第1章: フランク王国の起源とメロヴィング朝の成立
勇敢なるフランク族の台頭
フランク族は、ヨーロッパの歴史において重要な役割を果たしたゲルマン系の部族である。彼らは、ライン川流域に住み着き、やがてその勢力を西ヨーロッパ全体に広げていった。フランク族は、5世紀後半に西ローマ帝国が崩壊する混乱期を巧みに利用し、ガリア地方(現在のフランスとベルギーの一部)を支配下に置いた。クローヴィス1世がメロヴィング家の初代王として即位し、フランク族を一つの王国に統一することに成功した。彼の統治の下、フランク王国はゲルマン系部族の中でも特に強力な国家へと成長を遂げた。この過程で、フランク族はローマ文化や法律の影響を受けつつ、自らの独自性を維持し続けた。
クローヴィス1世とキリスト教への改宗
クローヴィス1世の治世の中で最も重要な出来事の一つは、彼がキリスト教に改宗したことである。伝説によれば、彼は敵対するアレマン族との戦いで神に助けを求め、勝利した後に改宗を決意したという。496年、クローヴィスは洗礼を受け、フランク王国全体がキリスト教の信仰を受け入れることとなった。これにより、彼はローマ教会との強力な結びつきを築き、フランク王国はヨーロッパのキリスト教世界の中心的存在となった。クローヴィスの改宗は、単に宗教的な意味合いだけでなく、政治的な力の誇示でもあり、他のゲルマン部族に対してフランク王国の優位性を示す結果となった。
メロヴィング家の神秘と権威
メロヴィング家の王たちは、自らを「神の選ばれた者」として正当化していた。彼らは自らの祖先が神話的な英雄や神とつながりがあると主張し、その特異な血統によって統治権を正当化した。特にメロヴィング朝の王たちは、長髪を持つことが神聖な権力の象徴であると考えられており、王たちの髪を切ることはその王権を奪う行為とされていた。このような神秘的な伝承は、メロヴィング家の王たちがフランク族を統治するための強力な手段となった。彼らの支配は、宗教的な権威と結びつき、フランク王国を強固にまとめ上げる基盤となった。
ガリア征服とフランク王国の拡大
クローヴィス1世は、単なる部族の統治者に留まらず、ガリア全土を征服することでフランク王国の領土を劇的に拡大した。彼は残忍かつ巧妙な戦術を用いて、他のゲルマン系部族を次々に打ち破り、その結果、フランク王国は西ヨーロッパで最も強力な国家となった。彼の征服活動は、単に領土を広げるだけでなく、異なる文化や人々を統合し、新たな統治体制を築くための基礎を作り上げた。これにより、フランク王国は一つの民族国家を超え、多様な文化が共存する強大な帝国へと成長していくのである。
第2章: メロヴィング朝の衰退とカロリング朝の台頭
王座の背後で権力を握る者たち
メロヴィング朝がその栄光を迎えた後、王たちは次第にその力を失い、実権は王座の背後に控える有力者たちに移っていった。その中心人物が「宮宰」と呼ばれる役職を持つ者たちであった。彼らは国王に代わり、軍事・政治の実務を握り、国家の運営を事実上支配するようになった。特に、カロリング家出身の宮宰たちは、その実力をもってメロヴィング家の無力な王たちを操り、自らの権力を強化していった。これにより、カロリング家はフランク王国の実権を完全に掌握し、メロヴィング朝の陰りがますます濃くなっていくのである。
ピピン3世の大胆な一手
ピピン3世は、父カール・マルテルの後を継ぎ、カロリング家の宮宰としてフランク王国を実質的に支配していた。しかし、彼は単なる宮宰に甘んじることなく、自らを王に昇格させる大胆な計画を立てた。彼は教皇ザカリアスに対し、「実際に統治している者が王であるべきではないか」と問うた。この巧妙な策略により、教皇はピピンの主張を支持し、751年にピピンは正式にフランク王国の王位に就いた。これにより、メロヴィング朝は終焉を迎え、カロリング朝が正式に始まることとなった。この出来事は、教会と王権が強力に結びついた瞬間でもあった。
新たな王朝の始まり
カロリング朝の誕生は、フランク王国の新たな時代の幕開けであった。ピピン3世は王としての地位を確立するとともに、国の統一と強化に尽力した。彼は教会と協力し、フランク王国全土にキリスト教を普及させる一方で、異教徒や敵対する勢力に対して果敢に戦いを挑んだ。また、彼は中央集権化を進め、国王の権力をさらに強固なものとした。この時代に確立された中央集権的な統治体制は、後にカール大帝が築き上げる西ヨーロッパの帝国の基盤となったのである。
メロヴィング家からカロリング家へ
メロヴィング家の没落とカロリング家の台頭は、単なる王朝交代にとどまらず、フランク王国全体の政治・社会構造を大きく変えるものであった。カロリング家の登場により、フランク王国は中央集権的な統治体制へと移行し、国家としての統一性が強化された。ピピン3世の治世を経て、フランク王国は再び強大な国家としての地位を確立し、ヨーロッパ全体にその影響を及ぼすこととなった。このように、カロリング朝の成立は、フランク王国の歴史において極めて重要な転換点であり、その後のヨーロッパの歴史に深い影響を与えた。
第3章: カール大帝とフランク王国の黄金時代
カール大帝の登場と壮大な帝国の形成
カール大帝(シャルルマーニュ)は、父ピピン3世の後を継いで768年にフランク王国の王となった。彼の治世は、西ヨーロッパ全土を統一する壮大な計画で彩られている。彼は一族内の争いや外敵との戦いを制し、次々と征服を重ねることで、その領土を驚異的に拡大した。イタリア、スペイン、ドイツ、フランスといった地域がその統治下に収まり、カールは新たな「西ローマ帝国」の再興を目指したのである。800年、カールはローマ教皇レオ3世によって「ローマ皇帝」の冠を授けられ、西ヨーロッパの政治的・宗教的な統一を象徴する存在となった。
教育と文化の復興を目指して
カール大帝は、単なる征服者ではなく、文化と教育の復興にも力を注いだ偉大な王である。彼は、かつてのローマ文化を復興させるため、修道院や学校を設立し、知識と学問の普及を奨励した。これにより「カロリング・ルネサンス」と呼ばれる文化的復興が始まり、古代ギリシャ・ローマの知識が再び広まった。カールはアルクィンやパウルス・ディアコヌスといった著名な学者を宮廷に招き、彼らにより新たな教育システムが確立された。この時代に学んだ者たちは、後に中世ヨーロッパの知識人として活躍し、キリスト教文化の普及とともにヨーロッパ全土に影響を与えた。
新たな法と秩序の確立
カール大帝は、広大な領土を効果的に統治するために、新たな法と秩序を確立した。彼は「カピトゥラリア」と呼ばれる法典を発布し、領土内の統一的な統治を目指した。この法典は、土地の所有権、軍事義務、裁判制度など、あらゆる分野を網羅し、地方の貴族や役人に厳しい規律を課した。また、巡察使と呼ばれる王の使者を各地に派遣し、地方の統治が公正かつ効果的に行われているかを監視させた。これにより、カール大帝の統治はフランク王国全体に行き渡り、彼の権力はさらに強固なものとなった。
帝国の黄金時代とその終焉
カール大帝の治世は、フランク王国の黄金時代と称されるが、その繁栄も彼の死後には徐々に衰退していく運命にあった。814年にカールが亡くなると、広大な帝国は息子たちによって分割され、その統一は失われた。これにより、かつての強大な帝国は複数の小国に分裂し、フランク王国の力は急速に衰えた。しかし、カール大帝が築き上げた統治制度や文化的遺産は、中世ヨーロッパ全体に深く根付いており、彼の影響はその後のヨーロッパ史においても絶大であった。彼の時代はまさに、フランク王国が世界史に輝く瞬間であった。
第4章: ヴェルダン条約と王国の分裂
運命を変えた兄弟の争い
カール大帝が築き上げた巨大な帝国は、彼の死後、その3人の孫たちの間で激しい争いの舞台となった。ルートヴィヒ敬虔王の死後、帝国は彼の息子たち—ロタール1世、ルートヴィヒ2世、シャルル禿頭王—の間で分割相続されることになった。これにより、兄弟間の権力争いが激化し、フランク王国は内乱状態に陥った。長年にわたるこの争いは、843年のヴェルダン条約によってようやく終結を迎えた。この条約により、帝国は3つの独立した王国に分割され、それぞれが後にフランス、ドイツ、イタリアの形成に深く関わることになる。
ヴェルダン条約の歴史的意義
ヴェルダン条約は、単なる領土分割以上の意味を持つ。この条約は、ヨーロッパの政治地図を根本から変え、新しい国々の誕生を促進した。ロタール1世には中部フランク王国が与えられ、その領土は後のイタリアとネーデルラントに相当する地域を含んでいた。ルートヴィヒ2世は東フランク王国を受け継ぎ、これが後に神聖ローマ帝国へと発展する。シャルル禿頭王は西フランク王国を支配し、これが現代のフランスの基盤となった。この分割により、カール大帝の統一帝国は永遠に失われたが、同時に新たな国家の形成が始まった。
新たな王国の形成とその影響
ヴェルダン条約による分割は、単に地理的な変化をもたらしただけでなく、それぞれの地域で異なる文化的、政治的発展を促進した。西フランク王国ではフランス語が発展し、中央集権的な王権が強化された。東フランク王国では、ドイツ語圏の文化が形成され、後に神聖ローマ帝国の中心となる強力な諸侯が現れた。中部フランク王国は、異なる文化が交錯する複雑な地域となり、頻繁に他国からの侵攻を受ける不安定な地帯となった。このように、ヴェルダン条約は、ヨーロッパの未来を形作る重要な分岐点であった。
分裂から始まる新しい時代
ヴェルダン条約後、フランク王国はもはや一つの統一国家ではなくなり、新たな時代の幕が開けた。これらの王国はそれぞれが独自の道を歩み、やがてヨーロッパの主要な国家となっていく。フランク王国の分裂は、一見すると衰退の象徴のように思えるかもしれないが、それはむしろ新たな国家建設の始まりであった。各王国が自らのアイデンティティを確立し、独自の文化と制度を発展させることで、後のヨーロッパの多様性と繁栄がもたらされたのである。カール大帝の帝国が分裂したこの瞬間こそ、ヨーロッパの中世史における重要な転換点であった。
第5章: カロリング朝の衰退と分権化の進展
王権の弱体化と地方諸侯の台頭
カロリング朝が頂点を迎えた後、その王権は徐々に弱体化していった。カール大帝の死後、フランク王国は分割相続によって複数の王国に分裂し、これにより中央集権的な統治が困難になった。加えて、外敵の侵攻や内乱が続く中、王たちは地方諸侯の協力を頼りにせざるを得なくなった。これにより、地方諸侯たちは次第に力を増し、彼らの領地はほぼ独立した状態へと変わっていった。王権の弱体化に伴い、フランク王国は地方分権化が進み、かつての強大な国家は数多くの小領主によって支配される分裂状態に陥ったのである。
封建制度の誕生とその影響
地方分権化が進む中で、フランク王国では新たな社会制度が誕生した。それが封建制度である。封建制度とは、土地を所有する領主と、その土地で働く農民や従士の間に契約関係が築かれる社会構造である。領主たちは、王に忠誠を誓い、代わりに土地と特権を与えられる一方、彼らもまた、自分たちの支配下にある農民や従士から忠誠と労働力を得ていた。この制度により、中央集権的な統治はほぼ失われ、各地方が独立した統治体制を築くことになった。封建制度は、フランク王国だけでなく、ヨーロッパ全土に広がり、中世の社会構造を形成する大きな要因となった。
ヴァイキングの侵略と防衛体制の変革
9世紀から10世紀にかけて、フランク王国はヴァイキングの侵略にさらされた。これらの北方からの侵略者は、海岸部や内陸の川を利用してフランク王国の各地を襲撃し、略奪を繰り返した。中央政府の力が弱体化していたため、これに対処するのは地方諸侯の役目となった。諸侯たちは自らの領地を守るために防衛体制を強化し、城塞や砦を建設した。この結果、フランク王国はますます分権化が進み、各地の諸侯が自らの軍事力を誇示するようになった。この防衛体制の変革は、封建制度の定着とともに、後の中世ヨーロッパの政治構造に深い影響を与えた。
カロリング朝の終焉と新たな秩序の始まり
10世紀の終わりに近づくにつれ、カロリング朝はその支配力を完全に失い、フランク王国は事実上、地方諸侯たちの連合体となった。987年、最後のカロリング朝の王であるルイ5世が死去すると、フランスではユーグ・カペーが新たな王朝を開いた。こうして、カロリング朝は終焉を迎え、新たな秩序がフランク王国に生まれた。ユーグ・カペーが築いたカペー朝は、後のフランス王国の基盤となり、中央集権化を再び進めることになる。しかし、カロリング朝が残した分権化の影響は、その後のヨーロッパ全土に長く影を落とし続けた。
第6章: フランク王国の法律と統治制度
サリカ法典の誕生とその役割
フランク王国の法律の基盤を築いたのが、サリカ法典である。この法典は5世紀から6世紀にかけて整備され、フランク族の伝統的な慣習法を成文化したものだった。特に注目すべきは、財産相続に関する規定であり、女性には土地の相続権が認められなかった点である。この規定は、後にフランス王位継承をめぐる争いにおいても大きな影響を与えることとなった。また、サリカ法典は、犯罪に対する罰金制度を導入し、殺人や窃盗などの犯罪に対する罰金額が詳細に定められていた。これにより、フランク王国は初期の法的安定を実現し、秩序ある社会を維持することが可能となった。
王権と貴族の力のバランス
フランク王国の統治制度において、王と貴族の関係は極めて重要であった。王は国全体を統治する権威を持ちながらも、実際の支配は地方の貴族に委ねられていた。貴族たちは広大な領地を支配し、そこで独自の裁判を行い、兵士を集める権限を持っていた。このように、フランク王国は中央集権的な統治よりも、地方分権的な要素が強かったが、王は定期的に大貴族を集めて会議を開き、重要な政策を協議した。これにより、王権と貴族の力のバランスが保たれ、フランク王国全体の統一が維持される仕組みが構築されていたのである。
巡察使と地方統治の仕組み
フランク王国の広大な領土を効率的に統治するために、巡察使と呼ばれる制度が導入された。巡察使は、王の命令を受けて地方を巡回し、各地の貴族が法と秩序を遵守しているかを監視する役割を担っていた。彼らは、王と地方貴族の間の連絡役としても機能し、地方の状況を王に報告することで、中央政府の統治力を高める手助けをしていた。この制度は、中央政府が地方に対して強い影響力を維持するために欠かせないものであり、巡察使の活動によってフランク王国は広大な領土を効率的に管理することが可能となった。
教会と国家の密接な関係
フランク王国の統治において、教会と国家の関係は極めて密接であった。王はキリスト教の守護者としての役割を果たし、教会は王の統治を神の意志として正当化する重要な役割を担った。特に、教会は教育や法の整備においても大きな影響力を持ち、司教や修道院長はしばしば王の顧問として重用された。教会の権威と王権が結びつくことで、フランク王国の統治はより強固なものとなり、王の支配が神聖なものとして広く受け入れられるようになった。この協力関係は、後に中世ヨーロッパ全体における教会と国家の関係の基盤を形成することとなる。
第7章: フランク王国の経済と社会構造
農業が築いたフランク王国の基盤
フランク王国の経済の中心にあったのは、農業であった。広大な農地を有するこの王国では、農業生産が王国全体の経済基盤を支えていた。農民たちは土地を耕し、穀物や家畜を育てることで、自らの生活を支え、余剰生産物を市場で売ることで収入を得た。封建制度の下では、領主が土地を管理し、その見返りとして農民から収穫物の一部を税として受け取る仕組みが整えられていた。このように、農業はフランク王国の経済において欠かせない要素であり、その発展とともに王国全体が繁栄することとなった。
貴族と農民の生活
フランク王国の社会構造は、貴族と農民という二つの大きな階層で成り立っていた。貴族は広大な土地を所有し、農民たちを統治する立場にあった。彼らは土地から得られる収益によって富を築き、その富を基に政治的な権力をも保持していた。一方で、農民たちは貴族の保護を受ける代わりに、彼らの土地を耕し、収穫物の一部を納める義務を負っていた。農民の生活は決して楽ではなかったが、安定した収入を得ることで家族を養い、生き延びることができた。こうした社会構造は、フランク王国の秩序と繁栄を支える重要な要素であった。
市場と交易の発展
フランク王国では、市場や交易が徐々に発展し、地域経済の活性化に寄与した。市場は農産物や手工業品の交換の場として、都市や村落に設けられ、遠くから商人が集まることで地域経済は活発化した。また、王国はヨーロッパ全土と交易関係を築き、特に地中海沿岸地域や中東との貿易が盛んに行われた。交易によって得られる香辛料や織物、宝石などは、フランク王国の富裕層に好んで購入され、王国の経済的な豊かさを象徴するものとなった。こうした市場と交易の発展は、フランク王国の経済を多様化させ、持続的な成長を促進した。
経済と政治の相互依存
フランク王国の経済と政治は、密接に結びついていた。王や貴族は、農民たちが生産する富を基に政治的な権力を行使し、またその権力を使って経済活動を保護・促進した。例えば、交易路の安全確保や市場の設置は、王の権威のもとで行われ、これにより経済が安定した。また、経済活動が活発になることで、王国全体の富が増加し、その結果、王や貴族たちの権力がさらに強化されるという好循環が生まれた。このように、フランク王国においては、経済と政治が互いに支え合いながら成長し、強固な国家体制が築かれていったのである。
第8章: フランク王国の宗教と文化の影響
キリスト教の普及と王国の結びつき
フランク王国におけるキリスト教の普及は、単なる宗教的現象にとどまらず、国家の統一と安定を強く支える要素となった。クローヴィス1世がキリスト教に改宗したことをきっかけに、王国全体がキリスト教を受け入れるようになった。王たちは教会と協力し、信仰を国家統治の柱として位置づけ、教会はその見返りとして王の統治を神聖なものとして正当化した。これにより、フランク王国はキリスト教世界の一部として強固な位置を占めることとなり、王権と教会権力の相互依存が生まれた。この協力関係は、フランク王国の統一と秩序維持に不可欠な役割を果たした。
修道院と知識の保護者たち
フランク王国における修道院は、単なる宗教的施設を超えて、知識と学問の中心地となった。修道士たちは古代の文献を丹念に写本し、知識を後世に伝える役割を果たした。特にカール大帝の時代には、修道院を拠点にした「カロリング・ルネサンス」と呼ばれる文化復興が起こり、教育と学問が奨励された。修道士たちはラテン語を学び、聖書や古典文学を研究し、さらには新たな学問体系を築き上げた。これにより、修道院はフランク王国における知識の保護者としての役割を確立し、その後のヨーロッパ文化に深い影響を与えることとなった。
聖遺物と巡礼の文化
フランク王国では、聖遺物が信仰の象徴として特別な地位を占めていた。聖遺物とは、聖人の遺体や所有物、あるいは彼らにまつわる物品であり、それらに触れることで神の祝福を得られると信じられていた。特に重要な聖遺物は、王国全土から巡礼者を引き寄せ、多くの修道院や教会がこれらを展示することで、巡礼地としての地位を高めていった。巡礼は信仰を深める行為であると同時に、フランク王国全土を結ぶ社会的なネットワークを形成し、文化的交流の促進にもつながった。この聖遺物と巡礼の文化は、フランク王国において信仰と社会を結びつける重要な要素となった。
キリスト教芸術とフランク王国の影響
フランク王国におけるキリスト教の普及は、芸術にも大きな影響を与えた。教会建築や宗教画、装飾写本など、キリスト教をテーマとした芸術作品が数多く生み出された。特にカール大帝の宮廷では、ローマやビザンティンの影響を受けた壮麗な教会や宮殿が建設され、フランク王国独自のキリスト教芸術が花開いた。これらの芸術作品は、宗教的なメッセージを広めるだけでなく、王権の象徴としての役割も果たした。フランク王国におけるキリスト教芸術は、後のヨーロッパ全体の芸術文化に多大な影響を与え、その伝統は中世を通じて引き継がれていったのである。
第9章: フランク王国の軍事と外交
フランク軍の強さの秘密
フランク王国の繁栄と領土拡大を支えたのは、その強力な軍事力であった。フランク軍は、優れた騎兵と歩兵から構成されており、特にカール・マルテルの時代に騎兵の重要性が大きく高まった。カールは、騎兵に土地を与えることで騎士階級を育成し、フランク軍を機動力と攻撃力に優れた軍隊へと変貌させた。また、フランク軍は一糸乱れぬ組織力と戦術的な柔軟さを持ち、敵の軍勢を巧みに打ち破ることができた。このような軍事力の強化により、フランク王国はその周辺の敵対勢力を圧倒し、領土を次々と拡大していった。
ゲルマン部族との戦い
フランク王国の領土拡大は、他のゲルマン部族との絶え間ない戦いを伴った。特に、東のサクソン人やアレマン人との戦いは、フランク王国にとって重要な課題であった。カール大帝はこれらの部族に対して積極的な征服戦争を行い、彼らをフランク王国の支配下に組み込んでいった。サクソン戦争では、30年にもわたる激しい戦闘の末、最終的にサクソン人をキリスト教に改宗させ、フランク王国の一部とした。この戦争は、単なる領土拡大にとどまらず、キリスト教の布教とフランク王国の統治を強化する重要な意味を持っていた。
イスラム勢力との対峙
フランク王国は、西ヨーロッパを脅かすイスラム勢力とも対峙することとなった。732年、カール・マルテルはトゥール・ポワティエ間の戦いで、イスラム勢力に対して歴史的な勝利を収めた。この戦いは、ヨーロッパ全土にイスラム勢力の進出を阻止しただけでなく、カール・マルテルの軍事的天才を証明するものとなった。フランク王国は、この勝利を契機に西ヨーロッパの防衛の要としての地位を確立し、他のヨーロッパ諸国に対する影響力を大きく強めた。この勝利は、後のカール大帝による西ローマ帝国再建の布石となる重要な出来事であった。
外交と同盟の形成
フランク王国は、軍事力だけでなく、巧妙な外交術を駆使して周辺国との同盟を築いた。特に、教皇との緊密な関係は、王国の権威を高める重要な要素であった。ピピン3世は、教皇ザカリアスの支持を得て王位に就き、さらに教皇領の防衛を約束することで、フランク王国とローマ教会の絆を深めた。この教皇との同盟は、後にカール大帝が「ローマ皇帝」の称号を得るための礎となり、フランク王国を西ヨーロッパの中心的な存在へと押し上げた。外交と同盟は、フランク王国が外敵から守られ、繁栄を続けるための不可欠な戦略であった。
第10章: フランク王国の遺産とヨーロッパへの影響
フランク王国が築いた統治の基盤
フランク王国は、単に領土を拡大しただけでなく、後のヨーロッパ諸国に影響を与える統治の基盤を築いた。特に、カール大帝によって確立された中央集権的な統治制度は、後の神聖ローマ帝国やフランス王国の統治モデルとして受け継がれていく。地方分権化が進んだ中世ヨーロッパにおいて、フランク王国の統治機構は、いかにして広大な領土を効果的に支配するかという課題に対する重要な解決策を提供した。この統治モデルは、各地の貴族と王権のバランスを保ちながら、国家の統一と繁栄を実現するための礎となったのである。
ヨーロッパの言語と文化への影響
フランク王国の影響は、政治的な統治にとどまらず、ヨーロッパ全体の言語や文化にも深く浸透している。特に、西フランク王国の領土で発展した言語は、やがてフランス語として確立され、ラテン語とゲルマン語の融合によって新たな文化的アイデンティティが形成された。また、カール大帝が推進したカロリング・ルネサンスは、学問と芸術の発展を促進し、その影響は後のヨーロッパ全土に広がった。これにより、フランク王国はヨーロッパの文化的基盤を築き上げ、後世の文化的発展においても重要な役割を果たしたのである。
宗教的遺産と教会の影響力
フランク王国がキリスト教の普及に果たした役割は計り知れない。クローヴィス1世の改宗以来、フランク王国はキリスト教を国家の宗教として受け入れ、その広がりを支援した。特にカール大帝は、教会と国家の関係を強化し、キリスト教をフランク王国の統治の中心に据えた。この影響は、後の中世ヨーロッパにおける教会の支配力の確立につながり、宗教が政治、教育、文化に深く関与する社会を形作った。フランク王国の宗教的遺産は、ヨーロッパ全体に広がり、キリスト教文化の基盤を築く上で欠かせない要素であった。
現代ヨーロッパに残るフランク王国の影響
フランク王国の遺産は、現代のヨーロッパにもその影響を残している。国家の統治モデル、法制度、言語、そして文化的アイデンティティに至るまで、その影響は広範である。例えば、フランスやドイツなどの現代国家は、フランク王国の領土と文化を継承し、それを基にした国家形成を遂げている。また、ヨーロッパ連合のような超国家的組織の理念にも、かつてのフランク王国が果たしたヨーロッパ統合の試みが影響を与えている。フランク王国が築き上げた基盤は、ヨーロッパ全体の歴史の中で重要な位置を占め続けているのである。