クロアチア

基礎知識
  1. クロアチアの起源と初期の歴史
    クロアチア人は7世紀頃にバルカン半島に定住し、やがて独自の王国を形成した。
  2. ハプスブルク帝国との関係
    クロアチアは1527年にハプスブルク帝国の一部となり、オスマン帝国との対立を通じて西洋文化との結びつきを強めた。
  3. ユーゴスラビア王国の時代
    第一次世界大戦後、クロアチアはユーゴスラビア王国の一部となり、独立運動が継続された。
  4. クロアチア紛争と独立
    1990年代のユーゴスラビア崩壊に伴い、クロアチアは独立を宣言し、その後激しい紛争を経て主権を確立した。
  5. EU加盟と現代のクロアチア
    2013年、クロアチアは欧州連合(EU)に加盟し、経済的・政治的安定を確保しつつ、観大国として成長している。

第1章 クロアチアの誕生—古代から中世への旅

スラヴ人の登場—新たな民族の波

7世紀の初め、バルカン半島に新たな民族が現れた。彼らは北からやって来たスラヴ人であり、現在のクロアチア地域にも定住した。元々この地域は、古代ローマ帝国の一部であったが、帝国の崩壊後はゲルマン系やアヴァール人など多くの民族が混在していた。スラヴ人はこの地に足を踏み入れ、新しい文化と生活様式を持ち込んだ。クロアチア人の祖先であるスラヴ人は、この豊かな地を次第に自分たちのものとし、独自のアイデンティティを形成していくこととなる。この時代の混沌とした状況が、やがてクロアチアという国家の誕生へとつながる。

初期クロアチア王国の誕生

クロアチアが一つの国家として形を成したのは、9世紀頃のことである。特にトミスラヴ王(Tomislav)は初期クロアチア王国の形成に大きな役割を果たした人物である。トミスラヴ王は925年にクロアチア初の王として戴冠し、彼の治世下でクロアチアは一つの強力な王国となった。彼は周辺の民族やビザンティン帝国、ハンガリー王国とも外交的な関係を築き、国の安定を図った。トミスラヴの治世によって、クロアチアは初めて国際的な認知を得ることとなり、その影響力はバルカン半島全域に広がったのである。

ビザンティン帝国との関係

中世クロアチアは、ビザンティン帝国と深い関係を持っていた。ビザンティン帝国は東ローマ帝国の後継であり、東ヨーロッパ全体に影響を及ぼしていた。クロアチアは独立を維持しつつも、ビザンティンの文化的・宗教的影響を強く受けた。キリスト教の正教会とカトリック教会の影響がクロアチアに流れ込み、地域の宗教や文化が融合しながら発展した。ビザンティン帝国との外交関係も、クロアチアの存続と発展に重要な役割を果たしており、この関係は国の方向性を大きく左右した。

クロアチア王国の栄光と衰退

11世紀末、クロアチア王国は最盛期を迎えた。国土はアドリア海沿岸から内陸部まで広がり、交易と文化が栄えた。しかし、1089年に最後のクロアチア王、ズヴォニミルが死去すると、王国は後継者問題に揺れた。ハンガリー王国がクロアチアに対して影響力を強め、1091年にはハンガリーの王がクロアチア王を兼ねるようになった。これにより、クロアチアは一時的に独立を失うこととなるが、ハンガリーとの同盟関係が長く続き、この時期のクロアチアは内外のバランスを保ちながら存続することができた。

第2章 ハプスブルクの支配下での生存—戦いと同盟

ハプスブルク家の守護—クロアチアの選択

1527年、クロアチアは重大な決断を迫られていた。オスマン帝国がバルカン半島で勢力を拡大し、クロアチアは度重なる侵略に直面していた。この時、クロアチアはオーストリアを統治していた強力なハプスブルク家と同盟を結ぶことを選択した。クロアチア貴族たちは、ハプスブルク家に忠誠を誓うことで、オスマン帝国の攻撃から国を守ろうとしたのである。これにより、クロアチアはハプスブルク帝国の一部として組み込まれたが、その代わりにオスマン帝国からの防衛を手に入れた。

オスマン帝国との絶え間ない戦い

ハプスブルク帝国の一部となったクロアチアは、オスマン帝国との戦いが長期化した。16世紀から17世紀にかけて、オスマン軍が繰り返し侵攻し、多くの都市が攻撃を受けた。特にクロアチア南部と中央部は激しい戦場となり、「クロアチア国境地帯」と呼ばれる防衛線が築かれた。クロアチアの兵士たちはハプスブルク軍の一部として戦い、英雄的な抵抗を続けた。オスマン帝国との戦争はクロアチアの土地や経済に大きな打撃を与えたが、その一方でクロアチアの人々は強い誇りと勇気を示した。

文化の融合—西洋との接触

ハプスブルク帝国の支配下で、クロアチアは西洋文化との接触が一層深まった。特にオーストリアやイタリアとの貿易や文化的交流が盛んになり、クロアチアの都市にはヨーロッパ各地からの影響が見られた。この時期、クロアチアにはルネサンスやバロック建築様式が広がり、学問や芸術も発展した。例えば、ザグレブやドゥブロヴニクといった都市は、文化的な中心地として栄えた。ハプスブルク帝国との関係は、クロアチアがヨーロッパ文化の一部として成長する重要な要素となった。

ハプスブルク家の支配とクロアチアの自治

ハプスブルク家の支配下にあったものの、クロアチアは完全にその独立を失ったわけではなかった。クロアチアは一定の自治権を持ち続け、自分たちの法や文化を守る努力をした。特にクロアチア議会(サボル)は、ハプスブルク家との交渉を通じて、国内の政治的な決定権を維持しようとした。さらに、クロアチアの貴族や知識人たちは、自国のアイデンティティを守りながらも、ハプスブルク帝国との共存を模索した。この微妙なバランスの中で、クロアチアは自身の独自性を守り抜いた。

第3章 近代化の波—19世紀のナショナリズムと自治運動

イルリリア運動の始まり

19世紀初頭、ヨーロッパ全体がナショナリズムの波に包まれ、クロアチアでも「イルリリア運動」と呼ばれるナショナリズムの活動が始まった。イルリリア運動は、クロアチアの言語、文化、歴史を再評価し、民族の団結を目指すものであった。リーダーであったリュデヴィト・ガイは、クロアチア語を統一し、ハンガリーやオーストリアの影響を排除するために尽力した。この運動は、クロアチア民族のアイデンティティを強調し、彼らが独自の国として存在し続けることへの強い決意を示すものだった。

クロアチア国会の設立

クロアチア人たちは、ハプスブルク家の支配下であっても、自分たちの声を届けるための政治的な組織を求めていた。そこで19世紀中盤、クロアチア国会(サボル)が再編され、クロアチア人自身による統治への一歩を踏み出すこととなった。この国会は、クロアチアの内政に関する重要な問題を議論し、決定する場であり、ハプスブルク帝国と対話をするための政治的な手段ともなった。サボルは、国民の自治権を拡大し、クロアチアが自らの運命を決定できるようにするための象徴的な役割を果たした。

オーストリア=ハンガリー二重帝国との複雑な関係

1867年にハプスブルク帝国は、オーストリア=ハンガリー二重帝国として再編された。この新体制では、クロアチアはハンガリー側の支配下に置かれたが、自治を認められることとなった。この時期、クロアチアはハンガリーと緊張関係にありながらも、国としての地位を守るために巧妙な外交を行っていた。二重帝国の中で、クロアチアはハンガリーの要求に応えつつも、自国の文化と自治を守り抜くために政治的なバランスを取ることが求められていた。

近代化とクロアチアの変貌

19世紀末、クロアチアは経済や社会において急速な近代化の波に飲み込まれていった。鉄道やインフラの整備が進み、クロアチアの都市は近代都市へと変貌を遂げていった。農業から工業への移行が始まり、多くの人々が都市部に移り住んだ。こうした変化は、クロアチアの人々の生活を大きく変えるだけでなく、政治的な動きにも影響を与えた。ナショナリズムが高まる中、クロアチアはより強い自治権と独立を求め、ヨーロッパ全体の中での自らの位置を模索していた。

第4章 第一次世界大戦とクロアチア—新しい時代の幕開け

帝国の終焉—オーストリア=ハンガリーの崩壊

1914年、第一次世界大戦が勃発した。この戦争ヨーロッパ全土を巻き込み、クロアチアが属していたオーストリア=ハンガリー帝国も激しく揺さぶられた。戦争は4年にわたり続き、兵士や市民が多く犠牲となった。最終的に1918年、オーストリア=ハンガリー帝国は崩壊し、ヨーロッパ地図が大きく変わった。帝国の崩壊はクロアチアにとっても転機であり、新たな政治体制の中で自らの運命を切り開くことが求められた。戦争の混乱が終わった後、クロアチアは次の一歩を模索していた。

新たな国家への統合—ユーゴスラビア王国の誕生

オーストリア=ハンガリー帝国の崩壊により、クロアチアは独立の道を選ぶことができなかった。その代わりに、セルビアやスロベニアと共に「セルビア人・クロアチア人・スロベニア人王国(後のユーゴスラビア王国)」を結成することとなった。この新しい国家は、異なる民族や文化を持つ人々が集まったものであり、内部には複雑な対立があった。クロアチア人は新たな国家での立場を模索し、自治を求める運動が続けられたが、セルビア中心の統治体制により多くの不満が生じた。

クロアチアの政治運動と独立への希望

ユーゴスラビア王国の中で、クロアチアの政治家たちはより大きな自治権を求めて活動を続けた。特に、スタチェヴィッチやマチェクといった指導者たちはクロアチアの独立や自治を強く訴えた。クロアチア農民党などの政党も、この動きの中で力を増していった。クロアチアの人々は、自らの民族的アイデンティティを守りつつ、独自の国家としての未来を望んでいたが、中央政府との衝突が続き、緊張は高まっていった。この時期のクロアチアの政治的な動きは、後の独立運動の土台を築くものとなった。

ヨーロッパの激動とクロアチアの挑戦

第一次世界大戦後、ヨーロッパ全体が再編成され、各国は新たな秩序の中で自らの位置を確立しようとしていた。クロアチアもその一部として、大きな変化に直面していた。戦争によって経済は疲弊し、社会的な混乱も広がっていたが、それでもクロアチアの人々は未来への希望を持ち続けた。国際的な舞台でもクロアチアの存在感は増し、文化や経済の面での再建が進められた。この時代の変化は、クロアチアが新しい時代を切り開くための重要なステップとなった。

第5章 第二次世界大戦とクロアチア—複雑な戦中の歴史

ウスタシャ政権の台頭とクロアチア独立国

第二次世界大戦が始まると、クロアチアは急速にその運命を変えることとなった。1941年、ナチス・ドイツがユーゴスラビアに侵攻し、クロアチアではウスタシャと呼ばれる極右民族主義の組織が権力を握った。ウスタシャの指導者アンテ・パヴェリッチは、ナチスの支援を受けて「クロアチア独立国」を宣言した。しかし、この国は実質的にドイツイタリアの傀儡政権であり、ウスタシャは独裁的な支配を行った。ウスタシャ政権は多くの反対者や少数民族を迫害し、クロアチア国内で大きな混乱と恐怖が広がった。

パルチザン運動の抵抗とティトーの登場

ウスタシャ政権に対して、反発を強めたのがパルチザン運動であった。パルチザンは、ヨシップ・ブロズ・ティトーを中心に組織された反ファシスト勢力であり、ドイツやウスタシャ政権に対抗して戦った。彼らは山岳地帯を拠点にゲリラ戦を展開し、次第にクロアチア国内で勢力を拡大した。ティトーはソビエト連邦の支援を受けながら、民族や宗教を超えた統一を掲げた。パルチザンは第二次世界大戦中、国内外で大きな支持を集め、戦争終結時にはユーゴスラビア全土の解放を成し遂げた。

ナチスの影響とクロアチアの分断

クロアチアの戦中は、ナチス・ドイツの影響下で大きく分断された時期でもあった。都市部や一部の地域はドイツ軍によって直接支配され、ウスタシャ政権はそれに従属していた。一方、田舎や山岳地帯ではパルチザンが支配力を強めていた。このようにクロアチアは、戦時中に政治的にも軍事的にも二極化していた。さらに、ウスタシャとパルチザンの対立は、一般市民にも多くの苦しみをもたらし、多くの犠牲者が出た。この分断は、戦後のクロアチアに長く影響を与えることとなった。

戦争の終結と新たなユーゴスラビア

1945年、第二次世界大戦が終わり、パルチザン勢力が勝利すると、ティトーはユーゴスラビア全土を統一した新しい国家を作り上げた。この新しいユーゴスラビアは、連邦制を基礎にし、クロアチアもその一部として再編された。ウスタシャ政権は崩壊し、クロアチアは独立を失ったが、ティトーのもとで新しい政治的な秩序が構築された。この時期、クロアチアは戦後復興の中で新たな挑戦を迎えたが、戦中に蓄積された民族間の対立は依然として深い影を落とし続けた。

第6章 ティトー時代—ユーゴスラビア連邦の一部としてのクロアチア

ティトーの登場とユーゴスラビア連邦の成立

第二次世界大戦後、ユーゴスラビアは新しい政治体制に移行した。その中心人物が、パルチザンのリーダーであり戦後の国をまとめたヨシップ・ブロズ・ティトーである。1945年、ティトーはユーゴスラビアを連邦制の社会主義国家として再編成し、クロアチアはその一つの共和国となった。ティトーは多民族国家を統一するため、強力な指導力を発揮し、中央集権的な政策を進めた。これにより、クロアチアを含むユーゴスラビアは政治的に安定したが、同時に地方の不満も次第に高まっていった。

社会主義経済の導入と変革

ティトー時代、ユーゴスラビアは社会主義経済を導入し、国全体が国有化と計画経済に基づいて発展することを目指した。クロアチアでも工業化が進み、農業から都市型経済への移行が進んだ。大規模なインフラ整備や教育の拡充も行われ、多くの人々が都市部に移住した。しかし、この社会主義経済モデルは必ずしも順調ではなく、クロアチアを含むユーゴスラビア全体で経済格差や効率の低下が問題となった。地方の自治が制限される中、経済的な不満が次第に広がった。

クロアチア国内の民族的緊張

ティトーの統治下では、ユーゴスラビアは表面的には統一されていたが、内部では民族間の緊張が続いていた。クロアチアではセルビア人とクロアチア人の間で特に緊張が高まっており、これは歴史的な対立が背景にあった。ティトーはこうした対立を抑えるために厳しい政策を採用したが、それでも民族間の不満が完全に消えることはなかった。特にクロアチアの知識人や政治家たちは、中央政府に対して自治権の拡大を求める声を上げ続けていたが、ティトーは強力な統一を優先した。

ティトーの死とその後のクロアチア

1980年にティトーが死去すると、ユーゴスラビアは大きな転機を迎えた。ティトーのカリスマ的な指導力が消えたことで、国内の各共和国間の緊張が再び表面化し始めた。クロアチアでは、自治権を求める声がさらに強まり、中央集権的な体制に対する反発が急速に広がった。ティトーの死後、ユーゴスラビアは徐々に崩壊の道を歩み始め、クロアチアもその中で独自の道を模索するようになった。この時期は、後の独立運動へとつながる重要な局面となった。

第7章 独立への道—クロアチア紛争と主権の確立

ユーゴスラビアの崩壊とクロアチア独立宣言

1990年代初頭、ユーゴスラビア連邦は内部分裂の危機に瀕していた。経済的な停滞と民族間の対立が深刻化し、クロアチアはその波に巻き込まれていた。1991年625日、クロアチアはついに独立を宣言し、ユーゴスラビアからの分離を図った。この宣言は、クロアチア国民の長年の独立への願いを実現するものであったが、これに反発したのがセルビア人勢力であった。特に、クロアチア国内のセルビア人コミュニティが独立に反対し、武力による衝突が避けられない状況となった。

クロアチア紛争の勃発

クロアチアの独立宣言直後、セルビア主導のユーゴスラビア人民軍(JNA)がクロアチアに進攻し、クロアチア紛争が勃発した。この戦争は、クロアチア国内のセルビア人武装勢力とクロアチア軍との間で激しい戦闘が繰り広げられ、都市や村が次々と破壊された。ヴコヴァルなどの都市は大規模な包囲戦にさらされ、多くの市民が犠牲となった。この紛争はユーゴスラビア全体を揺るがし、国際社会の注目を集めた。クロアチアは、国際的な支援を求めながら、独立を守るための戦いを続けた。

国際的承認と和平への道

紛争が続く中、クロアチアは外交努力を続けた。特に欧州諸国や国際連合(UN)は、クロアチアの独立をめぐる事態を注視していた。1992年には、国際連合による停戦の仲介が行われ、紛争の一部地域では国連平和維持軍が派遣されるなどの対策が取られた。そして同年、クロアチアは国際連合への加盟を果たし、世界的に正式な国家として承認された。この国際的な承認は、クロアチアにとって重要な転機であり、和平への道を切り開く一歩となった。

主権の確立と新たな時代

1995年、クロアチア紛争はついに終結し、クロアチアは主権国家としての地位を完全に確立した。この年、クロアチア軍が作戦を成功させ、セルビア人武装勢力の支配下にあった地域を取り戻したことが大きな要因であった。戦争後、クロアチアは経済復興と国民統合に向けた努力を開始し、新たな時代を迎えた。戦争の傷跡は深く残ったが、クロアチアは独立した国家としての歩みを着実に進め、国際社会での地位を確立するための第一歩を踏み出した。

第8章 戦後復興と国際的地位の確立

戦争の傷跡と復興への挑戦

1995年のクロアチア紛争終結後、クロアチアは深い傷跡を残したまま再建の道を歩み始めた。国土の一部は破壊され、多くの人々が家を失っていた。政府はインフラの復興を最優先とし、道路や、学校などが再建された。経済は戦争の影響で停滞していたが、観業や農業、工業を通じて徐々に回復を見せた。多くの難民が故郷に戻り、クロアチア全土で平和を取り戻す努力が進められた。この時期、クロアチアの人々は団結し、復興への希望を胸に新たな未来に向けて歩み出した。

民主化と政治的安定の追求

クロアチアは、紛争後に民主主義の発展を目指し、政治的安定を築こうとした。新しい憲法が制定され、民主的な選挙が行われた。初代大統領フラニョ・トゥジマンの指導のもと、国家の統一と安定を優先する政策が取られたが、彼の強権的な統治手法に対して批判もあった。トゥジマンの死後、政治の多様化が進み、より民主的な制度が確立された。政府は法の支配や人権保護に取り組み、クロアチアの政治は次第に国際的な基準に近づいていった。

欧州との新たな関係

クロアチアは、戦後の国際的な地位を確立するために、欧州諸国との関係強化に努めた。特に欧州連合(EU)との接触が重要視され、クロアチアはEU加盟に向けた改革を進めた。経済的な安定や政治的な透明性を高めるため、クロアチアは多くの改革を行い、2000年代初頭には加盟に向けた交渉が開始された。国際社会との連携を深めることで、クロアチアは地域のリーダーとしての役割を果たし、国際的な信頼を築いていった。

観光業の復活と経済成長

クロアチアはその美しい自然と豊かな歴史を活かし、観業を経済成長の重要な柱として位置付けた。特にアドリア海沿岸のダルマチア地方は、世界中から観客が訪れる人気のスポットとなった。ドゥブロヴニクやスプリトといった歴史的都市は、多くの観客を魅了し、経済復興の原動力となった。観業だけでなく、工業や農業の分野でも成長が見られ、クロアチア経済は戦後の低迷から回復を遂げた。これにより、クロアチアは国際的にも存在感を高めていった。

第9章 EU加盟と新しい未来—経済と社会の変容

EUへの加盟—長い道のり

クロアチアは、1990年代の独立以降、欧州連合(EU)への加盟を目指して多くの改革を進めてきた。EU加盟は、クロアチアにとって経済的な発展や国際的な信頼を高めるための重要なステップであった。しかし、加盟までの道のりは決して平坦ではなかった。法制度の整備や腐敗防止対策、経済の安定化といった課題に取り組み、国際的な基準を満たすための努力が求められた。2013年71日、ついにクロアチアはEUの28番目の加盟国となり、ヨーロッパとの新たな時代を迎えた。

経済成長とインフラの発展

EU加盟後、クロアチアは経済成長を加速させるために、インフラ整備や産業の近代化に力を入れた。EUからの支援を活用して、道路や鉄道、港湾の整備が進み、観業をはじめとする主要産業も発展を遂げた。これにより、クロアチアの都市部と地方との経済格差の解消が進み、多くの人々がより豊かな生活を享受できるようになった。さらに、EU市場へのアクセスが容易になり、クロアチアの企業は国際競争力を高め、輸出が増加するなど、経済全体が活気づいた。

観光業の再生と欧州内での位置づけ

クロアチアは、観業の再生においてもEU加盟の恩恵を大きく受けた。アドリア海沿岸の美しい景観や歴史的な都市が、ますます多くの観客を引き付けた。特に、ドゥブロヴニクやスプリトといった都市は、ヨーロッパ中から訪れる旅行者たちにとって人気の観地となった。また、クロアチアは欧州内の文化交流やビジネスの場としての役割も拡大し、欧州連合の中で経済的にも文化的にも重要な地位を築いていった。

新たな課題と展望

EU加盟後、クロアチアは多くの成功を収めたが、新たな課題にも直面している。特に、若者の失業率や都市と地方の格差といった問題は依然として存在している。また、クロアチアは環境保護や持続可能な観開発といったグローバルな問題にも取り組まなければならない。これらの課題を克服するために、クロアチアは引き続き改革を進め、EU内でのリーダーシップを発揮することが求められている。未来に向けた新たな挑戦が始まっているのである。

第10章 現代クロアチアの課題と展望

経済格差の克服に向けて

クロアチアはEU加盟後、経済成長を遂げたが、都市と地方の間には依然として大きな格差が残っている。特に、ザグレブなどの都市部は観業やサービス業が発展している一方、内陸部や一部の農村地域では失業率が高く、若者の流出が続いている。この経済格差は、政府が抱える大きな課題の一つである。政府は、地方における産業振興やインフラ整備を進めることで、格差を解消し、全国民が豊かな生活を送ることができる社会を目指している。

民族問題とクロアチアの多様性

クロアチアは多民族国家であり、戦争を経た今でも、民族間の緊張が完全に解消されたわけではない。クロアチア人とセルビア人、さらにはボスニア人やその他の少数民族との関係は複雑で、時折対立が生じることがある。政府は、民族間の対話を促進し、多様性を尊重する社会を築くために努力している。教育やメディアを通じて、民族の違いを理解し合い、共存できる未来を作ることが重要視されている。

環境問題への取り組み

クロアチアは美しい自然環境を誇る国であり、その保護は国民にとっても重要な課題である。特に、アドリア海の保護や森林の管理、気候変動への対策が求められている。観業の発展に伴い、環境への影響も懸念されており、持続可能な観開発が今後の課題である。政府や市民団体は、エコツーリズムの推進や再生可能エネルギーの導入を進め、自然環境を次世代に引き継ぐための取り組みを強化している。

国際社会でのクロアチアの役割

クロアチアは国際社会の一員として、欧州連合や国際連合などの場で重要な役割を果たしている。特に、近隣諸国との協力や、バルカン地域の安定に向けた取り組みに貢献している。また、クロアチアはスポーツや文化を通じて国際的な影響力を拡大し、観地としても世界中から注目されている。今後、クロアチアは欧州の中でどのような立場を築いていくのか、国際社会におけるリーダーシップを発揮できるかが問われている。