基礎知識
- イギリス帝国の形成と拡大
イギリス帝国は16世紀末の海外進出から始まり、19世紀には世界最大の植民地帝国として君臨した。 - 経済と産業革命の影響
18世紀後半からの産業革命がイギリスの経済力を強化し、植民地支配を支える要因となった。 - 帝国の統治システムと植民地政策
イギリスは間接統治や自治領制度を活用し、多様な地域を効率的に支配したが、反発も招いた。 - 帝国の衰退と脱植民地化
20世紀に入り、二度の世界大戦を経てイギリスの国力は低下し、植民地の独立運動が加速した。 - 文化的影響と遺産
英語の普及、議会制度、法体系、スポーツなど、イギリス帝国は多くの文化的遺産を世界に残した。
第1章 イギリス帝国の誕生:大航海時代と初期の植民地
海の覇者を目指して
16世紀、イギリスは小さな島国であったが、海を越えた新世界への夢を抱いていた。大航海時代をリードしていたのはスペインとポルトガルであり、彼らはすでに南米やアジアで莫大な富を得ていた。エリザベス1世の治世に入ると、イギリスも海洋進出を本格化させた。冒険家フランシス・ドレークはスペインの艦隊を翻弄しながら世界一周を果たし、財宝を持ち帰った。1577年から始まった彼の航海は、イギリスが海の覇権を狙うことを世界に示す象徴となった。だが、これらの冒険は単なる探検ではなく、ヨーロッパの列強との激しい競争の始まりであった。
東インド会社の誕生
1600年、エリザベス1世はイギリス東インド会社に勅許状を与えた。この組織は単なる貿易会社ではなく、軍事力を持ち、外交を行い、現地の政治にも関与する準国家的存在へと成長した。当初の目的はインドや東南アジアの香辛料貿易であり、オランダやポルトガルと競争を繰り広げた。1612年にはムガル帝国との間でスーラトに最初の拠点を築き、次第にインド支配への足がかりを作っていった。イギリスが単なる貿易国から帝国へと変貌する第一歩は、まさにこの会社の設立にあった。商業と軍事を結びつけた戦略が、後の世界覇権への道を切り開いたのである。
新世界への挑戦
イギリスの植民地拡大は、北アメリカへの進出から始まった。1607年、バージニア植民地のジェームズタウンが建設された。厳しい環境と先住民との衝突に苦しみながらも、タバコ栽培の成功によって経済基盤が確立された。さらに、1620年にはピューリタンの一団がメイフラワー号でアメリカに渡り、プリマス植民地を築いた。彼らは宗教的自由を求めて新天地に渡ったが、現地の先住民との交流や厳しい冬の試練を経て、生き延びる道を見つけた。こうした初期の入植は、イギリス帝国の拡大とアメリカ史の幕開けを告げるものであった。
海賊、交易、そして帝国の胎動
イギリスの海洋進出は、貿易だけではなく海賊行為とも深く結びついていた。エリザベス1世は「私掠船」として海賊に許可を与え、スペインの銀船を襲撃させた。ドレークやジョン・ホーキンズのような海賊たちは、莫大な戦利品をイギリスにもたらし、王室の財政を潤した。一方で、カリブ海ではジャマイカやバルバドスなどの植民地が発展し、砂糖や奴隷貿易が帝国経済の柱となっていった。海賊行為から合法的な貿易、そして植民地経営へ――こうしてイギリスは大西洋を支配し、帝国の礎を築き始めたのである。
第2章 大英帝国の拡張:覇権の確立と18世紀の戦争
七年戦争:世界を巻き込んだ対決
1756年、イギリスとフランスは全世界を舞台にした「七年戦争」に突入した。この戦争はヨーロッパだけでなく、北アメリカ、カリブ海、アフリカ、インドまで戦場を広げた。ウィリアム・ピットの指導のもと、イギリスは海軍力を活かしてフランスの補給線を断ち、戦況を有利に進めた。カナダのケベックでは1759年の「アブラハム平原の戦い」でイギリス軍がフランス軍を破り、北アメリカの支配権を確立した。最終的に1763年のパリ条約でフランスはカナダとインドの大半を失い、イギリスは世界の超大国への道を歩み始めた。
プラッシーの戦いとインド支配の始まり
イギリスのインド支配の鍵を握ったのは、1757年の「プラッシーの戦い」であった。イギリス東インド会社のロバート・クライヴ率いる軍勢は、ムガル帝国の属国であるベンガル太守の軍を破った。この戦いの勝利は、単なる軍事的成功ではなかった。イギリスはベンガルの富を手にし、以降のインド支配の基盤を築いた。東インド会社は軍隊を持ち、税収を管理し、事実上の政府として機能するようになった。インドの商業ネットワークを支配することで、イギリスは経済的にも軍事的にもインドを自らの帝国に組み込んでいったのである。
アメリカ独立戦争への影響
七年戦争の勝利により、イギリスは広大な領土を獲得したが、その維持には莫大な財政負担がかかった。この財政難を補うため、イギリスは北アメリカの植民地に新たな課税を試みた。1765年の「印紙法」や1773年の「茶法」により、植民地の人々は「代表なくして課税なし」と抗議し、1775年にアメリカ独立戦争が勃発した。皮肉にも、七年戦争で得た勝利が新たな危機を招き、最終的にイギリスは1783年のパリ条約で北アメリカの植民地を失った。しかし、この敗北は帝国の終焉ではなく、新たな植民地経営への転換点となったのである。
カリブ海と奴隷貿易の拡大
18世紀のイギリス経済は、カリブ海の砂糖プランテーションと大西洋奴隷貿易に大きく依存していた。ジャマイカやバルバドスの農園では、アフリカから強制的に連れてこられた奴隷たちが酷使された。ロンドンやブリストルの商人たちは、奴隷を西アフリカからアメリカへ送り、砂糖やタバコをヨーロッパへ輸送する「三角貿易」で莫大な利益を上げた。だが、18世紀末には奴隷制度への批判が高まり、ウィリアム・ウィルバーフォースらの努力により奴隷貿易廃止運動が広がった。こうしてイギリス帝国の拡張と経済成長の裏には、過酷な現実が隠されていたのである。
第3章 産業革命と帝国経済の発展
蒸気機関がもたらした革命
18世紀後半、イギリスの工場に轟音が響き渡るようになった。ジェームズ・ワットが改良した蒸気機関は、製造業を一変させた。従来の水車や風車に頼る必要がなくなり、工場はどこにでも建てられるようになった。特にマンチェスターやバーミンガムでは繊維産業が急成長し、「世界の工場」と呼ばれるほどになった。綿花はインドやアメリカのプランテーションから輸入され、機械化された紡績工場で大量の布地に加工された。こうしてイギリスの産業は加速し、世界市場への支配力を強めることとなったのである。
鉄道と海運:帝国をつなぐ動脈
蒸気機関の革新は陸海の輸送手段も劇的に変えた。1825年、ジョージ・スティーブンソンの設計した世界初の鉄道が開通すると、各地に鉄道網が広がった。これにより物資の輸送が飛躍的に向上し、植民地との貿易も加速した。一方で海運の分野では、ブリュネルの設計した蒸気船が大西洋を横断し、航海時間を大幅に短縮した。1869年にスエズ運河が開通すると、インドやアジアへの航路が格段に短くなり、イギリスの経済的覇権はさらに強固なものとなった。帝国は鉄と蒸気の力で結びつけられたのである。
自由貿易と植民地経済の変貌
19世紀前半、イギリスは「自由貿易」を推進し、世界市場を開放させることに注力した。1846年、コブデンらの尽力により穀物法が廃止され、輸入食糧が安くなり労働者の生活も改善された。一方で、植民地ではイギリスの需要に応じた生産が求められた。インドでは綿花、マレーシアではゴム、西インド諸島では砂糖が栽培され、帝国経済を支えた。これにより現地経済はイギリスへの依存を深めたが、同時に伝統的な産業が衰退し、社会構造の変化を引き起こすこととなった。
アヘン戦争と中国市場の開放
イギリスは19世紀、中国の広大な市場を支配しようとした。だが、清朝は外国との貿易を厳しく制限していた。そこでイギリス商人たちは、インドで生産したアヘンを密輸し、中国人の間で中毒を広げた。1839年、清朝はアヘンを取り締まり、これに怒ったイギリスは軍を派遣して「アヘン戦争」が勃発した。最新鋭の蒸気船と大砲を備えたイギリス軍は圧勝し、1842年の南京条約で香港を獲得し、中国市場を開放させた。この戦争は、イギリスが軍事力を背景に世界経済を牛耳る時代の幕開けを示していたのである。
第4章 イギリス帝国の統治構造と植民地政策
帝国のルール:間接統治と直接統治
イギリス帝国の支配方法は、植民地によって大きく異なった。インドやナイジェリアでは「間接統治」が採用され、地元の王や首長がイギリスの管理のもとで支配を続けた。一方、ケニアやジャマイカではイギリス人官僚が直接統治を行い、植民地政府が法律を制定した。この柔軟な統治方法は、一見すると安定しているように見えたが、現地の文化や伝統を大きく変え、後の独立運動の火種となった。イギリスは支配のためのシステムを作り上げたが、それは同時に反発を生むものでもあったのである。
インド統治とヴィクトリア朝の野望
1858年、インド大反乱の鎮圧後、東インド会社の統治は終わり、インドは正式にイギリスの植民地となった。ヴィクトリア女王は「インド女帝」となり、イギリスはムガル帝国の残存勢力を抑えながら新たな支配体制を築いた。鉄道網が整備され、カルカッタやボンベイは商業の中心地となった。しかし、イギリスの統治はすべての人に恩恵をもたらしたわけではなかった。イギリスの産業革命に貢献するため、インドの経済は植民地向けに最適化され、現地の織物産業は壊滅的な打撃を受けたのである。
自治領の誕生:カナダ、オーストラリア、南アフリカ
19世紀後半、イギリスは植民地の一部に自治権を与え始めた。1867年の「カナダ自治領法」により、カナダはイギリスの支配下にありながら独自の政府を持つことを許された。同様に、オーストラリアやニュージーランドも自治領として発展し、イギリス帝国の一部でありながら高い独立性を持つようになった。南アフリカではボーア戦争後、1910年に「南アフリカ連邦」が誕生した。これらの自治領は、イギリス帝国の新たな形態を示し、後の独立への布石となったのである。
帝国支配の影と光
イギリス帝国の統治は、広範な影響を世界に与えた。英語が世界共通語として広まり、イギリス式の法律や教育制度が各地に根付いた。しかし、その一方で、支配下の人々は自由を奪われ、経済や社会の発展がイギリス本国の利益に合わせられた。アフリカやアジアの多くの地域では、イギリスの統治が植民地の人々の生活を大きく変えた。帝国の統治は、近代国家の形成に影響を与えた一方で、不平等と搾取の歴史も刻み込んでいたのである。
第5章 帝国の中の人々:支配、抵抗、協力
インド大反乱:支配への最大の挑戦
1857年、インド兵(セポイ)の反乱がイギリス支配を揺るがせた。発端は、弾薬に使われた牛脂と豚脂がヒンドゥー教徒とイスラム教徒の信仰を冒涜するものであったことだが、反乱の背景には長年の不満があった。ムガル皇帝バハードゥル・シャー2世を担いだ反乱軍はデリーを占拠し、各地でイギリスの支配に挑んだ。しかし、組織的な戦力の差により、イギリス軍は翌年には鎮圧に成功した。この反乱は、イギリス統治の転換点となり、以降インドは本国政府の直轄統治へと移行することとなった。
アフリカの抵抗運動と戦い
アフリカでもイギリスの支配に対する抵抗は激しかった。19世紀末、ズールー王国のシャカ・ズールーの戦士たちは白人入植者に対抗し、戦いを挑んだ。また、1896年の「マトベレ戦争」では、ローデシア(現在のジンバブエ)の先住民がイギリス南アフリカ会社の支配に反発した。だが、近代兵器を装備したイギリス軍には勝てず、多くの抵抗運動が鎮圧された。それでもアフリカの人々は屈せず、後の独立運動へとつながる意志を燃やし続けた。彼らの戦いは単なる武力衝突ではなく、文化と誇りを守る闘争でもあったのである。
植民地の人々と帝国への忠誠
すべての植民地が反発していたわけではない。カナダ、オーストラリア、ニュージーランドの人々は、イギリス帝国の一員であることに誇りを持ち、第一次世界大戦では本国のために戦った。インドやカリブ海地域からも多くの兵士がイギリス軍に加わり、戦場で命を捧げた。彼らは帝国の一員として戦うことに期待を寄せ、戦後には自治権や市民権の拡大を求めた。しかし、イギリス政府は多くの植民地に対して不平等な扱いを続け、その矛盾が次第に独立運動の火種となっていったのである。
イギリス帝国の影と多文化社会
帝国は支配するだけでなく、文化の交流も生み出した。インド料理のカレーはイギリスの食卓に定着し、英語は世界中で話されるようになった。ロンドンの街にはインド人や中国人のコミュニティが形成され、帝国の影響は本国にも及んだ。しかし、こうした多文化的な融合は、しばしば差別や対立も生んだ。19世紀後半、イギリスでは移民への反発が強まり、帝国内の人々の立場には大きな格差が生じていた。帝国が築いたネットワークは、支配と抵抗、協力と摩擦の入り混じる複雑な歴史を刻んでいたのである。
第6章 19世紀の「パックス・ブリタニカ」と帝国の黄金時代
ヴィクトリア女王と「太陽の沈まぬ国」
1837年、ヴィクトリア女王が即位すると、イギリス帝国は絶頂期へと向かい始めた。彼女の治世は63年に及び、「ヴィクトリア朝時代」として知られる。産業革命が進み、蒸気機関と鉄道が帝国の隅々まで張り巡らされた。イギリスの国力は世界に誇るものとなり、「太陽の沈まぬ国」と呼ばれるほどに広大な領土を支配した。大英博覧会(1851年)では、その技術と文化の繁栄が世界に誇示され、ロンドンは文明の中心として君臨した。この時代、イギリスは単なる国ではなく、世界の経済と政治の支配者であった。
帝国主義の拡大とアフリカの分割
19世紀後半、イギリスはさらなる領土拡大を進めた。特にアフリカでは「スクランブル・フォー・アフリカ」と呼ばれる欧州列強による領土争奪戦が繰り広げられた。1884年のベルリン会議でアフリカ分割のルールが決められると、イギリスはエジプト、スーダン、ケニア、南アフリカなどを支配下に置いた。スエズ運河の確保はインドへのルートを守る鍵となり、南アフリカの金やダイヤモンドはイギリス経済を潤した。この拡張の背後には、「文明化の使命」という大義名分があったが、実際には植民地の資源と労働力を搾取するものであった。
大英帝国を支えた海軍力
イギリスの世界支配を可能にしたのは、その圧倒的な海軍力であった。ネルソンの勝利で知られるトラファルガーの戦い(1805年)以来、イギリス海軍は「世界の警察」として君臨した。海軍は世界の貿易航路を守り、植民地からの物資をイギリス本国へと輸送した。海軍力の象徴は1906年に進水した「ドレッドノート級戦艦」であり、これによりイギリスは海上の覇権をさらに強化した。帝国の繁栄は、この強大な軍事力によって維持され、植民地の秩序を保つ手段ともなっていたのである。
帝国の誇りと内部の矛盾
「パックス・ブリタニカ」(イギリスによる平和)の名のもと、帝国は安定を保っていた。しかし、その裏には数々の矛盾があった。産業革命が生んだ富は一部の階級に集中し、労働者階級や植民地の人々は貧困に苦しんだ。インドやアフリカでは、経済的な繁栄の影で伝統的な産業が破壊され、社会の分断が深まった。また、植民地の人々はイギリスの市民としての権利を持たず、不満が蓄積していった。この黄金時代は確かに繁栄に満ちていたが、その光の中には影も潜んでいたのである。
第7章 帝国の危機:20世紀初頭の変動と第一次世界大戦
ボーア戦争と帝国の不安定化
1899年、南アフリカでボーア戦争が勃発した。オランダ系移民(ボーア人)が築いた南アフリカ共和国とイギリスの間で、金鉱とダイヤモンド鉱山をめぐる争いが激化した。イギリスは近代兵器を駆使して優位に立ったが、ボーア人のゲリラ戦に苦しんだ。最終的に1902年、イギリスが勝利したが、戦費は膨大で、国内の世論も戦争の残虐性に批判的になった。捕虜収容所では数万人のボーア人女性や子供が亡くなり、帝国の道徳的正当性が揺らいだ。この戦争は、イギリスが植民地支配の限界を感じる契機となった。
インドとアイルランド:独立運動の胎動
20世紀初頭、インドとアイルランドでは独立運動が活発化した。インドでは、1905年のベンガル分割令が強い反発を招き、インド国民会議が反英運動を組織した。ガンディーの非暴力抵抗運動もこの時期に芽生えた。一方、アイルランドでは1916年のイースター蜂起が起こり、イギリス軍と武装勢力が激しく衝突した。帝国の内部では、これまでの支配体制に対する疑問が高まり、自治を求める声が強まっていた。イギリスは植民地を維持しようとしたが、抑圧と譲歩の間で揺れ動くこととなった。
第一次世界大戦と帝国の負担
1914年、イギリスはドイツと戦うため第一次世界大戦に参戦した。帝国全土から約800万人の兵士が動員され、インド、アフリカ、オーストラリア、カナダからも多くの兵士が戦場へ送られた。ヨーロッパ戦線では長引く塹壕戦が国力を消耗させ、経済は疲弊した。1917年、ロシア革命の影響を受け、社会主義の波がイギリス国内や植民地にも広がった。戦争が終結する頃には、帝国の支配力は弱まり、戦後の植民地統治はますます困難になっていった。
戦後の帝国と変わる世界秩序
1919年、パリ講和会議でイギリスはドイツの旧植民地を獲得し、帝国の版図は拡大した。しかし、戦争の傷跡は深く、国内では労働者のストライキが頻発し、経済不況が人々を苦しめた。さらに、同年のアムリットサル事件ではインドでの暴動を鎮圧するためにイギリス軍が発砲し、多くの民間人が犠牲となった。これはイギリスの植民地支配に対する世界的な批判を招いた。戦争は終わったが、帝国は内外からの圧力に直面し、次第に揺らぎ始めていたのである。
第8章 第二次世界大戦と帝国の崩壊
戦争の激動とイギリスの衰退
1939年、ナチス・ドイツのポーランド侵攻を受け、イギリスは再び戦争に突入した。世界各地の植民地も戦争に巻き込まれ、インド、アフリカ、オーストラリアの兵士たちはイギリス軍とともに戦った。しかし、1940年のフランス陥落後、イギリスは孤立し、ロンドンはドイツ軍の空襲(ブリッツ)にさらされた。一方、アジアでは日本軍がマレー半島やシンガポールを占領し、イギリスの植民地支配が脆弱であることを世界に示した。戦争の勝利が見え始める頃には、イギリスは帝国維持の余力を失いつつあった。
インド独立:帝国の転換点
戦争が終わると、イギリスはインドの独立要求に直面した。戦時中、インド国民会議はイギリスに独立を約束させるよう圧力をかけたが、応じられなかった。1942年の「クイット・インディア」運動では、ガンディーやネルーが主導し、大規模な抗議が展開された。戦後、クレメント・アトリー政権は植民地統治の継続が困難と判断し、1947年にインドとパキスタンの独立を承認した。しかし、急速な独立プロセスは混乱を招き、ヒンドゥー教徒とイスラム教徒の対立が激化し、大規模な暴動と難民の流出を引き起こした。
アフリカ独立運動の高まり
インドの独立は、他の植民地にも影響を与えた。特にアフリカでは、戦争中に多くの兵士が従軍し、帰還後に独立を求める動きが活発化した。ガーナではクワメ・ンクルマが独立運動を主導し、1957年にサハラ以南で最初の独立国となった。続いてナイジェリア、ケニア、タンザニアなどが独立を果たした。ケニアではマウマウ反乱が起こり、イギリス軍と激しい戦闘が繰り広げられたが、最終的に1963年に独立を勝ち取った。かつての植民地は次々と主権国家となり、イギリス帝国は急速に縮小していった。
戦後のイギリスと帝国の終焉
1956年、スエズ危機が発生し、イギリスの影響力低下が決定的となった。エジプトのナセル大統領がスエズ運河を国有化すると、イギリスとフランスはイスラエルと共に軍事介入を試みた。しかし、アメリカとソ連の圧力を受け撤退し、イギリスの覇権が終わりを迎えたことを世界に示した。その後、カリブ海や太平洋の植民地も独立し、1997年には香港が中国に返還された。こうして「太陽の沈まぬ国」と呼ばれた大英帝国は、その最後の光を失い、歴史の新たな時代へと移行していったのである。
第9章 イギリス帝国の遺産:言語・文化・制度
世界をつなぐ英語の影響力
イギリス帝国が残した最大の遺産の一つは英語である。かつて植民地であったインド、ナイジェリア、カナダ、オーストラリアなどでは、英語が公用語として根付いた。現代では国際ビジネスや学術研究、インターネットの主要言語となり、世界の共通語の役割を果たしている。ウィリアム・シェイクスピアの作品は世界中で読まれ、BBCのニュースは何百もの国で放送されている。イギリスの影響は、言葉を通じて文化や価値観を広めるという形で今も続いているのである。
議会制度と法の支配
イギリス帝国は世界に議会制民主主義と法の支配を広めた。マグナ・カルタ以来発展してきたイギリスの政治制度は、アメリカ、インド、オーストラリアなどの国々に受け継がれた。コモン・ロー(英米法)は、多くの国の司法制度の基盤となり、裁判の公平性を保証する仕組みを提供した。また、議会制度は、国民が政治に参加し、権力を監視する仕組みとして発展した。これにより、帝国が消滅した後も、その政治的影響は世界中で持続しているのである。
スポーツ文化の世界的拡散
イギリスはスポーツのルールを体系化し、国際的な競技へと発展させた。クリケットはインドやオーストラリアで国民的スポーツとなり、ラグビーはニュージーランドや南アフリカで熱狂的に支持されている。サッカーはイギリスで誕生し、今や世界で最も人気のあるスポーツとなった。オリンピックやワールドカップで活躍する多くの国々は、かつてイギリスの影響を受けたスポーツ文化を持ち、それが現在の国際社会の共通言語の一つとなっているのである。
現代社会に残る帝国の影
帝国は終焉を迎えたが、その影響は至るところに残っている。ロンドンにはインド系やカリブ系の移民が多く住み、料理や音楽に多様性をもたらした。英連邦という組織を通じて、旧植民地の国々との関係は続いている。しかし、植民地支配の歴史には差別や搾取の側面もあり、その負の遺産と向き合う必要がある。ブレグジット後のイギリスは、かつての帝国の影響をどう活かすのか、世界の中での役割を改めて模索しているのである。
第10章 ポスト・コロニアル時代とイギリスの国際的役割
英連邦:帝国の遺産から新たな結びつきへ
イギリス帝国は崩壊したが、旧植民地との関係は途切れなかった。1949年に発足した英連邦は、かつての支配関係を脱し、平等な国家間の協力組織として生まれ変わった。現在、カナダ、オーストラリア、インド、ナイジェリアなど54か国が加盟し、経済、教育、スポーツの分野で連携している。特に「コモンウェルス・ゲームズ」は、オリンピックに次ぐ国際的なスポーツ大会となった。かつての帝国が築いたネットワークは、戦争や支配ではなく、協力と対話の場へと変化していったのである。
イギリス経済とグローバル市場
帝国時代の終焉は、イギリスの経済にも大きな変化をもたらした。かつての植民地からの資源供給に依存していたイギリスは、製造業の衰退とともに金融中心の経済へと移行した。シティ・オブ・ロンドンは世界有数の金融センターとなり、多国籍企業が集積する拠点となった。一方で、戦後の移民増加により、多様な文化が融合し、ロンドンは「世界都市」として発展した。帝国の遺産を受け継ぎながら、イギリスは新たなグローバル経済の中で生き残る道を模索しているのである。
ブレグジットと国際政治への影響
2016年、イギリスは国民投票でEU離脱(ブレグジット)を決定した。これは、かつて帝国の覇権を誇ったイギリスが、再び独立した国家としての道を選んだ歴史的な瞬間であった。しかし、EUとの関係が変化することで、経済や貿易に不安定要素が生じた。一方、英連邦諸国との関係強化が模索され、「グローバル・ブリテン」という新たな外交政策が打ち出された。帝国時代の名残を活かしつつ、イギリスは21世紀の国際秩序の中で新たな役割を築こうとしている。
未来のイギリス:帝国の記憶と共に
かつて世界を支配したイギリスは、もはや大帝国ではない。しかし、帝国の歴史は言語、法制度、スポーツ、文化を通じて今も世界に影響を与え続けている。移民の増加により、ロンドンの街角にはカリブ海の音楽、南アジアの料理、アフリカのアートが溢れ、多様性に富んだ社会が形成されている。イギリスは過去の遺産をどのように受け入れ、未来を築いていくのか。帝国の影を背負いながら、世界の中で新たなアイデンティティを模索する旅は続いているのである。