基礎知識
- ニューオーリンズの地理的・文化的背景
ニューオーリンズは、フランスやスペインの植民地支配を受け、アフリカ、カリブ、ヨーロッパの音楽文化が融合した都市である。 - アフリカ系アメリカ人の音楽的遺産
アフリカ系住民が持ち込んだリズムや即興演奏の伝統が、ジャズ誕生の核となった。 - 1900年代初期のバンド文化とラグタイム
ラグタイムは、ジャズのリズム的基盤となり、ブラスバンド文化の中で発展していった。 - ジャズ誕生の中心人物:バディ・ボールデン
バディ・ボールデンは「ジャズの父」として知られ、その即興演奏とブルースの融合がジャズの形成に寄与した。 - ジャズの拡散と商業化
1920年代、ジャズはミシシッピ川沿いに広がり、レコードやラジオを通じてアメリカ全土に浸透した。
第1章 魅惑の港町ニューオーリンズ
多文化が交差する都市
ニューオーリンズは、18世紀から20世紀初頭にかけて、アメリカ南部に位置しながらも独特な文化を持つ都市である。フランスやスペインの植民地だった歴史を持ち、その後アメリカに編入されたが、多文化が交差するこの町には、フランス語、スペイン語、そしてアフリカ系住民の言語と文化が入り混じっていた。加えて、奴隷制度がもたらしたアフリカの音楽やダンスが、この地の人々の心に根付いた。ここはただの港町ではなく、多様な人種と文化が作り出した「音楽の坩堝(るつぼ)」であり、ジャズの誕生に欠かせない背景が揃っていた。
コング・スクエアと音楽の自由
ニューオーリンズのコング・スクエアは、音楽とダンスの聖地であった。ここでは、日曜日になるとアフリカ系アメリカ人が集まり、自由に歌い、踊り、太鼓を叩いていた。当時のアメリカでは奴隷制度のもと、多くの州でアフリカ系の人々が音楽活動をすることは制限されていたが、ニューオーリンズだけは例外だった。彼らが持ち込んだリズムや即興演奏の伝統は、徐々にヨーロッパのクラシック音楽やカリブ海のリズムと融合していき、後にジャズへと発展する音楽の基礎を築いていく。この広場は、自由な表現が許される貴重な空間であった。
港町としての役割
ニューオーリンズは、ミシシッピ川の河口に位置することで、世界中の文化が集まる貿易の中心地となっていた。この町には、船でやってくるヨーロッパやカリブ海からの商人、そしてアフリカ系移民が定住し、彼らの音楽や生活様式が交わっていった。音楽的な影響も、海を越えてやってきた移民や商人が持ち込んだ新しいスタイルが取り入れられ、町全体が絶えず変化していく。このような多様な文化の影響が、音楽の豊かさを生み出し、ジャズの誕生を促したのである。
人々の生活と音楽
ニューオーリンズでは、音楽は単なる娯楽ではなく、人々の生活に密接に結びついていた。街の路上ではいつもブラスバンドが演奏され、葬儀や結婚式などの式典には必ず音楽がつきものだった。特に「セカンドライン」と呼ばれる葬儀の行列では、ブラスバンドが哀愁漂う曲を奏で、次第にリズムが速くなり、喜びのダンスへと変わっていく。このような風習は、ニューオーリンズ独自の音楽文化を育て、町全体が生きた音楽の舞台となっていた。ジャズがこの街で生まれたのは、偶然ではなかったのだ。
第2章 アフリカの鼓動:奴隷と音楽の遺産
アフリカの音楽的遺産がもたらしたもの
ニューオーリンズに奴隷として連れてこられたアフリカ系の人々は、自分たちの音楽を大切に守り続けていた。彼らの音楽は、複雑なリズムや即興性、そして「コール・アンド・レスポンス」と呼ばれる特徴的な対話形式が魅力であった。アフリカの音楽は、集団の中で人々を結びつけ、喜びや悲しみを共有する手段でもあった。ニューオーリンズで彼らが演奏し歌うことで、アフリカのリズムやスタイルがこの町の音楽に深く根を下ろし、後にジャズ誕生の重要な要素となる文化的な土壌が育まれていった。
コング・スクエアでの自由な音楽活動
19世紀のニューオーリンズには、アフリカ系アメリカ人が音楽を楽しむための特別な場所があった。それが、コング・スクエアだ。この広場では、日曜日に奴隷たちが集まり、自由に歌い、踊り、太鼓を叩くことが許されていた。当時のアメリカ南部では、奴隷が音楽を楽しむことが厳しく制限されていたため、コング・スクエアは特別な場所だった。ここで演奏されたリズムやメロディーは、ヨーロッパ音楽やカリブ海の影響を受けながら進化し、後にブルースやジャズへと変化していく音楽の基盤を作り上げたのである。
ゴスペルとブルースの源流
アフリカ系アメリカ人の音楽は、教会の中でも強い影響を持っていた。彼らが持ち込んだ音楽の精神性は、後にゴスペルと呼ばれる音楽スタイルの基盤となった。ゴスペルでは、アフリカ的なリズムと、クリスチャンの信仰が結びつき、感情豊かな歌が生まれた。また、労働の苦しさや不安、希望を歌ったブルースも、アフリカ系コミュニティの中で発展した。ブルースは、後にジャズに取り入れられるが、その原型は奴隷たちの生活と密接に結びついていた音楽なのである。
リズムと即興の力
アフリカの音楽的伝統の中でも、リズムと即興演奏は重要な役割を果たしていた。アフリカ系アメリカ人は、太鼓や打楽器を使って、複雑で躍動感のあるリズムを生み出した。このリズムは、奴隷制度の厳しい生活の中で彼らに力を与え、精神的な解放感を与えるものであった。また、即興的に演奏するスタイルは、自由な表現を尊重するアフリカ音楽の特徴であり、これが後のジャズにおける即興演奏の源流となった。ジャズの誕生には、この即興の伝統が欠かせなかった。
第3章 ラグタイムとブラスバンド:ニューオーリンズのストリートサウンド
リズムの革命:ラグタイムの誕生
ラグタイムは、1890年代にアメリカで生まれた新しい音楽スタイルで、その特徴は複雑なリズムにあった。特にピアノで演奏されることが多く、右手でメロディーを弾きながら、左手で刻むリズムが異なる「シンコペーション」が重要な要素である。このリズムの遊びが、聴く人に思わず体を揺らさせる魔法のような力を持っていた。ラグタイムの巨匠、スコット・ジョプリンはその代表的な作曲家であり、彼の「メイプル・リーフ・ラグ」は瞬く間に大人気となり、アメリカ中でラグタイムが流行するきっかけを作った。
ニューオーリンズのブラスバンド文化
ニューオーリンズの街角では、ブラスバンドが大きな存在感を放っていた。ブラスバンドとは、金管楽器を中心に編成された音楽グループで、パレードやお祭り、葬儀の行列など、街のいたるところで演奏されていた。これらのバンドは、行進曲やダンスミュージックを得意とし、特に「セカンドライン」と呼ばれる葬儀の後のパレードでは、悲しみが喜びへと変わる瞬間に欠かせない存在であった。バンドメンバーたちは即興演奏を交えながら、街中の人々を巻き込み、音楽の祝祭を繰り広げたのである。
ラグタイムとブラスバンドの融合
ラグタイムとブラスバンドは、ニューオーリンズの音楽文化の中で自然に融合していった。ラグタイムのシンコペーションが、ブラスバンドのリズムに取り入れられることで、街角の演奏はより躍動感のあるものとなった。特に、ピアノを中心にしたダンスホールやクラブでは、ラグタイムが盛んに演奏され、これにブラスバンドの即興演奏が加わることで、聴衆は熱狂した。こうして、ニューオーリンズは、ラグタイムとブラスバンドが共存し、互いに影響し合う音楽の交差点として発展していった。
ストリートミュージシャンと新しい音楽の誕生
ニューオーリンズの音楽は、街角のストリートミュージシャンたちによっても大きく形作られた。彼らは、教会や学校で正式な音楽教育を受けることなく、耳で覚えた曲を自由に演奏することで新しい音楽を生み出していった。ブラスバンドのリズムにラグタイムの要素が加わり、さらにアフリカ系アメリカ人のブルースの即興演奏が融合することで、より自由で個性的な音楽が誕生した。これが、後に「ジャズ」と呼ばれる新しい音楽ジャンルへの道を切り開いていくことになるのである。
第4章 バディ・ボールデン:ジャズの父
伝説のトランペッター、バディ・ボールデン
バディ・ボールデンは、ジャズの最初の「伝説」として語り継がれているトランペッターである。彼の演奏は当時の人々に大きな衝撃を与え、特に即興演奏のスタイルが革新的であった。彼は固定されたメロディーに囚われず、その場で思いついたフレーズを自由に演奏することで、他のミュージシャンとは一線を画していた。バディ・ボールデンのバンドは、ニューオーリンズのダンスホールで大人気となり、その斬新な音楽スタイルが後にジャズとして知られるようになるジャンルを形作った。
ブルースとジャズの融合
ボールデンの演奏の特徴は、ブルースを取り入れたことである。ブルースは当時、アフリカ系アメリカ人の労働者や奴隷の間で広がっていた感情的な音楽スタイルで、深い悲しみや喜びを表現していた。バディ・ボールデンはこのブルースの要素を自分の演奏に取り入れ、哀愁漂うメロディーを即興で奏でることで聴衆を魅了した。また、彼のバンドメンバーも、彼の影響を受けて自由な演奏スタイルを追求し、ジャズ特有の即興性が生まれていった。ブルースと即興演奏の融合こそ、ボールデンがジャズに与えた最大の貢献である。
ニューオーリンズの音楽シーンへの影響
バディ・ボールデンの音楽は、ニューオーリンズの音楽シーンに大きな影響を与えた。彼の演奏スタイルは、他のミュージシャンたちにとっても新鮮で刺激的なものであり、多くの音楽家が彼を真似しようとした。特に、彼のバンドで演奏していたキング・オリバーやルイ・アームストロングといった後の大物ミュージシャンは、ボールデンの即興演奏の技術を自分たちの音楽に取り入れ、さらなる進化を遂げた。ニューオーリンズ全体が、彼の影響でジャズの誕生に向けて動き出していたのである。
ボールデンの悲劇的な晩年
しかし、バディ・ボールデンの人生は輝かしいばかりではなかった。彼は精神的な病に苦しみ、1907年には精神病院に入院し、以後は音楽活動を続けることができなかった。それでも彼がジャズに与えた影響は計り知れない。ボールデンの音楽は録音されていないため、具体的な演奏を聴くことはできないが、彼の革新性は後に続くミュージシャンたちによって語り継がれ、彼のスタイルはジャズの礎を築いたといえる。ボールデンはジャズの父として、今もなお伝説的な存在である。
第5章 初期ジャズの拡散と地域のシーン
ミシシッピ川を通じたジャズの広がり
ニューオーリンズで生まれたジャズは、すぐにミシシッピ川を通じて北へと広がっていった。ミシシッピ川はアメリカ南部から北部へと物資や人々を運ぶ重要な交通路で、ジャズミュージシャンたちもその流れに乗り、シカゴやセントルイスといった都市へ進出していった。船の上や各地のダンスホールで演奏されるジャズは、旅する人々に刺激を与え、川沿いの都市で次々に人気を集めた。特に、シカゴはジャズが繁栄する場所となり、多くのミュージシャンが新しいチャンスを求めてこの街に集まった。
シカゴジャズの発展
シカゴは、1920年代にジャズの中心地となった。この時期、多くのニューオーリンズ出身のミュージシャンたちがシカゴに移り住み、そこで新しい音楽シーンを作り上げた。特に有名なのは、トランペッターのルイ・アームストロングで、彼の技術と表現力がシカゴジャズの象徴となった。また、シカゴではピアノを使った「ストライド」スタイルも発展し、ラグタイムからより洗練されたスタイルへと進化していった。シカゴは新しい音楽の実験場となり、ジャズの新しい可能性が広がっていったのである。
カンザスシティのジャズ文化
シカゴと並んで、カンザスシティもジャズの発展において重要な役割を果たした都市である。カンザスシティでは、特に「スウィング」と呼ばれるリズムが発展し、その軽快でダンサブルなビートが大衆に広く受け入れられた。この街のクラブやダンスホールでは、夜ごとジャムセッションが行われ、ミュージシャンたちは互いに技術を競い合った。サックス奏者のレスター・ヤングやピアニストのカウント・ベイシーなどがこの街で名を上げ、カンザスシティ・ジャズとして知られる独自のスタイルを確立した。
ローカルシーンが作り出す新たな音
ジャズは、地域ごとに異なるスタイルや音色を持つようになっていった。ニューオーリンズの情熱的でブルースに根ざしたスタイル、シカゴのテクニカルでモダンなアプローチ、そしてカンザスシティのスウィングと即興演奏の融合など、それぞれの地域で異なる音楽が生まれていた。この多様なジャズのスタイルは、ローカルのクラブやホールで培われたミュージシャンたちの創造力によって生み出され、聴衆を魅了していった。こうして、ジャズはアメリカ全土で異なる顔を持ちながらも、共通の音楽として成長していったのである。
第6章 1920年代のジャズとアメリカの都市文化
ジャズ・エイジの幕開け
1920年代は「ジャズ・エイジ」として知られる時代で、ジャズはアメリカ全土で爆発的な人気を博した。この時期、レコードやラジオが普及し、ジャズが全国的に流れるようになったことが大きな要因である。ニューオーリンズで生まれた音楽が、ミシシッピ川を北上し、シカゴやニューヨークといった大都市で広まったことで、アメリカの若者たちは自由で新しい音楽に夢中になった。特に、女性の社会進出や自由な自己表現の象徴として、ジャズはその時代の象徴となったのである。
ダンスホールとジャズの流行
1920年代のアメリカでは、ジャズはダンスホールで欠かせない存在となった。特に、当時の流行であった「チャールストン」や「ブラック・ボトム」といったダンスは、ジャズのリズムにぴったり合う動きで、若者たちはこの新しいダンスに夢中になった。ジャズバンドが生演奏するダンスホールは、夜ごとに賑わいを見せ、音楽とダンスが一体となって人々を楽しませた。特にニューヨークのハーレムにある「コットンクラブ」などの有名なクラブは、多くの人々に愛され、ジャズの一大ブームを巻き起こした。
レコードとラジオがもたらした変革
レコードやラジオの登場は、ジャズの普及に大きく貢献した。これまでジャズはライブでしか聴けなかったが、レコードによって全国の家庭で簡単に楽しむことができるようになった。ジャズは大都市だけでなく、田舎や小さな町に住む人々の間にも広がっていった。また、ラジオはアーティストを全国的に有名にする手助けをし、ルイ・アームストロングやデューク・エリントンといったミュージシャンたちは、一夜にしてスターとなった。メディアの力でジャズは一大音楽ジャンルとして定着していったのである。
ジャズが社会に与えた影響
1920年代のジャズは、単なる音楽ではなく、社会そのものにも大きな影響を与えた。特に、黒人文化が白人社会にも受け入れられるようになり、音楽を通じて人種の壁が少しずつ崩れていった。また、ジャズは女性たちにも自由な表現の場を提供し、「フラッパー」と呼ばれる当時の若い女性たちは、短いスカートやショートヘアで、自分たちのスタイルを表現した。ジャズは、ただの音楽を超えて、社会の価値観や文化に革命をもたらす原動力となったのである。
第7章 伝説のジャズミュージシャンたち
ルイ・アームストロング:ジャズのスター
ルイ・アームストロングは、ジャズ史において最も重要な人物の一人である。彼はトランペットの名手であり、独特の表現力と技術で知られていた。ニューオーリンズの貧しい家庭に生まれながらも、才能を武器に音楽の道を切り開いた。アームストロングの即興演奏は、人々を驚かせるだけでなく、ジャズの魅力を新しいレベルへと引き上げた。また、彼の特徴的なハスキーボイスも、多くの人々を魅了し、彼は世界中で愛されるスターとなった。アームストロングの音楽は、ジャズを国際的に広めた大きな要因となっている。
キング・オリバーと彼の影響
キング・オリバーは、ルイ・アームストロングの師匠としても知られるトランペット奏者である。彼は「クレオール・ジャズ・バンド」を率い、シカゴで多くの成功を収めた。オリバーは、トランペットにさまざまなミュート(消音器)を使い、独特の音色を作り出す技法で注目を浴びた。彼のバンドには、若き日のアームストロングも参加しており、ここで得た経験がアームストロングの成長に大きく影響を与えた。キング・オリバーは、ジャズがシカゴで広がる基礎を築いた人物であり、その後のジャズの発展に不可欠な存在であった。
シドニー・ベシェ:サックスとクラリネットの巨匠
シドニー・ベシェは、ジャズのサックスとクラリネットの名手として知られるミュージシャンである。彼はニューオーリンズ出身で、早くから音楽の才能を発揮していた。ベシェの演奏は、強烈な感情表現と速いテンポで知られ、他のミュージシャンとは一線を画すスタイルを持っていた。彼は1920年代にヨーロッパへ渡り、そこでジャズを広める先駆者となった。ベシェの情熱的な演奏は、彼のリスナーに深い印象を与え、特にフランスでは非常に人気を博した。彼の影響力は、ジャズが国際的な音楽ジャンルとして認められる礎を築いた。
ジェリー・ロール・モートン:ジャズの作曲家
ジェリー・ロール・モートンは、初期のジャズ作曲家として名を馳せた人物である。彼は自らを「ジャズの発明者」と呼ぶほど、自分の音楽に誇りを持っていた。モートンはピアニストとしての才能だけでなく、作曲家としても多くの名曲を残した。特に「ジャズのライブラリー」として知られる彼の作品集は、ジャズの初期の発展に大きく寄与した。モートンの音楽は、ラグタイムの影響を受けながらも、独自の複雑なリズムとメロディーを取り入れており、彼は作曲家としての地位を確立したのである。
第8章 ジャズの革新:スウィングからビバップへ
スウィングの黄金時代
1930年代に入ると、スウィングがアメリカ中で大流行した。スウィングは、軽快なリズムと華やかなブラスバンドの音色が特徴で、特にダンスホールで人気を博した。この時代を代表するのがデューク・エリントンやベニー・グッドマンのようなビッグバンドのリーダーたちである。彼らは大編成のバンドを指揮し、エネルギッシュでダンサブルな音楽を奏でた。スウィングは、ジャズを大衆文化の中心に据え、ラジオや映画を通じて全国の聴衆を魅了し続けたのである。
スウィングからビバップへ
1940年代に入ると、ジャズは次なるステージに進化を遂げた。スウィングのような大編成ではなく、少人数のコンボ(小編成グループ)が主流となり、ビバップと呼ばれる新しいスタイルが登場した。ビバップは、スピード感あふれる複雑な即興演奏と、技術的に高度なリズムが特徴である。このスタイルの開拓者には、チャーリー・パーカーやディジー・ガレスピーがいる。彼らは、スウィングのシンプルなメロディーから脱却し、聴く者に驚きを与えるような斬新な音楽を生み出した。
チャーリー・パーカーの天才
チャーリー・パーカーは、ビバップ革命の中心人物であり、その名はジャズ史に刻まれている。彼はサックスの天才であり、その即興演奏の速さと複雑さで他のミュージシャンを圧倒した。パーカーは、従来のジャズの枠を越えた新しいアプローチを取り入れ、楽器の限界に挑戦した。彼の演奏は、短いフレーズを重ね合わせ、予測不可能なリズムを織り交ぜた革新的なものであり、ジャズの聴衆に大きな衝撃を与えた。パーカーの影響力は絶大で、後の世代のミュージシャンたちにも大きな影響を残した。
ビバップがもたらした自由
ビバップは、ジャズの演奏スタイルだけでなく、ミュージシャンにとっての表現の自由をも象徴していた。スウィングの時代、音楽は主にダンスのために演奏されていたが、ビバップは聴くための音楽として発展した。ミュージシャンたちは、自分たちの個性を存分に発揮し、技術的な挑戦を追求する場となった。テンポの速い複雑なフレーズや独自のリズムパターンは、聴衆を驚かせ、彼らを魅了した。ビバップはジャズにさらなる深みを与え、音楽の芸術的可能性を広げたのである。
第9章 ジャズの国際的拡散と影響
ヨーロッパへのジャズの旅路
第一次世界大戦後、ジャズはヨーロッパに進出し、特にフランスで熱狂的に受け入れられた。アメリカから派遣された黒人兵士たちが持ち込んだ音楽が、その始まりである。パリでは、ジャズクラブが次々に開店し、ヨーロッパの聴衆はその自由でリズミカルなサウンドに夢中になった。シドニー・ベシェのようなミュージシャンは、ヨーロッパで大きな成功を収め、現地の音楽家にも強い影響を与えた。ジャズは、アメリカだけでなく、世界中で愛される音楽ジャンルへと進化していったのである。
日本とジャズの出会い
日本にジャズが紹介されたのは1920年代であり、特に1924年に来日したアメリカのジャズバンド「ビクター・オーケストラ」の公演が大きな影響を与えた。彼らの演奏は、日本の音楽シーンに衝撃を与え、多くのミュージシャンがジャズに興味を持ち始めた。戦後、ジャズ喫茶やライブハウスが登場し、日本でもジャズ文化が根付き始めた。やがて、日本独自のスタイルを持つジャズミュージシャンも現れ、世界のジャズシーンに貢献していくようになった。
南米とジャズの融合
南米の音楽とジャズの出会いもまた、ジャズの進化において重要な役割を果たした。特にブラジルのサンバやボサノヴァ、キューバのラテン音楽がジャズと融合し、新しいサウンドが生まれた。ボサノヴァの巨匠アントニオ・カルロス・ジョビンとアメリカのジャズサックス奏者スタン・ゲッツによる「イパネマの娘」は、世界的なヒットとなり、ジャズとラテン音楽の融合の成功を象徴した。こうした音楽的な交流は、ジャズの幅をさらに広げ、世界中で愛される要素となった。
ジャズがもたらした文化的影響
ジャズは単なる音楽としてだけでなく、世界の文化に深い影響を与えた。例えば、ヨーロッパの芸術家や作家たちは、ジャズの自由な精神と即興性に影響を受け、アートや文学に新たな表現方法を取り入れた。また、南米やアフリカなどの地域でも、ジャズのリズムやメロディーが現地の音楽に影響を与え、現地の伝統音楽と融合していった。ジャズは、国境を越えた文化交流の象徴となり、異なる背景を持つ人々を音楽で結びつける力を持っていたのである。
第10章 ニューオーリンズ・ジャズの遺産と現代
ジャズフェスティバルの魅力
現代のニューオーリンズは、毎年開催される「ニューオーリンズ・ジャズ&ヘリテッジ・フェスティバル」(通称ジャズフェス)で、世界中のジャズ愛好家を集めている。1970年に始まったこのフェスティバルは、ジャズだけでなく、ブルース、ゴスペル、ロックなど、さまざまな音楽ジャンルを楽しむことができる。特に注目すべきは、ニューオーリンズ出身のアーティストたちが、地元の音楽を披露することで、ジャズの伝統が現代にも息づいていることを感じられる点である。ジャズフェスは、音楽と共に町全体が一つの舞台となる祝祭である。
若手ジャズミュージシャンの台頭
ニューオーリンズでは、今も新しい世代のジャズミュージシャンたちが次々と登場している。彼らは、伝統的なジャズを尊重しつつも、現代の音楽要素を取り入れて、新しいスタイルを模索している。例えば、トロンボーン・ショーティーは、ファンクやヒップホップのリズムを取り入れた斬新なジャズを展開し、世界的に注目されている。彼のような若手ミュージシャンが、ニューオーリンズの音楽遺産を未来へと繋げながら、ジャズの新たな可能性を追求している姿は、ジャズが今も進化を続けている証拠である。
伝統の復興と保護
ニューオーリンズでは、ジャズの伝統を復興し、保存する動きが盛んに行われている。例えば、ルイ・アームストロングが演奏した名所や、古くからあるジャズクラブが修復され、観光地としてだけでなく、地元の人々にとっても音楽を楽しむ重要な場所として保たれている。また、ジャズの歴史を次世代に伝えるため、教育プログラムやワークショップが各地で行われており、若い世代にジャズを教えることにも力が入れられている。こうした活動は、ニューオーリンズの文化的アイデンティティを守るための重要な取り組みである。
ジャズが現代に与える影響
ジャズは、誕生から100年以上経った今も、世界中の音楽や文化に影響を与え続けている。ニューオーリンズのジャズは、ポップ、ロック、ヒップホップなど、さまざまな音楽ジャンルに影響を与え、特に即興演奏やリズムの自由さは、多くのミュージシャンにとってインスピレーションの源となっている。また、ジャズの精神は音楽だけにとどまらず、自由な表現や個性を重んじる文化の象徴としても捉えられている。ジャズは、常に変化しながらも、その根底にある「自由」を失わない音楽であり、これからも新しい世代に影響を与え続けるであろう。