北アメリカ

基礎知識
  1. 先住民文化と社会の多様性
    北アメリカの先住民は、地域や気候に応じて多様な社会構造、文化、生活様式を築いた。
  2. ヨーロッパ人の到来と植民地
    15世紀末からヨーロッパ人が北アメリカに進出し、土地と資源を求めて先住民社会に大きな影響を与えた。
  3. アメリカ独立戦争と建
    18世紀後半、北アメリカ東部13植民地イギリスから独立し、アメリカ合衆が誕生した。
  4. 南北戦争奴隷制の廃止
    19世紀中頃、奴隷制と州権を巡る対立が激化し、南北戦争の末に奴隷制が廃止された。
  5. 20世紀の多文化社会と世界的影響力の拡大
    20世紀を通じて北アメリカは多文化社会を形成し、経済、政治文化の分野で世界に影響を与える地域となった。

第1章 「新大陸」:先住民社会の多様性とその遺産

広大な北アメリカの自然が育んだ文化の多様性

北アメリカは、果てしない平原、そびえ立つ山々、広大な砂漠、そして豊かな森林から成る地形を持つ。この自然環境が、先住民社会の多様性を生み出した。例えば、五大周辺のホープウェル文化は、精巧な土器や貿易網で知られる。一方、南西部のアナサジ族は乾燥した地で灌漑農業を発展させ、メサベルデの断崖に建物を築いた。これらの文化は、それぞれの環境に適応しながら独自の技術と生活様式を発展させた。自然が提供する資源に深く依存しつつも、創造的な工夫で社会を築いた先住民たちの知恵は、現代にも影響を与えている。

先住民の信仰と宇宙観

北アメリカ先住民の多くは、自然界に宿る精霊や力を信仰の中心に置いていた。例えば、平原インディアンはバッファローを聖視し、その命を生活の糧としながら感謝を捧げた。また、北西部の部族はトーテムポールを作り、祖先や自然々を敬う儀式を行った。これらの信仰は、彼らが自然との共生を深く理解していたことを示している。さらに、彼らの宇宙観は、サークル(円)の概念に象徴されるように、循環的で調和を重視していた。これらの思想は、現代の環境保護や持続可能な社会の考え方に通じるものがある。

交易網が結ぶ広大なネットワーク

意外にも、先住民社会は孤立していたわけではない。広範囲にわたる交易網が存在し、メキシコ湾から五大ロッキー山脈から大西洋沿岸まで物資と文化が交換されていた。例えば、南部のコホキア文化では、遠くアパラチア山脈から運ばれたや、グレートプレーンズからのバッファローの革が見つかっている。これらの交易は、単なる物資の交換ではなく、思想や技術、儀式の共有も促進した。このような交流は、先住民社会の広がりと繋がりの深さを証明している。

現代に息づく先住民の遺産

先住民たちの知恵と技術は、現代社会にも影響を及ぼしている。例えば、トウモロコシやジャガイモなど、彼らが栽培した作物は世界中で消費されている。また、彼らの環境管理の方法は、エコロジーの観点から再評価されつつある。さらに、先住民の物語や伝統的なアートは、アメリカ文化の一部として愛され続けている。現代の科学芸術に先住民の遺産がどのように取り入れられているかを知ることで、彼らの歴史が決して過去のものではなく、現在の私たちの生活に息づいていることを理解できるだろう。

第2章 新世界の衝撃:ヨーロッパ人の到来とその影響

コロンブスが開いた新しい扉

1492年、クリストファー・コロンブスが大西洋を横断し、北アメリカの新たな時代が始まった。彼が到達したのはアメリカ土ではなくカリブ海の島々だったが、その航海はヨーロッパ列強の関心を一気に引き寄せた。スペインポルトガルフランスイギリスが次々と探検隊を派遣し、北アメリカの広大な土地と資源を発見した。特にを求めたスペイン人は、アステカやインカを征服し、その富をヨーロッパへと持ち帰った。しかし、この発見は先住民社会に破壊的な影響を与える契機ともなった。彼らの土地がヨーロッパ人によって侵略され、長く平穏だった世界が揺らぎ始めたのである。

病原菌と人口崩壊の悲劇

ヨーロッパ人の到来とともに、先住民社会は未曾有の危機に直面した。それは戦争や侵略だけでなく、持ち込まれた病原菌が原因であった。天然痘、インフルエンザ、麻疹など、ヨーロッパで免疫を持つ人々には馴染みの病気が、免疫のない先住民たちの間で猛威を振るった。数年で々の人口が半減し、いくつかの文化や言語が完全に消失した。これは「コロンブス交換」と呼ばれる現の負の側面である。先住民にとっては大災厄であったが、ヨーロッパ側から見ると、新たな領土を容易に獲得する機会ともなった。この疫病の波は歴史を大きく変えたのである。

新しい秩序:植民地の成立

ヨーロッパ列強は北アメリカを競って植民地化し、自の利益を追求した。スペインメキシコから南部を支配し、の採掘に集中した。一方、フランスカナダやミシシッピ川流域に広がる毛皮貿易を発展させた。イギリスは東部沿岸に定住地を築き、農業を中心とする社会を構築した。これらの植民地では、労働力としてアフリカから奴隷が送り込まれる一方、先住民が土地を奪われ、抵抗を試みた。植民地社会は、ヨーロッパ人、先住民、アフリカ人が複雑に絡み合いながらも、ヨーロッパ中心の秩序を強化していく場となった。

文化の交差点が生み出すもの

ヨーロッパ人の到来は、北アメリカを文化の交差点とした。新しい作物や技術が互いの社会に影響を与えた。ヨーロッパ人はトウモロコシやジャガイモ、タバコなどの作物を持ち帰り、世界の農業を一変させた。一方、馬や器、は先住民社会に革命的な変化をもたらした。しかし、こうした物質的交換の裏で、信仰価値観が衝突し、新たなアイデンティティが生まれた。この文化の融合と葛藤は、北アメリカの歴史を彩る大きなテーマとなり、後世にわたる影響を残すのである。

第3章 13植民地の誕生:変わりゆく社会と経済

海を越えて移住する人々の夢

1607年、ジェームズタウンに到着したイギリス人たちは、新しい生活を求めて未知の大陸へと渡った。宗教的自由を求めるピューリタンや、経済的チャンスを求める冒険者たちが続々と北アメリカにやってきた。プリマス植民地を築いたメイフラワー号の乗客たちは、厳しい環境に直面しながらも、先住民と協力し生き延びた。その後、13の植民地が東海岸に形成され、それぞれが異なる特色を持つ社会へと発展した。農業を中心とした南部、貿易が栄える北部、そして中間植民地の多様性は、アメリカの未来を形作る土台となった。

商業の発展と三角貿易の仕組み

植民地時代の経済は、ヨーロッパアフリカ、アメリカを結ぶ三角貿易によって成り立っていた。北アメリカでは、タバコ、砂糖、綿花が主な輸出品であり、これらはヨーロッパで加工され、さらにアフリカに送られた。一方、アフリカからは奴隷がアメリカに輸入され、プランテーションで労働力として使われた。この貿易ネットワークは植民地の経済を発展させたが、同時に多くの人々を搾取する非人道的な制度をも支えた。これらの仕組みが、植民地社会の不平等や緊張を生み出す原因にもなったのである。

植民地社会の多様な顔

13植民地はそれぞれに異なる文化と経済的特徴を持っていた。北部のマサチューセッツ湾植民地では教育宗教が重視され、ハーバード大学の設立など知識の追求が進んだ。一方、南部のバージニアではプランテーション農業が中心で、特にタバコの栽培が経済を支えた。ペンシルベニアのような中間植民地では、宗教的寛容が広まり、クエーカー教徒など多様な宗教団体が共存した。このような多様性は、後のアメリカ独自の文化の形成に重要な役割を果たした。

緊張と希望が交錯する新世界

植民地社会は発展する一方で、内部には多くの矛盾や緊張を抱えていた。先住民との対立、奴隷制の拡大、そしてイギリスとの経済的摩擦が、その例である。しかし同時に、新しいアイデアや自由を追求する気運が高まりつつあった。植民地の新聞やパンフレットを通じて、自由や平等に関する議論が広がった。これらの動きは、13植民地が単なるイギリスの一部ではなく、独自のアイデンティティを持つ社会へと成長する土台を築いた。未来への希望と課題が交錯する時代であった。

第4章 自由への戦い:アメリカ独立戦争

「代表なくして課税なし」の叫び

1765年、イギリス議会が制定した印紙法は、植民地の住民に初めて直接的な課税を強いた。これに対し、「代表なくして課税なし」というスローガンが生まれた。ジョン・アダムズやサミュエル・アダムズらは、植民地の人々を団結させるために声を上げた。イギリスは自の財政を立て直すための法案だったが、植民地住民にとっては権利侵害の象徴だった。ボストン茶会事件をはじめとする反抗運動が続き、植民地全体に独立の気運が高まった。これらの出来事は、アメリカ独立戦争への道を開く重要な第一歩となった。

コンコードとレキシントンの最初の銃声

1775年419日、レキシントンとコンコードで最初の声が鳴り響いた。この戦いで、植民地軍の民兵たちはイギリス正規軍に立ち向かい、予想外の成功を収めた。「マサチューセッツの民兵が軍事大を動揺させた」というニュースは瞬く間に広がり、13植民地の人々を鼓舞した。ポール・リビアの「深夜の騎行」は、イギリス軍の接近を知らせた伝説的なエピソードとして知られている。この小さな戦いは、アメリカ独立戦争の始まりを告げ、植民地の住民に独立への決意を固めさせるきっかけとなった。

独立宣言:新しい国の誕生

1776年74日、フィラデルフィアの独立記念館で、トーマス・ジェファーソンが執筆した独立宣言が採択された。「すべての人間は平等に創造され、生命、自由、幸福の追求を保障されている」という言葉は、多くの人々の心に響いた。この宣言は、13植民地イギリスからの独立を正式に表明したものである。ジョージ・ワシントン率いる大陸軍が厳しい戦いを続ける中、独立宣言は士気を高める象徴となった。この文書は、アメリカ合衆という新しい国家の理念と未来を示す重要な基盤であった。

ヨークタウンの勝利と新たな始まり

1781年、バージニア州ヨークタウンで行われた最後の決戦は、アメリカ独立戦争を終結させるとなった。フランス軍の支援を受けたワシントンの軍勢が、イギリス軍のチャールズ・コーンウォリス将軍を包囲し、勝利を収めた。この戦いは、アメリカが大英帝から完全な独立を勝ち取る瞬間だった。1783年のパリ条約で、イギリスは正式にアメリカの独立を承認した。この出来事は、新しい未来に希望をもたらすと同時に、困難な国家建設の始まりを意味していた。自由への戦いは終わり、新たな挑戦が待っていたのである。

第5章 西への道:フロンティアと拡張の時代

未知の大地を目指して

19世紀初頭、アメリカ合衆はミシシッピ川を越え、西部の広大な土地へと目を向けた。1803年のルイジアナ買収により、アメリカはミシシッピ川からロッキー山脈までの広大な土地をフランスから購入した。この歴史的取引は、トーマス・ジェファーソン大統領による大胆な決断だった。すぐに、ルイスとクラーク探検隊が未知の土地を探索するために送り出され、多くの発見と記録を残した。彼らの冒険は、アメリカ人に新たな可能性と挑戦の地を示したが、同時に先住民社会との衝突を避けられないものとした。

先住民との緊張と衝突

西部拡張は、先住民にとって厳しい現実をもたらした。アメリカ政府は「インディアン移住法」(1830年)を制定し、多くの先住民を故郷から追い出し、「涙の道」と呼ばれる強制移住を引き起こした。この移住ではチェロキー族をはじめとする先住民が命を失い、文化的な大きな打撃を受けた。同時に、彼らは度重なる圧力の中で抵抗を試みた。例えば、ショーニー族の指導者テクムセは、先住民の連合を築き、白人の侵略に立ち向かった。この時代の衝突は、土地を巡る争いがどれほど悲劇的であったかを示している。

ゴールドラッシュとフロンティア精神

1848年にカリフォルニアでが発見されると、アメリカ全土から人々が西部へ殺到した。ゴールドラッシュは、ただを求めるだけではなく、冒険と希望を象徴する出来事となった。彼らは厳しい自然環境や未知の地形を克服しながら、西部の荒野に新たなや都市を築いた。この動きは「フロンティア精神」と呼ばれる挑戦と独立の象徴となった。一方で、ゴールドラッシュの影響で先住民の土地がさらに奪われ、環境への負荷も増大した。西部開拓は、輝かしい可能性と深刻な代償を伴う時代であった。

鉄道が切り開く新時代

1869年、アメリカ最初の大陸横断鉄道が完成し、東部と西部が物理的に結びついた。鉄道は移動時間を劇的に短縮し、西部の経済と社会の発展を加速させた。多くの移民労働者が、この巨大な建設プロジェクトに参加した。特に中国系移民は、険しい地形での作業を引き受け、鉄道の完成に大きく貢献した。この鉄道はアメリカ全土を結び、物資や人の流れを活性化させたが、先住民の生活空間をさらに圧迫する結果ともなった。鉄道は、西部のを実現する象徴となる一方、歴史の影の部分も伴っていたのである。

第6章 分裂と再生:南北戦争とその余波

奴隷制が引き裂いた国家

19世紀中頃、アメリカは奴隷制を巡る深刻な分裂に直面していた。南部州ではプランテーション農業を支えるために奴隷制が不可欠とされ、一方北部州では奴隷制廃止運動が勢いを増していた。エイブラハム・リンカーンの大統領選出が引きとなり、1861年、南部11州がアメリカ連合を結成して合衆からの分離を宣言した。国家が二つに割れたことで、激しい内戦が避けられなくなった。この対立は単なる地域間の争いではなく、人間の自由と平等という根的な価値観を巡る戦いであった。

血に染まった戦場のリアル

南北戦争は、アメリカ史上最も血を流した戦争であり、ゲティスバーグの戦いやアンティータムの戦いなど、歴史に残る激戦が繰り広げられた。特に1863年のゲティスバーグの戦いは、戦争の転機として知られる。リンカーンがここで行った「ゲティスバーグ演説」は、戦争の意義を「自由の新しい誕生」として明確にした。この戦争では鉄道や電信といった新技術が活用され、現代戦争の先駆けとなった。また、女性も看護師やスパイとして活躍し、社会の枠組みを変える動きが生まれた。

奴隷制の終焉と13修正条項

1865年、南北戦争は北部の勝利で幕を閉じ、奴隷制が公式に廃止された。同年に採択された13修正条項は、アメリカ合衆憲法において奴隷制を明確に禁止するものだった。この条項は、何世紀にもわたる奴隷制の苦しみに終止符を打ち、多くのアフリカ系アメリカ人に自由をもたらした。しかし、奴隷制廃止後も、差別や暴力、経済的不平等といった課題が残り、真の平等への道のりは長かった。この勝利は新しいアメリカを生む大きな一歩であったが、その後の復興時代にはさらなる試練が待ち受けていた。

未来への復興と希望

戦争後、南部は荒廃し、経済再建が急務となった。リンカーンの死後、復興政策は議論の的となり、南部をどう再統合するかで政治的対立が続いた。それでもアメリカは徐々に前進し、奴隷制の廃止が新しい希望の象徴となった。フリードマン局の設立や公民権法の初期形態など、復興期には多くの進展があった。黒人コミュニティも教育や経済的自立を目指して努力を重ねた。この時代は、自由と平等を追求するアメリカの新たな章の始まりとして重要な意味を持つのである。

第7章 産業革命と北アメリカの変貌

蒸気の力が世界を変えた

19世紀初頭、北アメリカに産業革命が到来し、蒸気機関が社会を一変させた。蒸気蒸気機関車が登場し、交通と物流が劇的に効率化された。ロバート・フルトンが開発した蒸気は、ミシシッピ川や五大を縦横に航行し、農産物や工業製品の輸送を飛躍的に向上させた。また、大陸横断鉄道の建設は、東部の工業地帯と西部の新興都市を結びつけ、アメリカ全土の経済成長を支えた。これにより、地理的な障壁は取り払われ、新しい市場と生活様式が生まれた。蒸気の力は北アメリカを近代化へと導く原動力となった。

工場の台頭と労働者の時代

産業革命は工場を北アメリカ中に広め、新たな労働者階級を生み出した。特に繊維工業は、ニューイングランド地方の産業の中心となり、若い女性たちが「ミルガールズ」として働いたことで知られる。しかし、工場労働は厳しい環境を伴い、長時間労働や低賃が問題となった。この時代には、労働者が団結して権利を求める初期の労働運動も始まった。工場は技術革新の場であると同時に、社会的な不平等や葛藤を生む場でもあった。産業革命は、多くの課題を含みながらも新しい時代の到来を告げた。

都市化の波がもたらした変化

産業革命は都市化を加速させた。ニューヨーク、シカゴ、フィラデルフィアなどの都市は急成長し、移民や農からの移住者が労働力として集まった。鉄道網の発展により、都市は相互に結びつき、経済と文化の中心地となった。しかし、都市化にはスラム街の拡大や公衆衛生の問題といった課題もあった。ジャーナリストのジェイコブ・リースがスラムの実態を描いた著書『他者の生活』は、都市の過酷な一面を世間に知らしめた。それでも、多くの人々にとって都市は新たなとチャンスの象徴であり続けた。

技術革新とアメリカの未来

19世紀後半、アメリカは技術革新の時代を迎えた。トーマス・エジソンの電球発明や、アレクサンダー・グラハム・ベルの電話機は、日常生活を一変させた。工業生産の効率を高めたベルトコンベアや大量生産技術は、安価で高品質な製品を可能にした。これらの発明は、アメリカを世界経済のリーダーへと押し上げた。また、企業家精神にあふれた人々が次々と新しい事業を興し、鋼王アンドリュー・カーネギーや石油王ジョン・ロックフェラーといった巨人が生まれた。技術革新の波は、アメリカ社会を活性化し、未来への扉を開いたのである。

第8章 移民と多文化社会の形成

新天地を夢見る移民たち

19世紀後半から20世紀初頭にかけて、ヨーロッパやアジアからの移民がアメリカを目指した。彼らの多くは、貧困宗教的迫害、政治的抑圧から逃れるために故郷を後にした。ニューヨーク港に到着した移民たちを出迎えたのが、自由の女像だった。エリス島の移民局では健康チェックや書類審査が行われ、多くの人々が「アメリカンドリーム」を追い求めた。イタリア人やアイルランド人、中国人など、多様な背景を持つ移民がアメリカの労働力を支え、鉄道建設や工場労働に従事した。移民たちの努力はアメリカの発展に欠かせないものであった。

多様性の中の課題

移民の流入が進む中で、アメリカ社会には緊張が生まれた。一部の人々は移民を歓迎したが、他方では移民排斥運動が広がった。1882年には中国人移民を制限する「中国人排斥法」が制定され、その後も様々な移民制限政策が続いた。移民たちはしばしば低賃で危険な労働を強いられ、社会的な差別と戦う必要があった。しかし、移民たちは自らのコミュニティを築き、文化や言語、宗教を維持しながらも、新しいへの適応を模索した。移民問題はアメリカの多文化社会の形成に重要な影響を与えた。

移民文化がアメリカに与えた影響

移民たちはアメリカ文化に豊かな影響をもたらした。イタリア系移民はパスタピザをアメリカの食卓に定着させ、ユダヤ系移民は映画産業を発展させた。アイルランド系移民の音楽やダンスは現代のポップカルチャーにも影響を与えている。また、中国系移民が作った料理は「チャイニーズ・アメリカン・フード」として広がった。これらの文化的融合は、アメリカの多様性を象徴するものである。移民たちはアメリカンドリームを追いながら、自らの伝統を守り、新たな文化の形を生み出したのである。

多文化主義の可能性と未来

20世紀後半、アメリカは移民政策を見直し、多文化主義を受け入れる方向に進んだ。1965年の移民籍法改正により、アジアやラテンアメリカからの移民が急増し、アメリカ社会はさらに多様化した。多文化社会の形成は課題を伴いながらも、アメリカの強みを生み出した。現代においても、移民たちの努力やが新たな価値を創造し、アメリカを形作り続けている。多様性を尊重する社会は、経済的にも文化的にも豊かな未来を築く可能性を秘めている。移民たちの物語は、アメリカの質を映し出す鏡なのである。

第9章 世界大国への道:戦争と冷戦の時代

第一次世界大戦と新しい国際的役割

1917年、アメリカは第一次世界大戦に参戦し、孤立主義を放棄して際舞台に立つ決断をした。ウッドロウ・ウィルソン大統領は「民主主義を守るため」として、連合側での戦争を支持した。アメリカの兵力と物資が戦局を変え、戦争終結に大きな役割を果たした。さらに、ウィルソンは国際連盟の設立を提案し、世界平和の基盤を築こうとした。アメリカ自身は国際連盟に参加しなかったが、世界大としての責任を意識するようになった。この戦争は、アメリカを新しい地位へ押し上げるきっかけとなった。

第二次世界大戦とアメリカの変貌

第二次世界大戦では、アメリカは再び孤立主義を捨て、連合の主要な指導者として戦争に参加した。真珠湾攻撃が参戦の引きとなり、アメリカは全力で戦争に取り組んだ。ノルマンディー上陸作戦や太平洋戦線での戦いは、アメリカの技術力と経済力の高さを示すものだった。戦後、アメリカは際社会の再建に積極的に関与し、国際連合の設立を支援した。また、マーシャル・プランを通じてヨーロッパの復興を援助し、経済的影響力を強化した。第二次世界大戦は、アメリカが世界のリーダーとしての地位を確立する契機となった。

冷戦と東西の対立

第二次世界大戦後、アメリカはソビエト連邦との冷戦という新たな時代に突入した。民主主義と資本主義を掲げるアメリカは、共産主義を標榜するソ連と対立した。この対立は、核軍拡競争やスパイ活動、代理戦争を通じて展開された。特に、朝鮮戦争ベトナム戦争は、アメリカが共産主義の拡大を阻止しようとする試みの一環であった。同時に、宇宙開発競争ではアポロ計画が進められ、アメリカは1969年に人類初の面着陸を果たした。冷戦はアメリカ社会に緊張をもたらしながらも、技術革新と際的影響力の拡大を促進した。

世界のリーダーとしての課題

冷戦終結後、アメリカは唯一の超大として新たな課題に直面した。経済的グローバル化が進む中、アメリカは自由市場と民主主義の理念を広める役割を担った。しかし、湾岸戦争やテロとの戦い、気候変動問題など、多くの際的課題に直面している。アメリカは、際社会でのリーダーシップを維持しつつも、自内での多様性や不平等への取り組みも求められている。この時代は、アメリカが単なる力の象徴ではなく、より持続可能な未来を模索するとなるための試練であった。

第10章 現代北アメリカ:課題と未来展望

環境危機と気候変動への挑戦

北アメリカは、多様な自然環境を持つ一方で、気候変動による深刻な影響を受けている。西部の森林火災、沿岸部のハリケーン被害、極端な干ばつは日常化しつつある。特にアメリカでは、石油や天然ガス産業が経済を支える一方で、温室効果ガス排出削減の課題も抱えている。政府と民間企業は再生可能エネルギーの導入に取り組み、イーロン・マスクのテスラのような企業がその象徴となっている。これらの挑戦は、単なる内問題ではなく、地球規模の課題として取り組む必要がある。北アメリカの環境政策は、未来地球の行方を大きく左右する。

格差拡大と社会的不平等

現代の北アメリカは、経済成長を遂げる一方で、格差拡大という深刻な問題を抱えている。富裕層と貧困層の差は広がり続け、中産階級の縮小が社会不安を助長している。医療費や大学の学費の高騰は、多くの人々にとって重い負担となっている。一方で、ブラック・ライブズ・マター運動のような社会正義を求める動きが新たな希望を生み出している。これらの課題に対処するために、政策やコミュニティの協力が求められている。社会の平等と調和を実現することは、北アメリカが持続可能な未来を築くである。

テクノロジーと文化の最前線

北アメリカは、テクノロジーと文化の最先端を走る地域である。シリコンバレーは、人工知能やバイオテクノロジーの革新を生み出す世界的な拠点として知られる。また、映画音楽、ファッションなどのポップカルチャーは、グローバルな影響を持つ。例えば、映画『アベンジャーズ』シリーズや、ビヨンセの音楽は、文化的な多様性と創造力を象徴している。同時に、インターネットとSNSの普及により、人々のコミュニケーションや情報の共有方法が劇的に変化した。これらの進歩は、北アメリカを未来の可能性で満ちた地域として際立たせている。

多文化共生とグローバルな役割

北アメリカは、多文化共生のモデルとなるべく、課題に取り組み続けている。移民の流入により文化の多様性は広がり、新たな融合が進んでいるが、同時にアイデンティティの対立や排外主義の動きも存在する。しかし、北アメリカの歴史は、多様性を強みに変えてきた例で溢れている。際的なリーダーシップも求められる中で、アメリカやカナダは環境問題や人権問題への積極的な関与を模索している。多文化主義を活かし、持続可能で平和未来を築くことは、北アメリカが果たすべき重要な使命である。