に、日本の美術に取り入れられる要素を見出した。このように、彼の視点は文化を超えた相互影響を促し、芸術の未来を形作るものであった。
東洋の精神性がもたらす革新
フェノロサが特に注目したのは、東洋美術に内在する「精神性」である。彼は、西洋美術がしばしば視覚的なリアリズムや個々の感情表現に焦点を当てるのに対し、東洋美術は無常観や禅の思想を通じて、宇宙や人間の本質を描き出していると考えた。例えば、禅画の墨一色で描かれた竹や山水画は、単なる自然の描写ではなく、観る者の心を深く静める力を持つ。フェノロサは、この精神性こそが西洋美術をさらに豊かにする鍵であると確信し、多くの西洋人にその価値を伝えた。
美術における技術と思想の融合
フェノロサの活動は、単なる理論にとどまらず、美術制作の現場にも影響を与えた。彼は日本の美術家たちに、西洋の油彩技法や透視図法を取り入れることを提案し、伝統と現代の技術の融合を目指した。一方で、西洋の芸術家には、日本の線や余白の美学を取り入れることを奨励した。例えば、横山大観や黒田清輝といった美術家は、フェノロサの思想に触発され、新しい日本画や洋画のスタイルを生み出した。これにより、東洋と西洋の美術は新たな高みへと進化したのである。
未来へのビジョン
フェノロサが描いたのは、単に美術作品の改良にとどまらず、世界中の人々が異文化を学び、共に成長する未来である。彼の信念は、東洋と西洋の相互理解が世界平和の基盤になるというものであった。この理念は、彼の死後も岡倉天心や多くの美術家たちによって受け継がれ、現代の国際文化交流の礎となっている。フェノロサの活動が示したのは、文化の違いが対立の原因ではなく、新たな創造のきっかけになり得るという普遍的なメッセージであった。
第8章 フェノロサと宗教哲学
仏教美術との運命的な出会い
アーネスト・フェノロサが最初に仏教美術に触れた時、それは彼にとって宗教的な啓示のような体験だった。奈良の法隆寺で見た仏像の荘厳さは、単なる彫刻作品としてではなく、人々の祈りや宇宙観が具現化されたものと感じられた。フェノロサはこの時、仏教美術が西洋の宗教画とは全く異なる視点で精神性を表現していることに気づいた。西洋の宗教画が物語性を重視するのに対し、仏教美術は静けさや無常を通じて「心の中の宇宙」を描くものだった。これが、彼の仏教哲学への関心を深めるきっかけとなった。
禅思想がもたらす新しい視点
フェノロサは特に禅の思想に惹かれた。禅宗が説く「無我」や「空」の概念は、彼にとって哲学的にも深く魅力的なものだった。例えば、禅画に見られる単純な墨の線は、余計なものを削ぎ落とし、本質を表現する手法である。彼は、これが仏教美術の核心であり、西洋美術の「豪華さ」とは対極にあるものだと考えた。さらに、禅が求める「心の平静」と「自然との一体感」は、美術だけでなくフェノロサ自身の人生哲学にも影響を与えた。この思想は、彼が西洋人に東洋美術を説明する際の重要な切り口となった。
仏教哲学と西洋哲学の対話
フェノロサは、仏教哲学と西洋哲学の橋渡しを試みた。彼は、仏教の無常観や輪廻の思想をヘーゲルやプラトンの哲学と比較し、両者の共通点と違いを探った。例えば、仏教が説く「一切皆苦」は、ヘーゲルの弁証法に通じる部分があると考えた。また、仏教美術の象徴性は、西洋のイデア論とも関連性があると主張した。このような比較を通じて、フェノロサは東西の思想が互いに補完し合う可能性を見出した。彼のアプローチは、単なる学術的研究を超え、異なる文化間の深い理解を促進するものだった。
美術を通じた宗教哲学の広がり
フェノロサは、美術が宗教哲学を視覚的に伝える力を持つと考えた。彼が愛した仏像や絵画には、単なる美的価値だけでなく、精神的な教えを感じさせる力があった。例えば、唐招提寺の鑑真和上像は、鑑真の信仰と覚悟を永遠に語り継ぐ存在であると彼は述べた。このような視点で仏教美術を捉えることで、フェノロサは多くの人々にその深い意味を伝えたのである。彼の活動は、宗教哲学と美術の結びつきを西洋に紹介するだけでなく、人々の心に永続的な影響を与えるものだった。
第9章 後世への影響と評価
日本美術の再評価の道を切り開く
アーネスト・フェノロサの活動は、日本美術の価値を再評価するきっかけとなった。彼が熱心に保存を訴えた文化財は、法隆寺の仏像や唐招提寺の鑑真和上像など、日本の精神文化を象徴するものだった。これらの作品は、彼がいなければ失われていたかもしれない。フェノロサが主張した「日本美術の精神性」という視点は、多くの日本人に「美術は単なる過去の遺物ではなく、国のアイデンティティである」という意識を芽生えさせた。この活動は、後に岡倉天心や横山大観といった人物に引き継がれ、日本美術の復興運動へと繋がった。
世界に広がる東洋美術の影響
フェノロサの活動は、日本国内だけでなく、世界中で東洋美術の評価を高めた。彼が講義や展覧会で紹介した日本の美術品は、アメリカやヨーロッパの芸術家たちに大きな影響を与えた。例えば、印象派の画家たちは日本の浮世絵の大胆な構図や色使いを取り入れ、ゴッホやモネの作品にその影響が見られる。また、フェノロサが西洋に伝えた東洋の精神性は、西洋哲学にも新しい視点をもたらした。彼の努力によって、日本美術は「エキゾチックな装飾品」ではなく、「世界の文化遺産」としての地位を確立したのである。
現代美術への間接的な影響
フェノロサの理念は、現代美術にも間接的な影響を与えている。彼が提唱した「東洋と西洋の融合」は、今日のグローバルアートの基盤ともいえる。現代美術家たちは、国や文化の壁を越えた新しい表現方法を模索しており、その中にはフェノロサが重視した東洋美術の精神性が息づいている。例えば、草間彌生や村上隆といった日本の現代美術家たちの作品には、伝統と革新の両方が見て取れる。フェノロサの影響は、こうしたアーティストの思想や表現に形を変えて生き続けているのだ。
フェノロサの思想が遺した遺産
フェノロサが残した最大の遺産は、「美術は国境を越える」という考え方である。彼が東洋と西洋を結びつける架け橋として果たした役割は、文化交流の重要性を教えてくれる。彼の活動を受け継ぎ、今日の日本や世界で文化財保護が行われていることもその証拠である。フェノロサの思想は、過去の文化をただ守るだけでなく、それを未来の創造につなげるための手がかりとなっている。彼の人生は、美術を通じた人類の理解と進歩の象徴といえるだろう。
第10章 アーネスト・フェノロサの現代的意義
美術保存から学ぶ持続可能性
アーネスト・フェノロサの美術保存活動は、単なる過去の遺産保護ではなく、未来への資産形成でもあった。彼が取り組んだ法隆寺の仏像や唐招提寺の文化財保存は、現代の「持続可能性」という概念に通じる。フェノロサが「文化は守られるべき資産」と説いたことは、今日の環境保護や社会文化遺産の保全活動にも共鳴する。特に現代では、文化を未来世代へ引き継ぐ重要性がますます高まっている。彼の思想は、物質的な保存を超え、人々の精神や価値観の継承を目指していた点で、現代社会への深い示唆を与えている。
グローバルな視点で見る文化交流
フェノロサの活動が今日でも輝いている理由の一つは、彼が「文化の架け橋」としての役割を果たしたことである。東洋と西洋の美術を結びつけることで、彼は「異文化理解」の可能性を示した。この理念は、グローバル化が進む現代社会において特に重要である。国境を越えた文化交流の中で、フェノロサの信念は多くの人々にとっての手本となっている。例えば、彼の考え方は、国際的な芸術フェスティバルや美術館の活動に反映されており、異なる文化が互いに学び合う基盤を提供している。
フェノロサ思想と教育の未来
フェノロサの影響は、美術保存や文化交流だけでなく、教育にも及んでいる。彼が東京美術学校で提唱した「伝統を尊重しつつ新しい技術を取り入れる教育方針」は、今日の教育にも通じる普遍的な価値を持つ。この考え方は、デジタル技術を駆使した文化保存や、国際的な学術交流の基盤として活用されている。また、フェノロサの理念を取り入れた教育プログラムは、学生に異文化理解と創造性を育む機会を与えている。彼の遺産は、未来を担う世代への教育という形でも生き続けている。
フェノロサが示す現代社会へのメッセージ
フェノロサが現代に残した最大のメッセージは、「文化は人々を結びつける力を持つ」という普遍的な真理である。彼が行った美術保存活動や異文化理解への取り組みは、現代の社会課題への解決策を示唆している。例えば、彼が目指した「東洋と西洋の融合」というビジョンは、多様性を受け入れる社会の理想像として語られる。また、文化財を守るという行為は、人類全体の遺産を共有するという考え方につながる。フェノロサの思想は、未来に向けた道しるべとして、現代でも輝きを失わない。