基礎知識
- ウィーンのローマ帝国時代の起源
ウィーンは紀元1世紀にローマ帝国の軍事拠点「ウィンドボナ」として建設された都市である。 - ハプスブルク家とウィーンの成長
13世紀にハプスブルク家がウィーンを支配し、その後、ウィーンは神聖ローマ帝国の中心として繁栄した。 - ウィーン包囲(1529年と1683年)
オスマン帝国による二度のウィーン包囲は、ヨーロッパの歴史的転換点となり、都市の防衛と文化的アイデンティティを強化した。 - ウィーン会議(1814-1815年)
ナポレオン戦争後、ヨーロッパの秩序を再構築するために開かれたウィーン会議は、19世紀の国際関係を定義づけた。 - 音楽と文化の中心地としてのウィーン
18世紀から19世紀にかけて、ウィーンはモーツァルトやベートーヴェンなどの偉大な作曲家を輩出し、ヨーロッパ文化の中心として君臨した。
第1章 ウィーンの始まり:ローマ帝国の影響
ウィンドボナの誕生
ウィーンの歴史は、紀元1世紀にローマ帝国が築いた軍事拠点「ウィンドボナ」から始まる。当時のローマ帝国は、ドナウ川を天然の防衛線として利用し、北方の蛮族からの攻撃を防ぐためにこの地域に要塞を設置した。ウィンドボナはその中心のひとつであり、戦略的に重要な役割を果たした。この要塞にはローマ軍が駐留し、彼らの生活と文化がウィーンの基盤となった。ローマ風の浴場や広場が築かれ、交易も盛んに行われ、ウィーンの初期の発展を支えた。この小さな軍事拠点が、後のウィーンという大都市の礎となったのである。
ローマ文化の影響
ローマ人はウィンドボナに文明的な基盤をもたらし、街は徐々に発展していった。彼らはインフラ整備にも力を入れ、石畳の道や公衆浴場、下水道など、ローマ式の生活基盤を築いた。また、ローマ風の神殿やフォルムと呼ばれる公共広場も建設され、市民生活の中心として機能した。ローマの文化は芸術や宗教にも影響を与え、現地の文化と融合して独自のウィーン文化を形作った。この時期に根付いたローマの制度や建築様式は、ウィーンが後にヨーロッパの文化都市として発展する下地となった。
軍事拠点から商業の中心へ
ウィンドボナは軍事拠点であると同時に、交易の拠点としても重要だった。ドナウ川沿いに位置することで、北と南、東と西を結ぶ主要な交易ルートの交差点となった。ローマ帝国の広大な領土から様々な物資が集まり、ワイン、オリーブ、陶器などが取引された。こうしてウィンドボナは軍事だけでなく商業的にも繁栄を遂げた。特に、ローマ帝国の安定した時期には、商人や職人が集まり、経済が活発になった。ウィーンの後の商業的成功の起点は、まさにこの時代にあったのである。
ウィンドボナの衰退とその遺産
しかし、3世紀に入ると、ローマ帝国は内外からの圧力にさらされ始め、ウィンドボナもその影響を受けた。帝国の崩壊が進むにつれ、街は次第にその重要性を失っていった。しかし、ローマ人が残した遺産はウィーンの地に深く刻まれ続けた。ローマ時代の街並みや建物の基礎は、中世に至るまで都市計画の指針となり、後世のウィーン建設に大きな影響を与えた。ウィンドボナの遺跡は現在でもウィーンの地下に眠っており、その名残を垣間見ることができる。
第2章 ハプスブルク家と中世のウィーン
ハプスブルク家の登場
ウィーンの歴史が大きく動いたのは、13世紀にハプスブルク家がウィーンを支配し始めたときである。1273年にルドルフ1世が神聖ローマ帝国の皇帝に選ばれ、ハプスブルク家はヨーロッパの政治舞台に登場した。彼の息子、アルブレヒト1世も後を継ぎ、ウィーンはハプスブルク家の本拠地として重要性を増していく。この時代、ウィーンは単なる地方都市から帝国の中心へと変貌し、ハプスブルク家の支配はウィーンの発展に不可欠な役割を果たした。彼らの統治は600年以上続き、ヨーロッパ史に大きな影響を与えることになる。
中世の繁栄と都市の発展
ハプスブルク家の支配が進むにつれ、ウィーンは中世ヨーロッパの政治と経済の中心地へと成長した。14世紀に入ると、ウィーンは商業の要所として発展し、多くの交易路が交差する都市となった。商人や職人たちが集まり、市場は活気に満ちていた。この繁栄は、ウィーンの街並みや建築にも反映され、シュテファン大聖堂のような壮大な建築がこの時期に着工された。中世のウィーンは、商業の成功だけでなく、文化と宗教の中心としてもその名を高めていったのである。
神聖ローマ帝国の中心としての役割
ハプスブルク家の統治下でウィーンは、神聖ローマ帝国の首都としての役割を担うようになった。帝国の統治者たちはウィーンを拠点にし、ここで重要な会議や外交が行われた。また、ウィーンは帝国の防衛の拠点としても機能し、ヨーロッパの北と南、東と西をつなぐ戦略的な要所となった。この政治的な重要性により、ウィーンは多くの影響力を持つ都市となり、ヨーロッパ全土から権力者や貴族が集まる場となった。ウィーンの地位は、帝国の中心としてさらに確立されていく。
宗教と文化の融合
ウィーンはまた、宗教と文化の融合の場でもあった。中世のヨーロッパではキリスト教が強い影響を持っており、ウィーンもその例外ではなかった。ハプスブルク家はカトリック教会との深い関係を維持し、宗教的権威を政治に利用した。ウィーンには多くの教会や修道院が建設され、宗教的な中心地としての役割を果たした。また、学問や芸術も宗教と密接に関わり、ウィーンは文化的な繁栄を遂げた。この時期に培われた宗教と文化の融合は、後のウィーンの文化的遺産の基盤となっている。
第3章 オスマン帝国との対決:二度のウィーン包囲
1529年:最初の試練
1529年、ウィーンはオスマン帝国のスレイマン1世(通称「壮麗王」)によって初めて包囲された。当時のオスマン帝国はヨーロッパにおける最大の脅威であり、ウィーンは帝国の進撃を食い止める最後の砦だった。オスマン軍は数万人に及ぶ大軍を率いてウィーンを囲み、街の陥落は時間の問題と思われた。しかし、ウィーン市民と守備隊は必死に抵抗し、奇跡的にオスマン軍を撃退した。この勝利は、ヨーロッパ全体にとって大きな意義を持ち、ウィーンは「ヨーロッパの盾」としてその名を轟かせることとなる。
1683年:再び襲いかかるオスマン帝国
約150年後の1683年、オスマン帝国は再びウィーンを包囲した。このときの包囲は、オスマン帝国がヨーロッパに対する最後の大規模な侵攻であり、ウィーンの運命は再び危機に瀕した。しかし、今回はポーランド王ヤン3世ソビエスキが同盟軍を率いて駆けつけ、決定的な勝利を収めた。9月12日に行われた「ウィーンの戦い」で、同盟軍はオスマン軍を打ち破り、ウィーンを救った。この勝利はオスマン帝国の拡張の終焉を意味し、ヨーロッパの歴史を大きく変えることとなった。
市民と防御の強化
ウィーンの市民たちは、これらの包囲戦を通じて自らの都市を守るために多大な努力を重ねた。最初の包囲後、ウィーンの防御は大幅に強化され、城壁が増築された。市民たちはただ傍観するだけでなく、自ら兵士として戦い、街を守った。特に、1683年の包囲では市民の協力が重要な役割を果たし、オスマン軍に対する強固な抵抗を見せた。ウィーン包囲戦は単なる軍事的な対立ではなく、市民と都市が一体となって運命に立ち向かった瞬間であった。
ウィーン包囲がもたらした文化的影響
オスマン帝国との対決は、ウィーンの文化や日常生活にも影響を与えた。例えば、ウィーンの人々は包囲戦後、オスマン帝国との接触を通じて新しい文化や技術を取り入れたとされる。最も有名な例が、コーヒー文化である。オスマン軍が撤退した後、コーヒー豆が街に残され、これがウィーンのカフェ文化の起源となったと伝えられている。また、この戦争を通じてウィーンの都市意識は高まり、ヨーロッパの中でのウィーンの位置づけがさらに強固なものとなった。
第4章 バロック時代のウィーン:建築と芸術の発展
バロック建築の到来
17世紀、ウィーンは戦乱を乗り越え、新たな時代へと突入した。その象徴がバロック建築である。バロック様式は豪華さと壮麗さを誇り、ウィーンの街並みを一新した。シェーンブルン宮殿やベルヴェデーレ宮殿といった壮大な建造物は、ウィーンのハプスブルク家の力を誇示し、訪れる者に強烈な印象を与えた。これらの建築はただの宮殿ではなく、権力の象徴であり、芸術と建築が融合した傑作であった。ウィーンはバロック建築の宝庫となり、ヨーロッパ文化の中心地としての地位を固めていった。
シェーンブルン宮殿とハプスブルク家の栄華
シェーンブルン宮殿は、ウィーンのバロック建築の最高峰として知られる。皇帝レオポルト1世の命によって建設が始まり、後にマリア・テレジアによって完成されたこの宮殿は、ハプスブルク家の富と権力を象徴していた。フランスのヴェルサイユ宮殿に対抗するかのように設計されたシェーンブルンは、優雅な庭園と広大な敷地を誇り、ヨーロッパの貴族たちを魅了した。ウィーンの文化的・政治的中心としての役割も果たし、多くの歴史的な出来事がこの宮殿で繰り広げられたのである。
ベルヴェデーレ宮殿とサヴォイ公の栄光
ウィーンのもう一つのバロックの傑作が、オイゲン・フォン・サヴォイ公によって建てられたベルヴェデーレ宮殿である。彼は、オスマン帝国に対する数々の戦勝で名を馳せた軍人で、その功績を称え、豪華な宮殿を建設した。宮殿は二つの建物からなり、美しい庭園で結ばれている。この壮麗な建築は、戦勝者としてのサヴォイ公の威厳を象徴し、同時にウィーンがヨーロッパの芸術と文化の中心地であることを再確認させるものであった。宮殿は現在、美術館としても知られ、数多くの芸術作品を収蔵している。
バロック様式の社会的影響
バロック建築はウィーンの街並みを変えるだけでなく、その時代の社会全体にも深い影響を与えた。ウィーンの貴族たちは競い合って豪華な邸宅や教会を建て、その贅沢さを誇示した。シュテファン大聖堂の内装にもバロック様式が採用され、教会建築が一段と華やかになった。この建築スタイルは、宗教や権力を視覚的に示す手段となり、当時の政治的・宗教的なメッセージを市民に伝える重要な役割を果たした。ウィーンの街は、バロック時代を通してその魅力と力を増し、ヨーロッパ中から訪れる人々を魅了し続けた。
第5章 啓蒙主義と改革:ウィーンの近代化
マリア・テレジアの改革の始まり
18世紀半ば、ハプスブルク家の皇后マリア・テレジアがウィーンの近代化に着手した。彼女の統治は、ウィーンだけでなく、広大なハプスブルク帝国全体に影響を与えた。彼女は教育改革を進め、国民全員に基礎教育を受けさせる政策を打ち出した。さらに、税制改革や軍事制度の再編成も行い、国の効率を高めた。特に教育改革は、ウィーンの知識層を育てるきっかけとなり、後にウィーンがヨーロッパの文化・学術の中心となる土台を築いたのである。彼女の治世は、進歩的で革新的な時代の幕開けを象徴していた。
ヨーゼフ2世の急進的な改革
マリア・テレジアの後を継いだ息子ヨーゼフ2世は、さらに進んだ改革を行った。彼は「啓蒙専制君主」として知られ、啓蒙思想を積極的に採り入れた。彼の改革の中でも特筆すべきは、宗教寛容令である。これにより、カトリック教会の支配が弱まり、プロテスタントやユダヤ教徒にも宗教の自由が与えられた。ヨーゼフ2世はまた、農奴制の廃止や医療制度の改革など、急進的な政策を次々に実施したが、その一部は保守的な貴族層からの反発を招いた。しかし、彼の改革はウィーンを近代的な国家へと進化させる重要な一歩となった。
啓蒙主義の思想とウィーン
18世紀のウィーンは、ヨーロッパの啓蒙思想の中心地のひとつとなっていた。啓蒙主義は理性と知識の力を重んじ、迷信や偏見からの解放を目指す思想である。ウィーンでは、これらの思想が学者や哲学者、政治家たちの間で広がり、カフェやサロンで活発な議論が交わされた。特にウィーン大学は、知識と学問の象徴として成長し、多くの知識人が集う場所となった。この時代のウィーンは、啓蒙主義の影響を受けて社会全体が理性的で進歩的な価値観に基づいた変革を迎えていた。
文化と芸術の黄金期
啓蒙主義と改革の影響は、文化と芸術にも大きな影響を与えた。この時期、ウィーンではオペラや演劇が盛んになり、公共の文化施設が次々に開かれた。特に音楽の分野では、ウィーンはモーツァルトやハイドンといった天才たちの活動拠点となり、音楽の都としての名声を確立した。彼らは宮廷や市民のために演奏を行い、ウィーンの音楽文化を世界的な水準へと引き上げた。啓蒙思想とともに開かれたこの文化の黄金期は、ウィーンをヨーロッパの芸術と学問の中心地へと押し上げたのである。
第6章 ウィーン会議:ヨーロッパ秩序の再構築
ナポレオン戦争の終結とウィーン会議の幕開け
1814年、ヨーロッパは長いナポレオン戦争を終え、新しい秩序を求めて動き出した。戦後の混乱を収束させるため、各国の代表たちはウィーンに集まり、ウィーン会議が開催された。この会議の目的は、ヨーロッパ全体の国境や権力バランスを再調整し、平和を取り戻すことであった。オーストリア外相クレメンス・フォン・メッテルニヒが中心的役割を果たし、フランス、ロシア、イギリス、プロイセンなどの大国が互いに力を競い合った。各国の思惑が交錯する中で、ウィーンは外交と交渉の舞台となり、ヨーロッパの未来が決定されることとなった。
メッテルニヒの巧妙な外交術
ウィーン会議において最も影響力を持った人物が、オーストリアの外相メッテルニヒである。彼は、戦後のヨーロッパが再び戦乱に陥らないよう、各国の勢力バランスを保つ「勢力均衡政策」を掲げた。メッテルニヒの巧みな外交術によって、ナポレオン後のヨーロッパは、革命や戦争が拡大するのを防ぐ体制が整えられた。彼は対立する国々の利害を調整し、オーストリアを中心とした安定した国際秩序を築き上げた。その結果、ウィーン会議は成功を収め、ヨーロッパは「ウィーン体制」と呼ばれる長期の平和を迎えることになる。
新しい国境と領土の再配分
ウィーン会議では、戦争によって乱れた国境や領土の再編が主要な議題となった。フランスはナポレオンの遠征で占領した多くの地域を失い、ヨーロッパ全体で領土の再配分が行われた。プロイセンはドイツ北部の領土を獲得し、ロシアはポーランドを手に入れ、イギリスは海軍力の強化を背景に海外の植民地を拡大した。また、オーストリアはイタリアや中央ヨーロッパの領土を確保し、ヨーロッパの中心における影響力を強固にした。この領土再配分は、各国のバランスを保ち、戦争後の平和を維持するための重要な手段であった。
ウィーン会議が残した遺産
ウィーン会議は、ただの国境の再調整にとどまらず、ヨーロッパの国際秩序を形作る重要な出来事となった。この会議によって成立した「ウィーン体制」は、各国が協力して紛争を防ぎ、平和を維持するための枠組みであった。約40年間、ヨーロッパは大規模な戦争を回避し、比較的安定した時代を迎えた。ウィーン会議はまた、外交の重要性を再認識させ、各国が交渉を通じて問題解決を図る新しい時代の始まりを告げた。ヨーロッパの未来を形作ったこの会議は、国際政治の新たな一章を刻んだのである。
第7章 帝都ウィーン:19世紀の繁栄と変革
リングシュトラーセの誕生
19世紀半ば、ウィーンの都市景観は大きく変わり始めた。その象徴が「リングシュトラーセ」である。皇帝フランツ・ヨーゼフ1世は、古い中世の城壁を取り壊し、そこに壮大な大通りを建設する計画を打ち立てた。このプロジェクトにより、ウィーンは近代的な都市へと進化し、美しい建築物が次々に建てられた。オペラハウスや美術館、議会議事堂など、ウィーンの重要な文化施設や政府機関がこの通りに面して建設された。リングシュトラーセは単なる通りではなく、ウィーンの文化と政治の中心を象徴するランドマークとなった。
産業革命と都市の変化
19世紀は、ウィーンにとって産業革命がもたらす大きな変化の時代でもあった。工業の発展に伴い、ウィーンの人口は急増し、都市は拡大した。特に鉄道の建設は、ウィーンをヨーロッパの重要な交通ハブに変貌させた。産業が発展するにつれ、工場や労働者の住宅が建設され、都市の景観は多様化した。しかし同時に、貧富の格差や労働環境の悪化といった社会問題も浮上した。こうした課題に直面しながらも、ウィーンは産業の力を活かし、ヨーロッパの主要都市としての地位を確立していった。
社会改革と政治的動き
急速に変わるウィーンでは、社会改革の必要性が高まった。労働者の過酷な労働条件に対して、社会主義運動が広がりを見せた。労働者たちはより良い待遇を求め、労働組合が結成されるようになった。同時に、ウィーンでは新たな政治運動も活発化し、民族主義や民主主義を求める声が強まった。1848年の革命は、ウィーンでも広範な支持を受け、政治的な自由や権利を求める市民運動が起こった。このような改革と動きは、ウィーンが現代的な都市へと成長するための重要なステップとなった。
芸術と文化の開花
19世紀のウィーンは、文化と芸術の分野でも華やかな時代を迎えた。音楽の都として名高いウィーンでは、ヨハン・シュトラウス2世のワルツが社交界を彩り、ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団が創設されるなど、音楽文化が一層豊かになった。また、美術や建築でも新たなスタイルが誕生し、ウィーン分離派の活動が盛んになった。こうした文化的な発展は、ウィーンを単なる政治や産業の中心地から、芸術と文化の輝く都市へと変貌させた。この時代に築かれた文化的基盤は、現在まで続くウィーンの魅力の源泉となっている。
第8章 音楽の都:ウィーンの文化的黄金時代
モーツァルトとウィーンの輝き
1781年、モーツァルトはザルツブルクからウィーンに移住し、この街を音楽活動の拠点とした。彼はウィーンで数多くの作品を生み出し、オペラ、交響曲、協奏曲など、その多彩な才能を存分に発揮した。特に「フィガロの結婚」や「魔笛」は、ウィーン市民に深く愛され、彼の名声を不動のものにした。ウィーンは、宮廷や貴族たちの後援もあり、音楽家にとって理想的な場所であった。この時代、モーツァルトはウィーンの音楽シーンを象徴する存在となり、彼の影響は次世代の作曲家にも強く残った。
ベートーヴェンと革命的な音楽
モーツァルトに続き、ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェンもウィーンにその足跡を残した。彼の音楽は、それまでの形式にとらわれない大胆さと感情の深さで、聴衆を驚かせた。特に「交響曲第9番」は、ウィーンで初演され、後に音楽史に残る傑作となった。ベートーヴェンの音楽は、個人の感情や自由への渇望を表現しており、ウィーンの音楽文化に革命をもたらした。彼は作曲家としてだけでなく、その生き方も人々に影響を与え、ウィーンの芸術界に新しい時代をもたらしたのである。
シューベルトとウィーン市民
フランツ・シューベルトは、モーツァルトやベートーヴェンとは異なり、ウィーンで生まれ育った音楽家である。彼はウィーン市民に寄り添い、生活の中からインスピレーションを得て作品を作り上げた。特にリート(歌曲)というジャンルを発展させ、その作品はウィーンのサロンで愛された。シューベルトの音楽は、親しみやすさと詩的な深さを兼ね備え、ウィーン市民の生活と密接に結びついていた。彼の音楽は、日常の感情や喜び、悲しみを繊細に描き出し、ウィーンの音楽文化をより身近なものにした。
音楽と劇場文化の拡大
ウィーンの音楽の発展は、劇場文化とも深く結びついていた。ウィーン国立歌劇場は、18世紀から19世紀にかけて、ヨーロッパでも最も重要な音楽と演劇の中心地の一つとなった。貴族や市民の双方が楽しむことのできる場として、オペラや演劇が次々と上演され、音楽はウィーンの生活に欠かせないものとなった。劇場での音楽は市民の娯楽であり、同時に知識人たちの文化交流の場でもあった。この時代、ウィーンは「音楽の都」として世界にその名を響かせる存在となった。
第9章 帝国の終焉と第一次世界大戦
オーストリア=ハンガリー帝国の繁栄と影
19世紀後半、オーストリア=ハンガリー帝国は多民族国家として繁栄を続けていた。この帝国は広大な領土を持ち、様々な言語や文化が共存していた。しかし、その多様性は同時に国内の緊張を生む原因でもあった。特にチェコ人やスロバキア人、セルビア人など、各民族が自分たちの独立を求める動きが活発化していた。ウィーンの中心地では、これらの不満をどのように抑え、統一を維持するかが常に課題であった。帝国は見た目には強固に見えたが、その内部では分裂の兆しが徐々に現れ始めていた。
サラエボ事件と戦争への突入
1914年、オーストリア帝国の皇位継承者フランツ・フェルディナント大公が、サラエボで暗殺されるという事件が起こった。この「サラエボ事件」は、第一次世界大戦の引き金となった。この暗殺は、セルビア民族主義者による犯行であり、これを受けたオーストリア=ハンガリー帝国はセルビアに宣戦布告した。大国同士の複雑な同盟関係が絡まり合い、戦争は瞬く間にヨーロッパ全体へと広がっていった。ウィーンの街は緊張に包まれ、帝国が抱える内部の不安定さが次第に表面化し始めた。
戦争とウィーン市民
第一次世界大戦が始まると、ウィーンもその影響を強く受けた。戦争の長期化とともに物資不足が深刻化し、ウィーン市民の生活は厳しいものとなった。食料の配給が追いつかず、飢えや寒さに苦しむ人々が増えた。また、多くの若者が戦場へと送られ、家族は悲しみと不安の中で日々を過ごしていた。戦争の進行とともに、帝国は次第にその力を失い、ウィーンの市民も帝国の未来に対する希望を見失っていった。ウィーンはかつての栄光から一転、戦争の悲惨さに直面することとなった。
帝国の崩壊と新たな時代の幕開け
1918年、第一次世界大戦が終結すると同時に、オーストリア=ハンガリー帝国は崩壊した。戦争によって疲弊した帝国は、多民族国家としての維持が不可能となり、各民族は独立を宣言した。ウィーンはその中心地でありながら、かつての広大な帝国の一部を失った小さな共和国として新たなスタートを切ることになった。この劇的な変化は、市民にとって大きなショックであり、ウィーンはその歴史的な地位を見直す時期に突入した。帝国の終焉は、ウィーンにとっても新しい時代の幕開けを意味していた。
第10章 現代ウィーン:戦後からEU加盟まで
戦後復興と冷戦の影響
第二次世界大戦後、ウィーンは荒廃していた。都市は連合国の占領下に置かれ、分割統治されていたが、1945年以降、ウィーンの市民は街の復興に力を注ぎ始めた。インフラは破壊され、多くの住民が困窮する中、徐々に再建が進められた。冷戦時代、ウィーンは東西両陣営の中間に位置し、緊張感が漂う一方で、ヨーロッパにおける中立的な外交の拠点としての役割を担うことになる。ウィーンは平和交渉の場としても機能し、政治的な影響力を再び取り戻し始めた。
国際機関の誘致と中立国としての地位
ウィーンは1955年に国家主権を回復し、オーストリアは永世中立国となった。これにより、ウィーンは国際機関の拠点としての重要性を増し、国連の欧州本部やIAEA(国際原子力機関)などが設置されることとなった。ウィーンは国際会議や外交交渉の場として頻繁に利用され、冷戦期の政治的な緊張を緩和するための舞台となった。国際的な地位を強化したウィーンは、中立国として平和と協力の象徴となり、多くの国際的なイベントが開催されるようになった。
経済成長とモダンウィーン
戦後の復興とともに、ウィーンは再び経済的な成長を遂げた。1950年代から1960年代にかけて、都市は急速に近代化し、新しいインフラや公共施設が次々と建設された。市内の交通網が整備され、ウィーンは経済的にも文化的にも再びヨーロッパの中心地としての地位を確立した。特に、観光業は急成長し、ウィーンの歴史的建造物や音楽文化が多くの訪問者を惹きつけた。また、ウィーンフィルハーモニー管弦楽団や国立歌劇場が世界的な評価を受け、ウィーンは「音楽の都」としての名声を再び取り戻した。
EU加盟とウィーンの未来
1995年、オーストリアは欧州連合(EU)に加盟し、ウィーンはヨーロッパ全体の政治的・経済的なネットワークにおける重要な拠点となった。EU加盟により、ウィーンは新たな成長機会を得ると同時に、ヨーロッパの統合の一環としてさらなる発展を目指した。ウィーンの国際都市としての地位はさらに強固になり、欧州の中心として、文化、経済、外交の多様な分野で活動する場となった。21世紀のウィーンは、過去の歴史的遺産と現代的な発展が融合する、活気に満ちた都市として進化し続けている。