カブール

基礎知識
  1. 古代から中世に至るカブールの起源と形成
    カブールは紀元前に遡る歴史を持ち、シルクロードの重要な要所として多くの文明の交差点となってきた都市である。
  2. イスラムの到来とカブールの宗教的変遷
    7世紀にイスラムが広がり、カブールはその後イスラム文化仏教ヒンドゥー教の影響が共存する多宗教的な都市となった。
  3. ムガル帝とカブールの黄時代
    カブールは16世紀にムガル帝の支配下で発展し、商業、建築文化の中心地として栄華を極めた。
  4. 19世紀イギリス・アフガン戦争とカブールの政治的影響
    イギリスとの三度のアフガン戦争を経て、カブールは外交的・軍事的な要衝としての重要性を増し、地域の政治に大きな影響を与えた。
  5. 現代史と戦争によるカブールの変容
    1970年代以降の冷戦期、ソ連侵攻、内戦、タリバン政権など、カブールは現代史においても激しい戦争と復興を繰り返している都市である。

第1章 カブールの黎明期と古代文明

シルクロードの交差点、カブール

カブールは、はるか紀元前から中央アジアと南アジアを結ぶシルクロードの要所として栄えた都市である。古代ペルシアやインド、さらにギリシャ文明など多様な文化が交錯し、旅人や商人が行き交う拠点だった。商人たちはカブールの市場で珍しい香料や宝石を取引し、彼らがもたらす異文化の影響がこの街の文化を豊かにした。アレクサンドロス大王の遠征でカブールもその勢力圏に入り、ギリシャ文化が一時的に広がったことが、後にカブールの地に建設された建物や美術にも影響を与えている。カブールは常に異文化が交わる場であり、豊かな文明の種が蒔かれていったのだ。

ガンダーラ文化の花開く地

カブールを中心とした地域では、紀元前後にガンダーラ文化が隆盛を迎える。ガンダーラ仏教が広まった地域として知られ、特にギリシャインド文化が融合した独特の仏教美術で有名である。カブールの僧侶たちはこの新しい仏教思想を取り入れ、多くの寺院や仏像が建てられた。ギリシャ風の衣装や顔立ちを持つ仏像は当時の文化交流の証であり、カブールはこのガンダーラ文化の中心の一つだった。現在も残る古代の仏教遺跡は、カブールがいかにして多様な思想と信仰を受け入れ、育んできたかを物語っている。

王国の争奪戦とカブールの重要性

紀元後の時代、カブールは多くの王や帝にとって争奪の的となった。特にサーサーン朝ペルシアやクシャーナ朝がこの地域に目を向けた背景には、カブールが地理的にも経済的にも重要な位置にあることがあった。クシャーナ朝の王たちはこの地で商業活動をさらに活性化させ、東西の貿易を奨励した。カブールの支配権を握ることで、各王シルクロード全体への影響力を拡大しようと試みた。こうしてカブールは政治的・経済的な中心地としての役割を果たし、地域全体の覇権を巡る重要な舞台となったのである。

古代の市場と日常生活

カブールの市場は、常に活気にあふれ、多くの商人と商品が集まる場所であった。香辛料、宝石、属製品などが並び、異の言語が飛び交っていた。ここでは商人や職人、旅人が情報を交換し、カブールの市場はまさに情報と文化のハブであった。古代の人々はここで他の都市や遠方の々の話を聞き、遠く離れた世界への想像を膨らませた。市場に立ち寄ることで、カブールの住民も異文化への関心を深め、自らの暮らしを豊かにしていった。市場は単なる商業の場以上に、人々の生活とが交わる場所であったのだ。

第2章 多宗教とカブール—仏教からイスラムまで

仏教の開花と精神的中心地

紀元前後、カブールは仏教の重要な中心地として大きく発展した。アショーカ王が仏教を広めるべくカブールに仏教の寺院や僧院を建て、多くの僧侶たちが集まり学びの拠点が生まれた。仏教の教えはこの地に平和と共生の思想をもたらし、瞑想や学問が尊ばれた。ガンダーラ様式と呼ばれるギリシャ風の彫刻技術を用いた仏像が誕生し、瞑想する姿や優雅な表情が表現された。人々は仏教の教えに耳を傾け、心の平安と知恵を求め、カブールは精神的な豊かさを育む地となった。

ヒンドゥー教の到来と神話の息吹

仏教が栄えた後、ヒンドゥー教文化もカブールに流れ込んできた。北インドから伝わったヒンドゥー教は、話や叙事詩を通して人々の心を魅了した。特に「ラーマーヤナ」や「マハーバーラタ」などの物語は、カブールの人々にも語り継がれ、街の文化の一部となった。これにより、ヴィシュヌシヴァといった々の影響が深く根付くようになり、寺院や祭りが行われるようになった。ヒンドゥー教の色彩豊かな信仰は人々の生活に新たな彩りを与え、カブールは多様な宗教を共存させる都市へと変わりつつあった。

イスラム教の拡大と新たな信仰

7世紀に入ると、イスラム教がアラビア半島から急速に広がり、ついにカブールにも到達した。イスラム教の到来は、この都市に大きな変革をもたらした。ウマイヤ朝の拡大政策により、カブールにもイスラムの信仰が浸透し始めた。イスラム教は一教の教えを広め、(アッラー)への絶対的な信仰を人々に説いた。モスクが建設され、礼拝や断食といった教えが日常生活の中に取り入れられていった。これによりカブールは、新たな宗教的規律と精神価値観を吸収し、多様な宗教が共存する場所として独自の文化的な色を深めていった。

共存と融合の街・カブール

カブールは、仏教ヒンドゥー教イスラム教という異なる宗教が共存する街として成長を続けた。各宗教の信者たちは共に暮らし、それぞれの信仰や習慣を尊重し合いながら生活していた。市場には多様な民族や宗教の人々が集まり、異なる言葉が飛び交い、活気に満ちていた。特に祭礼や宗教行事では、さまざまな信仰文化が一堂に会し、人々の生活を彩っていた。こうしてカブールは、さまざまな信仰が混じり合いながらも調和を保ち、豊かな多文化社会を築き上げたのである。

第3章 イスラム王朝と文化の交流

ガズナ朝の登場と新たな支配

10世紀、カブールは新興のガズナ朝の支配下に入り、イスラムの影響がさらに深まった。王朝の創始者マフムード・ガズナヴィは勇猛な将軍であり、中央アジアからインド北部まで支配を広げた。彼は数多くの学者や詩人を都に招き、カブールを知識文化の発信地へと変貌させた。ガズナ朝のもと、科学や文学、哲学が活発に議論され、多くの書物アラビア語やペルシア語で記された。マフムードの遠征と統治により、カブールは知識の宝庫となり、学問が尊ばれる都市として新たな地位を築き始めたのである。

ゴール朝の支配と交易の発展

ガズナ朝に続いてカブールを支配したのはゴール朝である。ゴール朝の君主たちは交易に積極的で、シルクロードを通じて西アジア、インド、そして中国との交流をさらに促進した。ゴール朝時代、カブールはシルクロードの重要な交易拠点として多くの商人が集まり、香辛料、宝石、さらに紙や工芸品などさまざまな物品が売買された。これにより都市はさらに活気を増し、多様な文化や思想が行き交う場となった。ゴール朝の支配によってカブールは繁栄し、多くの人々の憧れを集める地となったのである。

カブールのモスクと建築の美

カブールにはガズナ朝やゴール朝の時代に建てられた壮麗なモスクや宮殿が数多く存在した。特にガズナ朝時代の建築物は、イスラム美術の細やかな装飾と工夫が凝らされ、訪れる人々の目を奪った。モスクには幾何学模様のタイルやアラベスク模様が施され、アーチやミナレットが立ち並ぶその風景は、イスラム建築の美を象徴していた。ゴール朝時代にも新たな建物が建設され、カブールは建築文化の中心としても栄えた。建築家たちは各地から技術を学び、街全体がまるで芸術作品のように輝いていた。

学問と詩の都、カブール

ガズナ朝やゴール朝の支配下で、カブールは学問と詩の都として名声を高めた。特にガズナ朝時代には詩人フェルドウスィーが『シャーナーメ』という叙事詩を書き上げ、王宮で高く評価された。カブールの学者たちは天文学や数学医学などの分野でも優れた業績を上げ、多くの知識がここで蓄えられた。カブールは知識人や詩人が集う場所となり、互いに思想を語り合い、刺激し合った。このようにして、カブールは東洋と西洋の知識が交差する知の中心地としての魅力をますます深めていった。

第4章 ムガル帝国とカブールの繁栄

バーブルとカブールへの愛

ムガル帝の創始者バーブルは、カブールを特別に愛した王である。彼は16世紀初頭、インド征服の拠点としてカブールを選び、この地で多くの時間を過ごした。美しい庭園や洗練された建築物を愛したバーブルは、カブールに庭園をいくつも築き、そのうちいくつかは今日も「バーブルの庭」として人々に親しまれている。詩や文学にも造詣が深かったバーブルは、ここで『バーブル・ナーマ』という自伝を記し、カブールでの生活や自然の美しさを詩的に表現した。彼の愛情は、カブールの文化に豊かさと洗練をもたらしたのである。

経済の活性化と交易の拠点

ムガル帝の支配下でカブールは経済の中心地としても発展を遂げた。インドと中央アジアを結ぶ重要な交易路に位置するカブールは、香辛料、宝石などの価値ある品々が集まる交易拠点となった。ムガル帝はこうした商業活動を保護し、カブールの市場には異の商人が頻繁に訪れるようになった。これにより、カブールの経済は活性化し、都市はますます豊かに発展した。商業の隆盛によって人々の生活準も向上し、カブールは商人たちのを実現する地となっていった。

芸術と建築の華

ムガル帝時代、カブールの街並みは華麗な建築物と芸術作品で彩られた。特にムガル建築は、インド、ペルシア、中央アジアの様式が融合したもので、モスクや宮殿、庭園が美しく装飾されていた。アーチやドーム、緻密な模様のタイルが特徴で、訪れる人々を魅了した。バーブルの後継者たちはこの芸術の発展を支援し、カブールを文化の中心として整備していった。美しい庭園や宮殿が次々と建設され、カブールは訪れる者を圧倒する美しさと独特の雰囲気を備えた都市へと変貌を遂げた。

多文化と知識の融合

ムガル帝時代のカブールは、異なる文化知識が交差する多文化都市でもあった。ムガル帝はさまざまな文化宗教に寛容であり、カブールにもイスラム教ヒンドゥー教仏教など多様な信仰の人々が共存していた。学者や詩人も数多く集まり、文学や哲学の議論が盛んに行われた。インドやペルシア、中央アジアの知識人が交流する中で、カブールは学問と芸術の都として発展を続けた。こうしてカブールは異なる背景を持つ人々が共に暮らし、文化知識が交わる場所として、豊かな都市文化を築き上げた。

第5章 19世紀の紛争とイギリス・アフガン戦争

イギリスの野望とアフガニスタン

19世紀初頭、イギリスインドの支配を拡大し、ロシアと中央アジアの覇権争いを繰り広げていた。アフガニスタンは、イギリスロシアの間に位置する戦略的な要衝と見なされ、イギリスアフガニスタンを影響下に置くことで、ロシアの南下を防ごうと考えた。1839年、イギリスは第1次アフガン戦争を開始し、カブールに進軍するが、地元の強い抵抗に直面する。厳しい環境やアフガニスタンの民衆の抵抗により、イギリスは大きな損失を被り、カブールを放棄することとなった。この戦争イギリスの帝主義が初めて挫折を味わった歴史的な事件であった。

抵抗と反乱、カブールの戦い

第1次アフガン戦争で、カブールの人々はイギリスに対する強い抵抗を見せた。特に1841年には、カブール市民の大規模な反乱が勃発し、イギリス軍の駐屯地が襲撃された。アフガニスタンの民族指導者や市民が団結して戦い、イギリス軍にとってカブールは占領困難な都市であることを証明した。最終的にイギリスは撤退を余儀なくされ、ほとんどの部隊がカイバル峠で殲滅された。この出来事は「英史上最の敗北」として語り継がれ、カブールの強固な抵抗が歴史に深く刻まれることとなった。

第2次アフガン戦争とその余波

1878年、ロシアの影響力拡大に危機感を抱いたイギリスは再びアフガニスタンに介入し、第2次アフガン戦争を勃発させた。今度は最新の武器と軍事戦略を駆使してカブールを占領するが、依然として現地民の反抗は強力であった。イギリスアフガニスタンの外交権を掌握するも、内統治は現地の君主に委ねる形で妥協する。こうしてアフガニスタンは一時的にイギリスの影響下に置かれたが、自治を許されることで民の反発を和らげた。この戦争の終結は、イギリスアフガニスタンの完全な支配には至らなかったことを示していた。

カブールの不屈の精神

アフガニスタンの人々は、度重なる戦争と外部からの干渉に直面しながらも、強い誇りと独立心を守り続けた。カブールの市民はたびたび反乱や抵抗を行い、イギリスや他の支配を拒み、自由を渇望していた。カブールの街並みには戦いの跡が残り、市民たちの不屈の精神が表れていた。彼らの勇気は周辺にも知られ、カブールは抵抗の象徴となった。アフガニスタンの歴史において、カブールはただの都市以上に、自立と誇りを体現する場所となり、将来の独立運動に大きな影響を与えていった。

第6章 20世紀初頭の近代化と変革

変革を志す王、アマーヌッラー・ハーン

1920年代、アフガニスタンの王アマーヌッラー・ハーンはの近代化を目指して大胆な改革を始めた。ヨーロッパを訪れた彼は、産業や教育の発展に驚き、アフガニスタンも新たな時代にふさわしいづくりが必要だと感じた。帰後、彼は教育改革やインフラ整備、女性の権利拡大を推進し、カブールに新しい大学や学校を設立した。彼のビジョンは大胆で、近代国家を目指すアフガニスタンの人々に希望を与えたが、急速な変化は一部の保守的な勢力にとって受け入れ難いものでもあった。彼の改革の意欲は、カブールを新しい未来へと導く原動力となった。

新しい建物と都市の変貌

アマーヌッラー・ハーンの改革はカブールの都市計画にも影響を与えた。近代的な建物や道路が建設され、特に彼の治世に建てられた「ダルラマン宮殿」は、近代化の象徴として壮麗な姿を見せた。この宮殿はヨーロッパ建築様式を取り入れ、カブールの風景に新しい美しさと象徴をもたらした。さらに、病院や公共施設も整備され、都市インフラの基礎が築かれた。市民の生活は大きく変わり、カブールは新しい時代にふさわしい、成長する都市へと発展を続けた。この変貌は、アフガニスタンが世界と繋がる準備を進めていることを示していた。

教育と女性の解放運動

アマーヌッラー・ハーンは教育制度の改革を行い、特に女性の教育に力を入れた。彼は女性が教育を受ける権利があると主張し、カブールに女子学校を設立した。また、女性の服装や結婚に関する伝統的な規制の緩和も行い、女性たちの社会進出が進んだ。この動きは、多くの女性にとって自立と学びの機会をもたらし、家族や地域社会にも大きな変化をもたらした。カブールの女性たちは新しい役割を担い、社会での存在感を高めていった。こうした動きは、当時のアフガニスタンにおいて先進的なものであり、女性の権利向上の礎となった。

保守派の反発と改革の終焉

アマーヌッラー・ハーンの急速な改革は、多くの人々の生活を豊かにする一方で、保守的な勢力には大きな反発を引き起こした。特に伝統的な生活様式を重んじる層にとって、王の近代化は急激すぎ、社会の均衡を崩すものであると感じられた。この不満が次第に広がり、1929年には反乱が発生し、アマーヌッラー・ハーンは退位を余儀なくされた。彼の改革は途中で終わりを迎えたが、その遺産は後の世代にも影響を与え続けた。カブールには近代化の基盤が残り、アフガニスタンが再び変革に挑む時、彼の志は再び息を吹き返すこととなる。

第7章 冷戦時代とソ連の影響

冷戦の火種、カブールの運命

20世紀後半、冷戦の舞台はアフガニスタンにも広がり、アメリカとソ連が対立する中でカブールも巻き込まれていった。アメリカとソ連はそれぞれの影響力を拡大するため、カブールの政府と関係を強めようと試みた。1978年、アフガニスタンで共産主義を支持する勢力がクーデターを起こし政権を掌握、ソ連はこれを支持した。しかし、共産主義政権は内で強い反発を招き、内戦が勃発する。カブールは、冷戦の緊張が高まるなか、地元勢力と大の思惑が複雑に絡み合う場所へと変貌していった。

ソ連軍の侵攻とカブールの占領

1979年、ソ連はアフガニスタンへの軍事介入を決定し、カブールを含む各都市へ軍を派遣した。カブールの街には装甲車や兵士があふれ、都市の風景は一変する。ソ連の侵攻は、アフガニスタンの共産主義政権を支援するためと説明されたが、実際には民の強い抵抗に遭った。市民やムジャーヒディーン(反ソ連武装勢力)はゲリラ戦術を駆使して戦い、カブールの通りは激しい戦闘の場と化した。ソ連にとってもこの占領は長期戦となり、カブールでの戦いはソ連軍に多大な損害と厳しい現実を突きつけた。

日常と戦火の狭間

ソ連の占領下で、カブールの市民生活は一変した。物資が不足し、外出時には常に軍の検問に遭うなど、日常は緊張に包まれていた。多くの学校や公共施設は閉鎖され、住民は戦闘の危険から避難生活を余儀なくされることも多かった。しかし、そのような中でもカブールの人々は日々を生き抜こうとした。家族や友人と支え合い、残されたわずかな娯楽や安らぎを見つけることが、人々の心の支えとなった。戦争の影響は否応なく生活に入り込みながらも、カブール市民はその困難を耐え抜き、日常を取り戻そうと努力し続けたのである。

ソ連撤退とアフガニスタンの未来

1989年、ソ連は長期にわたる戦争の末、ついにアフガニスタンからの撤退を決定し、カブールから軍を引き上げた。撤退の背景には、予想以上の反抗に遭い、消耗が続いたことがあった。カブールの市民はこの撤退に歓喜したが、同時に不安も抱えていた。ソ連撤退後のアフガニスタンには、異なる勢力が権力を巡って争う不安定な状況が残された。カブールの人々は平和な日常を取り戻すことを望んでいたが、その未来には再び厳しい試練が待ち受けていたのである。

第8章 タリバン政権と宗教的統治

タリバンの台頭とカブールの変貌

1990年代、ソ連撤退後の混乱を経て、タリバンがアフガニスタンで急速に勢力を拡大し、1996年にカブールを制圧した。タリバンは秩序を取り戻すと称し、イスラム法(シャリーア)に基づく厳格な統治を行うと宣言した。タリバンの到来により、カブールは瞬く間に変貌を遂げ、イスラム法に基づいた新たな社会が築かれた。市民は女性の服装や娯楽の制限など、多くの規則を強いられ、日常生活に大きな影響が生じた。タリバンの統治下でカブールは自由を制限された都市と化し、市民の生活はかつてないほど厳しいものとなった。

女性と教育、制限された未来

タリバンの支配下で、特に大きな影響を受けたのは女性と子どもたちである。女子の学校教育はほぼ全て禁止され、女性は仕事や外出時に厳格な規則を守るよう求められた。カブールの女性たちは公共の場での自由を失い、社会から隔離される形となった。女子教育の機会が奪われたことで、未来に希望を抱いていた多くの少女たちのが断たれた。学校が閉鎖される中、一部の家族やコミュニティは地下での教育を密かに続け、女性と教育への権利を守り抜こうとする動きが見られた。カブールは、女性たちにとって過酷な試練の場となった。

日常と娯楽の消失

タリバン政権下で、カブールの人々は日常生活の楽しみをほとんど奪われた。音楽映画スポーツ、さらにはテレビ視聴までが禁止され、人々は日常の喜びや娯楽の多くを失った。街中にはタリバンの監視員が巡回し、少しの違反も容赦なく罰せられたため、カブール市民は絶え間ない緊張感の中で生活を送ることとなった。娯楽を奪われたカブールは活気を失い、暗い沈黙に包まれた街へと変わり果てた。市民たちはこの厳しい環境の中でも日常のささやかな幸せを見つけようと努めたが、その多くが消えてしまっていた。

宗教的統治と市民の葛藤

タリバンはイスラムの名のもとに厳格なシャリーア法を施行し、市民に規律を強いたが、多くのカブール市民はこの厳しさに疑問と反発を抱いていた。イスラムの価値観は尊重されつつも、多くの市民にとってタリバンの解釈は過剰であり、宗教と社会の調和が崩れたと感じていた。特に伝統的に自由を尊重してきたカブールの人々にとって、急激な変化は大きな苦痛となった。それでも、市民は宗教と個人の信念を大切にしながら、日々の生活を送ろうとした。この葛藤がカブールの未来を模索するための試石となり、やがて新しい道を模索する契機へとつながっていった。

第9章 戦後復興と国際社会の関与

戦争からの復興への第一歩

2001年、タリバン政権の崩壊後、アフガニスタン戦争で傷ついたの再建に向けて動き出した。カブールには再び平和が訪れ、多くの市民が日常を取り戻すべく働き始めた。破壊された建物やインフラの修復が進められ、街のいたる所で建設作業が行われた。長い戦争の後、ようやく人々が家族と共に安らぎを取り戻せる瞬間が訪れたのだ。しかし、復興は決して簡単ではなく、道路や建物だけでなく、市民の心にも深い傷跡が残されていた。カブールの街は、再建を通して希望と再生の象徴となっていった。

国際援助の到来とその影響

カブールの復興には、際社会からの多大な支援が寄せられた。アメリカやヨーロッパ、日などから多くの援助が届き、インフラ整備や教育の向上、医療の提供に力が注がれた。カブールには際機関のオフィスや非政府組織NGO)の活動拠点が増え、多くの外人が支援活動に参加した。際社会の支援はカブールの経済を活気づけ、市民生活の改に貢献した。しかし同時に、外部からの干渉に対する警戒心も生まれ、市民の中には複雑な思いを抱く人々も多かった。復興は希望を与えると同時に、新たな課題も生み出した。

未来のための教育と雇用

復興期のカブールにおいて、特に重要視されたのが教育と雇用であった。教育機関の再建が進み、多くの子どもたちが学校に通えるようになり、若者が学びと成長の場を取り戻した。大学や職業訓練施設も整備され、カブールの若者たちは新たなスキルを身につけ、未来への希望を持って働き始めた。女性も教育の場に戻り、社会での役割を取り戻す動きが見られた。雇用の創出も進み、経済的な自立を目指す人々の意欲がカブールに新しい活気をもたらした。教育と雇用は、戦争で途絶えていた未来への道を再び拓く重要な柱となった。

新しいカブールの始まり

復興が進む中、カブールは戦争の影を脱し、新たな時代の幕開けを迎えた。新しいビルや商業施設が次々と建てられ、カフェやレストランには活気が戻り、街には再び人々の笑顔が溢れた。伝統とモダンが共存するカブールは、アフガニスタン未来象徴する都市としてその存在感を増していった。市民たちは、自らの手で築き上げる新しい都市を誇りに感じ、日々の努力で街の発展に貢献していた。戦後の荒廃から復興を遂げたカブールは、平和と共存を象徴する新しい都市へと変貌を遂げたのである。

第10章 現代カブールと未来への展望

都市の新たな課題と希望

カブールは復興と成長を遂げたが、現代には新たな課題が立ちはだかっている。インフラの未整備や交通渋滞、人口増加による住宅不足など、都市が抱える問題は多岐にわたる。さらに、際的な援助に依存してきた経済も、今後の安定には独自の成長が必要である。しかし、こうした課題に直面する中でも、カブールの若者たちは未来を築こうと学び続け、新しい技術やビジネスの可能性に挑戦している。カブールはこの挑戦を乗り越え、さらなる発展と平和未来を目指して進化を続けている。

文化と伝統の再発見

戦争や変革の中で失われかけていた伝統文化が、現代カブールで再び注目を集めている。伝統的なアフガン音楽や手工芸、絨毯の織物など、古くから受け継がれる技術が若い世代によって見直されているのだ。これらの文化遺産は、カブールが持つ豊かな歴史の象徴であり、地元の人々にとって誇りである。また、こうした伝統が観光や工芸品として再び世界に広まることで、地域経済の活性化にもつながっている。カブールは、伝統と現代が融合する独特の文化都市として、未来への基盤を築き上げている。

国際社会との関係再構築

カブールは今、際社会との新しい関係を模索している。これまでのように援助を受けるだけでなく、独立した経済基盤を築き、輸出や観光業を通じて他との関係を発展させることが目標である。特に教育や医療分野での際協力が進み、若者たちが世界との交流を通じて多くを学んでいる。また、カブールは地域の平和と安定を保つ重要な役割を果たすため、近隣諸との外交にも力を入れている。こうしてカブールは、際社会において自立しながらも関係を築く新たなステージに向かっている。

未来へのビジョン

カブールは、新たな世代と共に持続可能な未来を目指している。市民や若者たちは環境保護や持続可能な都市づくりに関心を寄せ、再生可能エネルギーやリサイクル技術の導入を推進している。また、ITや農業技術などの分野でも革新が進み、カブールはアフガニスタン全土の発展をけん引する存在となろうとしている。人々は都市の課題に真正面から向き合い、教育技術を活用して新しい道を切り開こうと奮闘している。カブールは未来に向かい続ける活気に満ちた都市であり、その歩みは希望の象徴となっている。