基礎知識
- チャールズ・サンダース・パースの生涯
アメリカの哲学者であり論理学者、そして「プラグマティズムの父」と呼ばれるチャールズ・サンダース・パース(1839年-1914年)は、学術的孤立と家族関係の影響を受けつつも、後世に大きな影響を与える思想を築いた人物である。 - プラグマティズムとパースの独自性
パースは「プラグマティズムの原理」を最初に提唱したが、後にその哲学を「プラグマティシズム」と名付けて他の学者の解釈と区別した。 - 記号論の基礎
記号の三分法(シン、オブジェクト、インタープリタント)を提案したパースの記号論は、現代のコミュニケーション理論やメディア研究にも影響を与える画期的な理論である。 - 論理学と科学哲学への貢献
パースは帰納法・演繹法・仮説推論(アブダクション)を体系化し、科学的探究の方法論を革新した。 - 数学とパースの哲学的統合
数学における連続性の概念や集合論に基づき、哲学と科学を統合する彼の視点は現代の分析哲学に影響を与えている。
第1章 チャールズ・サンダース・パースの生涯とその時代
天才少年、哲学への目覚め
1839年、チャールズ・サンダース・パースはアメリカ・マサチューセッツ州に生まれた。父ベンジャミン・ピアスはハーバード大学の著名な数学者であり、幼少期から数学や論理学に囲まれた環境で育つ。パースはわずか8歳でユークリッド幾何学を習得し、13歳でカントの『純粋理性批判』を読破するなど、並外れた知的才能を発揮した。しかし、彼の知識への飽くなき探究心は周囲に理解されず、奇妙な少年として扱われることもあった。だが、こうした孤独が彼を哲学と科学に没頭させ、後にプラグマティズムの原型となる思考を形成するきっかけとなった。
科学と論理の交差点、ハーバード大学
パースはハーバード大学に進学し、数学、物理学、化学など幅広い分野を学んだ。当時、アメリカでは科学が急速に発展し、進化論を提唱したダーウィンの『種の起源』が学術界を揺るがしていた。パースもこの影響を受け、科学的探究の方法論に関心を深める。特に彼が熱中したのは論理学と認識論であり、数学的思考を哲学に応用する道を模索した。卒業後、アメリカ沿岸測地局に勤務し、天文学や測量の研究に従事するが、彼の独創的な思考は周囲と衝突し、学術界で孤立していく。だが、この孤立こそが、彼の理論を独自に発展させる原動力となった。
哲学界の異端児、学術界との確執
19世紀後半、ウィリアム・ジェームズやジョン・デューイらがアメリカ哲学界で頭角を現す中、パースも「プラグマティズムの父」として影響を与えた。しかし、彼の性格は極端に偏屈であり、大学での教職を得る機会をことごとく逃した。さらに、論文の発表が遅れ、資金難に苦しむことが増えていく。彼の哲学は当時の学術界にとって難解すぎるものであり、評価されるまでに時間を要した。それでも彼は執筆を続け、自宅の納屋を研究室代わりにしながら、記号論や論理学の研究を深化させた。孤独の中でも創造力は衰えることなく、彼の理論は静かに進化し続けた。
忘れられた天才、そして復活
パースの晩年は貧困と病に苦しむものであった。彼は晩年、ペンシルベニア州の田舎町で妻とひっそりと暮らしながら論文を書き続けた。しかし、出版の機会に恵まれず、生前に彼の思想が広く認められることはなかった。彼の死後、ウィリアム・ジェームズが彼の理論を世に広めたことで、20世紀に入り評価が急上昇する。記号論や科学哲学の分野で彼の理論が再発見され、現代の分析哲学や言語学に大きな影響を与えることとなる。彼の思想は孤独の中で育まれたが、それは時を超えて学問の世界に革命をもたらすものとなったのである。
第2章 プラグマティズムの誕生
革命の始まり:思考を行動で測る哲学
19世紀後半、アメリカは産業革命の波に乗り、科学と実用主義が急速に発展していた。この時代に、チャールズ・サンダース・パースは哲学の新たな道を切り開こうとしていた。彼は「思考とは単なる観念ではなく、行動の結果として意味を持つ」と考えた。そして、知識の価値は理論ではなく、それがどのように実際の経験に影響を与えるかで決まると主張した。これは、それまでのヨーロッパ中心の哲学とはまったく異なるアプローチであり、「プラグマティズム」の萌芽であった。この考え方は、後にアメリカ哲学の象徴となるほどの影響を及ぼすこととなる。
ウィリアム・ジェームズとの出会いと影響
パースの哲学が本格的に世に出るきっかけを作ったのは、心理学者であり哲学者でもあったウィリアム・ジェームズである。ハーバード大学時代の友人だったジェームズは、パースの思想に強い関心を持ち、彼の理論を「プラグマティズム」として広めた。しかし、ジェームズは「真理とは個人の経験によって変化する」と考え、パースの厳密な論理的アプローチとは異なる解釈を加えた。これにより、プラグマティズムは一般に広まりやすくなったが、パース自身はジェームズの解釈を「誤解だ」と感じ、「プラグマティシズム」という新しい言葉を作り、自分の理論を区別しようとしたのである。
プラグマティズムの核心:「意味とは何か?」
パースは「意味は、その概念が引き起こす行動や経験によって決まる」と述べた。たとえば、「硬い」という概念を考えてみよう。それが意味を持つのは、実際に触れて押し返されるという経験があるからである。この考えは科学的探究にも応用され、理論は検証可能な結果を生むものでなければならないとされた。つまり、「実際に役立つものだけが意味を持つ」という思想である。この哲学は、科学だけでなく法律、心理学、経済学など幅広い分野に応用され、現代の実証主義や実践的思考の礎となった。
プラグマティズムの広がりと批判
パースの思想はジェームズによって広められ、さらにジョン・デューイによって教育学や社会学の分野へも影響を与えた。しかし、批判も多かった。たとえば、「真理が実用性によって決まる」という考えに対し、「ならば都合の良い嘘も真実になりうるのか?」という疑問が投げかけられた。また、ヨーロッパの哲学者たちは、「経験や行動に依存しすぎた哲学では、理論の普遍性が失われる」と批判した。だが、それでもプラグマティズムはその後の哲学や科学の発展に欠かせない重要な概念として根付いていったのである。
第3章 記号論の基礎:三分法の秘密
世界は記号でできている
チャールズ・サンダース・パースは、私たちが世界を理解する方法を「記号」によって説明できると考えた。記号とは単なる言葉や文字だけではなく、音楽、ジェスチャー、絵画、さらには自然現象までを含む広い概念である。たとえば、雲が暗くなれば「雨が降る」と予想するし、赤信号を見れば「止まれ」と理解する。これらすべてが「記号」として機能している。パースは「私たちの思考そのものが記号の解釈で成り立っている」と主張し、すべての知識やコミュニケーションが記号によって媒介されることを明らかにした。これは、言語学や哲学だけでなく、現代のメディア研究や人工知能の分野にもつながる画期的な発想であった。
三つの要素で成り立つ記号の世界
パースは記号を分析するために、それを「シン(記号そのもの)」「オブジェクト(記号が指し示すもの)」「インタープリタント(記号の解釈)」の三つの要素に分けた。たとえば、犬の写真を見たとき、写真そのものが「シン」、それが指す実際の犬が「オブジェクト」、そしてその写真を「犬だ」と理解する私たちの解釈が「インタープリタント」である。この三分法により、記号は単なる固定的なものではなく、常に解釈され、意味が変化することが明らかになった。この理論は、言葉の意味が文化や時代によって変わる理由を説明し、記号の持つ柔軟性を示している。
アイコン、インデックス、シンボルの違い
パースは記号の性質によって、それを「アイコン」「インデックス」「シンボル」の三種類に分類した。アイコンとは、対象と形が似ている記号であり、例えば絵や写真が該当する。インデックスは、因果関係や関連性を持つ記号であり、煙が火を示すようなものが例に挙げられる。そして、シンボルは約束ごとに基づいた記号であり、言葉や国旗のように、人々が意味を共有することで成り立つ。この分類により、記号の働きを整理し、どのように私たちが世界を理解しているのかを明確に示すことができるようになった。
現代に生きるパースの記号論
パースの記号論は彼の生前にはあまり注目されなかったが、20世紀後半になって大きく評価されるようになった。フランスの言語学者ソシュールが構築した構造主義言語学と対比される形で研究され、後にメディア理論や人工知能の分野にも影響を与えた。例えば、広告業界ではパースの三分法を活用して視覚的メッセージの効果を分析し、コンピューターサイエンスでは情報の伝達方法として応用されている。記号の解釈が人間の知覚や思考にどのように影響を与えるのかを研究することで、彼の理論は今もなお進化を続けているのである。
第4章 科学的探究の方法:アブダクションの力
仮説を生み出す力とは何か?
科学者たちは、どのようにして新しい発見をするのか? 19世紀、論理学と科学の発展に貢献したチャールズ・サンダース・パースは、この問題に深く切り込んだ。彼は、推論には三つの種類があると考えた。すなわち、「演繹法」「帰納法」、そして「アブダクション(仮説推論)」である。演繹法は、一般的な法則から個別の結論を導く方法であり、帰納法は、観察した事実から一般的な法則を導く方法である。しかし、まったく新しい仮説をどのようにして生み出すのか? パースはこの問いに対し、アブダクションこそが創造的な思考の鍵であると論じたのである。
名探偵シャーロック・ホームズとアブダクション
アブダクションを理解するのに最も分かりやすい例は、アーサー・コナン・ドイルの小説に登場する名探偵シャーロック・ホームズの推理方法である。ホームズは現場のわずかな手がかりから、驚くべき仮説を立て、事件の真相に迫る。例えば、泥の付いた靴を見て「この人物は田舎から来たに違いない」と結論づける。これは帰納法や演繹法では説明できない、仮説的な推論である。パースは、このような「最もありそうな説明」を瞬時に見つける能力こそが、科学的発見に不可欠であると考えた。アブダクションとは、未知の事象に対して最も合理的な仮説を生み出す思考法なのだ。
科学革命を支えたアブダクション
歴史を振り返ると、科学の大発見の多くはアブダクションによるものである。例えば、19世紀にルイ・パスツールは「細菌が病気を引き起こす」という仮説を提唱し、後の細菌学の基礎を築いた。アルバート・アインシュタインが特殊相対性理論を考え出したときも、光の速度が一定であることを前提に仮説を組み立てた。このように、科学者たちは実験データや観察結果から、直接的な証拠がない段階でも、最も合理的な仮説を構築する能力を持っていた。パースの理論は、こうした科学の進歩の背景にある思考法を体系化したのである。
未来の科学とアブダクションの可能性
現代では、人工知能の研究やデータサイエンスにおいて、アブダクションがますます重要視されている。たとえば、医療AIは患者の症状を分析し、可能性の高い病気を仮説として提示するが、これはまさにパースのアブダクションの応用である。また、宇宙探査では、限られたデータから惑星の環境を推測するためにアブダクションが活用される。パースの理論は単なる哲学的概念にとどまらず、現代社会のあらゆる分野で応用されているのである。科学的発見の背後にある思考法を理解することは、未来の技術や学問を切り拓く鍵となるのだ。
第5章 数学と哲学の結合
数学は哲学の言葉である
チャールズ・サンダース・パースにとって、数学は単なる計算の道具ではなかった。彼は数学を「最も純粋な論理の形」と捉え、哲学の根本問題を数学的視点で解決しようとした。特に彼が注目したのは「連続性」の概念である。たとえば、直線は無限の点から成り立っているが、それをすべて数えることは不可能である。では、この無限とは何なのか? パースは数学的な方法を使って、哲学の核心にある「無限」「可能性」「存在」といった問題に取り組んだ。そして彼の考えは、後の数学哲学や論理学の基礎を形作るものとなった。
連続性と無限の神秘
パースは、連続性の概念を深く研究した。その影響を受けたのは、数学者ゲオルク・カントールの集合論である。カントールは、無限には異なる種類があることを示し、数学界に衝撃を与えた。一方、パースはこれを哲学的に発展させ、「真の連続性とは、単なる点の集合ではなく、全体としての構造に意味がある」と主張した。たとえば、時間は個々の瞬間の連なりではなく、滑らかに流れるものとして捉えられるべきだと考えた。この考え方は、後に数学だけでなく物理学や認知科学にも影響を与えることとなる。
数学的思考が生み出す論理学
パースは論理学の体系化にも数学的手法を取り入れた。彼は「ブール代数」の発展に貢献し、命題論理を数学的に表現する道を開いた。例えば、「もし雨が降ったら道が濡れる」という関係を数式のように整理することで、複雑な推論を明確に説明できるようになった。この考え方は、後のコンピューターサイエンスの基礎となる。現代のプログラミング言語や人工知能の論理モデルにも、パースの理論が生きているのである。数学と論理の結合によって、思考の新しい可能性が開かれたのだ。
現代科学に受け継がれる哲学
パースの数学的哲学は、現代科学に多大な影響を与えている。たとえば、量子力学では、観測によって状態が決まるという概念が登場するが、これはパースの「可能性」と「実現」の考え方に通じる。また、情報理論や統計学においても、彼の論理体系が応用されている。さらに、人工知能の発展に伴い、パースの記号論や推論理論が機械学習のアルゴリズム設計に影響を与えている。彼の数学と哲学を統合する試みは、今もなお科学の発展を支える重要な理論となっているのである。
第6章 論理学の革新者:真理と推論の新しい地平
論理は単なるルールではない
19世紀の哲学界では、論理学は「思考の規則を記述する学問」として理解されていた。しかし、チャールズ・サンダース・パースは、それだけでは不十分であると考えた。彼にとって論理とは「どのようにして正しい推論を導き、知識を深めるか」を探求する手段であった。彼はアリストテレスの古典論理から出発し、ジョージ・ブールの代数的論理を発展させ、新たな推論の枠組みを築いた。パースの革新は、真理を形式的に定義し、推論のプロセスを精密に分析することで、科学や数学のみならず、哲学やコンピューター科学にまで影響を及ぼすこととなる。
真理の探求:仮説と証拠の関係
パースは、真理とは単に「正しい」とされるものではなく、「経験を通じて確証されるもの」と考えた。彼は、科学的な推論がどのようにして真理へと近づくのかを説明するために、「仮説」「検証」「結論」のプロセスを体系化した。この考えは、後に科学哲学者カール・ポパーの「反証可能性」の概念にも影響を与えた。パースの視点では、真理とは固定されたものではなく、新しい証拠が出るたびに更新されるものである。このダイナミックな真理観は、科学の発展を促進し、現代の研究方法論にも組み込まれている。
記号論と論理の融合
論理学の革新を進める中で、パースは「記号」と「推論」の関係を明らかにしようとした。彼は、すべての推論が記号を介して行われると考え、記号論と論理学を統合した。彼の理論によれば、私たちは記号を通じて情報を処理し、そこから新たな知識を生み出す。この視点は、後にノーム・チョムスキーの言語学や、計算機科学におけるプログラミング言語の理論にも影響を与える。パースの考えは、単なる哲学的思考ではなく、現代の知識体系の根幹を形成するものとなったのである。
コンピューターと人工知能への影響
パースの論理学は、20世紀に入って計算機科学の発展とともに再評価された。彼が構築した「述語論理」は、アラン・チューリングやジョン・フォン・ノイマンらによるコンピューターの設計に応用され、現代のアルゴリズムの基礎となった。さらに、人工知能の分野では、パースのアブダクション(仮説推論)が機械学習やデータ分析における仮説生成モデルとして活用されている。彼の論理学は、単なる哲学的思索にとどまらず、未来の技術革新を支える重要な理論へと進化したのである。
第7章 思想の後継者たち:パースの影響
ウィリアム・ジェームズとプラグマティズムの発展
チャールズ・サンダース・パースが生み出したプラグマティズムは、彼自身の手によって広まったわけではなかった。その役割を果たしたのは、彼の友人であり心理学者・哲学者のウィリアム・ジェームズである。ジェームズは、パースの思想をより実践的に発展させ、「真理とはそれが有用であるかどうかで決まる」と主張した。彼の解釈は、学術界だけでなく一般社会にも影響を与え、アメリカの哲学に新たな方向性をもたらした。しかし、パースはジェームズの解釈を「単純化しすぎている」と考え、自らの哲学を「プラグマティシズム」と呼び、区別しようとしたのである。
ジョン・デューイと教育・社会哲学への応用
プラグマティズムは、哲学の枠を超えて教育や社会理論にも影響を与えた。その代表的な人物が、哲学者・教育学者のジョン・デューイである。デューイは、パースの思想を発展させ、「知識とは静的なものではなく、経験を通じて獲得されるものである」と考えた。彼の教育理論は、暗記中心の従来の教育を批判し、「学習は実践と結びつくべきである」と主張した。この考え方は、今日のアクティブ・ラーニングや問題解決型学習(PBL)にも影響を与えている。パースの思想は、教育の現場においても確かな足跡を残しているのである。
記号論の継承者たち
パースの記号論は、彼の死後に再発見され、20世紀の哲学・言語学・メディア論に大きな影響を与えた。その最も代表的な継承者は、スイスの言語学者フェルディナン・ド・ソシュールである。ソシュールは言語を「シニフィアン(能記)」と「シニフィエ(所記)」に分ける概念を提唱し、記号の構造を分析した。この理論は、後の構造主義哲学やメディア理論に受け継がれた。また、20世紀後半にはロラン・バルトやユリ・ロトマンが記号論を発展させ、パースの三分法を応用したメディア分析を展開した。こうして彼の理論は、現代社会の情報環境にも深く関わるものとなった。
科学と哲学をつなぐ現代のパース主義
今日、パースの思想は哲学だけでなく、人工知能や情報科学の分野にも影響を及ぼしている。彼の仮説推論(アブダクション)の概念は、機械学習やデータ分析に応用され、未知のデータから最適な仮説を導き出す技術に役立てられている。また、パースの「真理は固定されたものではなく、経験を通じて洗練される」という考えは、現代科学の基礎となる「反証可能性」の概念にも影響を与えている。パースの理論は、今も進化を続け、未来の知の探究に貢献しているのである。
第8章 未完の思想体系:限界と批判
孤独な天才の苦悩
チャールズ・サンダース・パースは、生涯を通じて数々の革新的な理論を生み出したが、彼の哲学は生前ほとんど評価されなかった。その最大の理由は、彼の性格と社会的な立場にあった。彼は生涯にわたり安定した大学の職を得ることができず、研究の場を自宅の納屋に求めるしかなかった。また、彼の文章は極めて難解であり、多くの論文が未完成のまま終わった。その結果、彼の思想は生前ほとんど注目されず、晩年は極貧の中で過ごすこととなった。天才でありながら孤独に研究を続けた彼の人生は、未完の哲学とともに忘れ去られようとしていた。
複雑すぎる哲学体系
パースの哲学が理解されにくかったのは、その膨大な範囲と独自の用語体系にあった。彼は論理学、記号論、数学、科学哲学を横断しながら思考を展開し、独自の概念を次々と生み出した。そのため、彼の著作を理解するには、複数の分野に精通している必要があった。例えば、彼の「記号の三分法」や「アブダクションの理論」は、現代の研究者にとっても解釈が難しい。この複雑さゆえに、同時代の哲学者たちはパースの理論を広く受け入れることができず、彼の思想は長らく埋もれてしまったのである。
プラグマティズム内部の対立
パースが提唱したプラグマティズムは、ウィリアム・ジェームズによって広められたが、彼の解釈はパースのものとは異なっていた。ジェームズは「真理とは実用的な価値を持つもの」と考えたが、パースは「真理とは長期的な探究の結果として収束するもの」と主張した。これは大きな違いであり、パースはジェームズの解釈を「誤解」として批判した。しかし、より単純で分かりやすいジェームズの理論の方が広まり、パースの厳密な哲学は次第に影を潜めていった。この内部対立も、パースの思想が十分に評価されるのを遅らせる要因となったのである。
遅れてきた評価と新たな課題
20世紀後半になり、パースの記号論や論理学が再評価され、現代哲学や情報科学の分野で影響を与えるようになった。しかし、パースの思想は未だに多くの研究者によって解釈の余地が残されており、彼の哲学体系は完全に整理されたとは言えない。また、パースの理論を現代の科学や技術にどのように適用できるかという課題も残されている。彼の哲学は未完のまま終わったが、その可能性は今もなお広がり続けているのである。
第9章 記号と現代:パースの理論の現代的意義
デジタル時代と記号論の交差
21世紀の世界は、無数の記号が飛び交う情報空間へと変貌した。ソーシャルメディアのアイコン、ブランドロゴ、絵文字など、私たちは日々無意識に記号を解釈している。チャールズ・サンダース・パースの記号論は、こうした現象を説明する上で極めて重要である。彼の「シン」「オブジェクト」「インタープリタント」の三分法は、デジタルメディアにおける意味の生成を考える上で不可欠な理論となった。例えば、スマートフォンの「送信ボタン」が持つ意味は、それを操作するユーザーの経験と結びついている。このように、パースの記号論は、デジタル技術の発展とともに新たな形で活用されているのである。
人工知能と記号の解釈
人工知能(AI)の進化により、機械が記号を解釈する時代が到来した。検索エンジンや音声アシスタントは、人間の言葉を解析し、適切な情報を提示する。ここで活用されるのが、パースの記号解釈の理論である。AIは、単語そのもの(シン)だけでなく、その背景にある概念(オブジェクト)を理解し、文脈を考慮した解釈(インタープリタント)を行うことで、より人間らしい応答を実現する。例えば、AIが「天気は?」という質問に対し、ユーザーの現在地を考慮して答えを導き出すのも、記号論的なプロセスに基づいている。このように、パースの理論はAIの知能設計にも深く関わっているのである。
メディアと社会における記号の力
広告や映像作品、SNSの投稿など、私たちの周りには記号があふれている。パースの理論を活用すれば、それらの背後にある意味や影響力を読み解くことができる。例えば、企業のブランドロゴは単なるデザインではなく、消費者に特定の感情や価値観を想起させる記号として機能する。映画やドラマのシンボリズムも、観客の文化的背景に応じて異なる解釈が生まれる。このように、記号の解釈は単なる理論ではなく、メディアの影響を理解する上で不可欠な視点となっている。パースの記号論は、現代の情報社会においても、鋭い分析ツールとしての役割を果たしている。
未来の記号論:人間と機械の境界を超えて
未来の記号論は、人間と機械の境界を超えた新しいコミュニケーションを可能にするかもしれない。現在、バーチャルリアリティ(VR)や拡張現実(AR)といった技術は、人間の知覚を拡張し、仮想空間での記号解釈を促進している。また、脳とコンピューターを直接接続する「ブレイン・マシン・インターフェース」の研究も進められている。こうした技術が進化することで、記号の意味はよりダイナミックに変化し、人間の思考そのものが新たな形を持つことになるかもしれない。パースの記号論は、未来の情報社会において、さらに重要な役割を果たすことになるだろう。
第10章 チャールズ・サンダース・パースの遺産
哲学の静かな革命
チャールズ・サンダース・パースは、学術界の中心からは遠く離れた存在だった。しかし、彼の哲学は静かに、そして確実に世界を変えた。プラグマティズム、記号論、論理学の発展において、彼の思想は不可欠なものとなった。彼の死後、ウィリアム・ジェームズやジョン・デューイがプラグマティズムを広め、20世紀には記号論が言語学やメディア研究の基盤として注目された。パースの哲学は、アメリカの思想にとどまらず、ヨーロッパやアジアの学者たちによっても研究され、国際的な広がりを見せることとなった。その影響は、今なお拡大し続けている。
科学と論理をつなぐ架け橋
パースの遺産の一つは、科学と哲学の間の架け橋を築いたことである。彼は科学的方法を哲学的探究に適用し、知識の正当性を論理的に分析する道を開いた。彼のアブダクションの理論は、科学者が新しい仮説を生み出す思考過程を説明し、現代のデータサイエンスや人工知能の発展にも影響を与えている。また、彼の論理学は、計算機科学の基礎を築いた数学者やプログラマーたちによって発展させられ、現代のデジタル社会を支える知的基盤となった。
記号論の未来
パースの記号論は、現代の情報社会においてますます重要性を増している。メディア研究、広告、人工知能、インターネット文化など、私たちが日々接する情報はすべて記号として機能している。彼の理論を応用すれば、映像やテキストがどのように意味を生み出し、人々の思考や行動に影響を与えるのかを理解できる。特に、AIが記号を解釈し、コミュニケーションの新しい形を生み出す時代において、パースの理論は未来の技術革新にも欠かせないものとなるだろう。
未来への問い
パースの哲学は未完のまま終わったが、それは同時に、新たな探究の可能性を残したとも言える。彼の理論は、科学、哲学、技術の進化とともに、新たな形で解釈され続けている。人工知能が人間の思考を模倣する時代、情報が爆発的に増大する時代において、彼の理論はどのように活かされるのか? 未来の哲学者や科学者が、彼の思想をさらに発展させ、新たな知の地平を切り開くことになるだろう。パースの遺産は、今もなお生き続けているのである。