基礎知識
- 終末論とは何か
終末論(エスカトロジー)は、世界や人類の終焉に関する宗教的・哲学的な思想を指し、古代から現代に至るまでさまざまな文化圏で展開されてきた。 - 主要な宗教における終末論の比較
キリスト教、イスラム教、仏教、ヒンドゥー教などの主要宗教には、それぞれ独自の終末観があり、それらは審判の日、輪廻の終焉、神の降臨など異なる形で表現される。 - 終末論が社会に与える影響
終末思想は、宗教運動、政治運動、科学技術の発展に影響を与え、時には大衆心理を動かし、戦争や革命を引き起こす要因となってきた。 - 歴史的な終末予言とその失敗
ノストラダムスの大予言やキリスト教の千年王国説など、多くの終末予言が歴史上存在したが、いずれも成就せず、それが新たな終末論の誕生を促すこともあった。 - 現代における終末論の展開
核戦争、気候変動、人工知能の暴走、宇宙の終焉など、現代では科学的な視点からの終末論が議論されるようになり、フィクションやメディアでも頻繁に取り上げられている。
第1章 終末論とは何か——概念と起源
人類はなぜ「終わり」を考えるのか
古代より、人類は「世界の終わり」に強い関心を抱いてきた。洪水、隕石衝突、戦争——人間はいつの時代も災厄と向き合い、それを説明しようとした。最も古い終末神話の一つに、シュメールの『ギルガメシュ叙事詩』がある。ここでは大洪水が描かれ、後の『旧約聖書』のノアの洪水と類似する。終末論とは単なる恐怖ではなく、人類が「なぜ終わりがあるのか」「どう生きるべきか」を考える哲学でもある。文明ごとに異なる終末観を持ちながらも、根底には「この世界には終わりがある」という共通の認識があった。
終末と救済——世界の終焉は絶望なのか
終末論は必ずしも「破滅」だけを意味するものではない。例えば、ゾロアスター教では世界は善と悪の戦いの末、最終的に正義が勝利し、清らかな世界が訪れるとされる。キリスト教の『ヨハネの黙示録』でも、世界は戦争と天変地異で滅ぶが、最後には「新しいエルサレム」が現れ、神の国が誕生する。ヒンドゥー教においても、カリ・ユガ(暗黒時代)の後に新しい時代が始まると考えられている。終末論は破壊の物語でありながら、同時に新たな希望の物語でもあるのだ。
終末思想の誕生——古代文明に刻まれた予言
古代文明は終末をどのように捉えていたのか。メソポタミアでは星々の動きから未来を予測し、エジプトでは冥界での審判を信じていた。ギリシャ神話にはゼウスが鉄の時代を嘆き、最後には神々が人間を滅ぼすという記述がある。ユダヤ教ではバビロン捕囚という苦難の中で、神の審判による終末思想が生まれた。これらの終末観は単なる予言ではなく、社会不安や権力闘争の影響を受けながら形成された。終末論とは、いつの時代も「現実の危機」と密接に結びついていたのである。
科学と終末論——現代に続く終焉の思索
古代の終末論は神話や宗教を通じて語られたが、現代では科学が新たな終末観を生み出している。19世紀にはダーウィンの進化論が「人類の未来」を問う契機となり、20世紀にはアインシュタインの相対性理論が宇宙の終焉についての議論を深めた。核戦争、気候変動、人工知能の暴走——科学技術が発展するほど、新たな「終末のシナリオ」が生まれている。人類は今もなお、終焉の可能性と向き合い続けているのだ。終末論は過去の遺物ではなく、未来を見据えるための思索でもある。
第2章 古代文明の終末観——神話と啓示
洪水伝説——世界を洗い流す神の裁き
古代メソポタミアの『ギルガメシュ叙事詩』には、大洪水によって世界が滅びる物語が登場する。神々は人間の騒がしさに怒り、大洪水を起こしたが、ウタナピシュティムという男が箱舟を作り生き延びた。この伝説は後の『旧約聖書』のノアの箱舟に影響を与えたと考えられている。また、インド神話のマヌ、ギリシャ神話のデウカリオンの物語も類似しており、多くの文明で「洪水による世界の終焉」が語られている。これらの伝説は単なる神話ではなく、実際の洪水災害の記憶が神話として伝承された可能性がある。
エジプト神話の終焉——ラーの怒りと人類の試練
エジプト神話においても、世界の終焉は神の意志と深く結びついている。太陽神ラーは、人間が神々を軽んじ始めたことに怒り、戦いの女神セクメトを送り込んで大虐殺を行わせた。世界が滅びかけたそのとき、神々はセクメトを鎮めるためにビールを赤く染め、血と間違えた彼女が飲み干し、暴走を止めたとされる。エジプトでは終末とは完全な破壊ではなく、神の力による試練の一つと考えられていた。この神話には「秩序が崩れれば、世界は危機に瀕する」という古代エジプト人の価値観が反映されている。
ギリシャ神話の終末——神々すら滅びる運命
ギリシャ神話にも、世界の終焉を予見する物語が存在する。ヘシオドスの『仕事と日』では、黄金時代から始まった人類の歴史は次第に堕落し、鉄の時代に至ると、ゼウスは人類を滅ぼすことを決意する。また、『イーリアス』や『オデュッセイア』においても、神々が人間の運命を翻弄しながら、いずれ世界が終焉を迎えることを示唆している。さらに、ローマ時代の詩人ウェルギリウスは新たな黄金時代の到来を予言し、終末の先に新たな秩序が生まれる可能性を示した。ギリシャの終末観は、破壊と再生のサイクルを前提としていた。
ゾロアスター教の善悪最終戦争
古代ペルシアのゾロアスター教は、終末を宇宙規模の戦いとして描いた。世界は善神アフラ・マズダーと悪神アーリマンの戦いの舞台であり、最終的には正義が勝利し、新たな理想世界が訪れるとされた。この思想はのちにユダヤ教、キリスト教、イスラム教の終末観に大きな影響を与えた。特に最後の審判の概念は、ゾロアスター教の「フラシャオカレティ」(世界更新)の思想と共通点が多い。この終末論は単なる破壊ではなく、「最終的な浄化」を目指すものであり、多くの後世の宗教に受け継がれていくこととなった。
第3章 ユダヤ教・キリスト教・イスラム教の終末論
旧約聖書の終末預言——選ばれし民の試練
ユダヤ教の終末思想は、苦難の中で形作られた。『ダニエル書』では、神の裁きが下され、正義の民が報われると預言されている。バビロン捕囚の苦難を経験したユダヤ人にとって、終末とは単なる破滅ではなく、神の救済と復興の約束であった。メシア(救世主)が現れ、悪しき勢力を滅ぼし、神の国を確立するという希望が込められていた。この思想は後のキリスト教にも受け継がれ、終末の概念は単なる滅亡ではなく、信仰の試練と新たな秩序の誕生を意味するようになった。
ヨハネの黙示録——キリスト教における終末のビジョン
キリスト教の終末論を象徴するのが『ヨハネの黙示録』である。ここでは、七つの封印が開かれ、四騎士が現れ、世界は戦争、飢饉、疫病、死に見舞われる。やがて悪の権化たる「獣」との最終戦争が繰り広げられ、最後の審判が訪れる。善なる者は新しいエルサレムで永遠に生き、悪しき者は火の池に落とされる。中世ヨーロッパではこの物語が神の計画として信じられ、多くの宗教運動の原動力となった。黙示録は単なる預言ではなく、人間の善悪を問い続けるメッセージを含んでいる。
イスラム教の審判の日——楽園か地獄か
イスラム教においても、終末は信仰の核心的要素である。クルアーンには「審判の日」が記されており、天使イスラーフィールがラッパを吹き鳴らすと、死者が復活し、アッラーの裁きを受ける。善行を積んだ者は天国(ジャンナ)へ、悪行を重ねた者は地獄(ジャハンナム)へと導かれる。また、終末にはダッジャール(偽救世主)が現れ、イエス(イーサー)が再臨して彼を打ち倒すとされる。イスラムの終末観は、個人の信仰と行いが来世の運命を決めるという倫理観と深く結びついている。
一神教の終末観——共通するテーマと相違点
ユダヤ教、キリスト教、イスラム教の終末論には多くの共通点がある。いずれも神の裁きが下され、善と悪が決着し、信仰者には救済が訪れる。しかし、ユダヤ教はメシアの到来を待ち望み、キリスト教はキリストの再臨と神の国の到来を重視し、イスラム教はアッラーの絶対的な裁きを強調する。これらの違いは、歴史的・文化的背景の中で形成されてきた。それぞれの終末観は、単なる未来予測ではなく、信者の生き方や社会のあり方を規定する重要な要素となっている。
第4章 東洋思想における終末論——仏教とヒンドゥー教
仏教の末法思想——悟りの時代の終焉
仏教には、世界が「正法」「像法」「末法」という三つの時代を経て衰退するという考えがある。釈迦の教えが正しく伝わる「正法」の時代は終わり、次に仏教の形式だけが残る「像法」の時代が続く。そして最後に「末法」の時代が訪れ、人々の信仰が薄れ、道徳が乱れ、社会が混乱する。日本では平安時代に末法思想が広まり、貴族や僧侶たちは極楽浄土への往生を願った。法然や親鸞の浄土教も、末法の救済として阿弥陀仏への信仰を強調するようになった。
カリ・ユガ——ヒンドゥー教の暗黒時代
ヒンドゥー教では、世界は「クリタ・ユガ」から始まり、次第に悪が増していき、最終的に「カリ・ユガ(暗黒時代)」に突入するとされる。現在はまさにカリ・ユガの時代であり、不正や暴力が支配し、人々は欲望に振り回されると説かれる。しかし、ヒンドゥー教の終末論は完全な破滅ではなく、新たな創造の前触れでもある。ヴィシュヌ神の化身であるカルキが最後に現れ、悪を滅ぼし、新たな黄金時代が始まるとされている。この考えは、輪廻の中に終末と再生が共存するヒンドゥー的世界観を表している。
仏教の弥勒信仰——未来の救世主
仏教には、未来に現れる弥勒菩薩が人々を救済するという信仰がある。釈迦入滅後、弥勒は兜率天で修行を続け、56億7000万年後にこの世界に降臨するとされる。中国や日本では、乱世の中で弥勒が現れることを待望する思想が広まり、奈良の東大寺の大仏も弥勒信仰と結びついていた。また、中国の五胡十六国時代には弥勒を救世主とする宗教運動が発生し、のちの白蓮教や太平天国の乱など、社会変革の動機ともなった。弥勒信仰は単なる未来の約束ではなく、現実世界の改革を促す力にもなった。
東洋の終末論と西洋の違い——円環する時間観
東洋の終末論は、単なる「終わり」ではなく、「再生」と深く結びついている。西洋の一神教のように世界が一度きりの歴史を辿るのではなく、仏教やヒンドゥー教では輪廻転生の思想があるため、終末も新たな時代の始まりに過ぎないと考えられる。この考え方は、文明の衰退を悲劇ではなく、変化の一環として受け入れる姿勢を生んだ。日本の室町時代には、戦乱を「末法の世」と捉えながらも、新たな秩序の誕生を期待する思想が根付いた。東洋の終末観は、絶望ではなく再生の可能性を秘めているのである。
第5章 歴史を動かした終末運動——社会変動との関係
十字軍の聖戦——終末と約束の地
1095年、ローマ教皇ウルバヌス2世は「聖地エルサレムを異教徒から奪還せよ」と呼びかけた。終末思想がこの大規模な戦争を正当化したのである。キリスト教徒の間では「聖地を取り戻せば、キリストの再臨が早まる」と信じられていた。巡礼者や騎士たちは神のために剣を取り、異教徒との戦いに身を投じた。しかし、戦争は数世紀にわたる混乱をもたらし、エルサレムをめぐる争いは絶えなかった。十字軍は宗教的熱狂と政治的野心が交錯した例であり、終末論がいかに歴史を動かす力を持つかを示している。
宗教改革と終末の予感
16世紀、マルティン・ルターはカトリック教会の腐敗を批判し、宗教改革を引き起こした。当時の人々は終末が近いと考え、ルターも「ローマ教皇こそ黙示録の獣である」と述べた。宗教改革は単なる神学論争ではなく、社会全体の変革を促す運動となった。プロテスタントは「信仰による救済」を掲げ、聖書の原点に立ち返ることで終末に備えた。一方、カトリック教会も対抗して改革を進めた。終末の危機感が歴史を揺るがし、新しい宗教運動と政治変動をもたらしたのである。
アメリカのミレニアム運動——新天地での救済
19世紀、アメリカでは終末論を掲げる新興宗教が次々に誕生した。ウィリアム・ミラーは「1844年にキリストが再臨する」と予言し、多くの人々が財産を手放し、救済を待った。しかし予言は外れ、「大失望」と呼ばれる混乱を引き起こした。その後もモルモン教やエホバの証人などが独自の終末観を発展させた。アメリカのミレニアム運動は、新天地に希望を求める人々の心理と結びついていた。終末の予言が、人々の行動や社会の形成に大きな影響を与えたのである。
革命と終末——歴史の転換点としての終末思想
フランス革命では「古い世界を壊し、新しい時代を創る」という終末的思想が強調された。ジャコバン派の指導者たちは、「王政の終焉こそが新しい秩序の始まり」と宣言し、ギロチンの下で絶対王政を葬り去った。ロシア革命もまた、「資本主義の終焉」と「労働者の楽園」という終末的ビジョンを掲げていた。終末論は必ずしも宗教だけのものではなく、政治運動にも影響を与える。世界を一度破壊し、新たな理想社会を築くという思想は、多くの革命の根底に存在していたのである。
第6章 近代の終末予言——失敗とその影響
ノストラダムスの予言——1999年、人類は滅びるのか
フランスの医師であり占星術師のノストラダムスは、16世紀に『百詩篇』を著し、未来の出来事を暗示した。その中でも「1999年7の月、空から恐怖の大王が降りてくる」という一節は、世界の終焉を示唆しているとして大きな注目を浴びた。20世紀末には、この予言が核戦争や隕石衝突の前兆と解釈され、多くの人々が恐怖に駆られた。しかし、1999年は何事もなく過ぎ、終末は訪れなかった。この出来事は、人間が終末を信じたがる心理と、その影響の大きさを示している。
千年王国運動——終末と新たな時代の到来
19世紀、アメリカで生まれた千年王国運動(ミレナリアニズム)は、キリストの再臨による新しい世界秩序を信じる人々によって広がった。ウィリアム・ミラーは「1844年に世界が終わる」と予言し、信者たちは白い衣をまとって救済を待った。しかし予言は外れ、「大失望」と呼ばれる混乱を生んだ。その後も、セブンスデー・アドベンチストやエホバの証人などの宗派が新たな終末予言を掲げた。彼らは幾度も予言が外れながらも、独自の教義を発展させ、現在も信仰を続けている。
終末カルトの興隆と悲劇
終末予言が時に狂信的な運動を生むこともある。1978年、ジム・ジョーンズ率いる人民寺院は集団自殺を遂げた。1993年にはダビデ派がFBIとの銃撃戦の末、本部が炎に包まれ、多数が犠牲となった。1997年、ヘヴンズ・ゲートの信者は「ハレー・ボップ彗星の背後に宇宙船がある」と信じ、自殺を決行した。日本でも1995年、オウム真理教が地下鉄サリン事件を起こした。終末思想が極端に信じられると、人々は破滅的な行動に走ることがある。終末論は、社会に対して警鐘を鳴らす側面も持つ。
予言の失敗と人々の心理
終末予言が外れたとき、人々はどのように反応するのか。心理学者レオン・フェスティンガーは「認知的不協和」理論を提唱し、予言が外れた際に信者は「間違っていた」と認めるのではなく、新たな解釈を加えて信仰を維持すると指摘した。例えば、千年王国運動の信者は「終末は霊的に訪れた」と説明し、エホバの証人は「神の計画は延期された」と解釈した。人間は確信を持って信じたものを簡単には手放さない。終末予言は何度も外れてきたが、それでも信じる人が後を絶たないのは、人間の心理が関係しているのである。
第7章 科学と終末——宇宙・環境・技術の視点から
気候変動による地球の危機
かつて文明の盛衰は戦争や疫病によるものだったが、現代では「気候変動」が最大の脅威となっている。産業革命以降、二酸化炭素の排出量は急増し、地球の気温は上昇し続けている。科学者ジェームズ・ハンセンは1988年、アメリカ議会で「温暖化は現実の危機である」と警鐘を鳴らした。グリーンランドの氷床が溶け、海面が上昇すれば、沿岸都市は水没する。干ばつやハリケーンの激化も人類の生活を脅かす。環境破壊は、黙示録的な未来を現実のものとしつつあるのだ。
核戦争の脅威——冷戦の遺産
1945年、広島と長崎に落とされた原子爆弾は、一瞬で数十万人の命を奪った。それ以来、人類は自らの手で世界を終わらせる力を持つようになった。冷戦時代、アメリカとソ連は核戦争寸前の危機を何度も迎えた。1962年のキューバ危機では、米ソの対立が一歩間違えば世界の終焉につながる状況だった。現在も核兵器は9カ国に存在し、誤作動やテロリストの手に渡るリスクは消えていない。「核の冬」が訪れれば、地球は長期間にわたり暗黒に包まれる。終末は、一つのボタンで引き起こされる可能性がある。
人工知能と技術的特異点
AI(人工知能)は人類にとって最大の発明か、それとも最後の発明か。レイ・カーツワイルは「2045年に技術的特異点(シンギュラリティ)が訪れる」と予測した。この時点でAIは人間の知能を超え、自己進化を始めるという。すでにAIはチェスや囲碁で人間を凌駕し、自動運転や医療診断にも活用されている。しかし、もしAIが制御不能となれば、人間の存在意義すら問われる時代が来るかもしれない。映画『ターミネーター』や『マトリックス』のような未来が現実となる日は遠くないのかもしれない。
宇宙の終焉——最後の未来予測
もし地球が存続できたとしても、宇宙の終焉は避けられない。宇宙物理学者スティーヴン・ホーキングは「宇宙は膨張を続け、やがて熱的死を迎える」と述べた。宇宙には「ビッグクランチ(収縮による終焉)」「ビッグリップ(加速膨張による崩壊)」「ヒートデス(熱的死)」の3つの終末シナリオがある。数十億年後、太陽は燃え尽き、地球は消滅する。さらに何兆年も経つと、すべての星が死に、宇宙は冷たく暗闇に包まれる。終末は地球だけでなく、宇宙全体に訪れるのである。
第8章 フィクションと終末論——文学・映画・ゲームに見る終末観
文学に描かれた終末のビジョン
終末論は古くから文学の重要なテーマであった。19世紀のH・G・ウェルズは『宇宙戦争』で地球外生命体による侵略を描き、人類の終焉を想像した。ジョージ・オーウェルの『1984年』は、終末が暴力や戦争ではなく全体主義の支配によってもたらされる可能性を示した。レイ・ブラッドベリの『華氏451度』では、知識を奪われた社会が精神的な終末を迎える様子が描かれた。文学は時代ごとに異なる終末の形を提示し、人類が直面する未来への警鐘を鳴らしてきた。
映画のスクリーンに映る黙示録
映画は終末論のイメージを視覚的に強烈に伝える。『マッドマックス』シリーズは、資源が枯渇した荒廃した世界を描き、人間の生存本能と暴力の極限を表現した。『ターミネーター』ではAIが暴走し、人類滅亡の危機をもたらす。『インターステラー』は地球環境の崩壊を背景に、人類が新たな居住地を求める姿を描いた。映画の終末観は単なる破滅ではなく、そこに生きる人間の葛藤や希望を映し出す鏡となっている。
ゲームの中の終末世界
ゲームの世界では、プレイヤー自身が終末を生き抜く体験をすることができる。『Fallout』シリーズは核戦争後の荒廃した世界を舞台にし、プレイヤーは荒野を探索しながら生き残る術を学ぶ。『The Last of Us』はパンデミックにより文明が崩壊した世界での人間関係や倫理の問題を描く。『NieR:Automata』では、人類が機械生命体に追われ、存続の意義を問われる。ゲームはプレイヤーに「もし終末が訪れたらどう生きるか?」を疑似体験させ、終末論を身近なものとして考えさせる。
フィクションが私たちに問いかけるもの
終末を描くフィクションは、単なる娯楽ではなく、人類の未来についての深い問いを投げかける。なぜ人は終末を想像し、それを物語にするのか。核戦争、環境破壊、AIの暴走——終末を描く作品は、私たちに現在の選択の重要性を気づかせる。フィクションの終末論は、恐怖を煽るものではなく、希望と警告の両面を持つ。最悪の未来を描くことで、人類がより良い道を選べるようにする。それこそが、フィクションが果たす終末論的役割なのである。
第9章 終末論の未来——宗教・科学・哲学の交差点
ポスト・ヒューマニズムと終末の新たな形
人類は「進化の終着点」に近づいているのかもしれない。ポスト・ヒューマニズムの思想家たちは、人間の知能と身体がテクノロジーによって強化される未来を予測する。人工知能と融合し、老化を克服し、脳をデジタル化することで、肉体の終焉を超越できるという考え方である。しかし、それは人類の終末なのか、それとも新たな始まりなのか。シリコンバレーの企業は「意識のアップロード」を研究し、死後もデータとして生き続ける可能性を模索している。未来の終末は、滅亡ではなく「人間の概念の変化」として訪れるのかもしれない。
宇宙移住——地球を捨てる時が来るのか
イーロン・マスクやジェフ・ベゾスは「地球はいつか住めなくなる」と主張し、火星移住計画を推進している。もし気候変動や戦争で地球が崩壊した場合、人類が生き残る方法は「宇宙に逃げる」ことかもしれない。NASAも100年以内の火星植民を視野に入れており、SFが現実になろうとしている。しかし、地球を捨てることは倫理的に正しいのか。アーサー・C・クラークは「人類は宇宙へ旅立つ運命にある」と語ったが、それは希望なのか、それとも終末の逃避なのか。地球の終焉が、新たな宇宙文明の始まりとなる可能性もある。
テクノロジーと信仰——宗教は終末をどう解釈するのか
宗教はテクノロジーの進歩と共存できるのか。終末論はこれまで神の意思として語られてきたが、現代ではAIや遺伝子編集が「神の領域」に足を踏み入れている。カトリック教会はクローン技術を批判し、イスラム神学者たちはAIによる裁きを否定する。仏教の一部では「AIにも魂は宿るのか?」という問いが議論されている。信仰がテクノロジーに適応するのか、それとも対立するのか。未来の終末論は、科学と宗教の境界を揺るがし、新たな哲学を生み出す可能性がある。
終末は避けられるのか——未来の選択肢
終末論は、人類がどのような選択をするかにかかっている。気候変動を防ぐことができれば、地球の寿命は延びる。核兵器を管理できれば、人類の自滅は防げる。AIを倫理的に統制できれば、技術の暴走は回避できる。未来の終末は、運命ではなく、選択の結果として訪れる。ユヴァル・ノア・ハラリは「未来は神ではなく人間の手にある」と述べた。終末を迎えるのか、それとも乗り越えるのか——それは今を生きる私たちに委ねられているのである。
第10章 私たちはいかに終末論と向き合うべきか
終末思想の功罪——希望か、恐怖か
終末論は、希望と恐怖の二面性を持つ。歴史上、多くの宗教や思想が「終わり」を語り、それを乗り越えた先に救済や新世界を見出してきた。キリスト教の黙示録も、破壊の後に「新しいエルサレム」の到来を示唆する。一方で、終末の恐怖が暴走し、オウム真理教の地下鉄サリン事件のような悲劇を生んだ例もある。終末論は、危機を煽る道具にもなり得るが、未来への責任を自覚する機会ともなる。私たちは、それを単なる恐怖ではなく、希望の物語として捉えるべきである。
パニックの罠——恐怖が生む暴走
人類は「終末が迫っている」と信じたとき、理性的な判断を失うことがある。2000年問題では「コンピュータの誤作動で社会が崩壊する」と不安が広がり、食料や武器の買い占めが発生した。パンデミック時にも、流言が飛び交い、デマが人々の行動を支配した。パニックは終末論の副産物であり、それを抑えるには「知識」と「冷静さ」が不可欠である。未来を恐れるのではなく、論理的に考え、行動することが真の危機回避につながるのである。
未来を築くための思考法
終末論は、未来を創るための思索の材料となる。宇宙移住を提唱するイーロン・マスクは「地球に未来はないのではなく、可能性が広がる」と語る。環境問題に取り組むグレタ・トゥーンベリは「終末を防ぐために行動すべきだ」と主張する。終末のシナリオを知ることは、破滅を回避するための第一歩である。私たちは歴史を学び、科学を理解し、技術を発展させることで、終末の到来を防ぐことができる。終末論は、警告ではなく未来への設計図なのである。
終末の先にあるもの——希望という選択
人類の歴史は、何度も「終わり」の危機を乗り越えてきた。黒死病、世界大戦、冷戦の核の恐怖——いずれも終末の予感を伴ったが、人類は生き延び、文明を発展させてきた。終末論は、決して破滅の予言ではない。それは「どう生きるか」を問う哲学である。私たちが未来を恐れず、積極的に選択する限り、終末は訪れない。終わりの先には、常に新たな可能性が広がっている。私たちが信じるべきなのは、恐怖ではなく、希望なのである。