ウクライナ

基礎知識
  1. キーウ大公国の成立
    ウクライナの歴史は、9世紀に成立したスラヴ系の国家「キーウ大公国」に遡り、その後の東欧全体の政治的・文化的発展に影響を与えたものである。
  2. コサックの登場と影響
    16世紀に登場したコサックは、ウクライナの自立とロシアやポーランドとの関係を深く変える存在で、地域の軍事的・文化的アイデンティティに大きな影響を与えた。
  3. ウクライナとソビエト連邦
    ウクライナは1922年にソビエト連邦に編入され、その後のスターリン政権下でホロドモール(大飢饉)を経験し、国民に深刻な影響を及ぼした。
  4. ウクライナ独立宣言(1991年)
    1991年にウクライナはソビエト連邦から独立を宣言し、新しい主権国家として独自の道を歩み始め、東西両陣営の政治的影響の中で苦難の時期を経験した。
  5. クリミア危機と東部紛争(2014年以降)
    2014年のロシアによるクリミア併合と東部での親ロシア派との紛争は、ウクライナの領土問題と国際政治における重要な転換点となった。

第1章 キーウ大公国の誕生と発展

大国の誕生:スラヴ人の統合

9世紀、現在のウクライナにあたる地域では、スラヴ人の部族が小さな集落を作りながら暮らしていた。彼らは独立した生活を送っていたが、やがてその小さな部族たちが統合し、大国「キーウ大公国」が誕生する。キーウ大公国は、東スラヴ人を中心とした国家で、その都であるキーウは政治や文化の中心地となった。この時期のリーダーで特に有名なのが、オレグという公である。彼は多くの部族を統合し、力強い国家を作り上げた。キーウ大公国は、東欧における大きな勢力として歴史に名を残していくこととなる。

ビザンティン帝国との重要なつながり

キーウ大公国が成長するにつれて、その影響力は隣接するビザンティン帝国にも広がっていった。ビザンティン帝国は当時、ヨーロッパの文化や宗教、技術の中心であり、その影響力は非常に大きかった。キーウ大公国の大公ヴラディミール1世は、ビザンティンとの関係を深めるため、キリスト教の正教会を受け入れることを決めた。この選択により、キーウ大公国は文化的にも宗教的にもビザンティンの影響を強く受けるようになる。また、キリスト教の導入は、文字建築など、さまざまな文化面でウクライナに大きな影響を与えることとなった。

商業と交易の発展

キーウ大公国は、単なる政治的な強国であっただけではなく、経済的にも繁栄していた。特に商業と交易が盛んに行われ、キーウは「東西をつなぐ交易路」として重要な役割を果たしていた。大公たちは、バルト海から黒海へ、さらにはビザンティン帝国や中東諸国に至るまでの交易路を確保し、豊富な資源や商品がこの地域を行き来した。たとえば、毛皮や蜂蜜、奴隷などの物資が西から東へ、シルクや香辛料などが東から西へと運ばれ、キーウ大公国はその中継地点として巨額の利益を得ていた。

国家の内外での試練

しかし、キーウ大公国がすべて順風満帆だったわけではない。国内では、各地の有力者たちが権力をめぐって争い、大公の権威が揺らぐ場面もあった。また、外部からはペチェネグ人やモンゴル人など、遊牧民や異民族の侵攻が繰り返され、国境を守るために度重なる戦いが繰り広げられた。それでも、キーウ大公国は長い間、強大な国家として存在し続けることができた。しかし、この不安定な情勢が、後のルーシ諸国分裂やモンゴル帝国の侵攻へとつながっていくこととなる。

第2章 モンゴル侵攻とルーシの分裂

モンゴルの脅威が迫る

13世紀初頭、ユーラシア大陸を席巻していたモンゴル帝国の軍勢が、ついに東ヨーロッパに到達する。チンギス・ハンが率いたモンゴル軍は、その圧倒的な戦闘力と機動力で次々と諸国を征服していった。ルーシ諸国、特にキーウ大公国もその標的となる。1237年、バトゥ・ハン率いるモンゴル軍がルーシの地に進軍を開始し、わずか数年で主要な都市を次々に破壊していった。1240年、キーウもその猛攻にさらされ、街は焼かれ、人々は蹂躙され、かつての輝かしい大国は一瞬で崩壊した。この侵略により、ルーシは大きな転換点を迎えることになる。

ルーシ諸国の分裂とその影響

モンゴル軍の侵攻が激化する前から、ルーシは既に内部で分裂していた。複数の公国がそれぞれ独立した統治を行っており、キーウ大公国の中心的な力は徐々に弱まっていた。この分裂がモンゴルの侵攻を容易にし、ルーシ全体の抵抗力を低下させた。侵略後、モンゴル帝国は「キプチャク・ハン国」という支配構造を築き、ルーシ諸国を従属させた。この分裂はルーシ全土に深刻な影響を与え、各地の公国はモンゴルへの貢納を強いられながら、徐々に異なる政治的・文化的発展を遂げることとなる。

モンゴル支配下でのルーシの生活

モンゴル帝国による支配下で、ルーシの人々は大きな苦しみを味わうこととなった。定期的な貢納は厳しく、モンゴルの役人が税を徴収するために各地を巡回した。ルーシの貴族たちは、しばしばモンゴルのハンに忠誠を誓い、協力を余儀なくされた。一方で、モンゴルの統治は厳格でありながら、ある程度の自治も許された。貿易や文化的交流はモンゴルの広大な支配領域を通じて拡大し、特に中東やアジアとの商業的な繋がりが強まった。しかし、農民や都市の住民にとって、モンゴルの支配は重い負担をもたらした。

新たな中心地としてのモスクワの台頭

モンゴルの支配が続く中、ある地域が次第に力をつけていく。それがモスクワ大公国である。13世紀後半から、モスクワはモンゴルの支配下で徐々にその影響力を拡大し、次第に他のルーシ諸国を従えていった。モスクワ大公国の統治者たちは巧みにモンゴルとの関係を利用し、特に14世紀にはモスクワがルーシ諸国の中心的な地位を占めるようになった。こうして、ルーシは次第にモスクワを中心とした新しい秩序のもとで再編され、やがてウクライナやロシアといった後の国々の基盤が形成されることとなる。

第3章 コサックの台頭と自治

草原の戦士たちの誕生

16世紀ウクライナの広大な草原に新たな勢力が現れた。それが「コサック」と呼ばれる自由を愛する戦士集団である。彼らは、ポーランドやロシア、クリミア・タタールなど、周囲の勢力から独立し、自分たちの手で土地を守り、自治を求めた。特に、彼らが拠点とした「ザポロージャ」は、川と湿地が広がる自然の要塞であり、外敵からの攻撃を防ぐ理想的な場所だった。コサックたちは、優れた騎馬戦術や弓術で名を馳せ、周辺諸国の脅威にも立ち向かう強力な軍事力を持っていた。

ポーランド・リトアニア連合との複雑な関係

当時、ウクライナの大部分はポーランド・リトアニア連合の支配下にあった。しかし、コサックたちはその支配に反発し、しばしば連合軍と対立した。ポーランド側も彼らを手なずけようと試み、一時的にはコサックを軍事力として活用したが、根本的な自治の要求には応じなかった。この緊張関係は次第にエスカレートし、ついには大規模な反乱へとつながっていく。特にボフダン・フメリニツキーが率いた反乱は、コサックの自治を求める戦いの象徴として、ウクライナ史の重要な一章となる。

コサック国家の夢

フメリニツキーの反乱は、単なる一時的な反抗ではなく、コサックたちが独立した国家を築こうとする試みでもあった。彼は、ロシアやオスマン帝国などの周辺大国とも交渉し、コサックの地位を確立しようとした。彼のは、ウクライナ全土を支配するコサック国家の設立だった。しかし、内外の勢力との折り合いがつかず、そのは完全には実現しなかった。それでも、コサック国家は短期間ながら存在し、彼らの独立精神はその後のウクライナ民族意識に深い影響を与えることとなった。

コサックの文化と遺産

コサックは単に戦士であるだけでなく、独自の文化や生活様式を持っていた。彼らは民主的な集団決定を重んじ、「ラーダ」と呼ばれる集会で重要な決定を行った。また、歌や詩、伝説も豊富に残されており、彼らの英雄的な物語はウクライナ文化に深く根付いている。現在でも、コサックの精神ウクライナ人の間で自由と独立の象徴とされている。彼らの騎馬技術や戦いの知恵、そして自由を守るための犠牲は、ウクライナの歴史の中で今も語り継がれている。

第4章 ウクライナとロシア帝国

ロシア帝国の拡大とウクライナの運命

18世紀ウクライナは急速に力をつけるロシア帝国の野心の中に飲み込まれていく。ロシアの女帝エカチェリーナ2世は、ウクライナの自治や文化的独立を抑え込み、中央集権的な支配を強化した。特にコサックの自治権は徐々に取り上げられ、ウクライナはロシアの一部として吸収されていく。1775年、エカチェリーナ2世はコサックのザポロージャ要塞を破壊し、彼らの最後の拠点を消滅させた。この出来事は、ウクライナが完全にロシア帝国の支配下に置かれた象徴的な瞬間となった。

文化の抑圧と復興への試み

ロシア帝国の支配下で、ウクライナの文化は大きく抑圧された。特にウクライナ語の使用が制限され、ウクライナ文学や教育はロシア化政策によって困難に直面した。しかし、19世紀にはタラス・シェフチェンコのようなウクライナの詩人や作家が登場し、自国の文化を守り抜こうとした。シェフチェンコは、ウクライナの歴史や人々の苦しみを詩に綴り、彼の作品はウクライナの民族意識を高める重要な役割を果たした。彼の活動は、ロシアの抑圧に対抗するウクライナ文化の象徴とされた。

農民たちの過酷な生活

ウクライナの農民たちはロシア帝国の下で非常に厳しい生活を強いられていた。土地は地主の支配下に置かれ、農民たちは重い税や労働を課された。特に19世紀の農奴制は、農民たちの生活をさらに苦しめた。土地を持たない農民たちは、自由もなく、貧しい生活を送らざるを得なかった。ロシア帝国の政策は、ウクライナの農民たちに深い不満と反感を引き起こし、後の革命運動の火種となる。この不満は、20世紀に入ってから大きな変革をもたらす要因となっていく。

ウクライナの民族意識の高まり

ロシア帝国の支配が続く中でも、ウクライナの人々は民族意識を強めていった。特にウクライナ語の復権や独自の歴史を取り戻す運動が19世紀後半に盛り上がりを見せた。ウクライナ知識人たちは、学校や新聞で自国の文化を広める活動を行い、ロシア化政策に対抗した。さらに、ウクライナ人はロシアの支配に対抗するため、秘密裏に政治団体を結成し、自治や独立を目指す動きが活発化した。これらの運動は、やがてウクライナが独自の道を模索し始める基盤となっていく。

第5章 第一次世界大戦とウクライナ人民共和国の成立

世界大戦とウクライナの混乱

1914年、ヨーロッパ全土を巻き込んだ第一次世界大戦が勃発し、ウクライナも戦場となった。当時、ウクライナの土地はロシア帝国とオーストリア・ハンガリー帝国によって分割されていたため、ウクライナ人はそれぞれ異なる陣営で戦うことを余儀なくされた。戦争の激しさはウクライナに大きな混乱をもたらし、戦場となった地域では家々が焼かれ、多くの人々が難民となった。戦争の終わりが近づくにつれ、ウクライナの人々は独立を求める声を上げ始めた。戦争がもたらした疲弊とロシア帝国の弱体化は、その願いを現実に近づけていく。

ロシア革命とウクライナの機会

1917年、ロシア帝国で革命が起こり、帝政が崩壊した。この混乱の中で、ウクライナは独立を目指す絶好の機会を迎える。中央ラーダと呼ばれるウクライナの暫定議会が設立され、ウクライナ人民共和国が宣言された。これにより、長らく他国に支配されてきたウクライナは、初めて独立国家としての形をとることができた。しかし、ロシア国内でのボルシェビキ革命が進行する中、ウクライナの独立は脅かされる。ボルシェビキの軍勢がウクライナに進軍し、独立を巡る激しい戦いが繰り広げられることとなる。

ボルシェビキとの戦い

ウクライナ人民共和国は独立を維持するため、ボルシェビキ勢力との戦争に突入した。ボルシェビキはウクライナをソビエト連邦に組み込もうとし、ウクライナの自由を脅かした。ウクライナ側は、ドイツやオーストリアなど外部の支援を得ながら抵抗したが、内部分裂や資源不足に悩まされ、状況は次第に悪化していく。1918年、ドイツが降伏すると、ウクライナも支援を失い、ボルシェビキ軍に対する抵抗が困難になった。結局、ボルシェビキがウクライナに勝利し、ウクライナ人民共和国はわずか数年でその独立を失ってしまう。

短命だった独立の遺産

ウクライナ人民共和国の独立は短命であったが、その遺産は大きい。この時期にウクライナ人が示した自治や独立への意欲は、後の歴史にも影響を与えた。ウクライナの民族意識が強まったのは、この時代の経験が大きく関係している。また、独立を目指した人々の努力は、後のウクライナ独立運動の基盤となった。この時期の戦いは、ウクライナの自由と自治を求める長い歴史の中で重要な一歩であったと言えるだろう。後に続く世代は、この瞬間を記憶し続け、未来の独立への希望を抱き続けた。

第6章 ソビエト連邦への編入とホロドモール

ウクライナ、ソビエト連邦へ

1922年、ウクライナはソビエト連邦に正式に編入され、共産党による支配が始まった。ウクライナはソ連の中でも重要な農業地帯であり、その豊富な穀物がロシアにとって不可欠だった。最初のうちは、ソビエト体制の中でウクライナにはある程度の自治が認められ、ウクライナ語や文化が尊重された。しかし、1920年代後半からヨシフ・スターリンが権力を握ると、状況は急変する。スターリンはウクライナの富を厳しく管理し始め、中央集権的な支配を強めた。そして、ウクライナの人々はこれまでにない過酷な運命に直面することになる。

集団農業化とホロドモールの始まり

スターリンの政策の一環として、ウクライナの農業は強制的に集団化された。個人が所有していた農地や作物はすべて没収され、国家の管理下に置かれた。この「集団農業化」に反発するウクライナの農民たちは、多くが抵抗したが、反対する者は「クラーク」として処罰された。その結果、1932年から1933年にかけて、ウクライナ全土で大規模な飢饉が発生した。これが「ホロドモール」と呼ばれる悲劇であり、数百万人のウクライナ人が命を落とすこととなった。食糧があっても持ち出しが禁止され、飢えが広がっていった。

生存者たちの証言

ホロドモールの中、家族や友人を失った人々は悲惨な日々を過ごした。飢餓は村を襲い、わずかな食糧を求めて多くの人々が都市へと向かったが、移動の自由も制限されていた。生き残った人々の証言によれば、空腹の苦しみは言葉で表せないほどであり、誰もが生き延びるために必死だった。子供たちは骨と皮ばかりになり、家族が次々と倒れていく様子が目に焼きついていると語る。この飢饉は、単なる自然災害ではなく、スターリンの政治的意図による人為的なものだったと後に広く認識されるようになる。

ウクライナの苦難とその後

ホロドモールはウクライナ社会に壊滅的な打撃を与え、その影響は世代を超えて続いた。飢饉を乗り越えた後も、ウクライナの人々はソビエトの厳しい監視下で生活を続けることを余儀なくされた。ウクライナ語や文化は再び抑圧され、共産主義体制が全土を支配した。しかし、この苦難の経験はウクライナ人の心に深く刻まれ、後に独立を求める運動の原動力となった。ホロドモールの記憶は、ウクライナの歴史の中で忘れられることなく、現在もなお語り継がれている重要な出来事である。

第7章 第二次世界大戦とウクライナの苦難

戦争の渦中に巻き込まれるウクライナ

1939年、ヨーロッパで第二次世界大戦が勃発すると、ウクライナ戦争の舞台に巻き込まれる。ウクライナはソビエト連邦の一部であったため、最初はナチス・ドイツとソ連の非侵略条約に守られていたが、1941年にドイツが突然ソ連に侵攻し、状況は一変した。ウクライナの広大な土地は激戦地となり、特に都市キーウやハルキウは大規模な戦闘の舞台となった。ドイツ軍はウクライナを占領し、過酷な支配体制を強いた。ウクライナの人々は、この時期に多くの犠牲を強いられた。

ドイツ占領下での苦しみ

ドイツ軍のウクライナ占領中、ナチスはウクライナ人に過酷な統治を押しつけ、特にユダヤ人や少数民族は残酷な迫害を受けた。ウクライナのユダヤ人コミュニティは、ホロコーストの一環として壊滅的な打撃を受け、数十万人が殺害された。また、ナチスはウクライナの農作物や工業製品を大量に略奪し、住民は飢餓や強制労働に苦しんだ。一方、ドイツの支配に抵抗するウクライナのパルチザン(抵抗運動)は、森林地帯を拠点にゲリラ戦を展開し、占領者に対して勇敢に戦った。

ウクライナ民族主義者の活動

この戦争の混乱の中で、ウクライナ民族主義者たちは独立を目指して活動を活発化させた。彼らのリーダー、ステパーン・バンデーラは、ナチスとソ連の両方に反対し、独立したウクライナ国家の樹立を目指した。ウクライナ蜂起軍(UPA)は、主に西部ウクライナで活動し、両大国に対して武装抵抗を行った。しかし、ナチスやソ連の両勢力に挟まれ、独立運動は非常に困難な状況に追い込まれた。それでも、民族主義者たちは独立への強い意志を持ち続け、戦後のウクライナにもその影響を残した。

戦後、ソ連の再支配へ

1944年、ソ連軍はドイツ軍をウクライナから追い出し、ウクライナ全土を再び支配下に置いた。しかし、その代償は大きかった。ウクライナの都市やインフラは破壊され、数百万人が命を落とし、生き残った人々も大きな傷を負っていた。戦後、ソ連はウクライナの再建を進めたが、スターリンの強権的な支配は続き、ウクライナは完全にソ連の一部として再統合された。この時期、ウクライナ民族主義者たちは厳しく弾圧され、ウクライナの独立へのは再び遠のくこととなった。

第8章 独立への道: 1991年の独立宣言

ソビエト連邦の崩壊が迫る

1980年代後半、ソビエト連邦は経済的な危機に直面し、改革を余儀なくされた。ミハイル・ゴルバチョフが導入した「ペレストロイカ(改革)」と「グラスノスチ(情報公開)」は、ソ連全体に新しい風を吹き込んだが、それは同時に各共和国に独立の機運を高めることになった。ウクライナでも、長年の共産主義体制に対する不満が噴出し、独立を求める声が強くなっていった。ソ連の中央政府は統制力を失い、次第にウクライナ国内での自治運動が勢いを増していく。この時期、ウクライナの人々は新しい未来見始めた。

独立運動の高まり

ウクライナでは、独立を求める政治運動が活発化していった。環境問題に対する不満やチェルノブイリ原発事故による被害など、国民の不安がさらに強まり、独立への意識が高まった。政治団体「ルフ(民族運動)」が登場し、彼らはソ連体制の打破とウクライナの独立を求めた。1990年には、ウクライナ最高議会が主権宣言を採択し、ウクライナの自立を明確に示した。これにより、ウクライナの独立運動は一層の勢いを得た。独立を求めるデモが各地で行われ、ソ連崩壊の影響を受けつつ、ウクライナ未来は大きく動き始めた。

1991年の独立宣言

1991年8、ソビエト連邦でクーデター未遂事件が起こり、連邦政府の権力がさらに弱体化した。これを受けて、ウクライナは歴史的な決断を下す。1991年824日、ウクライナ最高議会はついに独立を宣言し、ウクライナは正式にソ連からの離脱を果たした。12には国民投票が行われ、90%以上の国民が独立を支持した。この結果、ウクライナは国際的にも主権国家として認められ、長年にわたるソ連の支配から解放された。これはウクライナにとって新たな時代の幕開けであり、独立国家としての道を歩み始める瞬間であった。

独立後の課題

独立を達成したウクライナだったが、そこには数多くの課題が待ち受けていた。経済は深刻な混乱に直面し、インフレや失業率の上昇により多くの人々が苦しい生活を強いられた。また、政治的にも混乱が続き、腐敗や不安定な政権交代がウクライナの発展を妨げた。それでも、ウクライナの人々は新しい国家の未来を築こうと懸命に努力した。独立後、ウクライナは国際社会においても重要な役割を果たす国として成長し、特にヨーロッパとの関係を強化していく姿勢を見せた。

第9章 クリミア危機と東部紛争(2014年)

クリミア併合の衝撃

2014年、ウクライナは歴史的な危機に直面する。ロシアは突如としてクリミア半島を軍事力で占拠し、住民投票を経てロシアへの併合を強行した。この住民投票は国際的には非合法とされ、欧諸国から厳しく非難された。クリミアはウクライナにとって戦略的にも文化的にも重要な地域であり、その喪失は国内に大きな衝撃を与えた。ロシアの行動に対し、ウクライナは国際社会の支援を求めるが、現実的な軍事介入は難しく、領土を取り戻すことはできなかった。この事件はウクライナとロシアの関係を決定的に悪化させた。

東部での紛争の勃発

クリミア併合の後、ウクライナの東部でも新たな問題が発生した。ドネツク州やルハンシク州などの親ロシア派が中心となり、ウクライナ政府に対する反乱を起こした。彼らはロシアからの支援を受け、独立を宣言して「ドネツク人民共和国」と「ルハンシク人民共和国」を樹立した。これに対し、ウクライナ政府は軍を派遣し、激しい戦闘が展開された。この紛争はすぐに国際的な問題となり、欧諸国はウクライナを支持し、ロシアに対して経済制裁を課したが、戦闘は長引き、多くの市民が犠牲となった。

国際的な反応と制裁

クリミア併合と東部紛争に対して、国際社会は迅速に反応した。欧諸国はロシアに対し経済制裁を導入し、特にエネルギー産業や融部門に影響を与える制裁が実施された。これにより、ロシア経済は大きな打撃を受けたが、ウクライナの状況は依然として厳しかった。一方で、欧州連合やアメリカはウクライナへの経済援助や軍事支援を強化し、ウクライナの主権を守るための国際的な協力が進んだ。こうしてウクライナ問題は、東西の対立を再燃させる重要な国際問題となった。

ウクライナ国内の分断とその影響

紛争はウクライナ国内にも深刻な影響を与えた。東部の戦闘地域では数多くの家族が家を失い、難民となって西部や国外へ避難した。また、親ロシア派とウクライナ政府の支持者との間での政治的な対立も国内で激化し、国の分断が深まった。経済的な困難も続き、ウクライナ政府は安定した統治を維持するために多くの挑戦に直面した。しかし、これらの困難の中でも、ウクライナの人々は独立国家としての主権を守るため、国際社会との連携を強め、未来に向けた希望を抱き続けた。

第10章 現代ウクライナ: 課題と展望

経済改革と苦難の道

ウクライナは独立以来、経済改革を進めてきたが、その道は決して平坦ではなかった。旧ソ連時代の重工業や農業に依存する経済構造からの脱却を図る中、度重なる政変や不安定な政権交代が改革を遅らせた。インフレや失業率の上昇に苦しむ一方で、腐敗問題も深刻化した。しかし、近年のウクライナは国際的な支援を受けながら、特にIT産業や農業技術での進展を見せ始めている。これにより、ウクライナは次第に経済の多様化に成功し、未来に向けた一歩を踏み出そうとしている。

欧州とのつながりの強化

ウクライナの独立以降、欧州との関係は非常に重要なテーマとなっている。2014年には、ウクライナ政府が欧州連合(EU)との連携を強化するため、経済協定を結んだ。この動きはウクライナの西側志向を明確に示し、多くの国民がEUとの協力を支持した。しかし、この決定はロシアとの関係をさらに悪化させ、東部紛争の引きともなった。それでもウクライナは、欧州との貿易や文化的交流を通じて、国際社会の中で重要な地位を築き上げることに成功しつつある。

ロシアとの緊張関係

ロシアとの関係は依然としてウクライナにとって最大の課題である。2014年のクリミア併合と東部紛争以来、両国の間には深い溝が生じている。ロシアは依然としてウクライナを影響下に置こうとする姿勢を見せており、ウクライナはその独立と主権を守るために奮闘している。国境での緊張は続いており、軍事的な対立も完全には収束していない。ウクライナ政府は、欧諸国の支援を得ながら、ロシアとの対立を克服するための外交的解決を模索しているが、その道のりはまだ長い。

ウクライナの未来に向けて

ウクライナは多くの課題を抱えているが、希望も見える。新世代の政治家や市民運動家が、国内の腐敗を一掃し、民主主義をさらに強化するために活動している。特に若者たちは、ウクライナ未来を変える力を信じており、国際社会と協力しながら、新たな改革に取り組んでいる。また、ウクライナの文化や言語も再び見直され、アイデンティティを強める動きが進んでいる。ウクライナは、過去の困難を乗り越え、より強い国家として成長し、未来に向かって歩み続けるだろう。