エホバの証人

基礎知識
  1. エホバの証人の起源とチャールズ・テイズ・ラッセルの役割
    エホバの証人は19世紀末のアメリカで、チャールズ・テイズ・ラッセルによって聖書研究グループとして始まり、後に独自の宗教運動へと発展した。
  2. 1914年と終末論的予言の影響
    エホバの証人は1914年を「終わりの日の始まり」と解釈し、これが組織の教義や布教活動の方向性を決定づける重要な出来事となった。
  3. 組織の発展と統治体制の確立
    初期は分権的な運営が行われていたが、1931年以降、統治体(ガバニングボディ)による中央集権的な管理体制が確立し、組織の一貫性が強化された。
  4. 国家との対立と迫害の歴史
    エホバの証人は、戦争への不参加や旗敬礼の拒否などの理由で、多くの々で迫害を受け、特にナチス・ドイツやソ連、戦時中の日で厳しい弾圧を経験した。
  5. エホバの証人の独自の教義と宗教実践
    三位一体の否定、輸血拒否、政治への不関与、布教活動の重視など、エホバの証人は他のキリスト教系宗派と異なる独自の教義と実践を持つ。

第1章 エホバの証人の起源と創設者ラッセル

信仰を求めた青年、ラッセル

1870年代のアメリカは、産業革命の進展により都市が発展し、社会の変化が激しい時代であった。このような中で、ペンシルベニア州ピッツバーグに生まれたチャールズ・テイズ・ラッセルは、若くして宗教に対する深い疑問を抱くようになる。彼はキリスト教会の伝統的な教え、特に地獄の概念に納得できず、聖書を独自に研究し始めた。そして、聖書の預言には特定の時代に適用される「真理」があると考え、同じ関を持つ仲間と共に聖書研究グループを結成するに至った。

「ものみの塔」の創刊と新たな宗教運動

1879年、ラッセルは自身の聖書研究の成果を広めるために宗教雑誌『ものみの塔』を創刊した。この雑誌聖書の預言を解釈し、終末やキリストの再臨に関する新たな視点を提供することを目的とした。ラッセルの教えは、伝統的な教会の教義とは異なり、三位一体の否定や霊魂の不滅を認めない立場を取っていたため、多くの既存のキリスト教団体から異端視された。しかし、彼の考えは急速に広まり、多くの人々が彼の聖書研究グループに加わり、新たな宗教運動の土台が築かれた。

組織としての発展と巡回説教

ラッセル聖書研究グループは、やがて「聖書研究者」として知られるようになり、各地に支部を持つまでに成長した。ラッセル自身は活発に巡回説教を行い、各地で講演を開きながら信者を増やしていった。彼のカリスマ性と雄弁な語り口は多くの人々を魅了し、『ものみの塔』の購読者も増え続けた。1890年代には、彼の教えはアメリカ内だけでなくヨーロッパにも広がり、初の際的な布教活動が始まった。この時期に生まれた組織の基盤が、後のエホバの証人の発展へとつながることになる。

ラッセルの死とその遺産

1916年、ラッセルは66歳で去した。彼の後、組織の指導権をめぐる争いが起こるが、最終的にジョセフ・フランクリン・ラザフォードが後継者となる。ラザフォードの指導のもと、ラッセルの思想はさらに体系化され、エホバの証人という名称が正式に採用されることとなる。しかし、ラッセルの教えが築いた基盤は揺るがず、彼の影響は現代に至るまで続いている。エホバの証人の歴史は、彼の聖書研究への情熱から始まったのであり、その理念は今も世界中の信者によって受け継がれている。

第2章 1914年と終末論的予言

1914年──歴史の転換点

20世紀初頭、世界は激動の時代を迎えていた。列強の緊張が高まり、やがて第一次世界大戦が勃発する。ちょうどその時、エホバの証人(当時は「聖書研究者」と呼ばれた)は、1914年が「終わりの日の始まり」になると予言していた。チャールズ・テイズ・ラッセルとその支持者たちは、ダニエル書の預言を基に「異邦人の時」が終わり、の王が天において権力を持つと主張した。世界大戦という未曾有の危機がこの予言と重なったことで、多くの信者がその正しさを確信することとなる。

預言の根拠──聖書の数値計算

エホバの証人が1914年を特別視した理由は、聖書の解釈にあった。ラッセルは、ダニエル書4章に記される「七つの時」を2520年と解釈し、紀元前607年のエルサレム滅亡を起点として計算した。これにより、1914年がの王の支配が始まる年だと導き出された。この計算は『ものみの塔』誌を通じて広まり、多くの信者が待ち望んだ。しかし、1914年に目に見える形での王が地上に樹立されたわけではなく、その解釈は後に修正されることとなる。

戦争とパンデミック──予言の成就か?

第一次世界大戦の勃発と、戦後に広がったスペイン風邪の大流行は、エホバの証人の終末論的世界観をさらに強めた。マタイ24章には、戦争、飢饉、疫病が「終わりの日」の前兆として示されており、信者たちはこれを1914年以降の世界情勢に当てはめた。戦争により何百万もの命が奪われ、スペイン風邪は世界中で5000万人以上の者を出した。これらの出来事は、エホバの証人にとっての王が天で支配を始めた証拠であると確信されるようになった。

解釈の変遷と教義の確立

1914年の予言が思った通りに成就しなかったことで、エホバの証人の教義は次第に修正されていった。ラッセル後、後継者のジョセフ・フランクリン・ラザフォードは、1914年を「の王が天で設立された年」と再解釈し、終わりの日は「目に見えない形」で始まったと説した。これは現在のエホバの証人の教義にも受け継がれている。1914年という年は、単なる歴史の一部ではなく、エホバの証人の信仰の核として今なお語り継がれているのである。

第3章 組織の確立と統治体の形成

ラザフォードの改革──個人から組織へ

1916年、創始者チャールズ・テイズ・ラッセル後、エホバの証人の運命は大きく変わる。新たな指導者となったジョセフ・フランクリン・ラザフォードは、組織の在り方を根から変革しようとした。彼は個人のカリスマに頼るのではなく、より統一された組織を築くことを目指し、強い指導権を確立した。これにより、聖書研究者は単なる緩やかな集まりから、厳格な教義と統治体制を持つ組織へと進化していくこととなる。

統治体の誕生──決定権の集中

1920年代に入ると、ラザフォードは「統治体(ガバニングボディ)」の概念を強化した。これは、エホバの証人全体の教義や方針を決定する最高機関であり、ニューヨーク部を中に運営されることとなった。これにより、すべての信者が統一された指導のもとで活動する仕組みが生まれた。布教活動や出版物の内容も部が決定する形となり、各地の会衆(教会)は中央の指示に従うことが求められるようになった。

ラジオと出版──大衆への影響力の拡大

ラザフォードは布教活動の拡大にも積極的だった。1920年代後半にはラジオ放送を活用し、『ものみの塔』の教えを広めるようになる。また、書籍やパンフレットを大量に発行し、世界中の信者に配布した。これにより、エホバの証人の教えはより多くの人々に届き、信者のは急増した。組織としての統一性が強まる一方で、従来のキリスト教会とは異なる立場を確にし、世間との摩擦も生じるようになった。

新たな名称とアイデンティティの確立

1931年、ラザフォードは組織の正式名称を「エホバの証人」と定めた。これは、イザヤ書43章10節の「あなたがたはわたしの証人である」という言葉に由来する。これにより、エホバの証人は単なる聖書研究グループではなく、独自の宗教団体としてのアイデンティティを確立した。この変革は、信者に強い帰属意識を与え、より忠実な組織構成へとつながった。エホバの証人は、個人の信仰を超えた、世界的な宗教運動へと進化していったのである。

第4章 ナチス・ドイツと戦時中の迫害

信仰を貫いた人々

1930年代、ドイツではアドルフ・ヒトラー率いるナチス政権が台頭し、国家への絶対的忠誠が求められる時代が始まった。しかし、エホバの証人は軍務を拒否し、ナチス式敬礼を行わず、ヒトラーを崇拝しなかった。彼らの信念は、政府による強制的な服従に屈しないものであった。この姿勢がナチスの怒りを買い、エホバの証人は国家の敵と見なされるようになった。ドイツ内での弾圧が始まり、仕事を奪われ、投獄される者が急増した。

強制収容所の紫の三角形

ナチス政権はエホバの証人を「国家に従わない危険分子」として扱い、多くの信者を強制収容所に送った。彼らは他の囚人とは異なり、「紫の三角形」と呼ばれる識別マークをつけることを義務づけられた。アウシュビッツやダッハウなどの収容所では、証人たちは過酷な労働を強いられたが、それでも信仰を捨てることはなかった。ナチスは「信仰を放棄すれば自由になれる」と説得したが、多くの証人たちはこれを拒み、殉教の道を選んだ。

戦火の中の密かな抵抗

弾圧の中でも、エホバの証人は秘密裏に信仰を守り続けた。収容所の中では密かに聖書の一節を回し読みし、励まし合うことで精神的な支えとした。外の世界では、地下組織が『ものみの塔』を印刷し、ドイツ内で配布を続けた。このような抵抗は非常に危険であり、見つかれば処刑される可能性もあった。それでも、彼らは信仰を貫くことを最優先とし、迫害に屈しなかった。

戦後の回復と名誉回復

1945年、ナチス・ドイツの崩壊とともに収容所の扉は開かれ、生き残ったエホバの証人たちは解放された。しかし、戦争の傷跡は深く、多くの家族が離散し、組織の再建には時間を要した。戦後、ドイツ政府は彼らの受けた迫害を正式に認め、補償を行った。紫の三角形の囚人たちは、長らく忘れられた存在であったが、今日ではナチスの犠牲者として正式に記憶されている。エホバの証人の信仰と抵抗は、歴史に刻まれる勇気の象徴となったのである。

第5章 冷戦時代の弾圧と地下活動

鉄のカーテンの向こう側

第二次世界大戦が終わると、世界は東西冷戦の時代へと突入した。ソ連をはじめとする共産主義国家では、宗教国家の統制にとって障害とみなされた。エホバの証人は特に危険視され、無神論を掲げる政府から「国家の敵」として迫害を受けるようになった。ソ連、東ドイツポーランドなどの々では、信者たちはスパイ容疑をかけられ、職を奪われ、投獄された。信仰を捨てるか、それとも地下に潜るか──彼らは決断を迫られた。

秘密の集会と隠された聖書

公に集まることができなくなったエホバの証人は、密かに地下活動を展開した。信者たちは小さなグループを作り、夜の闇に紛れて集まり聖書を学んだ。印刷機を密輸し、『ものみの塔』を手作業で複製する者もいた。密告の危険と隣り合わせの生活でありながら、彼らは信仰を捨てることなく、教えを守り続けた。家の壁の中や森の奥に聖書を隠し、摘発を逃れるために暗号を用いた通信手段を開発するなど、知恵と勇気が試された。

強制労働キャンプの試練

多くの信者は捕まり、シベリアの強制労働キャンプへ送られた。そこでは過酷な労働が課され、寒さと飢えに耐えなければならなかった。しかし、収容所の中でもエホバの証人たちは互いに励まし合い、信仰を共有し続けた。ある元囚人は「私たちの体は拘束されても、は自由だった」と語っている。政府は彼らを屈服させようとしたが、信念は揺らぐことがなかった。その精神力こそが、後の宗教自由への道を開く礎となった。

冷戦終結と信仰の復活

1991年、ソ連が崩壊すると、エホバの証人の状況は劇的に変化した。長年地下に潜っていた信者たちは、ついに自由に集会を開くことができるようになった。旧共産圏では急速に信者が増え、多くので公式に認められるようになった。冷戦時代の苦難を乗り越えたエホバの証人は、弾圧に耐えた信仰の証として、今も地下活動時代の記録を語り継いでいる。その歴史は、自由の尊さを教える貴重な遺産となったのである。

第6章 日本とエホバの証人: 戦前・戦後の展開

日本に渡った新しい信仰

エホバの証人の教えが日に初めて紹介されたのは、1920年代のことであった。当時の日天皇神格化する国家主義の時代であり、キリスト教自体が少派であった。しかし、アメリカから伝えられた『ものみの塔』誌を通じて、一部の人々がこの新しい信仰に関を持ち始めた。やがて少の信者が集まり、聖書の研究を開始したが、彼らの活動はまだ極めて小規模であり、日社会においてほとんど知られることはなかった。

戦争と弾圧の時代

1930年代に入ると、日政府は軍主義を強め、民に天皇への忠誠を求めた。しかし、エホバの証人は天皇を崇拝せず、旗敬礼や戦争協力を拒否したため、政府の監視対となった。特に1941年の太平洋戦争開戦後、多くの信者が逮捕され、獄中で拷問を受ける者もいた。戦時中、彼らの信仰はほぼ完全に地下に潜らざるを得なかった。それでも、極限状態の中で密かに聖書を読み続けた信者たちは、終戦を迎えると再び活動を開始した。

戦後の復興と急成長

1945年の終戦後、日は占領軍の指導のもとで民主化が進められ、信教の自由が保障された。これを機に、エホバの証人の布教活動は急速に拡大した。1950年代には、アメリカから宣教師が派遣され、大規模な伝道が開始された。ドア・トゥ・ドアの布教活動や『ものみの塔』の配布が積極的に行われ、短期間で信者が急増した。特に高度経済成長期には、多くの人々が精神的な拠り所を求め、エホバの証人の教えに引き寄せられたのである。

法廷闘争と社会的影響

1970年代以降、エホバの証人の信仰は日社会にさまざまな影響を与えた。特に輸血拒否に関する裁判や、信仰に基づく兵役拒否の問題は世間の注目を集めた。また、学校での旗・歌の扱いを巡って議論が巻き起こることもあった。これらの法廷闘争は、日における信教の自由の範囲を問い直す契機となった。現在も日のエホバの証人は独自の信仰を貫きつつ、社会との関係を模索し続けている。

第7章 エホバの証人の教義とその独自性

三位一体を否定する理由

キリスト教の多くの宗派は、イエス聖霊が一体である「三位一体」の教義を信じている。しかし、エホバの証人はこれを聖書に基づかない教えと考え、は唯一の存在であり、イエスとは別の被造物であると主張する。彼らの解釈では、イエスの子でありながらではなく、創造された存在である。この教義の違いが、彼らを主流のキリスト教から区別する大きな特徴となっている。

神の王国とハルマゲドン

エホバの証人にとって「の王」とは、天に存在するの政府であり、やがて地上を支配するものとされる。この信念の中には、「ハルマゲドン」と呼ばれる最終戦争の概念がある。彼らは、近い将来に邪な世界が滅び、の王が地上を支配する日が来ると信じている。この終末論は、彼らの布教活動の強い動機となっており、世界中の人々にの王について知らせることが最も重要な使命であると考えている。

輸血拒否の背景

エホバの証人の最もよく知られた信仰の一つに「輸血拒否」がある。これは、旧約聖書と新約聖書の「血を避ける」という戒めに基づくものであり、彼らはどのような状況でも輸血を受けることを拒む。医学界との対立を生むこともあるが、信者の多くはこの教えを厳格に守り、代替治療を求める。命の危険が伴うこともあるが、彼らにとって信仰に忠実であることが最優先されるのである。

政治との距離──なぜ投票しないのか?

エホバの証人は政治に関与せず、選挙で投票することも、公職に就くこともない。これは、彼らが「この世の体制」に属さず、の王の支配を待つという信念に基づいている。歌斉唱や旗への敬礼を拒否するのも、この教えの一環である。こうした姿勢は、時にへの忠誠を疑われ、法的な問題に発展することもあった。しかし、彼らは一貫してこの立場を貫き、の王こそが唯一の正当な政府であると信じている。

第8章 エホバの証人と社会: 法律、医学、政治

輸血拒否と医学界の論争

エホバの証人の「輸血拒否」は、医療の現場でしばしば議論を巻き起こしてきた。彼らは聖書の「血を避けるべし」という戒めに従い、命の危機に瀕しても輸血を拒否する。医師たちはこの決定に倫理的・法的な問題を感じることが多く、裁判になるケースもあった。しかし、近年では無輸血手術の技術が発展し、エホバの証人に適した治療方法が確立されつつある。信仰医療の折り合いをどのようにつけるかが、今後も問われ続けるだろう。

兵役拒否と法的闘争

多くのでは、兵役が義務化されているが、エホバの証人は「剣を取る者は皆、剣で滅びる」というイエスの言葉に基づき、戦争や軍隊への参加を拒んできた。そのため、兵役義務のある々ではしばしば投獄され、長年の法廷闘争が繰り広げられた。韓国エリトリアでは千人の信者が服役したが、近年、一部のでは代替役務制度が認められ、信仰国家の間に一定の妥協が生まれつつある。

政治との一線を画す生き方

エホバの証人は投票や選挙活動をしないことで知られている。彼らは、の王こそが唯一の正当な政府であり、人間の政治には関与しないと考える。この姿勢は、民主主義国家では「政治的無関」と見なされることがあり、一方で独裁政権下では「国家への忠誠がない」として弾圧の対となった。旗敬礼や国家への忠誠宣誓の拒否も、社会との摩擦を生む要因となっている。

宗教の自由と社会的影響

エホバの証人の活動は、世界各宗教の自由の問題と密接に関わっている。彼らは多くので布教活動を禁止されたり、信仰のために迫害を受けたりしてきたが、それに対して法廷で戦い続けてきた。特にアメリカやヨーロッパでは、彼らの訴訟が宗教の自由を拡大する判例を生み出し、他の宗教団体にも影響を与えている。信仰を貫く姿勢は、単なる個人の問題ではなく、社会全体の価値観を問うものとなっている。

第9章 布教活動と世界的な成長

ドアを叩く伝道活動

エホバの証人の象徴的な活動といえば、家々を訪問し聖書の教えを伝える「戸別訪問」である。この布教方法は20世紀初頭から始まり、今も続く。信者たちは2人1組で訪れ、見知らぬ人々にの王について語る。多くの人が戸を閉めるが、それでも彼らは粘り強く続ける。この活動は「イエスの弟子たちが各地を巡って福を伝えた」という聖書の記述に基づくものであり、信仰の実践として重要視されている。

『ものみの塔』と世界的な影響

エホバの証人の教えは『ものみの塔』誌を通じて世界中に広まった。1879年に創刊されたこの雑誌は、現在200以上の言語で発行され、聖書の教えを解説する最も広く読まれる宗教誌の一つとなっている。印刷技術の発展により、ものみの塔聖書冊子協会の印刷所は世界中で稼働し、信者たちはこれを用いて布教活動を行う。特にインターネットの普及後は、オンライン版の配信も行われ、より多くの人々にアクセス可能となった。

大規模大会と集会の力

エホバの証人は定期的に大規模な大会を開催し、信者の結束を強める。世界各地で行われる「地区大会」や「際大会」には何万人もの信者が集まり、聖書の教えを学び、体験談を共有する。これらの集会では、最新の布教方針が示され、新たな出版物が発表されることもある。また、大規模なバプテスマ(洗礼)式が行われ、新たな信者が加わる場ともなっている。こうした大会は、彼らの世界的な成長を支える重要なイベントである。

デジタル時代の布教戦略

近年、エホバの証人はデジタル技術を活用した布教活動を展開している。公式ウェブサイト「JW.org」は、聖書研究の資料を多言語で提供し、動画や声コンテンツを通じて教えを広めている。コロナ禍では、対面での布教活動が制限されたため、オンラインによる伝道が活発化した。これにより、物理的な距離に関係なく、より多くの人々に聖書のメッセージを伝えることが可能となった。エホバの証人の布教活動は、時代とともに変化しながらも、信仰の核を守り続けている。

第10章 現代のエホバの証人と今後の展望

グローバルな信者ネットワーク

エホバの証人は現在、240以上のと地域で活動しており、百万人の信者を擁する世界的な宗教組織である。アメリカのウォーウィックにある部を中に、各の支部が統括され、統治体が全体の運営方針を決定している。信者たちは定期的な集会や大会を通じて連携し、信仰を深めている。特に多言語対応の布教活動が進み、あらゆる文化圏の人々に聖書の教えを伝えることが可能になっている。

デジタル革命と布教の未来

エホバの証人は、インターネットとデジタルメディアを積極的に活用している。公式ウェブサイト「JW.org」では、動画や電子書籍、ポッドキャストを提供し、どこにいても聖書を学べる環境を整えている。さらに、コロナ禍をきっかけにオンライン布教が広まり、Zoomなどを活用した聖書研究会が定着した。これにより、物理的な距離を超えて世界中の人々に信仰を伝えることが可能となった。

社会的課題と法的問題

エホバの証人は、宗教の自由をめぐる法的問題にも直面している。一部のでは活動が制限され、特にロシアでは過激派組織と見なされ、布教が禁止された。フランスベルギーではカルト認定を受けるなど、各の政府との関係が緊張する場面もある。一方で、アメリカやヨーロッパの裁判では、信教の自由を守る判決が下されることも多く、法廷闘争が彼らの信仰の権利を守る手段の一つとなっている。

エホバの証人の未来はどこへ?

時代とともに変化しながらも、エホバの証人はその核的な信念を守り続けている。デジタル技術を駆使した布教の進化、法的な挑戦への対応、そして信者の世代交代が進む中で、組織は新たな課題に向き合っている。21世紀において、彼らの教えはどのように社会と共存していくのか──それは、信者と外部の世界の関係性によって形作られることになるだろう。