基礎知識
- レフ・トロツキーの生涯と思想
トロツキー(1879-1940)は、ロシア革命の指導者の一人であり、マルクス主義理論家として「永続革命論」を唱えた。 - ロシア革命とトロツキーの役割
彼は1917年のロシア革命で中心的役割を果たし、赤軍を組織して内戦を勝利に導いた。 - スターリンとの権力闘争
レーニンの死後、トロツキーはスターリンと激しく対立し、1929年にソ連を追放されることとなった。 - 亡命生活と反スターリン主義
亡命後、彼はナチズムとスターリン主義の双方を批判し、第四インターナショナルを設立した。 - トロツキーの暗殺とその影響
1940年、メキシコでスターリンの命を受けた暗殺者により殺害され、彼の思想はその後も左翼運動に影響を与え続けた。
第1章 革命家の誕生——若きトロツキーの思想形成
ウクライナの農村に生まれて
1879年、ウクライナ南部の小さな村、ヤノフカ(現在のベルシラフ)に生まれたレフ・ダヴィードヴィチ・ブロンシュテインは、ユダヤ人の地主の家庭に育った。彼の父ダヴィドは勤勉な農業経営者で、広大な土地を持ち、農作物を市場に売ることで財を成した。しかし、家の中で学問や文学を語る者はほとんどおらず、幼いトロツキーは「退屈な農村の生活」に飽き飽きしていた。そんな彼の知的好奇心を刺激したのが、母アナが与えてくれた本だった。彼はやがてウクライナの港町オデッサへ移り住み、都市の文化と思想に触れながら、急速に成長していった。
青年期の社会主義運動への目覚め
オデッサでの教育は、トロツキーの思想を大きく形作った。彼が学んだ学校は帝政ロシアの厳格な教育制度のもとにあったが、教師の中には進歩的な考えを持つ者もおり、ロシア文学や哲学の影響を受ける機会もあった。しかし、真に彼を変えたのは、ニコラエフに移った後の経験である。ここで彼は秘密の社会主義サークルに参加し、マルクス主義の思想に触れた。当時のロシアは帝政のもとで貧困と格差が広がり、革命の機運が高まっていた。青年トロツキーは、政治とは単なる議論ではなく、社会を根底から変える力を持つものだと確信し、活動を本格化させていった。
初の逮捕とシベリア流刑
政治活動が活発になるにつれ、トロツキーは帝政当局の目を引くようになった。1898年、彼は仲間と共に労働者運動を組織していたが、秘密警察オフラーナに逮捕され、裁判の結果、シベリアへ流刑されることが決まった。寒冷で孤立した地に送られた彼だったが、ここで彼の思想はさらに研ぎ澄まされることとなる。流刑中、彼はクララ・ツェトキンの影響を受けた革命家アレクサンドラ・ソコロフスカヤと結婚し、共にマルクス主義の研究を深めた。また、この時期に彼は「レフ・トロツキー」という偽名を使い始める。
亡命と革命家としての第一歩
流刑から逃れたトロツキーは、西ヨーロッパへ亡命し、ロンドンでウラジーミル・レーニンと出会った。彼はレーニンの新聞『イスクラ(火花)』の編集に携わり、革命家としての地位を確立していく。しかし、彼は当時のボルシェビキの戦略に疑問を抱き、メンシェビキと行動を共にすることを選んだ。とはいえ、彼の目標はあくまで革命の成功であり、そのための最適な方法を模索していた。やがて彼は、1905年の革命の中で頭角を現し、ロシアの運命を左右する存在へと成長していくこととなる。
第2章 1905年革命とソビエトの形成
血の日曜日と革命の火種
1905年1月22日、サンクトペテルブルクの冬宮前で、労働者たちが皇帝ニコライ2世に請願を行おうとした。しかし、平和的なデモは軍隊の銃弾によって血に染まり、「血の日曜日事件」として歴史に刻まれることとなる。この事件をきっかけに、ロシア全土でストライキや暴動が相次ぎ、革命の機運が一気に高まった。若きトロツキーもこの流れに巻き込まれ、やがて彼の名は革命の中心人物として広く知られるようになる。
ペテルブルク・ソビエトの誕生
労働者たちは統一的な指導機関を必要とし、10月に「ペテルブルク・ソビエト(労働者評議会)」を結成した。トロツキーはその才能を買われ、中心的な指導者として迎えられる。彼は演説と文章で労働者を鼓舞し、政府との交渉に奔走した。ソビエトは労働者の要求をまとめ、ストライキを組織する役割を果たしたが、政府はこれを危険視した。やがてソビエトは弾圧を受け、トロツキー自身も帝政ロシアの標的となっていく。
革命の挫折と投獄
12月、政府軍はモスクワで武装蜂起を鎮圧し、革命は急速に勢いを失った。ペテルブルク・ソビエトも解散を余儀なくされ、トロツキーは逮捕された。裁判では堂々とした弁論を展開し、自らの行動の正当性を主張したが、帝政側は容赦なく彼をシベリアへ流刑に処した。しかし、彼はこの経験を革命家としての糧とし、再び自由を求めて行動を開始する。
シベリア脱出と新たな戦い
流刑地での生活は過酷だったが、トロツキーは革命への情熱を失わなかった。彼は巧妙な計画を立て、見事にシベリアを脱出することに成功する。亡命先のヨーロッパではレーニンらと合流し、革命運動を続けることになる。1905年の経験は彼にとって大きな教訓となり、後の1917年革命での役割を決定づけることとなる。
第3章 ロシア革命への道——亡命と『永続革命論』
亡命先での戦い
1905年革命の失敗後、トロツキーはシベリアへ流刑された。しかし、彼は巧妙な手口で脱出し、ヨーロッパへと亡命する。ロンドンではレーニン、プレハーノフ、マルトフらと接触し、社会主義運動に再び身を投じた。彼は革命の理論を発展させながら、『イスクラ』や『プラウダ』といった新聞で執筆を続けた。だが、彼はボルシェビキにもメンシェビキにも属さず、独自の立場を取り、党派間の調停を試みた。これは彼の後の政治的立場にも大きな影響を与えることとなる。
「永続革命論」の誕生
亡命中のトロツキーは、ロシアの革命が単独の国で完結するものではなく、世界革命へと発展しなければならないと考えた。この理論は「永続革命論」として知られるようになる。彼はマルクスの理論をさらに発展させ、ロシアのような後進国でも労働者階級が主導権を握り、社会主義革命が可能だと主張した。この考えはレーニンの戦略とは一部異なり、のちにスターリンの「一国社会主義論」と真っ向から対立するものとなる。
革命の機運と戦争
1914年、第一次世界大戦が勃発すると、トロツキーは帝国主義戦争に強く反対した。彼は戦争を「資本主義国家間の略奪戦」と批判し、労働者同士が敵対するのではなく、共に支配階級に立ち向かうべきだと訴えた。彼はスイスやフランスで社会主義者たちと協力し、国際的な反戦運動を展開した。しかし、戦争はロシア社会に深刻な混乱をもたらし、ツァーリ体制の崩壊を加速させていった。
祖国への帰還
1917年、ロシアでは二月革命が勃発し、ツァーリが退位した。この知らせを聞いたトロツキーは、亡命先のアメリカを出発し、ロシアへと向かう。しかし、途中でイギリス当局に拘束され、しばらく足止めを食うこととなる。彼はようやくペトログラードに到着し、革命の新たな局面に飛び込む。ここから彼の運命は、ロシアの歴史そのものと一体化していくのである。
第4章 1917年——革命の炎とボルシェビキの勝利
ペトログラードへの帰還
1917年5月、トロツキーは長い亡命生活を終え、ついにペトログラードに帰還した。彼が駅に降り立つと、革命の熱気が街中を覆っていた。二月革命によってロマノフ王朝は崩壊し、臨時政府が成立したが、労働者や兵士の間では不満がくすぶっていた。トロツキーはただちにソビエト(労働者・兵士評議会)に参加し、革命の新たな局面において重要な役割を担うこととなる。彼の弁舌は群衆を熱狂させ、ボルシェビキへの支持を急速に拡大させていった。
ボルシェビキへの合流
トロツキーは当初、レーニン率いるボルシェビキとは異なる立場を取っていた。しかし、臨時政府が戦争を継続し、労働者の要求を無視する中で、彼の考えはレーニンと一致するようになった。7月には武装デモが勃発し、臨時政府はボルシェビキに弾圧を加えた。レーニンは一時亡命を余儀なくされたが、トロツキーは逮捕される。しかし、労働者と兵士の支持を受け、9月には釈放されると同時にペトログラード・ソビエトの議長に選出され、革命の指導権を握ることとなった。
十月革命の決行
1917年10月(ユリウス暦では11月)、臨時政府の打倒が決定される。トロツキーは「軍事革命委員会」を指揮し、計画的に武装蜂起を進めた。11月7日、赤衛隊が冬宮を包囲し、無血に近い形で政府は崩壊した。この一瞬の出来事は世界史を変える転換点となる。臨時政府は降伏し、ソビエト政権が成立した。レーニンは新政府の首班となり、トロツキーは外務人民委員(外相)として外交政策を担うこととなった。
世界を揺るがす革命
ボルシェビキの勝利は、世界に衝撃を与えた。資本主義国家はこの社会主義政権を脅威とみなし、介入戦争の準備を進めた。一方で、労働者や農民は新たな時代の到来に希望を抱いた。しかし、革命はまだ始まりに過ぎなかった。ロシアには内戦の危機が迫り、トロツキーは新たな戦いに向けて動き出していくのである。
第5章 赤軍の創設とロシア内戦
革命を守るための軍隊
十月革命が成功したとはいえ、新生ソビエト政権は不安定だった。帝政派(白軍)、反革命勢力、さらには外国の干渉軍が武装蜂起し、革命政府の転覆を狙っていた。レーニンは革命を防衛するための軍隊が必要だと考え、その任務をトロツキーに託した。トロツキーは躊躇なくこれを受け入れ、1918年に「赤軍(労農赤軍)」を創設した。彼は戦争の素人ではあったが、組織と指導の才能を発揮し、短期間で強力な軍隊を築き上げていった。
敵に包囲されたボリシェビキ
内戦は激化し、白軍は各地で反撃を開始した。シベリアでは元帝政派のコルチャーク将軍が、南部ではドニキン将軍が進軍し、西ではポーランド軍が攻勢をかけた。さらにイギリス、フランス、日本、アメリカといった外国勢力も干渉軍を送り込んだ。ボルシェビキ政権は四方を敵に囲まれ、存亡の危機に瀕していた。しかし、トロツキーは装甲列車で戦場を駆け巡り、指導者として兵士を鼓舞し、戦局をひっくり返していった。
戦時共産主義の導入
戦争が長引く中で、経済状況は悪化し、食糧不足が深刻化した。ボルシェビキは「戦時共産主義」を導入し、農民からの穀物徴発や工業の国有化を進めた。これは赤軍の補給を確保するための緊急措置だったが、農民の反発を招き、各地で暴動が発生した。トロツキーはこれを抑えつつ、軍を維持するために厳格な規律を敷いた。彼は「鉄の規律」と呼ばれる強硬策を取り、戦場での命令違反には容赦なく処罰を下した。
赤軍の勝利と内戦の終結
1920年までに赤軍は白軍を次々と撃破し、内戦の勝利が確定した。コルチャークは捕らえられ処刑され、ドニキンは亡命し、ポーランドとの戦争も停戦に持ち込まれた。革命は守られたが、国は疲弊し、膨大な犠牲を伴った。トロツキーは軍事的天才として称賛を受けたが、彼の強権的な手法には批判も集まった。戦争が終わり、新たな国家建設の時代が始まる中で、トロツキーの運命もまた大きく変わり始めていた。
第6章 スターリンとの対立と左翼反対派
権力をめぐる暗闘
1924年1月、レーニンが死去すると、ボルシェビキ党内で後継者をめぐる熾烈な権力闘争が始まった。トロツキーは理論的にも実績的にも有力な候補だったが、スターリンは巧みに権力基盤を固め、党内で影響力を拡大していた。スターリンはジノヴィエフ、カーメネフと同盟を組み、トロツキーを孤立させる戦略をとった。トロツキーは警戒したが、革命直後からの過労と持病の悪化もあり、思うように動けなかった。その間にスターリンは官僚機構を掌握し、党内の空気を自らに有利なものへと変えていった。
左翼反対派の結成
トロツキーはスターリンの政策に異議を唱え、「左翼反対派」を結成した。彼はスターリンの「一国社会主義論」に反対し、革命を国際的に広げなければならないと主張した。また、党内官僚の腐敗を批判し、民主的な議論を求めた。しかし、スターリンは巧みに反撃し、彼の支持者を次々と追放していった。トロツキーは『永久革命論』を発表し、革命の拡大こそがロシアを救う道だと訴えたが、党内の主流派には受け入れられなかった。
失脚と追放
1927年、スターリン派はトロツキーの党籍を剥奪し、翌年には彼を中央アジアのアルマ・アタ(現カザフスタン)へ追放した。さらに1929年、彼は国外追放され、トルコのプリンス諸島へと送られた。トロツキーは亡命先でも筆を執り、スターリン批判を続けた。しかし、ソ連国内では彼の支持者が次々と粛清され、彼の影響力は急速に衰えていった。かつて革命を指導した男は、今や祖国を追われ、孤独な戦いを続けることとなった。
スターリンの独裁へ
トロツキーの排除によって、スターリンは党内での絶対的な権力を確立した。ジノヴィエフやカーメネフといったかつての盟友も粛清され、反対派は完全に壊滅した。スターリンは恐怖政治を敷き、五カ年計画と大粛清によってソ連を鉄の統制下に置いた。トロツキーは亡命先からスターリン主義を糾弾し続けたが、彼の声は次第に遠のいていった。彼にとっての戦いはまだ終わっていなかったが、その結末はすでに決まっていたのかもしれない。
第7章 亡命者トロツキーと第四インターナショナル
追放と新たな戦いの始まり
1929年、トロツキーはスターリンによって国外追放され、最初の亡命先となるトルコのプリンス諸島に送られた。かつてロシア革命を指導した男は、今や祖国を失った亡命者だった。しかし、彼の戦いは終わらなかった。彼は自らの理論を武器に、世界中の社会主義者たちに呼びかけた。スターリン主義と対決し、真のマルクス主義を守ることこそが彼の使命だった。亡命中、彼は『わが生涯』を執筆し、自らの革命の歩みを振り返った。
スターリン批判とナチズムへの警鐘
トロツキーは、スターリンによる粛清と一国社会主義政策を厳しく批判し続けた。また、1930年代のヨーロッパではファシズムが台頭し、ヒトラー政権が誕生した。彼はこの動きを鋭く分析し、「スターリンの誤った政策がナチズムの台頭を許した」と警告した。特に、ドイツ共産党の戦略ミスを厳しく批判し、労働者が団結してファシズムと戦うべきだと訴えた。しかし、彼の声はソ連による情報操作とプロパガンダによってかき消されていった。
第四インターナショナルの設立
1938年、フランスでトロツキーは「第四インターナショナル」を設立した。第一インターナショナル(マルクス)、第二インターナショナル(社会民主主義)、第三インターナショナル(スターリン主義)が機能不全に陥る中で、新たな国際革命運動が必要だった。彼は各国の社会主義者に呼びかけ、革命を世界規模で進めることを目指した。しかし、スターリンの影響力が強いソ連派社会主義者の攻撃を受け、第四インターナショナルは苦しい戦いを強いられることとなる。
迫り来る暗殺の影
スターリンはトロツキーの影響力を恐れ、彼を完全に抹殺しようとしていた。1930年代半ばからソ連の諜報機関は彼を追跡し、メキシコ亡命後も暗殺未遂が続いた。トロツキーは防衛策を講じながらも、執筆活動を続けた。しかし、彼の運命はすでに決まっていた。1940年8月、彼はスターリンの刺客ラモン・メルカデルに襲撃され、命を落とすこととなる。その死は、革命家としての生涯の終焉であり、同時にスターリン体制の冷酷さを象徴する事件となった。
第8章 暗殺への道——トロツキー最後の闘争
メキシコ亡命と最後の砦
1937年、トロツキーはメキシコの芸術家ディエゴ・リベラとフリーダ・カーロ夫妻の支援を受け、コヨアカンに亡命した。そこは、彼がソ連の追跡を逃れる最後の避難所だった。彼は広大な庭と壁に囲まれた家で生活しながら、スターリン主義批判を続けた。第二次世界大戦が勃発し、世界が混乱に陥る中、彼は「スターリンはヒトラーと同じほど危険な独裁者だ」と警告した。しかし、ソ連の影は遠いメキシコにまで忍び寄っていた。
スターリンの執拗な攻撃
トロツキーは、スターリンが自分の命を狙っていることを知っていた。1940年5月、ソ連の諜報機関NKVDが送り込んだ武装集団が彼の家を襲撃し、銃撃を浴びせた。しかし、彼と家族は奇跡的に逃れた。彼はこの未遂事件の後、防御を強化し、監視を厳重にした。しかし、スターリンの手はさらに巧妙に迫っていた。次なる刺客は、トロツキーが警戒を解いた瞬間を狙う、冷静で計画的な暗殺者だった。
運命の日
1940年8月20日、スペイン共産党員であり、NKVDのスパイだったラモン・メルカデルが、ジャーナリストを装いトロツキーの家を訪れた。彼はトロツキーの信頼を得るため、何度も接触し、慎重にタイミングを見計らっていた。そして、その日、彼はアイスピックを隠し持ち、トロツキーが原稿を読んでいる隙に後頭部を一撃した。トロツキーは絶叫し、血を流しながらも襲撃者と格闘したが、致命傷を負った。
革命家の最期
襲撃から一日後、トロツキーは病院で息を引き取った。享年60歳。彼の最後の言葉は、「スターリンの手先に殺されても、私の思想は生き続ける」というものだった。彼の死後、メルカデルは逮捕され、スターリンから密かに勲章を授与された。だが、トロツキーの理念は消えなかった。彼の思想は、その後の左翼運動や知識人たちに大きな影響を与え、現在も多くの人々によって研究され続けている。
第9章 トロツキーの思想と遺産
永続革命論の意義
トロツキーの最も重要な理論は「永続革命論」である。彼はロシアのような後進国でも、労働者階級が権力を握れば、資本主義を飛び越えて社会主義へ進めると主張した。しかし、それはロシア単独では不可能であり、世界規模での革命が必要だと考えた。彼の理論は、スターリンの「一国社会主義論」と対立したが、1960年代以降、多くの新左翼運動の指導者たちに影響を与えた。現代でも「グローバルな革命運動」の文脈で語られることが多い。
反スターリン主義の闘争
トロツキーはスターリン主義を「裏切られた革命」と批判し、ソ連を官僚独裁の国家資本主義とみなした。彼は「革命は労働者の民主主義なしに持続できない」と主張し、粛清と恐怖政治を批判し続けた。彼の思想は、1956年のハンガリー動乱や1968年のプラハの春など、スターリン体制に反抗する社会主義者たちに影響を与えた。ソ連崩壊後、彼の警告が的中したとする評価もあり、スターリン批判の象徴として今も語られている。
トロツキー主義の広がり
第二次世界大戦後、トロツキーの思想を受け継ぐ「トロツキスト」と呼ばれる政治運動が世界各地で生まれた。フランスでは革命的共産主義者同盟、アメリカでは社会主義労働者党などが影響を受けた。彼の「第四インターナショナル」の系譜を継ぐ組織は現在も存在し、労働運動や反資本主義運動で活動を続けている。特にラテンアメリカでは強い支持を受け、ボリビアやアルゼンチンでは政府に影響を与えるほどの力を持ったこともある。
現代に生きるトロツキーの思想
トロツキーの思想は、21世紀の政治運動の中にも息づいている。反グローバル資本主義運動や、各国の左派政党の中で彼の理論が議論されることは多い。また、民主主義と社会主義の関係をめぐる議論では、彼の「労働者民主主義」の概念が再評価されている。スターリン主義が歴史の彼方に消えた今、トロツキーの理念は「革命の未来」に向けた新たな指針として読み直されているのである。
第10章 トロツキーの歴史的評価と現代
革命家としての功績
トロツキーは、ロシア革命の設計者の一人であり、赤軍を創設し、ソビエト政権を守った。その知性と弁舌は多くの人々を魅了し、彼の「永続革命論」は、世界革命の理論として今も語り継がれている。彼が率いたペトログラード・ソビエトや、戦略家としての能力は、革命史において比類のないものだった。しかし、彼の急進的な理論と政治的戦略は党内の対立を生み、スターリンとの抗争の末に敗北した。彼の理想は高かったが、実現の道は険しかった。
マルクス主義の中での位置付け
トロツキーは、マルクス主義の「純粋な継承者」としての評価を受ける一方で、スターリン主義に敗れた「悲劇の革命家」としても見られている。レーニンの後継者争いに敗れたことで、彼の理論は長くソ連では封印された。しかし、1960年代以降、東欧の反体制派や西側の新左翼運動の中で再評価が進み、現在ではスターリン主義とは異なる社会主義の可能性を示した人物として、その意義が議論され続けている。
歴史家による評価の変遷
冷戦時代、トロツキーの評価は西側とソ連側で大きく分かれた。ソ連では彼は「裏切り者」とされ、歴史から抹消された。一方、西側では彼の著作が再発見され、知識人や左派運動家に影響を与えた。ソ連崩壊後、ロシア国内でも彼の役割は再評価され、歴史学者たちは彼の政治的洞察や革命戦略を高く評価するようになった。彼の思想は、スターリン体制が崩壊した後の社会主義のあり方を考える上で、ますます重要になっている。
現代社会主義への影響
21世紀に入り、資本主義の限界が指摘される中で、トロツキーの理論は再び注目されている。反グローバリズム運動や、ヨーロッパの左派政党の一部では、彼の「労働者民主主義」の概念が議論されている。また、気候危機や経済格差が拡大する現代において、トロツキーの「国際的な連帯による革命」のビジョンは、新たな形で見直されつつある。彼の思想は、歴史の一部としてではなく、未来を考えるための重要な鍵となっているのである。