基礎知識
- リトアニア大公国の誕生と発展
リトアニア大公国は13世紀に成立し、中世ヨーロッパで最も広大な領土を持つ国家の一つであった。 - ポーランド・リトアニア共和国の形成と影響
1569年のルブリン合同によりポーランド・リトアニア共和国が成立し、この連合国家はヨーロッパ政治に大きな影響を与えた。 - リトアニアのキリスト教化と宗教的変遷
1387年にリトアニアは公式にキリスト教を受け入れ、それ以前の異教信仰から大きな宗教的変革が行われた。 - ロシア帝国によるリトアニアの支配と抵抗
1795年にリトアニアはロシア帝国に併合され、その後の独立運動と抵抗が歴史の中で重要な位置を占めた。 - 独立回復と現代リトアニアの発展
1990年、ソビエト連邦から独立を回復し、EUおよびNATO加盟を経て現代のリトアニアは欧州において重要な位置を占めている。
第1章 バルトの土地へ – リトアニアの起源
バルトの民と自然の絆
リトアニアの歴史は、古代バルト民族とその自然環境との強い結びつきから始まる。現在のリトアニアの土地は、バルト海沿岸と広大な森林地帯に囲まれ、古代の人々は狩猟や農耕を通じてこの土地と共に生きていた。言語学者たちは、バルト語派のリトアニア語が世界で最も古いインド・ヨーロッパ語の一つであることを証明している。これにより、リトアニアはヨーロッパの文化的起源をさかのぼる重要な手がかりを提供している。彼らの言語と文化は、気候や地理が育んだ独自のものとして、後のリトアニア国家の発展に影響を与えることになる。
初期のリトアニア社会とリーダーたち
リトアニアの歴史の中で、部族社会が重要な役割を果たしていた。小さな村落に住んでいた人々は、部族単位で集まり、互いに協力しながら生き抜いていた。この時期、地域ごとに力のある指導者が現れ、彼らは後に大公となるリーダーの先駆けであった。初期のリトアニア社会では、戦士としてのスキルが尊重され、戦士たちは土地と家族を守るために重要な役割を果たした。こうして、リトアニアの部族は次第に強力な集団へと成長し、のちに国家形成への道を切り開く。
リトアニア大公国への第一歩
13世紀、リトアニアは新たな段階へと進む。バルト地域で一帯に大きな影響を持ち始めたのは、ミンダウガスという人物である。彼は統率力と戦略的思考を持ち合わせ、分散したリトアニアの部族を一つにまとめ上げた。ミンダウガスの努力により、リトアニアは初めて「国」としての認識をヨーロッパの他国に広めることになる。特に、ミンダウガスはリトアニア初の王として戴冠し、正式に国として認められた。これが後のリトアニア大公国の礎となったのである。
ヨーロッパの強国へと向かう始まり
リトアニアが形成されていく中で、他のヨーロッパ諸国との接触が増えた。特にドイツ騎士団や周辺のスラブ諸国との関係は、リトアニアの外交と軍事戦略に大きな影響を与えた。リトアニアは周辺地域からの侵略に対抗するため、強固な防衛体制を築き、さらに領土を拡大する戦略を採った。この時期のリトアニアは、内外の圧力にさらされながらも、強力な軍事力と政治的手腕を発揮し、ヨーロッパの中でその存在感を高めていった。これがリトアニア大公国の大きな進展の始まりとなる。
第2章 リトアニア大公国の成立と拡大
ミンダウガスとリトアニア大公国の誕生
13世紀の初め、バルト地方の中で、リトアニアは急速に力を伸ばしていた。その中心にいたのがミンダウガスという名の指導者である。彼は軍事的な才能を持ち、周辺の部族を巧みに統一し、リトアニアを強力な国へと成長させた。1253年、ミンダウガスはリトアニア初の王として戴冠し、リトアニア大公国の誕生が宣言された。この時、リトアニアは初めてヨーロッパのキリスト教国家として認められ、国際的な舞台にその名を刻むことになった。この戴冠はリトアニアの国家としてのアイデンティティを確立する重要な瞬間であった。
領土拡大と政治的結束
リトアニア大公国はその後、東方へと急速に領土を拡大していく。13世紀から14世紀にかけて、リトアニアは現在のベラルーシ、ウクライナ、そして一部のロシアにまで勢力を広げた。強力な軍隊と巧みな外交がこの拡大を支え、リトアニアはヨーロッパ最大の国の一つとなった。特に、ヴィータウタス大公は、この領土拡大をさらに推進し、バルト海から黒海に至る広大な領域を支配するに至った。領土の広がりはリトアニアの経済的・軍事的な影響力を強化し、ヨーロッパの大国の一員としての地位を確立した。
ドイツ騎士団との対立
リトアニア大公国が拡大する中で、大きな敵となったのがドイツ騎士団であった。騎士団はバルト海沿岸の異教徒をキリスト教に改宗させることを目的に設立されたが、実際にはリトアニアの領土を奪うために度々侵攻を試みた。特に14世紀の後半には、リトアニアと騎士団との間で激しい戦争が繰り広げられた。1410年のタンネンベルクの戦い(グルンヴァルトの戦い)では、ヴィータウタスとポーランド王ヴワディスワフ2世が連携し、ドイツ騎士団に決定的な勝利を収めた。この勝利はリトアニアの独立と拡大を確固たるものにした。
国内の結束と多民族国家の誕生
リトアニア大公国は、その領土が広がるにつれて、多民族・多宗教国家としての性質を強めていった。公国の支配地域にはスラブ系の住民が多く含まれており、彼らの文化や言語が公国全体に影響を与えた。リトアニアの支配者たちは、多様な民族や宗教を抱えるこの大国を効率的に統治するために、寛容な政策を取り入れた。特に、宗教においては、キリスト教徒、ユダヤ人、そしてイスラム教徒までが共存していた。この多様性がリトアニア大公国の持続的な発展を支える力となり、文化的な豊かさも育まれていった。
第3章 キリスト教化の衝撃 – 1387年の大転換
リトアニアの最後の異教国家
14世紀後半、リトアニアはヨーロッパで最後の異教国家であった。周囲のキリスト教国に囲まれながらも、リトアニアは古くからの自然信仰を守り続けていた。この異教信仰は、森や水、火などの自然の力を崇拝し、生活に密接に結びついていた。しかし、この状況は1387年に大きな転換を迎える。リトアニア大公ヨガイラがポーランド王位を得るために、キリスト教への改宗を決断したのだ。ヨガイラの改宗と同時に、リトアニア全体がキリスト教を受け入れることとなり、ヨーロッパの宗教地図に新たな一歩を刻むこととなった。
ヨガイラ大公とポーランドとの連携
ヨガイラがキリスト教化を進めた背景には、ポーランドとの連携が重要な要素としてあった。彼はポーランドの王女ヤドヴィガと結婚し、1386年にポーランド王として即位することを条件に、自身とリトアニアをキリスト教国へと導いた。この連携により、リトアニアはポーランドと共にヨーロッパの政治舞台で影響力を持つことになった。キリスト教化は単なる宗教の変更ではなく、外交的、軍事的な意味合いを含んでおり、リトアニアはヨーロッパの主流に加わる大きなステップを踏んだのである。
改宗と民衆への影響
リトアニアのキリスト教化は、貴族や上層部にとっては大きな政治的利益を伴う変化であったが、民衆にとっては複雑な影響をもたらした。異教徒としての生活が長く続いていたため、キリスト教の教えや儀式が急速に広がる中で、古来からの信仰を守る人々も少なくなかった。改宗は、宗教だけでなく、社会全体に新たなルールや文化をもたらし、教会の建設やキリスト教的な儀式が日常生活に取り入れられていった。とはいえ、リトアニア人の伝統的な価値観も根強く残り、キリスト教との共存が長期にわたる課題となった。
キリスト教化の歴史的影響
リトアニアのキリスト教化は、国内だけでなく、国際的な視点からも大きな意味を持っていた。この改宗により、リトアニアはドイツ騎士団など周囲のキリスト教勢力との戦争を回避する道を開き、ポーランドとの強固な連合を確立する基盤を築いた。また、ヨガイラの改宗はルブリン合同(1569年)につながり、ポーランド・リトアニア共和国というヨーロッパ史における巨大な国家を形成する第一歩となった。キリスト教化は、リトアニアの未来を決定づける重大な歴史的転換点であった。
第4章 ポーランド・リトアニア共和国 – 連合国家の栄光と試練
ルブリン合同と新たな連合国家の誕生
1569年、ポーランドとリトアニアはルブリン合同を締結し、ヨーロッパ史上最大級の連合国家である「ポーランド・リトアニア共和国」が誕生した。この合同は、両国が共通の国王を持ち、共同統治する形で一つの国家として運営されるという大胆な試みであった。リトアニアは強大なポーランドの支援を受けることで、外敵からの圧力を緩和し、より強固な防衛体制を築くことができた。この連合は、両国にとって外交的にも軍事的にも大きな利益をもたらし、ヨーロッパの政治地図を一変させた。
統治の仕組みと貴族の力
ポーランド・リトアニア共和国は、非常にユニークな統治体制を持っていた。この連合国家では、国王は貴族によって選出され、王権は厳しく制限されていた。特に、貴族たちの合議制であるセイム(議会)は非常に強力で、国王の決定を制約するほどの力を持っていた。このため、国王は絶対的な権力を持つことができず、貴族たちとの折衝が常に求められた。この体制は貴族層に大きな影響力を与えると同時に、国家の統治が複雑化し、内部対立が頻発する原因ともなった。
外交と戦争のバランス
ポーランド・リトアニア共和国は、その広大な領土を守るため、巧みな外交と軍事戦略を駆使した。特に東方では、ロシアやオスマン帝国、スウェーデンなどの大国とたびたび衝突しながらも、巧妙な同盟関係を築いてきた。リトアニアにとって特に重要だったのは、ロシア帝国との激しい対立であった。幾度もの戦争を経て領土を維持しようとする努力は続けられたが、国内の政治的対立が戦争の指導力を弱め、戦況を厳しいものにした。それでも、国としての独立を守り続けたことは驚異的であった。
繁栄と衰退の狭間
ポーランド・リトアニア共和国は、長い間ヨーロッパの中で繁栄したが、内部の分裂や対外的な圧力により、徐々にその力を失っていった。貴族たちの特権が強すぎて政治的な統一が難しくなり、外敵の侵攻に対する防衛も弱まっていった。また、国家の広大な領土を統治するための一貫した政策を欠いていたため、次第に統治が混乱し、腐敗が進行した。結果として、共和国は18世紀に入ると外敵の攻撃に耐えられず、最終的には周辺の大国によって分割され、歴史の舞台から消えていく運命を辿ることになる。
第5章 北方戦争と大北方戦争 – 戦乱の時代
北方戦争とリトアニアの混乱
17世紀、リトアニアは戦火の嵐に巻き込まれた。スウェーデンとの「北方戦争」(1655-1660年)は、リトアニアにとって壊滅的な打撃となった。スウェーデン軍は首都ヴィリニュスを占領し、国土は略奪と破壊の渦中にあった。ポーランド・リトアニア共和国全体が侵略に晒され、内部での混乱も増大していった。この時期、リトアニアは外国軍による占領だけでなく、国内の貴族間の権力争いにも苦しむことになる。国家の存続そのものが脅かされる中、リトアニアの人々は連合国家の弱体化を肌で感じることとなった。
大北方戦争とヨーロッパの勢力図
18世紀に入り、リトアニアはさらなる大規模な戦乱に巻き込まれた。それが「大北方戦争」(1700-1721年)である。この戦争は、北欧の覇権を巡る争いで、スウェーデン、ロシア、デンマークなどが戦った。リトアニアは、ポーランドと共にこの戦争に巻き込まれ、特にロシア軍の侵攻に苦しめられた。ピョートル大帝率いるロシアは、リトアニアを含む領土を徹底的に蹂躙し、戦争の終盤にはロシアがこの地域の覇権を握ることとなった。リトアニアはこの戦争によってさらに疲弊し、独立性を維持するのが難しくなった。
内部対立と共和国の危機
戦争の混乱の中、ポーランド・リトアニア共和国は内部でも深刻な問題を抱えていた。貴族間の権力争いとセイム(議会)の機能不全は、国家の危機を一層深めた。各貴族が自らの領地や特権を守るために独自の軍隊を組織し、国王や中央政府の権力は弱体化していった。内部の分裂が国家の防衛力を大きく削ぎ、外敵に対抗する力を失いつつあった。こうして、リトアニアは大北方戦争だけでなく、国内の政治的混乱によっても大きな損失を被ることになった。
戦乱後の復興と未来への模索
北方戦争と大北方戦争の終結後、リトアニアは荒廃した国土の復興に苦しんだ。都市は破壊され、人口は減少し、経済は崩壊の危機にあった。しかし、一部の貴族や指導者たちは、この混乱の中で国家再建を模索し始めた。戦乱がもたらした教訓から、より強力で安定した統治体制の必要性が認識されるようになった。リトアニアの未来は依然として不透明であったが、この時期に育まれた再建への努力が、後の歴史における重要な転換点を生むこととなる。
第6章 リトアニアの併合 – ロシア帝国の影の下で
第三次ポーランド分割とリトアニアの運命
1795年、ポーランド・リトアニア共和国は歴史の中で消え去る運命を迎えた。ロシア、プロイセン、オーストリアの三大国による「第三次ポーランド分割」によって、リトアニアの大部分はロシア帝国に併合された。この併合は、長年にわたる内外の圧力が頂点に達した結果であった。リトアニア人にとって、この出来事は独立を失い、民族としてのアイデンティティを揺るがすものであった。ロシア帝国の強大な支配下で、リトアニアは新たな時代を迎えるが、それは抑圧と反発が交錯する厳しい道のりであった。
抵抗と希望の灯
ロシア帝国に併合された後も、リトアニア人は決して屈しなかった。19世紀には、独立を取り戻すための抵抗運動が各地で広がった。特に1830年と1863年の「ポーランド・リトアニアの蜂起」は、自由を求めるリトアニア人の強い意志を示した重要な瞬間であった。これらの蜂起は、圧倒的なロシアの軍事力により鎮圧されたが、独立への希望を完全に消し去ることはできなかった。リトアニア人の中には、秘密裏に文化を守り、反乱の準備を進める者もいた。彼らは、抑圧されながらも民族の誇りと希望を失わなかった。
文化的抑圧と民族の再生
ロシア帝国の支配下で、リトアニア文化は厳しく抑圧された。特に、リトアニア語の出版は禁止され、ロシア語が強制的に教育や行政で使用された。リトアニアの人々は、自分たちの言語や文化が消えてしまうのではないかという恐れに直面していた。しかし、この状況下でも、リトアニアの民族意識は完全に失われなかった。地下出版物「ケニュパンガ」などを通じて、密かにリトアニア語の本や新聞が配布され、民族のアイデンティティを守ろうとする努力が続けられた。この文化的抵抗が、後の独立運動の土台となった。
近代化と独立への新たな道
19世紀末から20世紀初頭にかけて、リトアニアでは近代化の波が押し寄せた。農業改革や産業発展が進み、都市部では中産階級が台頭し始めた。教育を受けたリトアニア人の間で、再び独立への声が強まり、民族運動が力を増していった。ロシア帝国の権力が揺らぎ始めると、リトアニア人たちはこの機会を捉え、再び独立を目指す運動を展開した。第一次世界大戦が勃発すると、ロシア帝国の崩壊が現実味を帯び、リトアニアにとって新たな未来が開かれつつあった。
第7章 第一次世界大戦と独立への道
戦争の嵐とリトアニアの運命
1914年、第一次世界大戦が勃発すると、リトアニアはその激しい戦火に巻き込まれた。リトアニアはロシア帝国の一部として戦争に巻き込まれ、多くのリトアニア人がロシア軍に動員された。また、ドイツ軍がリトアニアに侵攻し、戦場となった土地は大きな被害を受けた。しかし、この混乱の中で、リトアニアの人々は新たな希望を見出していく。戦争によってロシア帝国が揺らぎ、リトアニア人は自らの運命を再び掌握する可能性を感じ始めたのである。この時期の困難が、独立への道を切り開くきっかけとなった。
独立への一歩 – 1918年の独立宣言
ロシア革命が勃発し、帝国が崩壊に向かう中、リトアニア人たちは独立を求める動きを活発化させた。1918年2月16日、リトアニアは歴史的な独立宣言を行い、長い支配からの解放を宣言した。リトアニア独立評議会は、国民の自由と自治を目指し、国際的な支持を求めた。特に、アメリカ大統領ウッドロウ・ウィルソンが提唱した民族自決の理念は、リトアニア独立運動に大きな力を与えた。この独立宣言は、リトアニアの歴史において重要な転機であり、後の国際的な承認への第一歩となった。
国際社会での承認への挑戦
独立宣言を果たしたものの、リトアニアが完全に独立国として承認されるまでには多くの困難があった。第一次世界大戦後のヨーロッパは、混乱と再編の中にあり、リトアニアはその中で自らの立場を確立する必要があった。特に、ポーランドとの領土問題は大きな争点となり、国境を巡る緊張が高まった。また、ドイツやソビエトロシアといった周辺大国もリトアニアの独立に対して様々な思惑を抱いていた。しかし、リトアニアの指導者たちは粘り強く外交を進め、ついに国際的な承認を勝ち取ることに成功した。
新しい国家の誕生と課題
国際社会からの承認を得て、リトアニアは新しい国家として歩み始めた。1918年から1920年にかけて、リトアニアは憲法を制定し、議会制民主主義の下で国を再建していくことになる。しかし、新生国家には多くの課題が山積していた。戦争の被害を受けた国土の復興や、経済の安定化、そして国内の多民族間の対立を解消することが急務であった。それでも、リトアニア人の強い独立心と団結は、新しい国家を支える基盤となり、リトアニアは独立国としての道を確固たるものにしていくのである。
第8章 ソビエト支配とナチス占領 – 苦難の時代
ソビエトの脅威とリトアニアの併合
1939年、ヨーロッパを戦争の嵐が包み込み、リトアニアもその影響を免れなかった。ソビエト連邦とナチス・ドイツが結んだ「独ソ不可侵条約」の密約により、リトアニアはソビエトの影響圏に組み込まれた。1940年、ソビエト軍がリトアニアに侵攻し、リトアニアは正式にソビエト連邦に併合された。この併合により、リトアニアの政治的自由は奪われ、多くの知識人や反体制派がシベリアに強制送還されるなど、弾圧が強化された。ソビエト体制下での厳しい統制は、リトアニア人にとって苦難の始まりであった。
ナチス占領下の恐怖
1941年、独ソ戦争の勃発により、リトアニアは再び戦争の焦点となる。ドイツ軍はソビエトを追い出し、リトアニアを占領下に置いた。しかし、ナチス占領は新たな恐怖の時代をもたらした。ユダヤ人を対象としたホロコーストが行われ、リトアニアのユダヤ人コミュニティは壊滅的な被害を受けた。また、ドイツ占領下でもリトアニアの独立は回復されず、リトアニア人も強制労働に駆り出され、ナチスの厳しい支配を受けた。この占領は、多くの市民にとってさらなる試練の時代であった。
抵抗運動とパルチザンの戦い
ナチス占領時代も、リトアニア人は諦めずに抵抗を続けた。パルチザン運動が活発化し、リトアニアの森や山中でゲリラ戦が展開された。パルチザンたちは、独立を目指し、ナチスやソビエトの圧政に立ち向かう重要な存在となった。彼らは物資の確保や通信網の維持を行いながら、占領軍に対する破壊活動を続けた。しかし、その代償は大きく、捕らえられたパルチザンや支援者は命を落とすことも少なくなかった。リトアニアの人々は、未来への希望を捨てずに戦い続けたのである。
二度目のソビエト支配と戦後の課題
1944年、ソビエト軍が再びリトアニアに戻り、ナチスの占領は終わったが、今度は長いソビエト支配の時代が始まった。リトアニアは再度ソビエト連邦に編入され、共産主義体制の下で厳しい統治が行われた。土地の集団化や経済の国有化が進められ、多くのリトアニア人がその影響で生活の基盤を失った。また、ソビエト体制への抵抗者は引き続き弾圧され、シベリアへの強制移住が続けられた。リトアニアは戦後の復興を模索しながらも、長い間、ソビエトの抑圧の中で耐える日々が続くことになる。
第9章 独立回復と新たな挑戦 – 1990年の革命
サイーディス運動と独立への序章
1980年代後半、ソビエト連邦内で改革の波が押し寄せる中、リトアニアでも変革の兆しが現れ始めた。「ペレストロイカ」と「グラスノスチ」というミハイル・ゴルバチョフの政策が、抑圧されてきたリトアニアの独立を求める声を強めた。1988年に発足した「サイーディス運動」は、民主化と民族自決を求める市民運動として急速に支持を集め、リトアニアの独立回復を目指す政治的勢力となった。サイーディスは、かつてのリトアニア文化の復興や自由を訴え、全国的な共感を呼び起こした。この運動はリトアニアの新しい歴史の始まりを告げた。
歴史的な瞬間 – 1990年の独立宣言
1990年3月11日、リトアニアは歴史的な独立回復を宣言した。この瞬間、リトアニアはソビエト連邦からの完全な分離を表明し、再び独立国家としての地位を取り戻した。ヴィータウタス・ランズベルギスが議長を務める最高会議がこの決断を下し、世界中に大きな波紋を広げた。ソビエト連邦はこの宣言に対して強い反発を示し、経済封鎖や軍事圧力をかけたが、リトアニアの人々は強い団結と自由への渇望をもって立ち向かった。この独立宣言は、長い間続いた抑圧からの解放の象徴であり、リトアニアの未来を切り開く最初の一歩であった。
武力による弾圧と市民の抵抗
独立宣言後、ソビエト連邦は軍事力を用いてリトアニアを再び支配下に置こうとした。特に1991年1月13日の「血の日曜日」事件では、ソビエト軍がヴィリニュスのテレビ塔を占拠し、市民との衝突で14人が死亡、多くが負傷した。しかし、リトアニア市民は武装していなかったにもかかわらず、勇敢に抵抗し続けた。無血の抗議運動や人々の連帯は国際社会にも大きな影響を与え、リトアニアの独立を支持する声が次第に広がった。この日、リトアニア人は自由のために立ち上がり、その意志を世界に示した。
独立後の挑戦と新たな道
1991年にソビエト連邦が崩壊し、リトアニアは国際的に独立国として正式に認められるようになった。しかし、独立後のリトアニアは新たな課題に直面することとなった。経済の再建、政治の安定化、そして国際社会との連携を確立するために、リトアニアは国内外で多くの努力を要した。また、1990年代を通じて、リトアニアは民主主義の基盤を整え、2004年にはEUとNATOへの加盟を果たす。これにより、リトアニアはヨーロッパの一員として新しい未来を築き上げ、過去の苦難を乗り越え、安定と繁栄の道を歩み始めたのである。
第10章 現代リトアニア – EUとNATOの一員として
EU加盟への道と経済成長
2004年、リトアニアは歴史的な瞬間を迎えた。欧州連合(EU)への正式加盟である。長いソビエト支配から解放されたリトアニアにとって、EU加盟は西欧諸国との新しいつながりを象徴し、経済や社会の発展に大きなチャンスをもたらした。EUの一員となったことで、リトアニアは貿易や投資の機会を広げ、経済成長を加速させた。また、若い世代にとっては、欧州内での自由な移動や教育機会の拡大が新しい未来を切り開く鍵となった。EU加盟は、リトアニアの近代化と国際的な存在感を強める重要な出来事であった。
NATO加盟と安全保障の強化
同じく2004年、リトアニアは北大西洋条約機構(NATO)にも加盟し、安全保障面での大きな飛躍を遂げた。ソビエト時代の影響が強く残る中で、リトアニアにとってNATO加盟は、西側諸国との軍事的な協力関係を強化し、国家の安全を守るための重要なステップであった。特に、ロシアとの関係が緊張する中で、NATOの一員となったことでリトアニアは抑止力を得た。国民にとっても、この加盟は安心感をもたらし、リトアニアの国際的地位を確固たるものにしたのである。
経済発展と社会変革
EU加盟後、リトアニアは目覚ましい経済発展を遂げた。特にIT産業やサービス業の成長が顕著であり、ヴィリニュスなどの都市部では新たなスタートアップ企業が次々と誕生した。また、教育制度の改革やインフラ整備が進められ、生活水準の向上が実現した。しかし、経済格差や人口減少といった課題も残っており、特に多くの若者が国外に移住する問題が社会的な懸念となっている。それでもリトアニアは、安定した成長を続け、国内外から注目を集める存在へと進化している。
国際社会でのリーダーシップ
現代のリトアニアは、EUやNATOの中で積極的にリーダーシップを発揮している。特に、近隣の東ヨーロッパ諸国やロシアとの関係においては、民主主義や人権の擁護を強く訴える姿勢を見せている。国際舞台では、気候変動対策やデジタル経済の推進など、未来志向の政策にも力を入れている。リトアニアは、自国の歴史的経験をもとに、世界の課題解決に貢献する役割を果たしつつある。過去の苦難を乗り越えたリトアニアは、今や欧州の中で頼もしいパートナーとなり、未来に向けて新たな挑戦に立ち向かっている。