17世紀

第1章: 三十年戦争の勃発とその影響

王座を巡る炎

1618年、神聖ローマ帝国の心臓部であるボヘミアで、歴史を変える火種が燃え上がった。フェルディナンド2世がボヘミア王に即位し、カトリックの信仰を強要しようとしたことが、プロテスタントの反発を招いたのだ。これに反発したボヘミアの貴族たちは、プラハ城の窓からフェルディナンドの使者たちを投げ出し、「プラハ窓外投擲事件」として知られる象徴的な出来事が勃発する。この事件は瞬く間に帝国全土に広がり、カトリックとプロテスタントの間で30年にわたる血で血を洗う戦争へと発展した。この戦争は宗教的な対立だけでなく、王座や領土を巡る政治的な争いが絡み合った複雑な闘争となった。

戦争が広がるヨーロッパ

三十年戦争神聖ローマ帝国内の対立に留まらず、瞬く間にヨーロッパ全土を巻き込む大規模な戦争へと拡大していった。フランス、スウェーデン、スペイン、デンマークといった主要な国家が次々と戦いに参戦し、自国の利益を求めて戦場を駆け巡った。例えば、スウェーデン王グスタフ2世アドルフはプロテスタント側に立ち、驚異的な軍事戦術で帝国軍に打撃を与えた。一方、フランスはカトリック国でありながらも、ハプスブルク家の勢力を抑えるためにプロテスタント側を支援した。このように、宗教的な対立が国家間の利益争いに絡み、戦争は複雑さを増していった。

荒廃する大地

三十年戦争がもたらしたのは、単なる政治的・宗教的な変動だけではない。戦場となった神聖ローマ帝国の広大な領土は荒廃し、都市や村は焼き払われ、多くの人々が家を失い飢餓に苦しんだ。戦争によって農業生産が激減し、飢饉が発生したため、多くの人々が生きるために流浪の生活を余儀なくされた。特に、戦争が長期化するにつれて兵士たちの略奪行為が横行し、民間人の生活は破壊された。これにより、神聖ローマ帝国の人口は大幅に減少し、戦後の復興には長い年を要することとなった。

ウェストファリア条約と新たな秩序

1648年、戦争を終結させるための和平会議がウェストファリアで開催され、ヨーロッパの新たな秩序を確立するウェストファリア条約が結ばれた。この条約により、神聖ローマ帝国の内部における宗教の自由が認められ、領邦が独自に宗教を選択できるようになった。また、フランスやスウェーデンは領土を拡大し、ヨーロッパ政治地図が大きく書き換えられた。この条約は近代国家の主権という概念を確立し、国際関係の基盤となる「ウェストファリア体制」を築くきっかけとなった。戦争によって荒廃した大地から、新たな国際秩序が生まれたのである。

第2章: 植民地拡大と大航海時代の遺産

新世界の誘惑

17世紀に入ると、ヨーロッパ諸国は競い合って新たな領土を求めて海を越えていった。特にスペインとポルトガルは、前世紀に大航海時代をリードし、新世界での広大な領土を手に入れていた。しかし、今世紀に入ると、イギリスやオランダがこの競争に加わり、新たな植民地を求めて活動を活発化させた。彼らは北アメリカや東南アジアに進出し、貿易の拠点を確立していった。これにより、世界各地でヨーロッパの影響力が強まり、現地の文化や経済に大きな変化をもたらすこととなった。新世界の資源は、ヨーロッパの経済に新たな活力をもたらし、同時にグローバルな貿易ネットワークの基盤を築いたのである。

イギリスとオランダの台頭

スペインとポルトガルがその力を失いつつある中、イギリスとオランダが新たな海洋大国として台頭した。オランダは東インド会社を設立し、香辛料貿易を支配することで莫大な利益を上げた。一方、イギリスは北アメリカに13の植民地を築き、その後のアメリカ独立戦争の基盤となる地を固めた。また、イギリス東インド会社を設立し、インドやアジアの貿易を掌握していった。これにより、ヨーロッパの経済は一層複雑化し、富の集中が進むと同時に、ヨーロッパ諸国間の競争が激化していった。イギリスとオランダの活動は、世界経済の中でのパワーバランスを劇的に変化させたのである。

植民地化がもたらした悲劇

しかし、植民地化の進展はばかりではなかった。ヨーロッパ諸国の支配下に置かれた先住民たちは、多くの悲劇を経験することとなった。新世界における奴隷貿易は、その象徴的な出来事である。アフリカから強制的に連行された奴隷たちは、過酷な労働に従事させられ、無数の命が犠牲となった。また、ヨーロッパから持ち込まれた疫病によって、先住民の人口は急激に減少し、彼らの文化や社会が崩壊していった。植民地化は、ヨーロッパの繁栄の陰で多くの命を犠牲にし、後世に残る深い傷を刻んだのである。

経済と文化の交差点

17世紀植民地拡大は、単に領土や富の獲得にとどまらず、文化的な交流も活発にした。ヨーロッパ技術や文化が植民地に広がる一方で、逆に植民地からは新しい作物や商品がもたらされた。たとえば、トウモロコシやジャガイモはヨーロッパの食生活を一変させ、コーヒーやチョコレートといった嗜好品が新たな社会的トレンドを生み出した。また、アフリカやアジアの美術や工芸品がヨーロッパで高く評価され、文化的な融合が進んだ。こうして、17世紀は単なる征服と支配の時代ではなく、異なる文化が交差し、新しい価値観が生まれる時代でもあったのである。

第3章: 科学革命と近代科学の誕生

天の観測者たちの挑戦

17世紀、天文学の世界に革命が起こった。ガリレオ・ガリレイが自らの観測を通じて、天動説ではなく地動説が正しいことを示す証拠を次々と発見したのだ。彼の改良された望遠鏡を通じて、木星の衛星や星の満ち欠けが観測され、コペルニクスの地動説が真実であることが裏付けられた。しかし、この発見はカトリック教会の教義と対立し、ガリレオ異端審問にかけられた。それでも彼の業績は科学の世界に新たなをもたらし、後の天文学者たちに大きな影響を与えた。天を観測することで、人類は宇宙の本質に一歩近づいたのである。

宇宙の法則を解き明かす

ヨハネス・ケプラーは、惑星の運動を数学的に解明するために、生涯をかけて研究を続けた人物である。ケプラーはティコ・ブラーエの膨大な観測データを分析し、惑星が楕円軌道を描いて太陽の周りを回っていることを発見した。彼の法則、特に「ケプラーの第三法則」は、惑星の周期と軌道半径の関係を示し、後にアイザック・ニュートンが万有引力の法則を発表する際の重要な基礎となった。ケプラーの発見は、宇宙が予測可能な法則に従って動いているという概念を強固にし、科学的探求の新たな時代を切り開いたのである。

自然の法則を統合する

科学革命のクライマックスは、アイザック・ニュートンの登場である。ニュートンは、学から力学まで、自然界のあらゆる現を統一的に説明することを目指し、その成果を「プリンキピア」で発表した。特に彼の万有引力の法則は、リンゴが地面に落ちる理由と、地球の周りを回る理由を同じ法則で説明するという画期的なものだった。この法則は、宇宙全体が一つのルールで動いているという考えを広め、近代科学の礎を築いた。ニュートンの業績は、科学の進歩を何世紀にもわたって支える基盤となったのである。

科学の文化的影響

科学革命は、単なる知識の進歩にとどまらず、ヨーロッパ社会の文化や思想にも深い影響を与えた。科学的手法が確立されることで、人々は自然を観察し、実験を通じて真理を探求する姿勢を学んだ。これにより、宗教的権威に頼ることなく、自らの目で世界を理解しようとする動きが広がった。また、科学者たちが国際的なネットワークを築き、知識を共有し合うことで、学問の進展が加速した。この時代に芽生えた科学精神は、後の啓蒙思想や産業革命の土台となり、近代社会の形成に大きく寄与することとなった。

第4章: 絶対主義の時代 – ルイ14世とフランス

太陽王の登場

17世紀、フランスは新たな時代に突入した。ルイ14世、別名「太陽王」が、わずか4歳でフランス王に即位したのだ。若い王は、長い間摂政の下で統治を学び、権力を掌握する準備を進めていた。成人後、ルイ14世はフランスを世界の中心に据えることを目指し、絶対主義を確立するために中央集権的な統治を強化した。彼は国家のすべてを自らの手中に収め、フランス宮廷をヴェルサイユ宮殿に移転し、その豪華さを誇示した。ルイ14世は自らを「国家そのもの」と称し、その統治はフランス国内外に多大な影響を与えた。

ヴェルサイユ宮殿の栄光

ルイ14世の統治を象徴するものといえば、何と言ってもヴェルサイユ宮殿である。かつては狩猟小屋だったこの場所を、彼は壮大な宮殿へと変貌させ、フランス文化の中心地とした。宮殿は豪華絢爛な装飾と広大な庭園で知られ、ヨーロッパ中の王侯貴族がその美しさに驚嘆した。さらに、ルイ14世は宮廷に芸術家や学者を集め、フランスの芸術と文化を育成した。バレエやオペラ、絵画が宮殿で花開き、フランス文化が黄期を迎えたのだ。ヴェルサイユ宮殿は、ルイ14世の権力の象徴であると同時に、フランス文化の輝きを示す場所でもあった。

中央集権化と軍事力

ルイ14世は、絶対主義を強固にするため、中央集権化を推し進めた。彼は貴族たちの力を削ぎ、自らの権力を強化するために、地方の統治を王の代理人である官僚に任せた。また、軍事力の強化にも力を入れ、フランスの軍隊をヨーロッパ最強のものへと育て上げた。彼の軍事戦略は巧妙で、フランスは多くの戦争で勝利を収め、領土を拡大した。しかし、これによりヨーロッパ諸国との対立が激化し、フランスは次第に孤立することとなる。ルイ14世の中央集権化と軍事力の強化は、フランスを一時的に栄へと導いたが、その代償も大きかった。

統治の影響と後世への遺産

ルイ14世の絶対主義は、フランス国内だけでなく、ヨーロッパ全体に多大な影響を与えた。彼の統治は、他国の君主たちにも大きな影響を及ぼし、絶対主義が広がるきっかけとなった。しかし、その一方で、彼の政策はフランスに深刻な財政危機をもたらし、民衆の不満が高まった。これが後にフランス革命の火種となり、絶対主義は終焉を迎えることとなる。ルイ14世の統治は、栄と繁栄の象徴であると同時に、過剰な権力集中が引き起こすリスクも示している。その遺産は、歴史の教訓として今なお語り継がれているのである。

第5章: イングランド内戦と革命の波

議会と王権の衝突

17世紀のイングランドは、王権と議会の対立が次第に激化していった。ジェームズ1世とその後を継いだ息子チャールズ1世は、絶対王権を信奉し、議会を無視して独裁的な政治を行おうとした。しかし、議会側はこれに強く反発し、王の権力を制限するべきだと主張した。特に、税の課税権をめぐる争いは激しさを増し、両者の関係は修復不可能なものとなった。1642年、ついに王党派と議会派が武力衝突に至り、イングランド内戦が勃発した。この内戦は、単なる権力闘争ではなく、国の未来を賭けた壮絶な戦いであった。

クロムウェルの台頭と共和制の実現

イングランド内戦の中で、オリバー・クロムウェルという一人の人物が急速に頭角を現した。クロムウェルは議会派の軍を指揮し、戦場で数々の勝利を収めた。その軍事的才能とリーダーシップにより、彼は議会派の英雄となり、ついにチャールズ1世を捕らえることに成功した。1649年、チャールズ1世は国王として初めて公開処刑され、イングランドは一時的に共和制を樹立することとなった。しかし、クロムウェルの統治は次第に独裁的になり、「護国卿」としての彼の支配は絶対王権に似た形をとるようになった。この時期、イングランドは新しい政治体制の模索に揺れ動いていた。

王政復古と混乱の終息

クロムウェルの死後、イングランドは再び混乱の渦に巻き込まれた。共和制は長くは続かず、国民の多くは安定を求め、王政復古を望む声が高まった。1660年、チャールズ2世が王として帰還し、王政復古が実現された。チャールズ2世は、父の失敗を教訓にし、議会との協調を重視する姿勢を見せたが、王と議会の関係は依然として不安定なものであった。この復古王政は一時的な安定をもたらしたものの、後のグロリアス革命への布石となり、イングランドの政治は新たな局面を迎えることとなる。

内戦の遺産とその影響

イングランド内戦とその後の革命は、単なる国内の出来事に留まらず、ヨーロッパ全体に広がる波及効果をもたらした。王権に対する議会の優位性が確立され、絶対王政に対する挑戦が他国でも広がり始めた。さらに、内戦を通じて思想的にも深い変化が起こり、ジョン・ロックなどの思想家が提唱する市民の権利や政府の正当性に関する議論が活発化した。これらの思想は、後にアメリカ独立戦争フランス革命といった歴史的な変革の原動力となり、近代民主主義の発展に寄与した。イングランド内戦は、現代に続く政治的・思想的な潮流の出発点であったのである。

第6章: 西欧の社会と経済の変化

農業革命の始まり

17世紀ヨーロッパでは、農業が劇的な変化を遂げ始めた。新しい農法の導入や作物の多様化が進み、食糧生産量が大幅に増加した。たとえば、三圃制の改善や新しい農機具の導入によって、土地の利用効率が高まり、収穫量が飛躍的に増加したのである。また、新大陸からもたらされたトウモロコシやジャガイモといった新しい作物が、食糧供給を安定させ、農村社会の生活準を向上させた。この農業の変革は、ヨーロッパ全土に広がり、後の産業革命の基盤を築く重要な一歩となった。

都市化と商業の発展

農業の発展に伴い、ヨーロッパの都市も急速に成長した。農村からの人口流入が進み、都市部では商業が活発化し始めた。特に、ロンドンやアムステルダムといった都市は、商業の中心地として栄え、交易ネットワークが拡大した。これにより、商人たちは新たな市場を求めてヨーロッパ中を駆け巡り、国際貿易がますます活発化した。また、銀行業や保険業といった新しい融システムが発展し、商業活動を支える基盤が整えられていった。この時代の都市化と商業の発展は、ヨーロッパ経済に新たなダイナミズムをもたらした。

資本主義の萌芽

商業の発展は、ヨーロッパにおける資本主義の萌芽を促進した。商人や企業家たちは、利益を追求するために新しいビジネスモデルを模索し始めた。これにより、株式会社が設立され、投資家たちがリスクを分散して利益を得る仕組みが整った。オランダ東インド会社イギリス東インド会社といった巨大な貿易会社は、この新しい資本主義象徴である。彼らは世界中で貿易を展開し、莫大な富をもたらしたが、その一方で、富の集中や社会の不平等といった新たな課題も生じた。この資本主義の萌芽は、現代経済の礎を築いた重要な出来事であった。

貧富の格差と社会の変化

経済の発展とともに、貧富の格差が次第に拡大していった。富を手にした商人や地主たちは、豪華な生活を送り、社会的地位を高めていった。一方で、農村や都市の貧しい人々は、厳しい労働条件や生活環境に苦しんでいた。この格差は、社会の安定に深刻な影響を与え、時折発生する暴動や反乱の原因ともなった。また、宗教改革や啓蒙思想が広がる中で、貧困層の救済や平等の実現を求める声が高まり、社会改革の機運が次第に醸成されていった。こうして、17世紀の経済的・社会的変化は、ヨーロッパ社会に深い影響を及ぼし、後の近代社会の形成に繋がっていったのである。

第7章: 芸術と文化の黄金時代

バロックの誕生とその輝き

17世紀はバロック芸術が花開いた時代であった。バロックは、壮大でドラマチックな表現が特徴であり、教会や宮廷を中心にヨーロッパ全土に広がった。イタリアローマでは、ベルニーニが彫刻建築でその才能を発揮し、サン・ピエトロ大聖堂の壮麗なバルダッキーノを設計した。一方、スペインでは、画家ディエゴ・ベラスケスが「ラス・メニーナス」などの作品で宮廷生活を生き生きと描き、絵画の新たな地平を切り開いた。バロックは、感情の高まりと動きのある構図で、人々の心を魅了し、教会や王侯貴族の権威を高める手段としても用いられたのである。

音楽の黄金期

ロック時代はまた、音楽が大きく進化した時代でもあった。イタリアでは、クラウディオ・モンテヴェルディがオペラを創始し、「オルフェオ」などの作品で音楽劇の新たな形式を確立した。さらに、ヨハン・ゼバスティアン・バッハはドイツで、宗教音楽から世俗音楽まで幅広いジャンルで傑作を生み出し、バロック音楽の頂点を極めた。また、アントニオ・ヴィヴァルディの「四季」など、協奏曲の形式が発展し、音楽はより複雑で感動的な表現を追求するようになった。バロック音楽は、後世にわたって影響を与え続け、今日でもその美しさが愛されている。

文学と演劇の開花

17世紀は、文学と演劇においても革新が起こった時代である。フランスでは、モリエールが喜劇の名作「タルチュフ」や「人間嫌い」で、社会風刺を巧みに織り交ぜた舞台を作り出した。イギリスでは、ウィリアム・シェイクスピアが没した後も、彼の作品が演じられ続け、多くの人々に感動を与えた。また、スペインでは、ミゲル・デ・セルバンテスが「ドン・キホーテ」を執筆し、現代小説の礎を築いた。この時代の文学と演劇は、社会の様々な側面を映し出し、時に人間の愚かさや偉大さを描き、観客や読者を魅了し続けたのである。

宮廷文化とサロンの発展

17世紀ヨーロッパでは、宮廷文化が栄えた一方で、サロン文化も発展を遂げた。フランスのルイ14世の宮廷では、宮廷人たちが詩や音楽、舞踏に興じ、芸術が一つの社交ツールとして機能した。また、パリロンドンでは、知識人や作家たちがサロンに集まり、哲学や文学について議論を交わした。特に、フランスの女性サロン主催者たちは、知識人たちを集めて自由な討論を行い、啓蒙思想の普及にも貢献した。このように、宮廷とサロンは、芸術と文化の交流の場として重要な役割を果たし、ヨーロッパの文化的な発展に大きな影響を与えたのである。

第8章: 宗教と哲学の対立と統合

宗教改革の余波

17世紀は、宗教改革の余波がヨーロッパ全体に影響を与え続けた時代であった。16世紀に始まったプロテスタント運動は、カトリック教会との対立を深め、宗教戦争政治的緊張を引き起こした。特に、三十年戦争はその象徴的な出来事であり、ヨーロッパの多くの国々が宗教的な分断に苦しんだ。しかし、1648年のウェストファリア条約により、宗教の自由がある程度認められ、国家間の宗教的対立は徐々に収束していった。この時代の宗教的な対立は、人々の信仰と生活に深く影響を与え、その後の宗教的寛容の概念の基盤となった。

デカルトの合理主義

17世紀は、哲学においても重要な変革の時代であった。その中心人物の一人が、ルネ・デカルトである。彼は「我思う、ゆえに我あり」という言葉で知られ、理性を中心に据えた合理主義を提唱した。デカルトは、すべての知識の基礎を疑い、確実な真理を追求する姿勢を持ち、哲学の新しい方向性を打ち立てた。彼の思想は、宗教と科学の関係にも影響を与え、の存在を理性的に証明しようとする試みを通じて、信仰と理性の調和を図ろうとしたのである。デカルト合理主義は、後の啓蒙思想の先駆けとなり、近代哲学の基盤を築いた。

スピノザと汎神論

デカルトの影響を受けつつも、独自の哲学を展開したのがバールーフ・スピノザである。スピノザは、自然を一体のものと考える汎神論を提唱し、宗教と哲学の新たな融合を試みた。彼の主著『エチカ』では、無限の実体であり、自然界のすべての現の現れであると論じた。この思想は、当時の宗教観を大きく揺るがし、彼は異端と見なされたが、後に多くの哲学者たちに影響を与えた。スピノザ汎神論は、自然の関係を再定義し、宗教と哲学の統合を追求する新たな視点を提供した。

ロックの市民政府論

ジョン・ロックは、17世紀後半に登場し、政治哲学に大きな影響を与えた人物である。彼の著作『市民政府二論』では、政府の正当性は人民の同意に基づくべきであり、個人の自然権を守ることが政府の役割であると説いた。ロックは、専制的な権力に対抗し、法の支配と人権の尊重を強調した。この思想は、宗教的寛容や個人の自由を重視するものであり、アメリカ独立戦争フランス革命における思想的基盤となった。ロック政治哲学は、近代民主主義の原則を築き上げ、宗教と政治の関係に新たな視点を提供したのである。

第9章: 東欧とロシアの動向

ロシアの大改革者ピョートル大帝

17世紀後半、ロシアは劇的な変革の時代を迎えた。その立役者がピョートル大帝である。ピョートル大帝は、西欧の技術と文化を積極的に取り入れ、ロシアの近代化を推進した。彼は自らも西欧に赴き、造船や軍事技術を学んで帰国すると、すぐさま大規模な改革に着手した。新しい首都サンクトペテルブルクを建設し、ロシアをバルト海の覇権国へと押し上げた。また、彼の改革は軍事面にも及び、ロシア軍を西欧式の近代的な軍隊に再編成した。これにより、ロシアは国際社会での影響力を飛躍的に高め、後のロシア帝国の礎を築いたのである。

ポーランド・リトアニア連合の衰退

ポーランド・リトアニア連合はかつてヨーロッパで最も広大な領土を誇った国家であったが、17世紀になるとその力は衰退していった。内部の政治的不安定と外部からの圧力がその原因である。特に、ヤン・カジミェシュ王の治世には、コサックの反乱やスウェーデンとの戦争が続発し、国家は疲弊していった。また、貴族たちの権力争いが続く中、中央政府の権威が弱体化し、ポーランド・リトアニア連合は隣国からの干渉を受けやすくなった。この結果、18世紀に入ると、ポーランド・リトアニア連合は事実上の消滅へと向かっていくのである。

オスマン帝国との対立

東欧においては、オスマン帝国との対立も重要な要素であった。オスマン帝国はバルカン半島を支配し、その影響力を東欧全体に広げようとしていた。この時期、オスマン帝国と対立したハプスブルク家は、ハンガリーやトランシルヴァニアを巡って激しい争いを繰り広げた。1683年のウィーン包囲戦では、オスマン帝国がウィーンを包囲したが、ヨーロッパの連合軍がこれを撃退し、オスマン帝国の勢力は後退した。この戦いは、オスマン帝国の拡張が限界に達したことを示す象徴的な出来事であり、東欧における勢力バランスに大きな影響を与えた。

神聖ローマ帝国の影響力

東欧におけるもう一つの重要な勢力は、神聖ローマ帝国である。特に、ハプスブルク家が統治するオーストリアは、東欧において重要な役割を果たした。彼らは、ポーランド・リトアニア連合やオスマン帝国との関係を調整しつつ、自国の影響力を拡大させていった。ハプスブルク家は、カトリック教会との強い結びつきを活かして、東欧の宗教的対立にも介入し、地域の安定を図ろうとした。しかし、その過程で、他の東欧諸国との対立も生じ、神聖ローマ帝国は東欧の複雑な政治状況に深く関与することとなった。これにより、東欧の歴史は多様で動的な展開を見せたのである。

第10章: 17世紀の世界の終焉と次の世紀への道

大同盟戦争と勢力の再編

17世紀の終わりに差し掛かると、ヨーロッパでは再び大規模な戦争が勃発した。フランスのルイ14世がヨーロッパ全土での覇権を目指し、スペイン王位継承を巡って大同盟戦争が始まった。この戦争には、イングランド、オランダ、オーストリア、そしてスペインが参戦し、長い戦いが繰り広げられた。戦争の結果、ウィリアム3世率いる連合軍が勝利し、スペイン継承戦争の火種を残しながらも、一時的な和平が成立した。この戦争ヨーロッパの勢力図を大きく塗り替え、各国の国力が再編成される契機となったのである。

啓蒙思想の萌芽

17世紀の終盤には、科学革命の影響を受けた新しい思想がヨーロッパに広がり始めた。それが、啓蒙思想である。理性を重んじ、知識の追求を奨励するこの思想は

、従来の宗教的権威や専制的な政治体制に対する批判を含んでいた。ジョン・ロックやルネ・デカルトといった思想家たちは、人間の自由や平等、政府の正当性について新たな視点を提供し、社会改革の必要性を説いた。彼らの思想は、知識人や政治家に広く受け入れられ、後のフランス革命アメリカ独立戦争の思想的基盤を形成することとなった。啓蒙思想は、18世紀を「啓蒙の世紀」とする重要な潮流を生み出し、ヨーロッパ社会の変革を促す原動力となったのである。

経済の変化と新しい世界秩序

17世紀末になると、ヨーロッパの経済は大きな変革を遂げつつあった。植民地からの貿易によって莫大な富がもたらされ、商業資本主義がますます発展した。イギリスとオランダが海上貿易で覇権を争う中、アフリカやアジアとの貿易が拡大し、世界経済がますますグローバル化していった。また、株式取引所や銀行といった融機関が発展し、近代的な経済システムの基盤が築かれた。この経済の変化は、社会の階層構造や生活様式にも影響を与え、18世紀産業革命への道を切り開くこととなったのである。

17世紀の遺産とその影響

17世紀は、ヨーロッパにおいて戦争や宗教的対立、政治的変動が繰り返された時代であったが、その一方で、文化や思想、科学の分野では画期的な進歩が見られた。この時代の遺産は、後の世紀にわたって影響を及ぼし続けた。啓蒙思想は18世紀の改革運動を支え、科学革命の成果は近代科学の基礎となった。また、絶対主義や宗教的寛容の概念は、現代の政治や社会における基本的な価値観として定着している。17世紀の変革とその遺産は、今なお私たちの世界観や社会構造に深く影響を与えているのである。