バハマ

基礎知識
  1. 先住民ルカヤン人の存在
    バハマ諸島にはクリストファー・コロンブス到達以前に、ルカヤン人というタイノ族の一部族が住んでいた。
  2. コロンブスの到来(1492年)
    クリストファー・コロンブスがバハマに最初に到達し、ヨーロッパ人と新大陸の接触が始まった場所である。
  3. イギリス植民地時代(1718年-1973年)
    バハマは長い間イギリス植民地であり、この時代に海賊の拠点としても有名になった。
  4. 奴隷制度とアフリカ系バハマ人の歴史
    バハマは奴隷貿易の中心地でもあり、多くのアフリカ系奴隷が島に連れてこられ、現在の住民の大多数はその子孫である。
  5. 1973年の独立
    バハマは1973年にイギリスから独立を果たし、現在は独立した国として繁栄している。

第1章 ルカヤン人の世界とコロンブスの到来

太古の海に生きるルカヤン人

バハマに最初に住んでいたのはルカヤン人である。彼らはカリブ海の先住民、タイノ族の一部族で、海に囲まれたこの地で独自の文化を築いていた。ルカヤン人は巧みな航海術を持ち、カヌーで島々を行き来し、魚や貝、果物など自然からの恵みを利用して生活していた。彼らは木や貝殻で作られた道具を使い、集団で暮らし、自然を崇拝していた。特に星座を頼りに航海をする技術は、後のヨーロッパ人を驚かせるものであった。バハマの島々は、彼らにとっては単なる居住地以上に、生命の糧であり、信仰の源であった。

コロンブスの冒険とバハマへの第一歩

1492年1012日、クリストファー・コロンブスがサンタ・マリア号、ピンタ号、ニーニャ号とともにバハマ諸島の一つ、サン・サルバドル島に上陸した。彼は新大陸を目指していたが、実際にはアジアだと信じていた。しかし、そこには想像もしなかった豊かな自然と、初めて見るルカヤン人が住んでいた。コロンブスの航海は、西欧と新世界を結びつける重要な出来事であり、ヨーロッパ人にとっては新たな土地の発見だったが、ルカヤン人にとってはその運命を変える瞬間であった。これがバハマの歴史における新時代の幕開けとなった。

言葉なき出会い: 異文化の衝突

コロンブスが上陸したとき、彼とルカヤン人の間には共通の言語がなく、最初の交流は身振り手振りで行われた。ルカヤン人は友好的にコロンブスたちを迎え入れたが、彼らの運命はこの瞬間から大きく変わることになる。コロンブスはルカヤン人のことを「優しく、簡単にキリスト教に改宗させられる」と報告し、彼らをスペイン国王への貢物として考え始めた。この最初の出会いが後に多くの悲劇を生み出す序章であったことを、当時のルカヤン人は知る由もなかった。

見えない未来: ルカヤン人の運命

コロンブスヨーロッパへ帰還すると、彼の報告は新大陸への興味を呼び、スペインは次々と探検隊を送り込んだ。これにより、バハマのルカヤン人は大きな脅威にさらされることになった。スペイン人たちは奴隷を必要としており、多くのルカヤン人が連れ去られ、過酷な労働を強いられることになる。バハマの先住民社会は急速に崩壊し、ルカヤン人は歴史の舞台から姿を消すことになる。彼らの平和な生活は、ヨーロッパ人の到来によって永遠に失われてしまったのである。

第2章 スペインとバハマ: 見過ごされた島々

黄金の夢とスペインの野望

1492年、コロンブスが新大陸に到達したとき、スペインは膨大な富を求めて探検を続けていた。しかし、バハマ諸島には目立ったがなかったため、スペインの探検家たちはこの地を重要視しなかった。スペインにとって最も価値があるのは香辛料だったが、バハマはそれを持たなかったので、初期の探検はほとんど行われなかった。にもかかわらず、バハマは新大陸とヨーロッパをつなぐ航路の一部として、地理的な重要性を持っていた。スペインにとっては一見価値が低い地であったが、他の国々がこの地に目を向けるきっかけはここから始まる。

ルカヤン人の悲劇: 奴隷狩りの暗い影

バハマには目に見える宝はなかったが、スペイン人は別の資源に目を向けた。それがルカヤン人という人々であった。スペインは彼らを奴隷として連れ去り、労働力として利用することを決めた。多くのルカヤン人が強制的にカリブの他の島々や遠くスペイン本土へと運ばれ、過酷な労働を強いられた。ルカヤン人は、サトウキビ畑や鉱山で働かされ、多くが過酷な労働条件のもとで命を落とした。彼らの人口は急激に減少し、最終的にはバハマからルカヤン人はほぼ消えてしまったのである。

バハマの無人化: 新たな歴史の始まり

ルカヤン人が奴隷狩りにより消え去った後、バハマ諸島は実質的に無人の地となった。スペインはこの島々に興味を失い、バハマは再び静けさを取り戻した。ルカヤン人のいない島々にはほとんど人が住むことがなく、バハマはスペインの手が及ばない忘れられた場所となった。しかし、この無人化が新たな冒険者たち、特に海賊や私掠船にとって魅力的な場所に変わるきっかけとなる。バハマの次なる歴史が動き出す準備が整った瞬間であった。

見過ごされた島々の将来

スペインがバハマを見放したことで、他のヨーロッパ諸国がバハマの価値に気づくことになる。特にイギリスやフランスは、この無人の島々を新たな拠点として利用する可能性に目を向けた。バハマはその位置ゆえに、貿易や軍事活動の中継地点として重要になっていく。ルカヤン人が消え去った後のバハマは、一見静かに見えるが、これから世界の大国たちの争奪の舞台となる運命を秘めていた。バハマの次なる時代は、海賊たちと植民地帝国の興亡が交差する場所となる。

第3章 海賊と私掠船: バハマの黄金時代

海賊共和国の誕生

1700年代初頭、バハマの無人化とスペインの影響力低下により、バハマ諸島は海賊たちの理想郷となった。この時期、バハマの中心地ナッソーは、海賊たちの「共和国」として知られるようになった。海賊たちはナッソーを拠点にし、カリブ海や大西洋で航行するスペインやフランスの船を襲撃し、戦利品を奪った。特に有名な海賊ブラックベアード(エドワード・ティーチ)は、この海賊共和国の象徴であり、彼の恐ろしい姿と行動は周辺諸国の船乗りたちに恐怖を植え付けた。バハマは一時的に無法者の手に落ち、彼らの活動がこの地域の歴史を大きく左右することとなった。

ブラックベアードの支配と恐怖の海

ブラックベアードは、バハマの海賊たちの中でも特に恐れられた人物であった。彼の船「クイーン・アンの復讐号」は巨大な帆船で、敵の船を簡単に襲撃し、略奪を繰り返した。ブラックベアードは、自らの恐ろしい姿を演出するために、髪や帽子に火薬を仕込んで煙を立ち上らせ、相手に恐怖を与えることを楽しんだという。この独自の演出が彼の悪名をさらに高め、バハマ周辺の海域では彼の名前だけで船員たちが震え上がった。彼の支配は短命だったが、その影響は今なお語り継がれている。

私掠船と海賊の違い

当時、海賊と私掠船は似て非なる存在であった。海賊は政府の許可を受けずに勝手に船を襲う者たちであり、彼らの行動は完全に違法であった。一方で、私掠船は政府から許可を受けて敵国の船を襲うため、半ば合法的に活動していた。バハマでは、イギリス政府が私掠船に活動の許可を与えることが多く、彼らは正式に「敵国の財産を略奪する」任務を担った。こうして、海賊たちは法を無視して活動する一方、私掠船は公然と略奪を行うという、二つの勢力がバハマの海を支配していた。

イギリスの介入と海賊の終焉

バハマを海賊たちの手から取り戻すために、イギリス政府は1718年、ウッズ・ロジャーズという人物を総督に任命した。彼の任務は海賊たちを鎮圧し、ナッソーを再びイギリスの統治下に置くことであった。ロジャーズは海賊に恩赦を与え、多くの海賊がそれに応じて降伏した。しかし、一部の海賊は抵抗を続けたため、ロジャーズは軍事力を行使して彼らを制圧した。ブラックベアードをはじめとする多くの有名な海賊たちは、この時代に処刑された。こうして、バハマの海賊時代は幕を閉じ、平和と秩序が取り戻された。

第4章 イギリスの統治: 植民地時代の繁栄と試練

海賊を追い払うウッズ・ロジャーズの挑戦

1718年、バハマは海賊によって荒廃していたが、イギリスはこの無法状態を終わらせるべく動き出した。ウッズ・ロジャーズが総督として送り込まれ、彼は「海賊を捕まえるか、降伏させるか」の強硬な立場を取った。彼の到着とともに、ナッソーは次第にイギリスの支配下に戻り、海賊たちは姿を消すこととなった。彼のスローガン「Expulsis Piratis, Restituta Commercia(海賊を追い払い、貿易を回復する)」はバハマの新しい時代を象徴していた。このロジャーズの功績により、バハマは再び安全な場所としてヨーロッパ諸国から注目されるようになり、貿易の拠点として発展していく。

サトウキビとプランテーション経済の台頭

バハマの海が平和を取り戻すと、植民地経済が次第に発展していった。18世紀後半、バハマは農業、特にサトウキビ栽培によるプランテーション経済が急速に拡大した。この時代、バハマの気候と地理は農業に最適であったため、多くのヨーロッパ人がプランテーションを設立し、奴隷を使って広大な土地を耕作した。サトウキビは砂糖やラム酒の原料となり、ヨーロッパ市場に高く評価された。この経済成長は一部の植民者に大きな富をもたらしたが、一方で奴隷制度の拡大により、アフリカから多くの人々が強制的に連れてこられ、過酷な労働を強いられることとなった。

奴隷貿易の影と奴隷制の遺産

奴隷制度はバハマの経済を支える中心的な要素となり、19世紀初頭まで続いた。奴隷として連れてこられたアフリカ人たちは、サトウキビ畑で長時間働かされ、生活は厳しいものだった。彼らの多くは家族と引き離され、言葉や文化が異なる状況下で過酷な環境に耐えなければならなかった。しかし、奴隷たちは独自の文化や信仰を守り続け、バハマ社会に深い影響を与えた。1834年、イギリスが奴隷制度を廃止すると、バハマでも奴隷解放が実現し、奴隷たちは新たな自由を手にするが、その後も彼らの生活は依然として厳しいものだった。

経済の再建と植民地の未来

奴隷制度の廃止後、バハマのプランテーション経済は急速に衰退した。自由を得た元奴隷たちは土地を持たないまま農業を続けるか、新たな仕事を求めて都市部へと移動した。バハマの経済はこの転換期に苦しんだが、19世紀半ばには新しい産業が登場し始めた。貿易業、海運業、そして観業が次第に重要な役割を果たすようになり、バハマは徐々に経済の多様化を進めていった。この変化の中で、バハマは植民地としての新しいアイデンティティを模索し、次第に自立への道を歩み始める。

第5章 奴隷制度とアフリカ系住民の形成

奴隷貿易のはじまり

バハマの歴史において、奴隷制度は非常に重要な役割を果たしていた。17世紀から18世紀にかけて、アフリカから多くの人々が強制的にバハマへ連れてこられ、サトウキビや綿花のプランテーションで働かされた。彼らは「三角貿易」と呼ばれる経済システムの一部として売買され、主に西アフリカから運ばれてきた。この貿易はバハマの経済を大きく支える一方で、奴隷たちにとっては自由を奪われた過酷な運命を意味していた。彼らは家族と引き離され、知らない土地で厳しい労働を強いられたが、同時にアフリカの文化を守り、バハマに新たな影響を与えていった。

プランテーションと過酷な労働

奴隷として連れてこられたアフリカ人たちは、バハマの大規模なプランテーションで働かされた。彼らの主な仕事は、サトウキビや綿花を育て、収穫することであった。労働は厳しく、朝から晩まで休むことなく働かされる日々が続いた。奴隷たちは厳しい管理の下で生活し、逃亡しようとする者は厳罰に処されることもあった。しかし、彼らはただ働くだけでなく、バハマの文化にも大きな影響を与えた。アフリカの伝統的な音楽、宗教、言葉などが、現代のバハマ文化の中に深く根付いているのは、彼らのおかげである。

奴隷解放運動と自由への道

19世紀に入ると、イギリス国内では奴隷制度を廃止する動きが強まった。多くの活動家が奴隷制度の非人道性を訴え、奴隷解放運動が広がった。バハマにおいても、この動きは次第に大きくなり、1834年にはついにイギリス政府が奴隷制度を廃止した。これにより、バハマの奴隷たちは公式に解放され、自由を手に入れることができた。しかし、自由を得たとはいえ、彼らの生活はすぐに豊かになるわけではなく、経済的な困難や差別が依然として存在していた。それでも、彼らは新しい人生を切り開くために懸命に努力し始めた。

アフリカ系バハマ人の誇りと遺産

奴隷制度が廃止された後、アフリカ系バハマ人は困難な状況の中で新たなコミュニティを築き上げていった。彼らは家族や仲間と協力し、教育を受ける機会を求め、経済的な独立を目指した。彼らの文化的な遺産も守られ、音楽や宗教、料理などが現代のバハマに受け継がれている。特にジャンカヌーという祭りは、アフリカ系住民の伝統が色濃く残る象徴的な行事であり、現在も毎年盛大に祝われている。アフリカ系バハマ人たちは、自らのルーツと誇りを守り続けながら、バハマの未来を切り開いている。

第6章 ロイヤル・アメリカンとバハマの変革

アメリカ独立戦争後の移住者たち

1776年に始まったアメリカ独立戦争の結果、アメリカがイギリスから独立を果たすと、多くのイギリス支持者(ロイヤリスト)が新しいアメリカ合衆国から離れ、バハマに移住した。これらのロイヤリストたちは「ロイヤル・アメリカン」と呼ばれ、彼らはバハマで新しい生活を始めた。特にナッソーやグランドバハマの島々に定住した彼らは、持ち込んだ技術や資本を活用し、バハマの経済と社会に大きな影響を与えた。ロイヤリストの到来により、バハマの人口は急増し、経済活動も活発化した。彼らはまた、アメリカ南部のプランテーションのやり方を持ち込み、バハマの農業にも影響を及ぼした。

新しい経済活動の誕生

ロイヤリストたちはバハマでの新しい機会を探し、さまざまな経済活動を推進した。彼らの中には、農業に特化する者もいれば、貿易や船舶業を発展させる者もいた。特にロイヤリストたちは、バハマをカリブ海全体の貿易の中心地として利用し、アメリカやイギリス、その他のヨーロッパ諸国と積極的に商取引を行った。この時期に、バハマは国際貿易の拠点となり、経済的に繁栄した。バハマは、独立後のアメリカとのつながりも強く、新しい経済的なパートナーとしてアメリカ市場に依存する一方で、イギリスとの結びつきも維持していた。

綿花と奴隷労働の新たな時代

ロイヤリストたちはバハマに到着すると、特に綿花栽培に力を入れた。彼らはアメリカ南部のプランテーション方式をバハマにも導入し、広大な農地を開墾した。綿花は当時、非常に価値の高い作物であり、ヨーロッパやアメリカ市場で高く取引されたため、バハマ経済の重要な柱となった。しかし、これに伴い、労働力として多くの奴隷が使われた。ロイヤリストたちはアフリカ系奴隷を利用して農地を拡大し、経済的利益を追求した。こうして、バハマにおける奴隷労働は再び活発化し、アフリカ系住民の人口も急増した。

ロイヤリストの文化的影響

ロイヤリストたちは、バハマの社会にも大きな影響を与えた。彼らは自らのイギリス文化や習慣を持ち込み、バハマの伝統に新たな要素を加えた。特に彼らがもたらした建築様式や衣食住の習慣は、バハマの都市部に明確な変化をもたらした。また、教育制度や宗教的な習慣も変わり、バハマはこれまで以上にイギリス色の強い植民地へと変化した。さらに、彼らは奴隷制に基づく社会的ヒエラルキーを強固にし、バハマにおける社会構造に新たな階級意識を持ち込んだ。ロイヤリストたちの到来は、バハマの歴史に新しいページを刻んだのである。

第7章 戦争とバハマ: 世界大戦の影響

戦略的拠点としてのバハマ

第一次世界大戦と第二次世界大戦の両方で、バハマは戦略的に重要な位置にあった。大西洋の航路を守るため、バハマの島々はイギリスやアメリカにとって軍事的な拠点として使われた。特にナッソー港は、船舶の停泊や修理に利用された。第二次世界大戦中、アメリカはバハマに軍事基地を建設し、潜水艦の活動を監視した。このような戦争中の活動は、バハマの経済を一時的に活性化させ、多くの住民が軍事関連の仕事に就いた。戦時中の需要は一時的な繁栄をもたらしたが、戦争が終わると経済は再び変化していった。

戦争がもたらした経済的チャンス

第二次世界大戦中、アメリカ軍がバハマに軍事基地を設置したことで、島の経済は活気づいた。多くの現地住民が基地での建設や補給業務に雇われ、賃を得ることができた。また、戦争中にアメリカ軍がバハマに滞在したことで、食料や資材の需要が増し、現地の商人たちは新たなビジネスチャンスを手にした。戦争によって一時的に観業が停滞したものの、軍の駐留はバハマの経済にとって大きな後押しとなった。バハマは戦争の中で新たな経済の方向性を見出し、その後の成長に向けた基盤を築いた。

戦時中の社会変化

戦争中、バハマ社会は大きく変化した。特に女性が労働市場に参入するようになり、これまで男性が中心だった仕事に携わる機会が増えた。軍事基地での仕事や、戦時下の物資供給に関わる役割を果たしたことにより、女性の社会的地位は少しずつ向上した。また、戦時中には多くの外国人がバハマに訪れ、異なる文化や考え方が持ち込まれた。このような国際的な接触は、バハマの住民にとって新しい経験となり、戦後の社会構造にも影響を与えた。戦争は、バハマの未来を形作る重要な転換期となったのである。

戦後の復興と新しい展望

戦争が終わると、バハマは新たな課題に直面した。軍事基地の撤退によって一時的に活気づいていた経済は縮小し、多くの人々が仕事を失った。しかし、この経験はバハマに新しいビジョンをもたらした。戦争中に発展したインフラや外国との接触は、戦後の観業や貿易業の成長を促進した。特にアメリカとのつながりは強まり、バハマは観地として再び脚を浴びるようになった。戦後のバハマは、軍事的な役割から観業や融業への転換を進め、これが近代的なバハマの経済発展の土台となった。

第8章 観光業と経済的発展: 新しい黄金時代

観光業の幕開け

バハマは1950年代から観業に力を入れ始めた。白い砂浜と美しい海は、すぐに世界中の観客を魅了した。特にアメリカからの観客が増え、バハマは手軽に行けるリゾート地として注目されるようになった。バハマ政府は、この需要に応えるために多くのリゾートホテルを建設し、観業を経済の中心に据えた。観客はバハマの自然や文化、特にジャンカヌーの祭りに魅了され、毎年多くの人々が訪れるようになった。観業の成長は、バハマ経済に新たな繁栄をもたらし、雇用の機会を大きく増やした。

カジノとリゾート: 豪華な娯楽の登場

客をさらに引きつけるため、バハマではカジノと豪華リゾートが次々とオープンした。ナッソーやパラダイスアイランドには、世界的に有名なホテルやカジノが建設され、多くのセレブや富裕層が訪れるようになった。これにより、バハマは高級リゾート地としての地位を確立し、観業はますます発展した。特に1960年代に建設された「アトランティス・リゾート」は、カジノやウォーターパークを備えた巨大施設で、観業の象徴的存在となった。バハマは、この豪華さを武器に世界中から観客を呼び込み、リゾート業が経済を支える柱となった。

地元経済への影響

業の急成長は、バハマの経済に大きな影響を与えた。観産業に関連する仕事が増え、多くのバハマ人がホテル業やレストラン業、観ガイドとして働くようになった。これにより、観地周辺のインフラ整備が進み、道路や空港も次々と改良された。しかし、観業への依存度が高まるにつれ、他の産業が衰退するという課題も出てきた。観業に頼りすぎることは、世界的な経済危機や自然災害の影響を受けやすく、経済の脆弱性が指摘されるようになった。それでも、観業はバハマにとって欠かせない存在であった。

環境保護と持続可能な発展

業の発展とともに、バハマでは環境への影響も大きくなった。観客の増加により、サンゴ礁や海洋生物の保護が課題となり、バハマ政府は持続可能な観業を目指すようになった。エコツーリズムや環境保護活動が推進され、自然環境を守りながら観業を発展させるための取り組みが進められている。特に、サンゴ礁やマングローブ林の保護は重要なテーマとなっており、地元の住民や観業者が協力して保護活動に参加している。持続可能な発展は、バハマの未来に向けた重要な課題であり、観業の成功を支える鍵となっている。

第9章 独立への道: 政治的な闘争と勝利

植民地からの脱却を求める声

20世紀中盤、バハマでは独立への機運が高まり始めた。それまでイギリス植民地として統治されてきたバハマの人々は、より大きな自治権と平等を求めていた。この動きの中心には、地元の指導者や活動家たちがいた。特に1950年代に設立されたバハマ進歩自由党(PLP)は、労働者やアフリカ系住民の権利を主張し、イギリスからの独立を強く求めた。PLPのリーダー、リンドン・ピンドリングは、バハマの未来を変えるための象徴的な存在となり、彼のリーダーシップのもとで独立運動が大きな力を持つようになった。

平和的な闘争と政治の変化

バハマの独立への道は、他の植民地とは異なり、比較的平和的に進んだ。1967年、バハマ進歩自由党は歴史的な選挙で勝利し、リンドン・ピンドリングが首相に就任した。これにより、バハマの政治は大きな転機を迎え、イギリスからの独立に向けた具体的な準備が進められることとなった。彼らは平等な社会を目指し、特に労働者階級やアフリカ系住民の地位向上に努めた。この選挙の勝利は、バハマが独立への第一歩を踏み出した瞬間であり、国全体が自らの運命を切り開こうとする時代の始まりを告げていた。

1973年、独立の達成

1973年710日、バハマは正式にイギリスから独立し、主権国家となった。この歴史的な瞬間は、バハマの長い植民地時代の終わりを意味し、国民にとって新たな希望の始まりであった。リンドン・ピンドリング首相のリーダーシップのもと、バハマはイギリス連邦内で独立国としての地位を確立し、経済的、政治的に自立する道を歩み始めた。バハマ国旗が初めて掲げられ、国歌が演奏されたとき、多くの市民が涙を流し、独立という勝利の意味を深くかみしめた。バハマはこれで、真の自由を手にしたのである。

独立後の課題と新たなビジョン

独立はバハマにとって大きな成果だったが、同時に多くの課題も生まれた。新しい政府は、経済の安定や教育の整備、国際的な地位の向上に取り組む必要があった。観業や融業がバハマの主な産業となる一方で、国としてのインフラ整備や雇用問題も依然として重要な課題だった。リンドン・ピンドリングは、これらの問題に対処しつつ、バハマが国際社会で影響力を持つ国家へと成長するビジョンを描いた。独立は終わりではなく、新しい時代の始まりであり、バハマはその未来を自らの手で切り開く決意を固めたのである。

第10章 現代バハマ: 持続可能な発展と未来への挑戦

観光業の挑戦と機会

バハマの経済は観業に大きく依存している。毎年数百万人の観客が、美しいビーチや豪華なリゾートを求めて訪れるが、世界的な経済不況やパンデミックなど、観業には不安定な要素もある。そのため、バハマは観業を維持しつつ、多様化を図る必要に迫られている。持続可能な観業を目指し、エコツーリズムの推進や、地元文化との調和を図る取り組みが進められている。観業が環境に与える影響を最小限に抑え、次世代に美しい自然を引き継ぐことが、今後の課題となっている。

環境保護の取り組み

バハマは、その豊かな自然環境を守るために、多くの環境保護プログラムを進めている。特にサンゴ礁やマングローブ林は、観業だけでなく、バハマの生態系全体を支える重要な資源である。しかし、これらの自然環境は気候変動や人間の活動によって脅かされている。バハマ政府は、環境保護区を設置し、サンゴ礁の回復プロジェクトを推進している。また、エネルギーの面でも再生可能エネルギーを導入し、持続可能な未来を目指している。バハマの未来は、この美しい自然をどのように守っていくかにかかっている。

新たな経済発展の模索

バハマは観業以外にも、新たな経済の柱を模索している。その一つが融業であり、バハマは税制優遇措置を活用し、多くの国際企業や投資家を引きつけている。また、バハマは地域的な貿易ハブとしての役割を拡大しようとしており、物流や海運業の発展にも力を入れている。さらに、若者たちに向けた教育や起業支援プログラムも充実させ、テクノロジー分野での発展も目指している。経済の多角化は、バハマが国際的な競争力を維持するために不可欠なステップである。

国際社会での役割

独立以来、バハマは国際社会で影響力を高めてきた。カリブ海地域のリーダーとして、気候変動や国際貿易の問題に積極的に取り組んでいる。バハマは小さな国ではあるが、気候変動による海面上昇や自然災害に直面しているため、国際的な環境政策の議論において重要な発言権を持っている。バハマはまた、イギリス連邦の一員として、多国間協力や地域的な安全保障の分野でも積極的な役割を果たしている。これからもバハマは、国際舞台での存在感を強め、自国の利益を守りつつ、世界的な課題にも貢献していく。