新保守主義

基礎知識
  1. 保守主義の起源と理念
    保守主義は、1960年代のアメリカでリベラル政策に反発した知識人グループによって生まれ、伝統保守主義とは異なり、国家の積極的な関与を支持する思想である。
  2. 冷戦期における新保守主義の台頭
    1970年代から1980年代にかけて、新保守主義はアメリカの外交政策に大きな影響を与え、ソ連封じ込め戦略やレーガン政権の軍事増強政策の推進力となった。
  3. 内政策における新保守主義の影響
    保守主義者は社会福祉の削減や市場経済の強化を重視しつつも、道価値観の維持や国家の役割の再評価を唱えた。
  4. 9.11後の新保守主義と「対テロ戦争
    ジョージ・W・ブッシュ政権下で、新保守主義は「民主主義の輸出」を掲げ、イラク戦争アフガニスタン戦争などの軍事介入を正当化する理論となった。
  5. 保守主義の現在と未来
    2010年代以降、新保守主義トランプ政権による「アメリカ第一主義」やポピュリズムとの対立を経て変容しつつあり、今後の保守政治にどのような影響を及ぼすかが問われている。

第1章 新保守主義とは何か?

保守とリベラルの対立から生まれた思想

1960年代のアメリカは激動の時代であった。公民権運動が進み、ベトナム戦争への反対が広がる中、多くの知識人がリベラル政策の行き過ぎに疑問を抱き始めた。彼らは、政府が社会のあらゆる問題を解決しようとする姿勢に懸念を持ち、伝統価値観の保護を求めた。一方で、単なる保守派とは異なり、市場経済の強化や強い国家の必要性も強調した。こうして、従来の保守主義とは異なる新たな思想、「新保守主義」が誕生した。中人物の一人、アービング・クリストルは「リベラルに幻滅したリベラルこそが新保守主義者である」と語った。

伝統的保守主義との違い

保守主義と従来の保守主義はしばしば混同されるが、その質は異なる。伝統的な保守主義は小さな政府を理想とし、市場の自由な競争を重視する。一方、新保守主義は政府の積極的な関与を支持し、特に外交や安全保障の分野では国家が強いリーダーシップを発揮すべきだと考える。例えば、レーガン政権は軍事力を強化し、ソ連に対抗するための戦略を推し進めた。新保守主義者たちは、単なる「守る」だけの保守主義ではなく、積極的に価値観を広める「攻めの保守」を志向したのである。

リベラルとの思想的対立

保守主義は、特にリベラル派と鋭く対立した。リベラル派は福祉国家の充実や平等の推進を重視するが、新保守主義者はそれが政府の過剰介入を招き、個人の自立を奪うと批判した。例えば、1960年代の「大きな政府」政策を推し進めたリンドン・ジョンソン政権に対し、新保守主義者は「福祉は依存を生む」として反発した。また、外交面では、リベラル派が対話と妥協を重視するのに対し、新保守主義は軍事力を背景にした強硬な姿勢を取るべきだと主張した。こうして、内外での対立が深まり、アメリカ政治は二極化していった。

影響力の拡大と新たな政治の潮流

1970年代から1980年代にかけて、新保守主義はアメリカ政治の中へと躍り出た。冷戦下で「強いアメリカ」を求める声が高まると、新保守主義者の主張が支持を集めた。特にレーガン政権は「自由と民主主義の防衛」を掲げ、新保守主義の影響を濃く受けた政策を展開した。経済面では減税と規制緩和を進め、外交面ではソ連への対決姿勢を鮮にした。こうして、新保守主義は単なる知識人の議論にとどまらず、実際の政策として実現されるようになったのである。その流れは、現代の政治にも深く刻まれている。

第2章 起源と誕生――1960年代の知識人たち

リベラルの理想に幻滅した知識人たち

1950年代から1960年代にかけて、多くの知識人がリベラルな理想を信じていた。彼らは、政府が積極的に介入し、社会の不平等を解消することが道義的に正しいと考えていた。しかし、ジョン・F・ケネディリンドン・ジョンソンの「偉大な社会」政策は、理想とは裏腹に社会不安を招いた。犯罪率は上昇し、大学では過激な左翼運動が広がった。こうした状況を目の当たりにした知識人の一部は、「政府の意が必ずしも良い結果を生むわけではない」と気づき、リベラルから離反していった。その中にいたのが、後に「新保守主義の父」と呼ばれるアービング・クリストルであった。

知的革命をもたらした評論家たち

アービング・クリストルは、元々はマルクス主義を信奉するリベラルな知識人であった。しかし、1960年代のリベラル政策の失敗を目の当たりにし、彼の考えは大きく変わった。彼は『パブリック・インタレスト』誌を創刊し、そこに掲載される論文の中で、「政府による過剰な福祉政策は社会を堕落させる」と主張した。クリストルと並び、ノーマン・ポドレツもまた、リベラルな知識人からの転向者であった。彼の編集する雑誌『コメンタリー』は、過激な左翼運動を批判し、新たな保守の立場を確にしていった。こうした評論家たちの影響で、新保守主義は知的な潮流として成長していった。

冷戦と新保守主義の関係

1960年代、冷戦は世界を二分していた。ソ連の共産主義とアメリカの自由主義が激しく対立する中、当初はリベラル派も「共存」を模索していた。しかし、ベトナム戦争の泥沼化とソ連の侵略的な外交姿勢を見た新保守主義者たちは、「対話ではなく強い軍事力こそが共産主義を抑え込む唯一の方法である」と考えるようになった。とりわけ、ジョージ・オーウェルの『1984年』は、全体主義の危険性を象徴する作品として、新保守主義者たちに大きな影響を与えた。彼らは「自由を守るためには、力を行使することも辞さない」という信念を持つようになったのである。

政治の世界への進出

1970年代に入ると、新保守主義者たちは単なる評論家の集団ではなく、実際の政策形成に関わるようになった。特に、リチャード・ニクソン政権は彼らの意見に耳を傾け、冷戦政策や内政策に取り入れた。ニクソンの「法と秩序」を強調する政策や、共産主義への強硬な外交姿勢は、新保守主義の影響を濃く反映していた。やがて、この潮流はロナルド・レーガン政権でピークを迎えることになる。新保守主義は、単なる知識人の議論を超え、アメリカの国家戦略を方向付ける強力な思想へと成長していったのである。

第3章 冷戦と新保守主義の台頭

失われた自信と新たな潮流

1970年代のアメリカは、自信を失いかけていた。ベトナム戦争の敗北、ウォーターゲート事件によるニクソンの辞任、経済の停滞が続き、「アメリカの衰退」がささやかれていた。一方、ソ連は軍事力を増強し、アフガニスタン侵攻など攻勢を強めていた。リベラル派は外交政策の軟化を主張し、冷戦の終結を模索したが、新保守主義者たちはこれに反発した。彼らは「アメリカは衰退しているのではなく、意志を失っているのだ」と考え、強硬な外交政策と軍事力の増強こそが自由世界を守る道だと主張した。こうして、新保守主義国家未来を決める重要な潮流となった。

カーター政権の弱腰外交への反発

1977年に誕生したジミー・カーター政権は、人権外交を掲げ、冷戦の緊張緩和を目指した。カーターはソ連と軍備削減交渉を進め、第三世界の々との関係改を図った。しかし、新保守主義者たちはこれを「弱腰外交」と批判した。彼らは、ソ連が対話ではなく力を尊重する国家であり、融和政策はむしろアメリカの弱体化を招くと考えた。特に、1979年のイラン革命でアメリカ大使館員が人質にとられた事件や、ソ連のアフガニスタン侵攻は、カーターの外交姿勢がいかに危ういかを示す出来事とされた。新保守主義者たちは「強いアメリカ」を取り戻すべきだと主張し始めた。

レーガン・ドクトリンの登場

1980年の大統領選挙で、共和党のロナルド・レーガンが「アメリカの復活」を掲げて当選すると、新保守主義はついに国家政策の中となった。レーガンは「力による平和」を信条とし、ソ連を「帝国」と呼び、軍備拡張を推進した。彼の掲げた「レーガン・ドクトリン」は、共産主義の拡大を防ぐため、世界各地の反共勢力を支援するというものであった。中ニカラグアでは反共ゲリラ「コントラ」を支援し、アフガニスタンではムジャヒディンに武器を供給した。新保守主義者たちはこの積極的な介入を支持し、冷戦の勝利に向けた戦略を策定した。

軍事力の増強と冷戦の終結へ

レーガン政権はソ連に対抗するため、大規模な軍拡を進めた。ステルス戦闘機や巡航ミサイルの開発、戦略防衛構想(SDI)と呼ばれる「スター・ウォーズ計画」が打ち出された。これにより、ソ連は軍拡競争に巻き込まれ、経済的に追い詰められていった。新保守主義者たちは「力こそがソ連を崩壊へと導く」と確信し、レーガンの強硬姿勢を全面的に支持した。1989年、ベルリンの壁が崩壊し、1991年にはソ連が解体された。新保守主義者たちは「我々の戦略が正しかった」と主張し、冷戦の勝利を確信した。しかし、これが新たな時代の課題を生むことになるのだった。

第4章 国内政策への影響――福祉と市場経済

「大きな政府」への反発

1960年代、リンドン・ジョンソン政権の「偉大な社会」政策は、貧困撲滅と社会保障の充実を目指した。しかし、政府の介入が拡大するにつれ、財政赤字は膨らみ、経済の停滞が深刻化した。新保守主義者たちは「政府は問題を解決するどころか、むしろ化させる」と批判し、福祉の削減と市場経済の活性化を提唱した。アービング・クリストルは「意が必ずしも良い結果を生むわけではない」と警鐘を鳴らし、過剰な福祉政策が労働意欲を奪うと指摘した。こうして、「大きな政府」から「小さな政府」への転換が、次第に政治の主流となっていった。

レーガノミクスの衝撃

1981年に大統領に就任したロナルド・レーガンは、「政府が問題なのだ」と宣言し、大胆な経済改革を実行した。彼の経済政策、通称「レーガノミクス」は、減税、規制緩和、歳出削減を柱とし、供給側経済学(サプライサイド経済学)に基づいていた。レーガンは、高所得者への減税が投資を促し、経済成長を加速させると考えた。しかし、一方で軍事費を大幅に増やしたため、財政赤字は拡大した。新保守主義者たちは、レーガノミクスを支持しつつも、福祉のさらなる削減を求めた。彼らは「自己責任」の原則を強調し、市場の自由を最優先する政策を推進したのである。

社会政策と道徳の復権

保守主義は、経済政策だけでなく、社会政策にも大きな影響を与えた。彼らは、「自由な市場だけでなく、道的な秩序も必要だ」と考え、伝統価値観の復活を訴えた。特に、家族の重要性や宗教の役割を強調し、中絶や同性婚に反対する立場を取った。パット・ブキャナンやウィリアム・F・バックリー・ジュニアといった保守派の論客は、「社会が繁栄するためには、道的基盤が不可欠だ」と主張した。こうした価値観は、福キリスト教徒の支持を集め、政治における宗教の影響力を強める要因となった。

福祉国家の縮小とその影響

レーガン政権下で福祉削減が進められたが、それは単なる経済政策ではなく、イデオロギーの転換でもあった。新保守主義者たちは、「個人の自由と責任こそが社会を発展させる」と信じ、政府の福祉支出を削減することで、依存体質からの脱却を促した。しかし、この改革には賛否が分かれた。貧困層の生活は厳しくなり、社会の格差が拡大した。だが、新保守主義者は「短期的な痛みは避けられない」とし、経済の活性化が長期的に全体の利益につながると主張した。こうして、新保守主義は経済だけでなく、社会のあり方をも変えていったのである。

第5章 新保守主義のイデオロギー――「道徳」と「国家」

価値観の守護者としての新保守主義

保守主義者たちは、単なる経済改革者ではなく、社会の価値観を守る「文化の戦士」としての役割を果たそうとした。彼らは「自由市場だけでは社会は安定しない」と考え、伝統的な家族観や道価値の維持を重視した。特に1980年代のレーガン政権下では、キリスト教右派との結びつきが強まり、宗教団体が政治的影響力を拡大した。ジェリー・ファルウェルの「モラル・マジョリティ」は、新保守主義宗教保守主義を結びつけ、「道なき自由市場は危険だ」と訴えた。こうして、新保守主義は経済だけでなく、倫理価値観の分野にも深く入り込んでいった。

家族と宗教――社会の基盤

保守主義者にとって、家族は社会の最も重要な単位であった。彼らは、「国家が繁栄するには、健全な家族が不可欠だ」と信じ、離婚の増加やシングルマザー世帯の拡大を懸念した。また、学校での宗教教育の復活を求め、社会の世俗化に強く反発した。1980年代には「クリスマスを守れ」というスローガンが生まれ、伝統的な宗教行事の維持が政治的課題となった。新保守主義は、個人の自由を尊重しつつも、「道の規範」がなければ社会は崩壊すると主張し、国家が一定の価値観を促進すべきだと考えたのである。

国家の役割――自由と秩序のバランス

保守主義は、政府の経済介入には慎重であったが、国家の「道的役割」には積極的であった。彼らは、リベラル派が進める「価値の多様性」を否定し、「アメリカの伝統」を守ることが政府の責務だと考えた。例えば、公立学校での祈りを禁止する最高裁判決に対し、新保守主義者は強く反発した。また、犯罪対策として「厳罰主義」を支持し、三振法(重罪を三回犯した者に終身刑を科す法律)を推進した。新保守主義の考え方は、「自由と秩序のバランスをどう取るべきか?」という根的な問いを政治の中に据えたのである。

道徳の危機と文化戦争

1990年代に入ると、新保守主義者たちは「アメリカは道の危機に直面している」と警告を発した。ビル・クリントン政権下でのリベラルな社会政策や、ポピュラー文化の急激な変化に反発し、文化戦争が激化した。ラッシュ・リンボーのような保守派の評論家は、「ハリウッドはアメリカの道を破壊している」と非難し、伝統価値の回復を訴えた。こうして、新保守主義は経済政策だけでなく、文化的・道的な戦いの中で影響力を拡大した。しかし、この「道をめぐる戦争」は、アメリカ社会をさらに分断する要因ともなっていったのである。

第6章 9.11と「対テロ戦争」の正当化

世界を変えた9.11テロ

2001年911日、アメリカは歴史上最大のテロ攻撃を受けた。ハイジャックされた4機の旅客機がニューヨークの世界貿易センタービルやペンタゴンを襲い、3000人近くの命が奪われた。テレビ画面に映る崩壊するビルは、アメリカの無敵話を打ち砕いた。中が怒りと恐怖に包まれる中、ジョージ・W・ブッシュ大統領は「テロとの戦争」を宣言した。この未曾有の危機の中、新保守主義者たちは「アメリカはただの復讐ではなく、自由と民主主義を守る戦いを始めるべきだ」と訴え、国家の方向性を決定づけることとなった。

イラク戦争と新保守主義の影

保守主義者たちは、9.11を契機にアメリカの外交政策を再構築する絶好の機会と捉えた。彼らは単なるテロリストの掃討ではなく、中東の「民主化」が必要だと主張した。特に、当時の国防副長官ポール・ウォルフォウィッツや副大統領ディック・チェイニーは、イラクのサダム・フセイン政権を打倒すべきだと強く主張した。彼らは「フセインは大量破壊兵器を保有し、テロリストとつながっている」と主張し、2003年のイラク侵攻を正当化した。しかし、後に大量破壊兵器の存在は確認されず、この戦争は大きな論争を生むこととなった。

アメリカ例外主義と「自由の拡大」

保守主義者たちは、アメリカには「自由と民主主義を広める使命がある」と信じていた。これは「アメリカ例外主義」と呼ばれる考え方であり、ブッシュ政権の外交戦略の中に据えられた。ブッシュは、イラク戦争の目的を「独裁の打倒と民主主義の確立」と説し、「自由の波が中東全体に広がるだろう」と語った。しかし、現実は理想通りには進まなかった。イラクでは内戦が激化し、シーア派とスンニ派の対立が深まった。新保守主義が掲げた「自由の拡大」は、混乱と暴力の拡大を招く結果となったのである。

戦争の代償と新保守主義の試練

イラク戦争は、アメリカにとって長期化し、莫大な犠牲を伴うものとなった。千人の兵が戦し、戦費は兆ドルに膨れ上がった。内では「この戦争当に必要だったのか?」という疑問の声が高まり、新保守主義への批判が強まった。2008年の大統領選挙では、戦争を終結させることを公約に掲げたバラク・オバマが勝利し、新保守主義の影響力は急速に低下した。かつてアメリカを動かしたこの思想は、大きな試練を迎えることとなったのである。

第7章 オバマ時代の新保守主義の凋落

変化の風——オバマの登場

2008年、アメリカは歴史的な転換点を迎えた。バラク・オバマが「希望と変革」を掲げ、初のアフリカ系大統領として誕生したのである。彼の当選は、ジョージ・W・ブッシュ時代の戦争と経済危機に対する民の反発を象徴していた。オバマは、イラク戦争の終結、外交の多間協調、内の社会改革を最優先課題とした。新保守主義者たちはこの動きを警戒したが、イラク戦争の失敗により彼らの影響力は急速に低下していた。アメリカの政治は、大規模な軍事介入ではなく、対話と協調を重視する新たな路線へと向かっていった。

多国間主義と外交政策の転換

オバマ政権は、「アメリカは世界の警察官ではない」と言し、新保守主義者が推進した単独行動主義を否定した。彼はイラン核合意を締結し、際社会との協調を優先した。また、アフガニスタン駐留軍の撤退を進め、長期戦争からの脱却を目指した。これに対し、新保守主義者たちは「アメリカの影響力が弱まる」と批判した。ジョン・ボルトンのような強硬派は、オバマの姿勢を「宥和政策」と呼び、世界の不安定化を招くと警告した。しかし、アメリカ民の多くは戦争に疲れ、外交政策の転換を支持したのである。

イラク戦争の総括と戦争の教訓

オバマ政権下で、イラク戦争の検証が進み、多くの問題が浮き彫りとなった。大量破壊兵器が存在しなかったこと、新保守主義の「民主主義輸出」政策が失敗したこと、戦争によってテロの温床が広がったことがらかになった。これにより、新保守主義の外交戦略は厳しく批判され、「武力で民主主義を広げる」という考え方は支持を失った。オバマはイラクからの撤退を進めたが、その後、イスラム過激派組織ISIS(イスラム)が台頭し、新たな混乱が生まれた。新保守主義者たちは「撤退こそが問題を化させた」と主張し、オバマの決断を非難した。

新保守主義の分裂と存在意義の再考

オバマ時代の新保守主義は、影響力を失うとともに、内部での分裂も進んでいった。一部の新保守主義者は共和党主流派と手を組み、伝統的な保守政策に軸足を移した。一方で、強硬派は軍事介入の必要性を訴え続けた。しかし、リーマン・ショック後の経済不安や、民の戦争疲れによって、軍事的拡張を支持する声は縮小していた。新保守主義は、かつてのような政治の中的な潮流ではなくなり、その存在意義が問われる時代に入っていったのである。

第8章 トランプ現象と新保守主義の変容

「アメリカ第一主義」の衝撃

2016年、アメリカ政治に激震が走った。政治経験のない実業家ドナルド・トランプが、ポピュリズムの波に乗って大統領に当選したのである。彼のスローガンは「アメリカ第一主義」。貿易戦争の開始、同盟への防衛費負担要求、移民規制の強化など、これまでのアメリカ外交の常識を覆す政策を次々と打ち出した。これは新保守主義者たちにとって驚きだった。彼らは「アメリカの影響力を世界に広げるべきだ」と考えていたが、トランプは「もはや世界の警察官ではない」と宣言し、内向きの政策を推進したのである。

新保守主義との決別

トランプの登場は、共和党内の勢力図を一変させた。これまで共和党の外交政策を主導してきた新保守主義者たちは、トランプによって排除されていった。ジョン・ボルトンやビル・クリストルのような保守派の重鎮は、トランプの「取引外交」や孤立主義に反発し、彼を批判した。一方で、共和党の多くの議員はトランプの影響力を恐れ、沈黙を貫いた。新保守主義者たちは、もはや党内の主流ではなくなり、外交政策の場から追いやられていったのである。

ポピュリズムと保守の分裂

トランプは、新保守主義者が嫌ったポピュリズムを全面に押し出した。彼の支持者たちは「エリート」に反感を抱き、グローバリズムを敵視した。これまで共和党を支えていた企業家層や外交戦略家ではなく、労働者層や地方の有権者がトランプの基盤となった。これは、新保守主義が依拠してきた「知識人層」との完全な決裂を意味した。保守派は、「伝統的な保守主義」「新保守主義」「トランプポピュリズム」に分裂し、共和党はかつてないほどの混乱を迎えることになった。

新保守主義の行方

トランプ時代を通じて、新保守主義政治の中から姿を消した。しかし、それは完全に終焉を迎えたわけではない。対中強硬策や民主主義の推進といった新保守主義的な思想は、依然としてワシントンの政策論争で生き続けている。また、トランプ後の共和党がどの路線を採るのかによって、新保守主義の復活の可能性もある。今後、新保守主義がどのように変容し、どこへ向かうのかは、アメリカ政治未来を占う上で重要なテーマとなるだろう。

第9章 新保守主義の国際的展開

イギリス保守党とサッチャリズムの影響

1980年代、イギリスのマーガレット・サッチャー首相は、新自由主義と新保守主義の融合を推し進めた。彼女は「福祉国家の肥大化はを弱体化させる」と考え、営企業の民営化や減税政策を実行した。サッチャーはロナルド・レーガンと同盟関係を築き、「自由市場」と「強い国家」の両立を目指したのである。新保守主義の影響は、ブレグジットの議論にも現れた。保守派の一部は「国家主権の回復」を掲げ、欧州連合EU)からの離脱を支持した。イギリスは、新保守主義の理念を反映した政策を独自に進化させていったのである。

フランス右派と国家主義の台頭

フランスでは、新保守主義が直接的に広がることはなかったが、右派の政治家たちに影響を与えた。2007年に大統領となったニコラ・サルコジは、強いリーダーシップを掲げ、移民政策の厳格化や治安対策を推進した。彼は「国家の役割を再定義し、秩序を取り戻す」と主張し、新保守主義の「国家の強さ」を重視する姿勢と共鳴していた。また、近年のフランスでは、極右政党民連合」が台頭し、保守派の間で国家主義的な主張が強まっている。こうした流れは、新保守主義の影響を受けつつ、フランス独自の形に変容していった。

イスラエルの外交政策と新保守主義

イスラエル政治にも、新保守主義の思想は深く影響を与えている。特にベンヤミン・ネタニヤフ政権は、アメリカの新保守主義者と密接な関係を築き、強硬な外交政策を展開した。イラン核合意に強く反対し、パレスチナ問題では妥協を拒否する姿勢を貫いた。新保守主義の「力を通じた平和」という考え方は、イスラエルの防衛政策にも表れており、軍事力を背景に安全保障を確立しようとする戦略が取られている。アメリカとの緊密な関係は、新保守主義の思想が際的に影響を持つことを示している。

新保守主義のグローバルな未来

保守主義は、アメリカ発の思想であるが、その影響は各で異なる形で受け入れられてきた。イギリスでは市場経済重視の政策として、フランスでは国家主義的な側面が強調され、イスラエルでは外交・安全保障戦略の基盤となった。グローバル化が進む中で、新保守主義の理念は変容しながらも残り続けている。今後の政治において、強い国家市場経済を両立させる新たな潮流が生まれるのか、それとも新保守主義は過去の遺産として埋もれていくのか、その行方が注目されるのである。

第10章 新保守主義の未来――終焉か再生か?

バイデン政権と新保守主義の復権?

2021年、ジョー・バイデンが大統領に就任すると、新保守主義の影響力は一見、過去のものとなったように見えた。しかし、ロシアウクライナ侵攻や中との緊張の高まりを受け、アメリカの際的リーダーシップが再び問われることとなった。バイデン政権は、民主主義を守るための際協力を強調し、新保守主義の「自由の拡大」という理念と部分的に一致した。共和党の一部にも、新保守主義的な外交政策の復活を求める声がある。新保守主義は、形を変えながら、再びアメリカの戦略の一部になりつつあるのかもしれない。

右派の新潮流と新保守主義の対立

近年、アメリカの保守派は、新保守主義とは異なる方向へと進んでいる。トランプ派の「アメリカ第一主義」やポピュリズムは、外への介入を否定し、内の利益を最優先する立場を取る。タッカー・カールソンやJD・ヴァンスのような保守派論客は、「アメリカはもはや世界の警察官ではない」と主張し、新保守主義の介入主義的外交を批判した。これに対し、従来の新保守主義者たちは「アメリカの力の行使がなければ世界は不安定になる」と反論している。右派の間で、新保守主義をめぐる論争は今も続いている。

ポスト新保守主義の可能性

保守主義がこのまま消滅するとは限らない。むしろ、現代の政治状況に合わせて進化する可能性がある。例えば、中の台頭に対抗するための「価値観外交」や、権威主義国家との対立において、新保守主義の「民主主義拡大」の理念が再評価されるかもしれない。また、軍事力だけでなく、経済的・技術的優位性を通じた影響力の行使も、新しい形の新保守主義となる可能性がある。単なる過去の遺産ではなく、今後の政治において重要な役割を果たすかもしれないのである。

新保守主義の終焉か、それとも新たな始まりか?

現在、新保守主義はアメリカ政治の中から外れている。しかし、冷戦終結後に消えたかと思われたこの思想は、9.11を機に復活した。歴史を振り返れば、新保守主義の理念は状況に応じて変容しながらも生き続けてきた。世界が新たな危機に直面するたびに、この思想は再評価される可能性がある。新保守主義は、当に過去のものなのか、それとも次の時代に向けて形を変えて生き残るのか。その答えは、これからのアメリカと世界の動向にかかっている。