レバノン

基礎知識
  1. フェニキア文明
    フェニキア人は、紀元前3000年頃から地中海沿岸で栄え、海洋貿易を通じて文字技術を広めた商業文明である。
  2. オスマン帝の統治
    レバノンは1516年から第一次世界大戦までオスマン帝の一部として統治され、地方の自治が認められた特異な地位を保った。
  3. フランス委任統治時代
    第一次世界大戦後、レバノンフランスの委任統治領となり、この時期に現代レバノン境と政治体制が形成された。
  4. レバノン内戦 (1975-1990)
    複雑な宗派対立と地域の政治的影響力が絡んだ内戦であり、15年に及ぶ戦闘が内を荒廃させた。
  5. ヒズボラの台頭
    1980年代にシーア派組織ヒズボラが結成され、レバノン政治と地域の安定に大きな影響を与える存在となった。

第1章 レバノンの地理と民族のルーツ

地中海と山々に囲まれた特異な地形

レバノンはその地理的な特性から、古代から多様な文明の交差点となってきた。西は地中海に面し、東にはレバノン山脈とアンチレバノン山脈が広がる。この山々は、外部からの侵入を防ぎ、独自の文化が形成される一方、海が外界との交流を可能にした。フェニキア人はこの海を使い、地中海全域で活発な貿易活動を行った。レバノンの狭い土にもかかわらず、この地形が多様な民族や文化を受け入れる土壌を作り出したのである。レバノン自然は、単に風景の一部ではなく、その歴史を形成した重要な要素であった。

フェニキア文明の誕生と繁栄

フェニキア人は紀元前3000年頃、現在のレバノン沿岸に都市国家を築き始めた。彼らは優れた航海技術を持ち、シドンやティルスといった港湾都市から、地中海全域にその影響を広げた。特にフェニキア文字の発明は、世界中の文字体系の基礎となり、ギリシャローマ文明にも大きな影響を与えた。彼らはまた、ガラス製品や紫染料などの貴重な物資を交易し、その商業的繁栄はレバノンの沿岸地域を一大貿易拠点へと成長させた。この文明は、レバノンが常に外の世界と繋がっていたことを象徴している。

多様な民族と宗教の融合

レバノンは、長い歴史の中で多くの征服者や移民を受け入れてきた。アッシリア、バビロニア、ペルシャなどの古代帝は、この地域を重要な支配地と見なしていた。また、ギリシャ人やローマ人もレバノンを支配し、それぞれの文化宗教を持ち込んだ。この結果、レバノンにはさまざまな民族と宗教が共存する社会が形成されてきた。キリスト教徒、イスラム教徒、ドルーズ派など、多様な信仰を持つ人々が互いに影響を与え合いながらも、独自のアイデンティティを維持してきたことが、今日のレバノン社会に反映されている。

地理がもたらした独自の社会構造

レバノンの地理的条件は、単なる地形以上の意味を持つ。山岳地帯は、外部からの干渉を防ぐ役割を果たし、特に宗教的少数派が安全にその信仰を守る場として機能した。たとえば、マロン派キリスト教徒やドルーズ派は、この険しい山岳地帯で独自のコミュニティを形成し、長く自治を保ってきた。こうした地形的要因が、多様な民族と宗教が共存しつつ、それぞれが独自の文化を維持できる社会を作り出したのである。地形が歴史と人々の生活に与えた影響は、現在のレバノンでも色濃く残っている。

第2章 フェニキア人と地中海世界

海洋に生きた冒険者たち

フェニキア人は地中海の「冒険者」であり、その卓越した航海術で知られている。彼らは紀元前1200年頃に地中海沿岸に小さな都市国家を築き、海を通じて他の文明と交流し、交易を発展させた。特にシドンやティルスといった都市は、地中海交易の中心地として栄えた。フェニキア人は当時の技術の先駆者であり、エジプトギリシャだけでなく、遠くは現在のスペインや北アフリカのカルタゴにまで航路を広げた。この冒険精神と交易によって、フェニキア人は地中海全域にその名を知られるようになった。

フェニキア文字の発明

フェニキア人はまた、文字体系の革新者でもあった。彼らが考案したフェニキア文字は、簡単なアルファベット形式で、後のギリシャ文字やラテン文字の基礎となった。フェニキア文字は、従来の文字楔形文字に比べて学びやすく、商業活動に非常に適していた。これにより、貿易に関わる多くの人々が簡単にコミュニケーションを取ることができ、商業圏がさらに拡大した。フェニキア人のこの功績は、今日の私たちが使用するアルファベットにも受け継がれており、彼らが歴史に与えた文化的影響は計り知れない。

紫染料とフェニキアの商業帝国

フェニキア人は特に「紫染料」の生産で有名である。彼らは地中海に生息する貝から貴重な紫色の染料を抽出し、この希少で高価な商品を王侯貴族に提供していた。この紫染料は「ティリアンパープル」と呼ばれ、権力と富の象徴とされていた。フェニキア人は、このような高価な商品を扱うことで莫大な富を蓄え、商業帝として繁栄した。交易品は染料だけにとどまらず、ガラス製品や陶器、木材なども広範囲にわたって輸出され、フェニキア商人たちは地中海の至る所でその存在感を示した。

カルタゴへの拡張

フェニキア人の影響力は、地中海東部にとどまらず、遠く西方にも及んだ。紀元前9世紀、彼らは北アフリカにカルタゴを建設し、ここを中心に強力な海上帝を築いた。カルタゴは、フェニキア人の貿易の拠点として急速に発展し、後にローマと対抗する一大勢力となる。カルタゴは、フェニキア人の航海技術と商業ネットワークを駆使し、彼らの遺産をさらに拡大させた。このように、フェニキア人は商業だけでなく、文化や都市建設の分野でも後世に多大な影響を与えたのである。

第3章 古代から中世への移行

帝国の交差点に立つレバノン

古代レバノンは、アッシリア、バビロニア、ペルシャといった巨大帝の興亡に巻き込まれてきた。紀元前9世紀には、アッシリアがフェニキア都市を征服し、その後を追うようにバビロニアやペルシャが支配を続けた。しかし、レバノン山岳地帯や海洋貿易は、帝の支配下でも独自の文化と経済活動を維持する力となった。例えば、フェニキアの都市ティルスは、アッシリアの圧政下でも強力な自治権を持ち続けた。このようなレバノンの地理的・文化的独立性が、長い支配の歴史を通じて培われたのである。

アレクサンドロス大王とヘレニズム文化の広がり

紀元前4世紀、アレクサンドロス大王がペルシャ帝を破り、レバノンを含む地中海東部全域を支配した。これにより、ギリシャ文化が広範に広がり、レバノンの都市もギリシャ風に再建され、新しい文化的融合が進んだ。特に、ギリシャ語が商業や学問の共通語となり、レバノン知識人はギリシャ哲学科学を取り入れるようになった。アレクサンドロスの後継者たちが築いたヘレニズム文化は、レバノンの多様な文化の一部となり、後のローマ時代にも大きな影響を与えた。

ローマ帝国の支配と繁栄

紀元前1世紀、ローマレバノンを支配下に置いたことで、地域はさらなる繁栄を迎えた。特にバールベックの巨大な殿群が建設されたことは、ローマの権力を象徴するものであった。ローマ時代、レバノンは「シリア属州」の一部として統治され、広域道路網が整備され、貿易が一層活発化した。また、キリスト教がこの時期に広まり、レバノン宗教アイデンティティに大きな影響を与えた。ベイルートは法学の中心地としても栄え、多くの学者や哲学者が集まった都市であった。

ビザンティン帝国と新たな宗教の波

西ローマの崩壊後、レバノンはビザンティン帝の一部となった。この時代、キリスト教レバノンでさらに深く根付いたが、異端とされた宗派との対立も激化した。ビザンティン帝は、異端と見なした宗教グループを厳しく取り締まったが、その一方で、レバノン山岳地帯はこうした迫害から逃れる人々の避難場所となった。このように、レバノン宗教的・政治的な波乱の中でも独自の道を歩み続け、後の時代における宗教の多様性を形作ったのである。

第4章 オスマン帝国下のレバノン

オスマン帝国との複雑な関係

1516年、オスマン帝レバノンを含むシリア地域を征服した。オスマン帝は、当初この地を厳格に統治するというよりは、レバノンに一定の自治を認めた。これは、山岳地帯に根付く多様な宗教コミュニティに対する帝の戦略的判断であった。特にマロン派キリスト教徒やドルーズ派は、独自の宗教文化を守るために自治を望んでいた。オスマン帝は、税収を得ることと、地域の安定を保つことに重点を置き、地方の統治を地元の有力者たちに委ねた。この緩やかな支配体制は、宗教的対立を抑える一方で、時には権力闘争を生む要因にもなった。

マロン派とドルーズ派の独自性

オスマン帝下で、特に注目すべきはマロン派キリスト教徒とドルーズ派の存在である。マロン派は、レバノン山地に居住し、ローマ教皇と緊密な関係を築いていた。一方、ドルーズ派はイスラム教から分派した少数派であり、秘密主義的な宗教であるため外部からの干渉を避けていた。これらのコミュニティは、山岳地帯という自然の要塞を利用し、外部からの影響を最小限に抑えながら、独自のアイデンティティを強固にしていた。オスマン帝時代は、彼らが政治的・宗教的独立を維持する上で非常に重要な時期であった。

政治的リーダーシップの変遷

オスマン帝レバノンを「ムタサッリフ」と呼ばれる地方長官を通じて間接統治したが、実際には地元の有力者が大きな権限を握っていた。特に有名なのは、17世紀レバノンを統治したドルーズ派の領主、ファフルッディーン2世である。彼はオスマン帝との微妙なバランスを保ちながら、西洋諸との関係を深め、レバノンの独自性を強化しようとした人物である。彼の治世は、レバノンにおける自治の黄期として評価され、特にベイルートなどの都市の発展に大きく貢献した。しかし、その野心が帝に脅威と見なされ、最終的に彼は追放された。

宗教対立と帝国の介入

オスマン帝の支配は、宗教的な平衡を保つために工夫されたが、19世紀に入ると、マロン派とドルーズ派の対立が激化し、流血の争いが起こった。特に1860年のマロン派とドルーズ派の内戦は、レバノン全体に深い傷跡を残した。オスマン帝はこの対立を収めるために介入し、フランスイギリスといった西欧列強の関心も集めることとなった。この結果、レバノンは「ムタサッリファ」の制度が強化され、レバノンは部分的な自治を再び認められることとなった。この時代の宗教対立は、後のレバノンの歴史における宗派問題の根幹を成す重要な要素である。

第5章 フランス委任統治とレバノンの独立

大レバノンの誕生

第一次世界大戦後、オスマン帝が崩壊すると、レバノンは新しい時代に突入することとなった。1920年、フランス国際連盟からレバノンの委任統治を任され、現在のレバノン共和の基礎を築くことになった。フランスは、現在のレバノン境を確定し、「大レバノン」という新しい行政区域を作り出した。この領土拡大は、マロン派キリスト教徒の希望を反映したものであり、当時の主要都市であるベイルートを含む経済的に豊かな沿岸地域が加えられた。これにより、レバノンは多様な宗教と民族が共存する国家として歩み始めることになった。

フランスの影響と近代化

フランスは委任統治を通じて、レバノン政治・経済・教育制度に多大な影響を与えた。フランス語はエリート層の公用語として定着し、多くの学校がフランス教育制度を模範にして設立された。また、フランスの影響により、インフラ整備や産業の発展が進み、ベイルートは中東の融と文化の中心地として繁栄するようになった。一方で、このフランス主導の近代化は、レバノン内のイスラム教徒やドルーズ派などの一部コミュニティに不満を生むことにもつながった。この時代は、レバノンの多様な社会構造をさらに複雑にした時期であった。

独立への道筋

レバノンの独立運動は、第二次世界大戦中に加速した。1940年にナチス・ドイツフランスを占領すると、レバノン内ではフランスの影響力が弱まり、独立を求める声が強まった。1943年、レバノンは独立を宣言し、ベシェラ・アル=フーリが初代大統領に選ばれた。しかし、フランスはこの動きを容認せず、一時的にフーリ大統領を逮捕する事態に発展した。この危機は、内外からの強い反発を招き、最終的にフランスレバノンの独立を認めざるを得なかった。1943年1122日、レバノンは正式に独立を果たした。

宗派間のパワーバランス

独立後のレバノンでは、宗教的な対立を避けるために、独特な権力分担制度が確立された。1943年に成立した「民協約」によって、大統領はマロン派キリスト教徒、首相はスンニ派イスラム教徒、会議長はシーア派イスラム教徒が務めるという宗派間のパワーバランスが定められた。この協定は、レバノン社会の宗教的・民族的多様性を反映したものであり、独立後の国家運営において安定を保つための重要な仕組みとなった。しかし、この制度は後に宗教間の緊張を再燃させる一因ともなった。

第6章 戦後のレバノン:黄金期と混乱の兆し

ベイルートの輝かしい復興

第二次世界大戦後、レバノンは中東の「パリ」と呼ばれるほど、繁栄と文化的な活気に包まれた。ベイルートは融、商業、文化の中心地として、世界中から投資や観光客を引き寄せた。市内のカフェや劇場は、作家や芸術家たちが集まり、活発な文化交流が行われた。また、レバノン銀行業も成長し、外が大量に流入することで経済は飛躍的に発展した。自由な雰囲気と経済的繁栄が両立するベイルートは、短期間で世界に名を轟かせる際都市となり、周辺諸に比べて一歩先を行く国家として認識された。

宗教間の微妙なバランス

繁栄の裏側には、複雑な宗教的緊張が存在していた。1943年の「民協約」によって、マロン派キリスト教徒、スンニ派イスラム教徒、シーア派イスラム教徒など、各宗派が政治的に分担して統治する仕組みが整えられた。しかし、この制度は表面的な安定を保っていたものの、宗派間の不満や不平等感を完全には解消できなかった。特に、人口の増加によってシーア派やスンニ派の声が大きくなる一方で、マロン派キリスト教徒の政治的影響力が強く残り続けたことは、将来的な対立の種となった。このように、表向きの繁栄と裏側の宗派間の緊張が同時進行していたのである。

パレスチナ難民の影響

1960年代、隣イスラエルとの戦争を背景に、多くのパレスチナ難民レバノンに流入した。難民たちは主にシーア派のコミュニティに加わり、レバノン内の宗教的なバランスを大きく変える要因となった。さらに、難民の中には武装組織PLO(パレスチナ解放機構)が存在し、レバノン内に拠点を構えたことで、内の安全保障が脅かされるようになった。PLOの活動は、イスラエルとの緊張をさらに高め、レバノン内における政治的・宗教的な対立も激化していった。こうして、外部からの影響がレバノンの内部問題をさらに複雑にしていった。

経済成長の限界と社会の分裂

表面的には繁栄していたレバノン経済であったが、実際には貧富の差が拡大し、地方と都市の格差も広がっていた。特に、ベイルートが経済的に発展する一方で、地方の農地域やシーア派が多く住む南部は、貧困に苦しんでいた。また、外からの投資や資の流入はベイルートの一部エリート層に集中し、一般市民にはその恩恵が十分に行き渡らなかった。こうした不平等が次第に社会不安を増幅させ、宗教的・政治的な分裂をさらに深刻化させる原因となった。この時期に蓄積された不満が、後の内戦の引きとなっていくのである。

第7章 レバノン内戦の勃発と展開

宗派間対立の激化

1970年代に入ると、レバノン社会は次第に緊張を高めていった。歴史的に複雑な宗派間の関係が原因で、内は徐々に不安定化していった。特に、マロン派キリスト教徒とムスリム勢力(スンニ派とシーア派)の間で権力バランスが揺れ動き、政治的対立が激化した。人口増加に伴い、イスラム教徒たちの政治的発言力が高まる一方で、既得権益を守ろうとするキリスト教徒勢力との対立が深まった。この対立が内戦の引きとなり、レバノン全土が宗派間の争いに巻き込まれることとなった。

パレスチナ問題とPLOの影響

パレスチナ難民問題も内戦を複雑化させる大きな要因であった。イスラエルとの対立が続く中、多くのパレスチナ人がレバノンに逃れてきた。PLO(パレスチナ解放機構)はその活動拠点をレバノン南部に移し、イスラエルへの攻撃を続けた。これにより、レバノンイスラエルとの戦闘にも巻き込まれ、さらに不安定な状態に陥った。PLOの活動は、レバノン内のムスリム勢力に支持される一方で、キリスト教徒勢力には敵視され、武力衝突のきっかけとなった。こうして、パレスチナ問題はレバノン内戦をさらに複雑にし、際的な要素が絡む深刻な事態へと発展した。

外国勢力の介入

レバノン内戦は、内だけでなく、多くの外勢力が介入する際的な争いに発展した。シリアは初期から内戦に関与し、レバノン内の秩序を維持する名目で軍隊を派遣したが、実際には自の利益を追求していた。また、イスラエルはPLOの拠点を破壊するためにレバノンに侵攻し、ベイルートを包囲するまでに至った。その他にも、イランやアメリカ、フランスといった々がそれぞれの勢力を支援し、内戦はますます複雑化した。こうした外勢力の干渉は、レバノンの内部問題を解決するどころか、争いを長引かせる要因となった。

内戦の被害と社会への影響

15年に及ぶ内戦は、レバノンに甚大な被害をもたらした。街は破壊され、多くの人々が家を失い、数十万人が亡くなった。ベイルートは分断され、市民生活は崩壊した。経済も大打撃を受け、かつて中東の融センターであったベイルートは、その地位を失った。また、宗派間の対立は一層深まり、社会的な不信感が根強く残ることとなった。内戦によってレバノンの社会は大きく変わり、宗教的対立や経済的な不安定さが後世に深く影響を与えた。この内戦の爪痕は、現代のレバノンにも色濃く残っている。

第8章 内戦後の復興と再建

タイフ協定による和平の実現

1990年、長きにわたる内戦を終結させるために、サウジアラビアタイフで和平協定が結ばれた。この「タイフ協定」は、レバノン内の宗派間の対立を調停し、内戦後の政治体制を再構築するための重要な転機となった。協定により、会の議席配分はキリスト教徒とムスリムが平等に分け合い、宗派間のバランスを維持する新たな仕組みが整えられた。さらに、シリアの影響下でレバノン政府の権限が強化され、武装勢力の解体が進められた。この協定は、レバノンに安定を取り戻すための第一歩であった。

復興への挑戦

内戦で荒廃したレバノンのインフラを再建することは、途方もない課題であった。特に、首都ベイルートは分断と破壊の象徴となっており、街全体が再建を必要としていた。1990年代、首相に就任したラフィク・ハリーリは、復興計画「ソリデール」を推進し、ベイルートの再建に尽力した。新たなビルやショッピングモールが次々と建設され、観光業も再び活気を取り戻し始めた。しかし、急速な都市開発は一部の富裕層に利益をもたらす一方で、貧困層や地方の再建は遅れを見せ、経済的格差は拡大していった。

シリアの影響力と国内の緊張

復興が進む一方で、シリアの影響力はレバノン政治に深く根を下ろしていた。シリア内戦中からレバノンに軍を駐留させ、タイフ協定後もその勢力を維持し続けた。この介入に対して一部のレバノン人は反発し、シリアの撤退を求める運動が強まった。特に、2005年のラフィク・ハリーリ首相の暗殺事件は、シリアが関与したのではないかという疑念を招き、大規模な抗議デモが勃発した。この「杉の革命」により、際社会からの圧力も強まり、最終的にシリア軍はレバノンから撤退することとなった。

経済の回復と新たな課題

内戦後、レバノン経済は徐々に回復し、観光業や融業が再び成長を見せた。しかし、経済の根的な問題は解決されていなかった。政治的な不安定さや、宗派間の対立が続く中で、インフレや失業率の上昇が深刻化していった。また、復興プロジェクトの一部は汚職や利権争いに巻き込まれ、期待された成果を十分に上げることができなかった。こうした課題は、レバノン社会に再び不満を呼び起こし、安定したづくりにはさらなる努力が必要であることを示している。

第9章 ヒズボラと現代レバノン政治

ヒズボラの誕生とその背景

1980年代初頭、シーア派の宗教的・政治的な権利を守るために結成されたヒズボラ(党の)は、イランの革命思想に影響を受けた組織であった。イスラエルレバノン侵攻やシーア派の抑圧に対する反発が、ヒズボラの成長を促した。彼らは軍事組織でありながら、学校や病院などの社会インフラも提供し、貧困層を中心に広く支持を集めた。特にイスラエルに対する抵抗活動で名を上げ、レバノン南部の防衛において中心的な役割を果たした。ヒズボラの誕生は、レバノン宗教政治のバランスに大きな影響を与えたのである。

シーア派の政治的躍進

ヒズボラは単なる武装勢力ではなく、シーア派の政治的代表としての顔も持つ。1990年代以降、レバノン議会に議席を持ち、政治に積極的に関与するようになった。これは、シーア派がレバノン政治において重要な地位を築く過程でもあった。ヒズボラは、シリアイランからの支援を受けつつ、レバノンのシーア派コミュニティの権利を守る役割を果たしてきた。このように、ヒズボラは軍事的な力と政治的影響力の両方を駆使して、レバノン内での地位を確立し、シーア派の台頭を象徴する存在となった。

地域紛争とヒズボラの影響力

ヒズボラの影響力は、レバノン内だけにとどまらず、広く中東全域に及んでいる。特に、2006年のイスラエルとの戦争での戦闘力は際的に注目を集めた。ヒズボラはゲリラ戦術を駆使してイスラエル軍と戦い、多くの支持を得た。この戦争によって、ヒズボラはレバノンの防衛者としてのイメージを強化し、レバノン内での支持基盤をさらに拡大させた。また、シリア内戦への介入など、地域紛争にも関与することで、ヒズボラはその際的な影響力を強め続けている。こうしてヒズボラは、レバノンと中東の政治に深く食い込んでいった。

現代レバノン政治におけるヒズボラの役割

現在、ヒズボラはレバノン政治において欠かせない存在となっている。議会での影響力に加え、軍事力も依然として強大であり、レバノン内での発言権を強めている。しかし、その一方で、ヒズボラの影響力が強まるにつれ、他の宗教政治勢力との対立も激化している。特に、ヒズボラの武装解除を巡る議論や、イランとの関係に対する懸念が内外で高まっている。レバノン宗教的・政治的に多様な社会であり、ヒズボラの存在がその複雑さをさらに際立たせている。この組織の未来は、レバノン未来と切り離せない関係にある。

第10章 現代のレバノン:挑戦と未来

経済危機とその影響

現代のレバノンは、かつての繁栄とは対照的に、深刻な経済危機に直面している。2020年にはベイルート港での大爆発が起こり、その後のパンデミックも重なり、経済は急速に化した。通貨の価値は急落し、インフレ率が驚異的な数字に達し、多くの市民が生活苦にあえいでいる。失業率も急増し、特に若者たちは職を得ることが難しく、未来への希望を失いつつある。このような状況下で、レバノンは自の経済を立て直すために、際的な支援を必要としているが、政治的混乱が改革を妨げている。

政治的分裂と抗議運動

レバノン政治システムは、宗派間の権力分配によって成り立っているが、それがむしろ分裂を招いている。政治的な腐敗と宗派間の対立が原因で、政府は有効な政策を実行できず、民の信頼を失っている。特に、2019年に始まった大規模な抗議運動「タウラ(革命)」は、既存の政治体制に対する不満の表れであった。抗議者たちは、宗派に依存した政治からの脱却と、透明性のある改革を求めた。しかし、既得権益を守ろうとする勢力との対立が続き、真の変革は容易には実現していない。

シリア内戦の余波

シリアで続く内戦も、レバノンに大きな影響を与えている。内戦から逃れてきたシリア難民レバノン内に数多く流入し、レバノンの社会資源や経済に大きな負担をかけている。特に、難民キャンプの過密化や、労働市場への影響が深刻である。また、ヒズボラがシリア内戦に介入したことも、内外で議論を呼んでいる。シリア問題はレバノンにとって、内の安定や際関係に複雑な影響を及ぼしており、今後も大きな課題として残り続けるだろう。

レバノンの未来への展望

レバノンが直面する数々の課題にもかかわらず、その未来には希望の兆しもある。若者たちが主導する市民運動や、草の根レベルでの改革の機運が高まっている。技術革新やスタートアップ文化が新たな経済の柱となりつつあり、観光業も再び回復の兆しを見せ始めている。さらに、レバノン文化的多様性と豊かな歴史は、外部からの支援や際的な投資を引き寄せる力となる可能性がある。持続可能な改革と協力を通じて、レバノンは再び立ち上がり、未来を切り拓いていくことが期待されている。