エルサレム

基礎知識
  1. エルサレムの起源と古代の歴史
    エルサレムは紀元前3000年頃に最初の集落が形成され、古代中東の宗教的・政治的中心地として発展した。
  2. ユダヤ教キリスト教イスラム教の聖地としての重要性
    エルサレムは三大宗教にとって聖地であり、ユダヤ教の嘆きの壁、キリスト教の聖墳墓教会、イスラム教の岩のドームが象徴的である。
  3. ローマビザンティン帝国による支配
    エルサレムはローマの一部となり、その後ビザンティン帝国の支配下でキリスト教が広まった。
  4. イスラム帝の拡大と十字軍時代の争奪戦
    イスラム帝がエルサレムを征服した後、十字軍による奪還と奪還戦が繰り返された。
  5. 現代におけるエルサレムの地政学的紛争
    エルサレムは現代においてもイスラエルパレスチナの領土問題の中心であり、際的な議論を引き起こし続けている。

第1章 古代エルサレムの誕生と発展

エルサレムの始まり

エルサレムの歴史は、紀元前3000年頃にさかのぼる。古代の記録によれば、この地は「ウルサリム」と呼ばれ、最初の集落が築かれた。周囲の土地が肥沃で、近くにあるギホンの泉はの供給源として重要だったため、人々はこの場所に定住を始めた。さらに、エルサレムは地中海と内陸を結ぶ交易路の要所に位置していたため、商業的にも繁栄していく。最初の居住者たちは、周囲の高地からやってきたカナン人であり、彼らの文化信仰が都市の発展に大きく影響を与えた。

宗教と都市の融合

エルサレムは単なる物資の拠点だけではなく、精神的な場所でもあった。カナン人は、この地に聖なる高台を設け、天と地を結ぶ場所と信じた。この宗教的役割は、やがてエルサレムの独自のアイデンティティを形成していく。特に、カナンの「シャレム」に捧げられた都市としての名前が残っている。エルサレムという名自体が、聖な平和の地を意味し、後世の宗教にも大きな影響を与える。この都市は、宗教政治が密接に結びついた場所として、次第に周辺地域からも注目されるようになる。

戦争と繁栄の波

エルサレムはその重要性ゆえに、歴史を通じて多くの侵略と占領を経験する。紀元前2000年頃、エジプトの支配下に入り、彼らの影響を強く受けることになる。特に、エジプトのファラオたちはエルサレムの戦略的価値を認識し、ここに軍事拠点を築いた。エルサレムはその後も、ヒッタイトアッシリアなどの大との戦争や交渉の舞台となるが、それによって文化技術も吸収し、都市としての発展を続けた。エルサレムは、戦争と繁栄の波に乗りながら成長していく。

都市の遺産と未来への基盤

古代エルサレムの遺産は、今日の考古学や歴史学を通じて解明されつつある。発掘された遺跡からは、古代の街並みや宗教的儀式の痕跡が見つかり、当時の生活や文化を知る手がかりとなっている。また、エルサレムが当時の文明においていかに重要な役割を果たしていたかを示す証拠も多く発見されている。こうして築かれた都市の基盤は、後の時代に宗教的、政治的な中心地としての役割を引き継ぐ礎となり、現在のエルサレムの姿へとつながっていく。

第2章 ダビデ王朝とソロモン王の神殿

ダビデ王、エルサレムを選ぶ

ダビデ王は、イスラエルの統一を果たした後、エルサレムを王の首都に選んだ。彼は、この都市がヘブロンや他の候補地に比べて宗教的・戦略的に有利だと考えた。エルサレムは、北と南の部族の中間に位置し、どちらからも支持を得やすい場所だった。また、その険しい地形は防衛に適しており、ギホンの泉などの源も豊富であった。ダビデはここに宮殿を建て、彼の王政治的中心としての役割を強化していった。

契約の箱と宗教的な都の誕生

ダビデ王のもう一つの大きな決断は、エルサレムを宗教の中心地にすることであった。彼は契約の箱をエルサレムに持ち込んだ。この箱は、モーセがから授かった十戒の石板を収めた聖なる箱であり、ユダヤ人にとって最も聖な象徴であった。契約の箱をエルサレムに安置することで、この都市は単なる政治的な首都ではなく、宗教的にもユダヤ人の信仰の中心となった。ダビデのエルサレムは、王政治宗教を統合する拠点となり、その後の歴史に大きな影響を与えることになる。

ソロモン王、神殿を築く

ダビデの息子であるソロモン王は、エルサレムのさらなる発展に貢献した。彼の最大の業績は、第一殿を建設したことである。ソロモンは膨大な富と労働力を動員し、豪華な殿をエルサレムの丘に築いた。この殿は、契約の箱を安置するための場所であり、ユダヤ教の礼拝と祭儀の中心として機能した。殿はや貴石で飾られ、世界中から訪れる巡礼者たちを魅了した。ソロモンの殿は、エルサレムをユダヤ教象徴的な中心地にしただけでなく、その後の何世紀にもわたり宗教的・文化的な重要性を維持した。

エルサレムの黄金時代

ソロモン王の時代は、エルサレムの黄時代とも呼ばれる。この時期、都市は繁栄し、際的な影響力を持つようになった。ソロモンは外交手腕に優れ、周辺との同盟を結び、商業と文化の交流を促進した。彼の統治下でエルサレムは壮大な建物や庭園で飾られ、王の首都としての地位を確固たるものにした。しかし、ソロモンの死後、王は分裂し、エルサレムの運命も次第に変わっていくことになる。この時代の栄は、後に多くの伝説や物語として語り継がれていく。

第3章 ローマ支配下のエルサレムとユダヤ戦争

ローマ帝国、エルサレムを征服する

紀元前63年、ローマの将軍ポンペイウスがエルサレムを征服した。エルサレムはそれまでに幾度も異なる勢力に支配されてきたが、ローマの到来は決定的な変化をもたらした。ローマは巨大な帝であり、エルサレムもその一部に組み込まれた。ローマの支配は、ユダヤ人にとって新たな支配者に対する順応を強いるものであったが、同時に都市の繁栄をも促進した。エルサレムはローマの統治下でインフラが整備され、際的な商業の拠点としても発展を遂げる一方で、宗教的な対立が徐々に激化していった。

第二神殿の破壊

紀元70年、エルサレムの歴史において最も劇的な出来事の一つが起こる。ユダヤ人はローマに対して大規模な反乱を起こし、これが「ユダヤ戦争」として知られる戦いに発展する。ローマ軍は圧倒的な力で反乱を鎮圧し、エルサレムを包囲した。数かにわたる激しい攻防の末、ローマ軍はついに都市を制圧し、ユダヤ教象徴である第二殿を破壊した。この出来事は、ユダヤ人にとって精神的にも物質的にも大きな打撃であり、彼らの歴史の転換点となった。

ディアスポラとユダヤ人の離散

第二殿の破壊は、単に建造物の崩壊にとどまらず、ユダヤ人社会全体に影響を与えた。ローマの厳しい支配により、多くのユダヤ人は故郷を離れざるを得なくなり、これが「ディアスポラ」と呼ばれる離散の始まりとなる。ユダヤ人はエルサレムを中心とした地から世界各地に散らばり、それぞれの地で新たな生活を築いていった。このディアスポラは、ユダヤ教がエルサレム外の地域でも広がり、より一層多様な形で発展していく契機となった。

エルサレムの新たな始まり

ローマによる破壊から数十年後、エルサレムは徐々に復興を遂げていく。しかし、それはユダヤ人の都市ではなく、ローマの支配下にある植民地としての新しい顔を持つものだった。エルサレムには新しいローマ風の建築物が建設され、都市の風景は劇的に変わった。ユダヤ人は自らの聖地を失ったが、それでも彼らの信仰は続き、エルサレムに対する深い精神的な結びつきを維持し続けた。この時期は、エルサレムが再び力を取り戻すための新たなステージへと進んでいく準備期間であった。

第4章 ビザンティン時代とキリスト教化

コンスタンティヌス大帝とエルサレムの新たな役割

紀元4世紀初頭、ローマは重大な転換期を迎えた。コンスタンティヌス大帝がキリスト教を公認したことで、エルサレムは再び宗教的な注目を集めるようになる。エルサレムはイエスキリスト十字架にかけられた場所として、キリスト教徒にとって重要な巡礼地となった。コンスタンティヌスの母ヘレナはこの聖地を訪れ、キリストの墓とされる場所に聖墳墓教会を建設するよう命じた。この教会はすぐに信仰の中心地となり、エルサレムはキリスト教世界の重要な都市の一つとしての地位を確立した。

聖墳墓教会の建設

聖墳墓教会は、キリスト教にとって最も聖な場所の一つである。伝承によれば、イエス十字架にかけられ埋葬された場所に建てられたこの教会は、コンスタンティヌス大帝の命令で着工された。建設は長期にわたり、教会内部にはゴルゴタの丘と呼ばれる場所やキリストの墓が再現された。この教会はビザンティン帝国宗教的権威の象徴であり、エルサレムをキリスト教徒にとって重要な巡礼地として位置づけた。また、世界中からの巡礼者がこの地を訪れたことで、エルサレムは再び際的な都市となり、経済的にも繁栄した。

ビザンティン文化の影響

ビザンティン時代、エルサレムは宗教的な意味を超えて文化的にも重要な都市となった。ビザンティン帝国の統治下で、エルサレムは壮大な建築物が次々と建設され、芸術や学問が花開いた。特に、宗教画やモザイクがビザンティン文化象徴するものとして発展し、エルサレムの教会や修道院に広く取り入れられた。これにより、エルサレムは単に信仰の中心地としてだけでなく、ビザンティン文化の発信地としても広く知られるようになった。ビザンティンの影響は、現代に至るまでエルサレムの建築芸術に残されている。

エルサレムと帝国の衰退

しかし、ビザンティン帝国の栄も長くは続かなかった。7世紀にはイスラム勢力が勢力を拡大し、エルサレムもその影響を受けることになる。エルサレムは一度イスラム帝の支配下に入るが、その後もキリスト教徒にとって重要な都市であり続けた。ビザンティン時代のエルサレムは、宗教的な繁栄と文化的な発展の象徴であったが、帝の衰退によって都市の運命も大きく揺れ動くことになった。この時代の遺産は、エルサレムの歴史に深く刻まれ、その後の時代にも強い影響を与えることになる。

第5章 イスラム帝国の到来とアラブ統治

イスラム勢力、エルサレムを征服する

7世紀の初め、イスラム教はアラビア半島から急速に広がり、ついにエルサレムにもその影響が及んだ。634年、カリフ・ウマルの指導下でイスラム軍がビザンティン帝国を打ち破り、エルサレムを征服した。この征服は比較的平和的に行われ、ウマル自身が都市に入った際、キリスト教徒とユダヤ教徒に対して寛容な態度を示した。ウマルは、エルサレムのキリスト教聖地を尊重しつつ、イスラム教徒のための新たな礼拝所を築く計画を開始し、これが後のイスラム教徒のエルサレム支配の基礎となる。

岩のドームとアル=アクサ・モスク

691年、ウマイヤ朝のカリフ・アブドゥルマリクがエルサレムにイスラム教象徴として「岩のドーム」を建設した。この壮大な建造物は、預言者ムハンマドが天に昇ったとされる場所に建てられ、イスラム教徒にとって最も聖な場所の一つとなった。同じくエルサレムのアル=アクサ・モスクも、イスラム教の重要な礼拝所となり、エルサレムはメッカやメディナと並ぶ聖地としての地位を確立した。これらの建造物は、イスラム建築の傑作として今日もその壮麗さを保ち、多くの巡礼者を引き寄せている。

イスラム文化の繁栄と宗教的調和

イスラム支配下のエルサレムでは、文化的・宗教的な多様性が尊重された。カリフ・ウマルの時代には、キリスト教徒やユダヤ教徒はそれぞれの信仰を保つことが許され、彼らは「啓典の民」として共存した。この寛容な政策は、エルサレムを宗教的な調和の地とし、異なる宗教間の交流を促進した。さらに、イスラム文化はこの地で大きく発展し、学問や芸術が花開いた。アラビア語が公用語となり、知識技術が広まり、エルサレムは再び際的な都市としての重要性を取り戻していった。

イスラム帝国の衰退と新たな挑戦

しかし、イスラム帝の繁栄も永遠ではなかった。11世紀に入ると、エルサレムを巡る状況は大きく変わる。イスラム帝内部での権力争いや外部勢力の侵入が都市の安定を脅かした。特に、十字軍の到来がエルサレムの歴史を劇的に変える要因となる。イスラム教徒が築き上げたエルサレムの宗教的・文化的な遺産は、この後の歴史でも大きな影響を残し続けたが、新たな時代の波が都市に迫っていた。

第6章 十字軍とエルサレム王国

十字軍、聖地エルサレムを目指す

11世紀末、キリスト教世界に衝撃を与える知らせが届いた。エルサレムがイスラム勢力の手に落ち、キリスト教徒の巡礼が困難になっているという報告である。これに応じて、ローマ教皇ウルバヌス2世は「聖地を奪還せよ」とヨーロッパ中に呼びかけた。この呼びかけに応じた数万人の騎士や兵士たちは、の名の下に聖地を取り戻すための戦いに出発し、これが第一次十字軍の始まりとなった。彼らは過酷な旅路を経て、ついに1099年、エルサレムに到達し、血なまぐさい攻城戦の末に都市を奪還した。

エルサレム王国の誕生

エルサレムが十字軍によって奪還された後、彼らはこの地に「エルサレム王」を樹立した。ゴドフロワ・ド・ブイヨンが最初の指導者として選ばれ、彼は「聖墓の守護者」という称号を受けた。この新たなキリスト教は、政治的に不安定であったが、西欧からの支援を受けつつ統治を行った。城塞や教会が建設され、エルサレムは十字軍の拠点として機能する都市となった。だが、キリスト教徒とイスラム教徒の間には常に緊張が走り、安定した統治は困難であった。

サラディンの逆襲

12世紀後半、イスラム世界は再び勢力を盛り返し、その中心にいたのが有名な将軍サラディンである。彼はイスラム教徒を統一し、聖地奪還を目指してエルサレムへの遠征を開始した。1187年、彼はヒッティーンの戦いで十字軍に決定的な勝利を収め、その後、エルサレムをほぼ無血で占領した。サラディンは寛容な姿勢を示し、キリスト教徒やユダヤ教徒の信仰を尊重した。この事件は、十字軍にとって大きな打撃であり、以降の十字軍遠征における大きな転換点となった。

十字軍の終焉とエルサレムの未来

サラディンの勝利によりエルサレムは再びイスラム教徒の手に渡ったが、十字軍の試みは続いた。リチャード1世(獅子心王)を中心とする第三次十字軍が再びエルサレムを奪還しようとしたが、最終的にその試みは失敗に終わる。十字軍の時代は約200年続いたが、エルサレムの完全な支配権を取り戻すことはできなかった。最終的にエルサレムはイスラム勢力によって支配され続け、十字軍の時代は終わりを迎えた。エルサレムの未来は、さらに複雑な歴史の展開を迎えることになる。

第7章 マムルーク朝とオスマン帝国時代のエルサレム

マムルーク朝の統治と宗教的保護

13世紀半ば、マムルーク朝がエルサレムを支配下に置くと、この地はイスラム世界の重要な聖地として再び重視されるようになった。マムルーク朝は、エルサレムの宗教施設を保護し、イスラム教徒の巡礼を奨励した。また、多くの学者や神学者がエルサレムに移り住み、この都市は宗教的な知識と学問の中心地としても発展した。特に、岩のドームやアル=アクサ・モスクは、マムルーク朝によって修復・拡張され、エルサレムはイスラム教徒にとっての巡礼の目的地として再び栄えた。

オスマン帝国による都市の整備

1517年、オスマン帝国がマムルーク朝を打ち破り、エルサレムをその広大な帝の一部とした。スレイマン大帝の統治下で、エルサレムは大規模な整備が行われた。特に有名なのは、スレイマンが建設した城壁で、これが現在の旧市街の外観の一部を形作っている。オスマン帝国はまた、宗教施設や公共インフラの整備にも力を入れた。エルサレムの泉や道路が修復され、帝内外からの巡礼者や商人たちが安全にこの都市を訪れることができるようになった。

宗教的共存と商業の発展

オスマン帝国の支配下では、エルサレムは宗教的な寛容が保たれた都市でもあった。イスラム教キリスト教ユダヤ教の信者がそれぞれの聖地を自由に訪れ、礼拝を行うことが許された。この共存は、エルサレムの商業的な発展にも寄与した。巡礼者たちが訪れることで、地元の市場や宿泊施設が活況を呈し、エルサレムは交易の中心地としても機能するようになった。香辛料など、さまざまな商品がこの都市を通じて交易され、オスマン帝国にとって重要な商業拠点となった。

オスマン帝国の衰退とエルサレムの変化

18世紀に入ると、オスマン帝国は次第に衰退し、エルサレムもその影響を受けるようになった。かつては帝の一部として栄えたこの都市も、行政の効率低下や経済的困難に直面する。さらに、ヨーロッパ列強が中東に対する関心を強め、エルサレムは際的な争奪の対となり始める。この時期、エルサレムは依然として宗教的な重要性を保ちつつも、政治的には新たな時代の挑戦に直面することになった。オスマン帝国の影響が薄れる中で、エルサレムの未来は再び揺れ動くこととなる。

第8章 19世紀の近代化と西欧列強の関心

西欧列強の視線がエルサレムに向く

19世紀に入ると、エルサレムは再び際社会の注目を浴びるようになった。オスマン帝国の影響力が弱まる中、ヨーロッパの列強が中東に対する関心を強めた。特にイギリスフランスロシアなどは、宗教的・政治的理由からエルサレムへの影響力を拡大しようと競い合った。エルサレムにはそれぞれのが教会や学校、病院などを建設し、地域における自の影響力を強調した。この時期、エルサレムは外交と政治の駆け引きの舞台となり、その結果、都市の近代化が急速に進んだ。

交通網とインフラの発展

エルサレムの近代化の一環として、交通網やインフラが劇的に発展した。ヨーロッパ列強の関心を受けて、都市は急速に変貌を遂げ、特に1880年代には鉄道が敷設され、エルサレムは他の中東都市とのアクセスが格段に向上した。また、道路や水道設備の整備も進み、都市の生活基盤が大幅に改された。これにより、エルサレムはより多くの商人や巡礼者を受け入れることができるようになり、際的な都市としての役割を強化していった。

宗教と政治の交錯

エルサレムは宗教的に重要な都市であるため、19世紀には宗教政治の緊張が増していった。キリスト教ユダヤ教イスラム教の三つの宗教が、それぞれの聖地を巡って激しい競争を繰り広げた。特に、ユダヤ人の間でシオニズムの思想が台頭し始めたことで、エルサレムへのユダヤ人の移住が増加し、これがアラブ社会との対立を引き起こす要因となった。また、ヨーロッパ列強はこの宗教的対立を利用し、自の影響力を強化しようとしたため、エルサレムは一層複雑な政治の舞台となった。

エルサレム、近代化と伝統の間で

19世紀の終わり頃、エルサレムは急速な近代化を遂げた一方で、古い伝統や文化を維持し続けていた。新しい建物や技術が都市に導入される一方で、エルサレムの旧市街はそのままの姿を保ち、昔ながらの宗教的儀式や慣習が続いていた。この二重構造の都市としてのエルサレムは、外部からの影響を受けつつも、独自の文化アイデンティティを維持し続けた。この時期の変化は、エルサレムの歴史に新たなページを刻み、後の時代に大きな影響を与えることとなる。

第9章 第一次世界大戦後の英国委任統治とユダヤ人移住

大戦後、英国のエルサレム支配

第一次世界大戦が終わると、オスマン帝国が崩壊し、その領土の多くが列強の管理下に置かれた。エルサレムを含むパレスチナ地域は、国際連盟の委任統治としてイギリスの支配下に入った。1917年、イギリス軍がエルサレムを占領し、バルフォア宣言により、イギリスはユダヤ人の「家建設」を支持する姿勢を明確にした。この出来事はエルサレムの将来に大きな影響を与え、地域の政治的緊張をさらに高めた。イギリスはエルサレムを管理しながらも、対立する民族の間での調整に苦心することになる。

バルフォア宣言とユダヤ人移住

バルフォア宣言は、イギリスがユダヤ人に対してパレスチナで「民族的郷土」の建設を支持することを表明したものである。この宣言を受け、多くのユダヤ人がエルサレムやパレスチナ地域に移住し始めた。特にヨーロッパからの移住者が増加し、エルサレムは急速にユダヤ人コミュニティが拡大していった。しかし、これによりアラブ社会との対立が深まり、エルサレムはユダヤ人とアラブ人の緊張が渦巻く場所となった。土地を巡る争いや暴動が頻発し、エルサレムは民族対立の最前線に立たされることになる。

アラブ人の反発と対立の激化

ユダヤ人移住の増加に対して、アラブ人社会は激しい反発を示した。彼らは、パレスチナが自分たちの伝統的な土地であると考えており、ユダヤ人家の建設に対して強い抵抗を示した。特に1920年代から1930年代にかけて、アラブ人とユダヤ人の対立は暴力的な形で現れ、エルサレムでは度重なる衝突や暴動が発生した。この緊張は、エルサレムを二つの対立するコミュニティに分裂させ、将来的な解決策を見出すのが困難な状況を生み出していった。

イギリスの苦境とエルサレムの未来

イギリスは、エルサレムとパレスチナ全域での支配を維持する中で、アラブ人とユダヤ人の間の対立を調整しようと努めたが、その努力は次第に限界に達した。イギリスはアラブ人の要求とユダヤ人の移住促進の間で揺れ動き、最終的にはどちらの側の要求も満たすことができなくなった。この時期、エルサレムは混乱と不安定さを増していき、イギリスの統治に対する不満が両陣営から高まった。この混迷の中で、エルサレムの未来はさらに不透明なものとなり、次なる際的な対立の火種となっていく。

第10章 現代のエルサレムと地政学的課題

国連分割決議とエルサレムの特殊な地位

1947年、連はパレスチナをユダヤ人家とアラブ人家に分割する決議を採択したが、エルサレムはその中で特別な地位を与えられた。この都市は、ユダヤ教キリスト教イスラム教の三つの宗教にとって聖地であり、連は際管理下に置くことを提案した。しかし、この決定はユダヤ人とアラブ人の双方にとって受け入れがたいものであった。1948年のイスラエルと第一次中東戦争を経て、エルサレムは東西に分断されることになり、その後の歴史はさらに複雑な局面を迎えることとなった。

1967年の六日戦争とエルサレム統合

1967年、イスラエルとアラブ諸との間で勃発した六日戦争によって、エルサレムは再び大きな転機を迎える。イスラエルは東エルサレムを含む全市を占領し、エルサレムの統一を宣言した。これにより、ユダヤ人は嘆きの壁などの聖地へのアクセスを再び得ることができた。しかし、この統合は際的には認められず、パレスチナ人は依然として東エルサレムを将来の独立家の首都と主張している。エルサレムは二つの民族と世界中の宗教信仰が絡み合う、緊張の象徴的な都市となった。

エルサレムを巡る現代の外交と紛争

21世紀に入っても、エルサレムを巡る対立は続いている。特にアメリカ合衆国が2017年にエルサレムをイスラエルの首都と正式に認め、大使館を移転したことは際的な議論を巻き起こした。この決定はパレスチナ人の強い反発を招き、中東全体の緊張を高めた。エルサレムは、イスラエルパレスチナの双方が主権を主張し、各がその立場をどう取るかで外交上の重要な課題となっている。際社会はエルサレムの地位を巡る解決策を模索し続けているが、解決は依然として遠い。

エルサレムの未来: 平和への道

エルサレムの未来は、イスラエルパレスチナの和平交渉に大きく依存している。両者がエルサレムの地位について妥協できるかどうかが、地域全体の安定に直結する問題である。エルサレムは、その豊かな歴史と宗教的な意味合いから、単なる都市以上の存在であり、世界中の人々にとって象徴的な場所である。今後、この都市が平和の地となるか、さらに対立の焦点となるかは、際的な取り組みと地元の意志にかかっている。エルサレムは、平和への鍵を握る場所であり続けている。