第1章: 禁酒法導入の前史
アルコールと社会の葛藤
19世紀のアメリカでは、アルコールが社会に与える影響についての議論が盛んであった。工業化が進み、多くの人々が都市に移り住む中で、飲酒が労働者の健康や生産性に悪影響を及ぼしているという懸念が高まった。特に、家庭内暴力や貧困の原因と見なされたアルコールは、道徳的問題として社会改革の焦点となった。これを背景に、教会や地域のリーダーたちは飲酒の抑制を訴え、禁酒運動が全国的な広がりを見せたのである。この運動の主導者の一人、ルイザ・M・アルコットの母であるアビー・メイ・アルコットも、家庭内のアルコール問題に立ち向かうために尽力した。彼女のような人物が声を上げた結果、アルコールに対する社会の視点が徐々に変わり始めたのである。
女性の力と宗教の影響
禁酒運動は、女性たちが積極的に参加した最初の社会運動の一つであった。当時、女性たちは家庭を守るために酒を禁止する必要性を強く感じていた。特に、クリスチャン・テンペランス連盟(WCTU)という団体は、1874年に設立され、禁酒運動の最前線で活動した。この団体のリーダーであるフランシス・ウィラードは、禁酒を道徳的・宗教的な義務と見なし、強力なリーダーシップを発揮した。彼女は、女性が社会変革を推進する力を持っていると信じていた。彼女のカリスマ性と組織力は、禁酒運動を全国規模のものに押し上げ、最終的には法制化に至る道を開いたのである。このように、女性たちの力が禁酒運動の成功に大きく寄与したことは、後に続く社会運動にも影響を与えた。
禁酒法をめぐる政治の舞台裏
禁酒法が政治の舞台に上がるまでには、多くの葛藤と交渉があった。19世紀末から20世紀初頭にかけて、進歩主義者たちは社会改革を推進し、アルコール禁止もその一環として取り上げられた。特に、南部と中西部の州では禁酒法を支持する声が強く、これが連邦レベルでの法制化への圧力となった。政治家たちは禁酒を票集めの手段として利用し、世論を動かそうとした。最終的に、禁酒法を支持する議員たちは、1919年に憲法修正第18条の成立を実現させた。これは、アメリカ史上初めてアルコールを全面的に禁止する法律であり、その背後には複雑な政治的駆け引きがあったのである。
社会改革の成功とその代償
禁酒法の成立は、社会改革運動の一大成功として称賛された。しかし、その裏には多くの課題が存在した。禁酒法の支持者たちは、アルコール禁止が社会を改善すると信じていたが、実際には予期せぬ結果を招いた。例えば、法の施行が難しく、密造酒の製造や密輸が横行した。これにより、組織犯罪が急速に拡大し、アル・カポネのようなギャングが力を持つようになった。また、多くの労働者が酒を手に入れるために違法な手段に頼るようになり、社会の混乱が深まったのである。このように、禁酒法は一時的な成功を収めたが、その代償として深刻な社会問題を引き起こした。
第2章: アメリカ合衆国憲法修正第18条
禁酒法成立への道
1919年、アメリカ合衆国は歴史的な決断を下した。それが、憲法修正第18条の成立である。この修正条項は、アルコールの製造、販売、輸送を全面的に禁止するものであり、アメリカ史上初の禁酒法となった。しかし、この法律が成立するまでには、長い闘いがあった。進歩主義者たちと宗教団体は、何年にもわたって飲酒の悪影響を訴え、禁酒運動を推進してきた。彼らは、飲酒が家庭や社会を破壊していると主張し、多くの政治家や有権者を巻き込んでいった。このようにして、禁酒法成立への道が切り開かれたのである。
ワシントンの舞台裏
禁酒法を成立させるために、政治家たちは激しい駆け引きを展開した。特に、共和党のウェイン・ウィーラーは、禁酒運動のリーダーとして知られており、政治家たちに強い影響力を持っていた。彼は、禁酒法を推進するために、選挙戦略を巧みに操り、反対派を抑え込んだ。禁酒法が成立した背景には、ウィーラーのような人物の働きがあったのである。また、当時のワシントンでは、禁酒法に賛成する議員たちが多数を占めており、彼らは国民の健康と道徳を守るためにこの法律を支持した。このように、禁酒法成立の背後には、複雑な政治的駆け引きが存在したのである。
禁酒法の内容と影響
憲法修正第18条は、その内容が極めて厳格であることで知られていた。この修正条項は、アルコールの製造、販売、輸送を全面的に禁止し、違反者には厳しい罰則が科せられることとなった。しかし、この法律は、ただちに多くの問題を引き起こした。アメリカ中で密造酒の製造や密輸が増加し、犯罪組織が力を持つようになった。また、政府の収入が減少し、アルコール業界で働く多くの人々が職を失うことになった。このように、禁酒法は予期せぬ形で社会に大きな影響を与えたのである。
法の裏に隠された真実
禁酒法は、表向きには国民の健康と道徳を守るための法律であったが、その裏には多くの利害関係が絡んでいた。特に、禁酒法を推進した政治家たちは、自らの権力基盤を強化するためにこの法律を利用していた。彼らは、禁酒法がもたらす社会的混乱を利用して、自らの地位を固めようとしたのである。また、禁酒法に反対する者たちは、政府の施行能力に疑問を投げかけ、この法律が持つ問題点を指摘していた。このように、禁酒法の裏には、複雑な権力闘争と利害関係が潜んでいたのである。
第3章: 禁酒法施行の初期段階
禁酒法の幕開け
1920年1月17日、アメリカは歴史的な瞬間を迎えた。憲法修正第18条に基づく禁酒法が施行され、アルコールが突然、違法なものとなったのである。全米でバーが閉鎖され、酒造所は生産を停止し、街角から酒瓶が消えた。政府は専用の取り締まり機関を設置し、法の施行に全力を注いだ。しかし、こうした劇的な変化に国民はどう反応したのだろうか?多くの市民はこの法律を歓迎したが、一方で、酒を楽しんでいた人々やアルコール産業に従事していた者たちは、大きな困惑と不満を抱えたまま、新たな時代に突入したのである。
法執行の試練
禁酒法が施行されると、政府はすぐに法の執行に直面する問題の多さに気づいた。酒の密造や密輸はすぐに広まり、当局はこれを取り締まるために苦労を重ねた。特に、アメリカとカナダの国境やメキシコ湾沿岸では、密輸が頻繁に行われた。違法にアルコールを供給する業者たちは「ランナー」として知られ、その巧妙な手口で法執行官を翻弄した。禁酒法を施行する連邦機関である「アルコール取り締まり局」(Bureau of Prohibition)は、当初から人員不足と予算の不足に悩まされ、その結果、違法行為を完全に取り締まることは困難であった。このようにして、法執行の試練が次々と明らかになったのである。
地方の反応と違法酒場の台頭
禁酒法施行に対する地方の反応は一様ではなかった。特に都市部では、法律への反発が強く、違法酒場「スピークイージー」が急速に増加した。ニューヨークやシカゴなどの大都市では、警察官さえも賄賂を受け取ってスピークイージーの存在を黙認することが一般的であった。このような違法酒場は、地下室や隠し扉の裏に設けられ、音楽やダンス、密造酒が楽しめる場として、夜な夜な賑わいを見せた。これにより、禁酒法は表面上の法律として存在するものの、実際にはその意図が広く無視されているという現実が浮き彫りになったのである。
初期の成功と失敗
禁酒法の初期段階において、政府はある程度の成功を収めた。酒造所の多くが閉鎖され、公式なアルコール流通が停止したため、表面的には禁酒が達成されたかのように見えた。しかし、その一方で、違法な酒類の取引が広がり、密造酒の品質が低下し、健康被害が増加した。また、アルコールに依存していた経済活動が停止したことで、多くの労働者が職を失い、経済的な混乱が生じた。こうした現実は、禁酒法が一筋縄ではいかない複雑な問題であることを浮き彫りにし、政府はその対策に頭を悩ませることとなったのである。
第4章: ギャングと禁酒法
禁酒法が生んだ暗黒街の王
禁酒法の施行により、合法的な酒の取引が不可能になると、これを機に密造酒ビジネスが急成長した。その中でも一際目立ったのがシカゴのアル・カポネである。カポネは、若い頃から犯罪組織に身を置き、禁酒法時代には密造酒と違法ギャンブルの帝国を築いた。彼の組織は、警察や政治家を買収し、取り締まりを逃れながら莫大な利益を上げた。カポネの冷酷さと巧妙さは伝説となり、「暗黒街の王」として知られるようになった。禁酒法が生んだこの新しい「ビジネス」は、アメリカ社会に深い爪痕を残し、犯罪組織の力を劇的に拡大させたのである。
密造酒ビジネスの裏側
密造酒は、禁酒法によって一躍脚光を浴びることになったが、その裏には多くの危険と闇が存在した。密造者たちは、山奥や郊外の農場など、警察の目の届かない場所で密かにアルコールを製造した。こうした酒はしばしば粗悪で、飲むと健康に深刻な影響を及ぼすこともあった。さらに、密造酒を運ぶ「ランナー」たちは、昼夜を問わず危険な道を走り抜け、法律をくぐり抜けてアルコールを届けた。密造酒ビジネスは、単なる犯罪行為を超え、社会全体に深い影響を及ぼす大規模な産業へと発展していったのである。
禁酒法と組織犯罪の繁栄
禁酒法の施行は、結果として組織犯罪を繁栄させる契機となった。アル・カポネをはじめとするギャングたちは、密造酒、賭博、売春など、さまざまな違法ビジネスを展開し、莫大な富を築いた。これらの組織は、権力を維持するために暴力を行使し、ライバルのギャングや法執行官に対する暗殺や襲撃を繰り返した。組織犯罪が繁栄する中、シカゴやニューヨークなどの都市では、市民が日常的に暴力や犯罪の影響を受けるようになった。禁酒法は、こうした犯罪の温床となり、アメリカ社会に大きな混乱をもたらしたのである。
禁酒法が生んだ新たなヒーロー像
禁酒法時代は、犯罪者をヒーローのように崇める風潮を生み出した。アル・カポネやジョージ・レミュスといったギャングたちは、新聞や映画で取り上げられ、彼らの派手なライフスタイルや成功が若者たちの憧れの的となった。彼らは法を無視し、権力に挑戦する姿勢を見せたことで、一部の市民からは反抗の象徴として支持されることさえあった。このようにして、禁酒法はアメリカ社会に新たなヒーロー像を生み出し、犯罪とエンターテインメントの境界を曖昧にしたのである。
第5章: 禁酒法下のアメリカ文化
ジャズエイジの誕生
禁酒法が施行されると、アメリカ社会は劇的に変化し、その一部として「ジャズエイジ」が幕を開けた。1920年代の都市部では、夜になるとスピークイージーと呼ばれる違法酒場が密かに営業を始め、多くの若者がそこに集まった。これらの場所では、アルコールと共に新しい音楽—ジャズが大音量で流され、人々は踊り狂った。ジャズは、当時の若者たちの反抗心や自由への渇望を象徴する音楽となり、特にアフリカ系アメリカ人のミュージシャンたちによって広められた。ルイ・アームストロングやデューク・エリントンのようなアーティストが次々と登場し、アメリカ文化の新たな潮流を築いたのである。
スピークイージーの影響
スピークイージーは、禁酒法時代の象徴とも言える存在であった。表向きには閉ざされたドアの向こうで、実際にはアルコールが自由に提供され、ジャズのリズムに乗ったダンスや社交が繰り広げられていた。これらの場所は、都市の至る所に隠れ家のように存在し、多くの人々が秘密裏に集まった。スピークイージーはまた、男女の社会的な垣根を取り払う場でもあり、女性たちがより自由に振る舞うことができた場所でもあった。このように、スピークイージーは単なる酒場以上の存在となり、禁酒法が生んだ新しい文化的な空間として、アメリカ社会に深く根付いていった。
映画と文学に見る禁酒法
禁酒法時代は、映画や文学にも強い影響を与えた。映画では、ギャングやスピークイージーが登場する作品が人気を博し、その一例が1927年に公開されたサイレント映画『メトロポリス』である。この作品では、禁酒法による社会の混乱と未来社会の不安が交錯し、観客の心を掴んだ。また、F・スコット・フィッツジェラルドの『グレート・ギャツビー』などの文学作品は、禁酒法時代の華やかな一面と、その裏に潜む虚無感を描き出している。こうした作品は、当時の社会の一断面を鋭く切り取り、禁酒法がもたらした矛盾を浮き彫りにしたのである。
社会の変革と女性の解放
禁酒法は、女性の社会的地位にも大きな影響を与えた。スピークイージーでは、女性たちが男性と共に酒を楽しみ、社交の場に参加することが一般的になった。これまでの保守的な価値観が崩れ、女性の自由と独立が進む時代の象徴となったのである。また、1920年には女性参政権が認められ、女性たちの社会的な役割が拡大していった。こうした変化は、禁酒法がもたらした新しい文化的潮流と密接に関連しており、アメリカ社会における女性の位置づけを劇的に変える結果を生んだ。禁酒法は、女性の解放という意外な副産物をもたらしたのである。
第6章: 禁酒法の社会経済的影響
税収減少の衝撃
禁酒法の施行は、アメリカ経済に予期せぬ打撃を与えた。その中でも、特に深刻だったのが税収の減少である。禁酒法が施行される前、酒税は政府の重要な収入源であり、国庫に多額の資金をもたらしていた。しかし、アルコールの製造と販売が禁止されたことで、この収入源は一気に消滅してしまった。その結果、政府は他の手段で財政を補填する必要に迫られた。特に、第一次世界大戦後の復興期において、この収入減少は国の経済計画に深刻な影響を及ぼした。禁酒法は、一見すると道徳的な勝利であったが、その背後には経済的な犠牲が潜んでいたのである。
密造酒と地下経済の拡大
禁酒法の施行により、酒の密造と密売が急速に拡大し、地下経済が大きく成長した。密造酒は、品質が低く、しばしば有害な成分を含んでいたが、それでも多くの人々が合法的な代替品がないためにこれを購入した。密造者たちは、警察の目をかいくぐり、隠された工場や郊外の農場で酒を製造し、それを密売業者が都市に運び込んだ。この地下経済は、違法な取引を行う組織犯罪の温床となり、アメリカ社会に深刻な影響を及ぼした。こうして、禁酒法は公式経済の崩壊と、影の経済の繁栄をもたらす結果となったのである。
失業と経済的混乱
禁酒法の施行は、アルコール産業に従事していた多くの労働者にとって悲劇的な出来事であった。酒造所やバー、酒の流通に関わっていた人々は、一夜にして職を失い、生活が困難に陥った。これにより、都市部では失業率が上昇し、経済的な混乱が広がった。さらに、合法的なアルコールの取引が途絶えたことで、多くの関連産業も打撃を受けた。ガラス瓶や樽を製造していた工場、酒に関連する輸送業者など、広範な産業が影響を受けたのである。禁酒法は、社会全体に連鎖的な経済的影響を引き起こし、アメリカの産業基盤を揺るがせた。
禁酒法の意外な恩恵
一方で、禁酒法は一部の産業に恩恵をもたらした。飲酒が制限されたことで、映画館やコンサートホールなど、アルコールを伴わない娯楽施設の利用が増加した。また、ソフトドリンク産業も急成長を遂げた。例えば、コカ・コーラはこの時期に大きな成功を収め、禁酒法の影響で市場を拡大した代表的な企業である。また、自宅での非アルコール性の社交が一般化したことにより、家庭用品や家具の需要も増加した。こうして、禁酒法は一部の産業にとっては意外な追い風となり、経済的な変化を促す要因ともなったのである。
第7章: 政治と禁酒法の摩擦
連邦政府と州政府の対立
禁酒法の施行は、連邦政府と州政府の間に深刻な対立を引き起こした。連邦政府が禁酒法を制定し、その施行を厳格に求める一方で、州政府の中には、この法律に反対する立場を取るところも多かった。特に、都市部を抱える州では、経済的な影響や市民の反発を懸念し、禁酒法の施行に積極的ではなかったのである。ニューヨーク州やイリノイ州など、都市化が進んだ地域では、州政府が意図的に取り締まりを緩和し、連邦政府と州政府の間での摩擦が次第に深刻化していった。このような状況は、禁酒法の効果を著しく損なう結果となった。
法執行の難しさ
禁酒法の施行において、最も困難だったのは法執行である。違法酒造所や密輸業者は巧妙に活動し、政府の取り締まりを逃れるために様々な手段を講じた。特に、都市部では警察の一部が賄賂を受け取り、密造酒の取引を黙認するなど、法の執行は困難を極めた。連邦政府は、これを取り締まるために「アルコール取り締まり局」(Bureau of Prohibition)を設立したが、初期の段階では人員不足や資金不足が深刻であり、十分な成果を上げることができなかった。結果として、禁酒法の施行は各地でばらつきが生じ、取り締まりの効果に大きな差が出ることとなったのである。
地方自治体の対応
地方自治体もまた、禁酒法の施行に関して独自の対応を見せた。地方ごとに文化や経済状況が異なるため、各自治体はそれぞれの事情に応じた対応を取ることが多かった。例えば、南部の保守的な地域では、禁酒法を厳格に守ろうとする一方で、北部の工業地帯では、労働者階級が多く、禁酒法への反発が強かったため、取り締まりが緩かった。また、地方の警察は、人手不足や腐敗の問題に悩まされ、禁酒法の施行に苦労していた。このように、地方自治体の対応は一様ではなく、禁酒法の施行においては大きな地域差が生まれたのである。
禁酒法と市民の反発
禁酒法に対する市民の反発は、次第に激しさを増していった。多くの市民は、日常的に楽しんでいたアルコールを取り上げられたことで、政府に対する不満を募らせた。特に、移民が多い都市部では、飲酒が文化の一部とされていたため、禁酒法への抵抗が強かった。スピークイージーのような違法酒場が急増し、アルコールを求める市民たちが密かに集まる場が増えた。これにより、禁酒法は一部の市民にとっては守られるべき法律ではなく、破るべきルールと見なされるようになった。こうして、市民の反発は禁酒法の効果を弱める要因となり、最終的にはその廃止に向けた動きへとつながっていったのである。
第8章: 禁酒法撤廃への道
禁酒法の失敗とその兆候
禁酒法が施行されてから数年が経つと、その効果に疑問を抱く声が次第に大きくなった。アルコール消費は地下に潜っただけであり、密造酒や密輸が横行し、組織犯罪が勢力を拡大していた。これにより、禁酒法が社会秩序を守るどころか、むしろ混乱を引き起こしていることが明らかとなった。また、政府の税収が激減し、経済的な負担も増大していた。こうした状況下で、多くの市民や政治家が禁酒法の有効性に疑問を持ち始め、禁酒法廃止を求める声が高まっていったのである。
世論の変化と反禁酒運動の台頭
1920年代の終わりには、禁酒法に対する世論が大きく変化していた。多くの市民は、禁酒法がもたらす混乱にうんざりし、アルコールを合法化することで犯罪や密造酒問題を解決できると考えるようになった。これに応じて、反禁酒運動も活発化した。特に「反禁酒同盟」(Association Against the Prohibition Amendment)は、禁酒法廃止を目指して強力なキャンペーンを展開し、政治家や有権者に大きな影響を与えた。彼らは、禁酒法がアメリカの経済や社会に悪影響を与えていると主張し、廃止に向けた世論を形成していったのである。
憲法修正第21条の成立
1933年、ついに禁酒法廃止への動きが現実のものとなった。フランクリン・D・ルーズベルト大統領の支持のもと、アメリカ合衆国は憲法修正第21条を採択し、禁酒法を撤廃した。この修正条項は、憲法修正第18条を正式に無効とするものであり、アメリカは再びアルコールを合法化する道を選んだ。憲法修正第21条の成立は、禁酒法がいかに多くの問題を引き起こしていたかを象徴する出来事であり、アメリカ史における重要な転換点となった。これにより、社会は新たな局面を迎え、禁酒法時代の混乱に終止符が打たれたのである。
禁酒法撤廃後の余波
禁酒法が撤廃された後も、その影響はしばらくの間、社会に残り続けた。違法な酒造や密輸の習慣はすぐには消えず、組織犯罪も依然として存在していた。また、アルコールの合法化によって、政府は再び酒税収入を得ることができたが、その一方で、アルコール関連の健康問題や社会問題が再び浮上することとなった。禁酒法撤廃は、アメリカ社会に新たな課題をもたらし、今後の政策においても長く議論の対象となることが予想されたのである。このように、禁酒法の撤廃は一つの時代の終わりを告げると同時に、次の時代への道を開く出来事であった。
第9章: 禁酒法後のアメリカ
戦後の変化と社会の再構築
禁酒法が廃止された1933年以降、アメリカ社会は急速に変化し始めた。経済大恐慌の最中にあった国は、禁酒法廃止による酒税収入の増加を期待し、その資金を活用して復興を図った。アルコール産業は再び合法化され、多くの失業者が新たな職を得ることができた。また、禁酒法時代に失われた社交の場も復活し、都市のバーやレストランが再び賑わいを見せた。このように、禁酒法後のアメリカは、経済と社会の再構築に向けて歩み出し、新たな時代を迎えることとなったのである。
組織犯罪の変容
禁酒法の廃止は、組織犯罪にも大きな影響を与えた。密造酒や密輸で莫大な利益を得ていたギャングたちは、アルコールが再び合法化されたことで、その主要な収入源を失った。しかし、彼らはすぐに新たな違法ビジネスに乗り換え、麻薬やギャンブル、売春などの活動に手を染めていった。特に、ニューヨークやシカゴなどの都市では、これらの犯罪が新たな問題として浮上し、警察や連邦捜査局(FBI)との熾烈な戦いが続いた。禁酒法後のアメリカは、組織犯罪との闘いという新たな課題に直面することとなったのである。
社会の価値観の変化
禁酒法廃止後、アメリカ社会の価値観も大きく変化した。禁酒法時代の厳格な道徳観は次第に薄れ、個人の自由や選択を尊重する風潮が広がった。アルコールの消費は再び一般的なものとなり、家庭や社交の場での飲酒が再び受け入れられるようになった。また、映画や文学などの文化的表現にも変化が見られ、禁酒法時代を背景にした作品が多く生まれた。こうして、アメリカ社会は禁酒法という一つの時代を乗り越え、新たな価値観を持つ社会へと移行していったのである。
禁酒法の教訓と現代への影響
禁酒法の経験は、アメリカに多くの教訓を残した。政府が社会問題に対処するための法律を制定する際には、その効果や実行可能性を慎重に検討する必要があることが示された。また、個人の自由と政府の規制のバランスがいかに重要であるかも浮き彫りになった。現代のアルコール政策や麻薬規制にも、この教訓が生かされている。禁酒法は失敗に終わったが、その影響は今もなおアメリカの政策や社会の中に息づいており、その歴史は現在にも続いているのである。
第10章: 禁酒法の教訓と現代への影響
禁酒法から学ぶ社会政策の教訓
禁酒法の歴史は、社会政策を策定する際の重要な教訓を提供している。禁酒法が示したのは、法的な禁止だけでは社会の問題を解決することができないということである。アルコールを禁止することは、飲酒の根本的な問題を解決するどころか、むしろ密造酒や組織犯罪の拡大を招いた。この失敗は、現代の政策立案者にとっても、社会の実態を無視した過剰な規制がもたらすリスクを警告するものである。政策は、社会の文化や人々の価値観を理解し、包括的かつ現実的な視点から策定されるべきであるという教訓が、禁酒法から得られたのである。
現代のアルコール政策との比較
禁酒法からの教訓は、現代のアルコール政策にも影響を与えている。今日のアメリカでは、アルコールの販売や消費に関して厳格な規制が存在する一方で、完全な禁止は行われていない。例えば、飲酒可能年齢の制限や広告規制などは、社会全体の健康と安全を保つために設けられているが、個人の選択を尊重する形で運用されている。このアプローチは、禁酒法の時代とは異なり、バランスを重視した政策である。また、現代の政策立案者は、禁酒法がもたらした社会的混乱を避けるために、慎重な計画と実行を行っているのである。
他国の禁酒政策の事例
禁酒法の経験は、アメリカだけでなく、他国の政策にも影響を与えている。例えば、ロシアでは20世紀初頭にアルコール禁止政策が試みられたが、これもまた密造酒の増加や社会の混乱を引き起こし、最終的には失敗に終わった。また、北欧諸国では、禁酒政策の代わりに、政府がアルコールの販売を管理するシステムが採用されている。これらの事例は、禁酒法が持つ普遍的な教訓を示しており、他国の政策立案者たちもまた、同じ過ちを繰り返さないように努めているのである。
禁酒法の影響が続く現代社会
禁酒法は、すでに廃止されて久しいが、その影響は現代社会にも残っている。アメリカ社会において、アルコールに対する考え方や規制のあり方は、依然として禁酒法の影響を受けている。さらに、禁酒法時代に形成された組織犯罪の構造は、現在の麻薬取引などに見られるように、依然として社会問題となっている。また、禁酒法の歴史は、今日の政策議論においても参考にされることが多く、社会がどのようにして共通のルールを設定し、維持していくべきかを考える上での重要な指針となっている。このように、禁酒法は現代社会においても学び続けるべき重要な歴史的事例である。