基礎知識
- バルカン半島の地理的要因
バルカン半島はヨーロッパ南東部に位置し、戦略的に重要な交差点であることから、歴史的に多くの国や勢力の争奪対象となってきた地域である。 - オスマン帝国の影響
14世紀から20世紀初頭にかけて、オスマン帝国がバルカン半島の大部分を支配し、その宗教・文化・政治に多大な影響を与えた。 - 民族と宗教の多様性
バルカン半島はスラブ人、ギリシャ人、アルバニア人、トルコ人など多様な民族と、キリスト教、イスラム教、ユダヤ教が共存する地域であるため、しばしば対立と共存が繰り返された。 - 第一次世界大戦の引き金としてのバルカン問題
サラエボ事件をはじめとするバルカン半島での緊張が、第一次世界大戦勃発の直接的な要因となった。 - 冷戦とバルカン半島
冷戦時代、バルカン半島は東西両陣営の間で地政学的に重要な位置を占め、特にユーゴスラビアの非同盟主義が特徴的であった。
第1章 バルカン半島の地理とその歴史的意義
地理の交差点としてのバルカン半島
バルカン半島はヨーロッパ南東部に位置し、北をドナウ川、西をアドリア海、東を黒海に囲まれた独特な地形である。この地理的配置は、古代から近代に至るまで、地域を世界の「交差点」として際立たせてきた。ギリシャの哲学者アリストテレスがこの地を「世界の分岐点」と称したように、交易路や軍事戦略の要衝として重要だった。東西文化が交錯し、古代ローマとビザンツ、さらにはオスマン帝国とヨーロッパ列強の勢力がせめぎ合った。バルカン半島がなぜ歴史上これほど注目されたのかを理解するには、まずその地理の重要性を認識する必要がある。
豊かな自然が育む人々の暮らし
バルカン半島は山々と平野が織りなす地形を持ち、農業や牧畜が栄えた地域である。ドナウ川の流域では古代から肥沃な土地を活かした農業が発展し、人々の生活を支えた。一方で、ディナル・アルプス山脈やピリン山脈などの険しい山々は、外部の侵略者からの防壁として機能する一方、内部では地域間の分断を生み出した。こうした自然条件は、民族や文化が多様に発展する土壌を提供し、多彩な言語、習慣、宗教が共存するバルカンならではの社会を形作った。
交易路の中心地としての役割
バルカン半島は、古代から主要な交易路が通過する地点であった。ローマ街道の一部であるヴィア・エグナティアは、アドリア海から黒海までを結び、東西貿易の動脈となった。また、シルクロードの一部も半島を経由しており、香辛料、絹、陶器がヨーロッパに運ばれた。中世においても、ヴェネツィアやジェノヴァの商人たちは、バルカンの港湾や内陸都市を拠点に交易を展開した。この地理的な特性により、バルカンは経済の中心地となり、その影響力が広がった。
歴史を動かす地政学的な重要性
バルカン半島の位置は、歴史的に戦争や外交の舞台として重要な意味を持った。19世紀に入り、列強諸国はこの地域を「ヨーロッパの火薬庫」と呼んだ。それは、この地が西欧、東欧、中東の交差点であり、文化的・政治的な緊張が絶えなかったためである。バルカン半島をめぐる覇権争いは、第一次世界大戦の引き金となったサラエボ事件にもつながる。現在に至るまで、バルカン半島はその地政学的な重要性を失うことなく、世界の注目を集め続けている。
第2章 古代バルカン諸民族とその文化
古代の謎を解くトラキア人
バルカン半島の古代文明を語る上で欠かせないのがトラキア人である。紀元前500年頃、トラキア人はギリシャ北部からバルカン山脈に広がり、豊かな文化を築いた。彼らは独特の金細工技術で知られ、現在でも「トラキアの黄金財宝」としてその遺物が注目を集めている。古代ギリシャの歴史家ヘロドトスは、トラキア人を「ギリシャ人に次いで最も偉大な民族」と記述しており、その文化的影響力を物語っている。また、トラキア人は詩や音楽を愛し、古代ギリシャ神話に登場する音楽の神オルペウスの故郷ともされている。この謎多き民族の存在は、バルカン半島の初期の繁栄を象徴するものである。
イリュリア人と海洋の覇者
イリュリア人はバルカン半島の西部、現在のアルバニアやクロアチアの沿岸地域を中心に栄えた民族である。彼らは海洋民族として知られ、アドリア海を支配し、交易と略奪を繰り返した。ローマ帝国との激しい争いは特に有名であり、ローマの歴史家リウィウスはイリュリア人を「船乗りの戦士」と評している。紀元前3世紀、女王テウタの下での反乱はローマを悩ませたが、最終的にはローマによる征服が行われた。イリュリア人はローマ支配下で文化を失ったとされるが、その遺産は今日のアルバニアやクロアチアの文化に微妙に受け継がれている。
ギリシャの植民地化がもたらした変革
紀元前8世紀頃、古代ギリシャの植民者たちは、エーゲ海を越えてバルカン半島南部や沿岸部に植民地を築いた。特にマケドニアやトラキア地方では、ギリシャ文明の影響が急速に広がった。都市国家アポロニアやアンフィポリスは、この時期に築かれた重要なギリシャ植民都市であり、文化や政治の拠点となった。ギリシャの哲学、建築、宗教がこの地域に浸透し、現地文化と融合したことで、バルカン半島はヨーロッパ文明の一端を形成する地となった。この植民活動が後の時代に与えた影響は計り知れないものである。
多様性の中で生まれた独自の文化
バルカン半島は、トラキア人、イリュリア人、ギリシャ人という多様な民族が互いに影響し合いながら、独自の文化を形成していった地域である。彼らは戦いと交易を通じて交流し、その結果、言語、宗教、芸術が混ざり合った。また、オリュンピアなどの祭典や神殿建設の伝統は、ギリシャ人の影響を受けつつも、バルカン独自の特色を持つものとなった。古代バルカンの民族的多様性は、この地がヨーロッパとアジアを結ぶ橋渡しとして機能していたことを象徴しており、後の歴史にも影響を及ぼしている。
第3章 東ローマ帝国とスラヴ化の進展
ビザンツ帝国の遺産
東ローマ帝国、通称ビザンツ帝国は、バルカン半島の歴史に深い影響を与えた存在である。首都コンスタンティノープル(現イスタンブール)は、ヨーロッパとアジアを結ぶ戦略的な中心地であり、バルカン全域にその影響が広がった。ビザンツはギリシャ語を公用語とし、正教会を通じて宗教的文化を浸透させた。聖ソフィア大聖堂や正教会の聖人崇拝は、その影響の象徴である。この時代、バルカンの都市は商業や学問の中心として栄えた。特にテッサロニキは、ビザンツ文化の北への窓口となり、多くの芸術や技術が伝わった。
スラヴ人の移住と新しい地図
6世紀から7世紀にかけて、スラヴ人の大規模な移住がバルカン半島で起こった。北方から流れ込んだスラヴ人は、山岳地帯や平野に定住し、農業を主とした社会を築いた。彼らは東ローマ帝国との戦いを繰り返しながらも、一部は帝国の傘下に組み込まれた。この移住は地域の言語、習慣、民族構成を大きく変え、バルカンの多様性の土台を形成した。また、スラヴ人による村落共同体は、後のバルカン独特の社会構造に影響を与えたとされる。
キリスト教化の進展
9世紀、東ローマ帝国はスラヴ人のキリスト教化を積極的に推進した。キリルとメトディオス兄弟は、スラヴ人のための文字「キリル文字」を発明し、聖書や宗教書をスラヴ語に翻訳した。この革新により、キリスト教はスラヴ社会に深く根付くことになった。また、スラヴ諸国の支配者はビザンツ帝国との結びつきを強め、政治的安定と文化的繁栄を追求した。こうして、正教会を中心とする宗教的アイデンティティが形成され、バルカン半島全体にその影響が広がった。
多文化融合の象徴としてのバルカン
ビザンツとスラヴの接触により、バルカン半島は多文化が融合する独特の地域となった。古代ギリシャ文化、ローマ帝国の伝統、そしてスラヴ人の新しい文化が交錯することで、バルカンの社会は豊かな多様性を生み出した。例えば、建築や音楽、祭りの形式には、これらの要素が複雑に絡み合っている。また、バルカンの地形が地域ごとの独自性を助長したため、文化的・言語的な違いが色濃く残り、後の時代に続く独特な地域アイデンティティを築いた。
第4章 オスマン帝国とバルカン半島
半月旗の下での支配
14世紀後半、オスマン帝国はバルカン半島へ進出し、1389年のコソボの戦いでセルビア軍に勝利を収め、地域の支配を固めた。この時期、バルカンはオスマン帝国の重要な拠点となり、帝国の統治下で大規模な社会的変革が行われた。徴兵制度「デヴシルメ」により、キリスト教徒の少年たちは帝国軍の精鋭部隊「イェニチェリ」に編入された。また、オスマンの行政体制によって村や都市が再編され、効率的な税制が導入された。これらの変化は地域社会に混乱をもたらす一方、新たな秩序をもたらし、バルカンが帝国の一部として融合していく基盤となった。
信仰と文化の衝突と共存
オスマン帝国はイスラム教を国教としながらも、バルカンの多様な宗教に一定の自由を認めた。キリスト教徒やユダヤ教徒は「ズィンミー(保護民)」として特別税を課されたが、信仰の維持は許された。一方、イスラム教への改宗も奨励され、多くのバルカン人がムスリムとなった。このような宗教的政策は、文化の融合と衝突を同時に生み出した。モスクや橋、浴場などのオスマン建築がバルカンの風景に溶け込み、一部の伝統音楽や料理にもオスマン文化の影響が見られる。これにより、バルカンの文化的アイデンティティは複雑で多層的なものとなった。
反乱と自由への夢
オスマン支配に対する反乱は、バルカンの歴史の重要な一部である。特に、17世紀以降のセルビアやギリシャの反乱は、民族主義と独立運動の萌芽を象徴した。例えば、1821年に始まったギリシャ独立戦争は、オスマン帝国に対する最も有名な抵抗の一つである。詩人バイロンなどの外国人もこの戦いに共鳴し、支援を行った。こうした反乱は、バルカン諸民族の間で自由への情熱を燃え上がらせた。同時に、オスマン帝国の弱体化を示し、近代の独立運動の基礎を築いた。
オスマン時代の終焉と残された足跡
19世紀に入り、オスマン帝国の力は衰退し始めた。ロシア、オーストリア、イギリスなどの列強が介入し、バルカンは「帝国の病人」と呼ばれるオスマンの弱体化を象徴する地となった。1878年のベルリン会議では、バルカンの領土が再編され、一部の国は独立を達成した。しかし、オスマン帝国が残した遺産は依然として強く、文化、建築、宗教的影響は現代のバルカン社会にまで受け継がれている。オスマン時代はバルカンの歴史の中で忘れられない章であり、その影響は地域のアイデンティティの一部となり続けている。
第5章 民族主義の台頭と独立運動
ギリシャ独立戦争の炎
1821年、ギリシャ独立戦争がオスマン帝国支配への大きな挑戦として始まった。この戦争は古代ギリシャの栄光を再興しようとする民族主義の象徴であった。ヨーロッパの知識人たちは「ギリシャの自由」を掲げ、詩人バイロンが戦争に参加したことは特に有名である。ギリシャ人は伝統的な宗教や文化を武器にオスマン軍と戦い、1829年に独立を果たした。この戦争はバルカン諸国の民族主義運動に火をつけ、19世紀の歴史を大きく動かした出来事である。
ルーマニアとブルガリアの覚醒
ルーマニアとブルガリアでは、19世紀後半に民族主義が高まり、独立への道が模索された。ルーマニアでは1848年の「春の嵐」と呼ばれる革命運動が、ブルガリアでは「復活の日」と呼ばれる1876年の反乱が象徴的である。これらの運動は、オスマン帝国からの解放と民族の統一を目指したものであり、特にロシアの支援が重要な役割を果たした。1878年のベルリン会議でルーマニアは独立を獲得し、ブルガリアも自治権を得た。これらの成果は、バルカン諸国が新たな国家の形を模索する一歩となった。
セルビアの民族的覚醒
セルビアは1804年から1817年の第一次と第二次セルビア反乱を経て、オスマン帝国からの自治を勝ち取った。これらの反乱は、農民や地元の指導者たちの結束によって進められた。特にカラジョルジェとミロシュ・オブレノヴィッチという二人の指導者が、戦いの象徴的な人物である。1867年には完全自治を獲得し、セルビアは19世紀末には独立国家としての地位を確立した。この運動は、バルカンの他の国々に影響を与え、民族主義の波を広げる重要な役割を果たした。
民族主義運動の光と影
民族主義はバルカンの独立運動を推進する力となったが、一方で新たな対立も生んだ。バルカン半島は多民族が混在する地域であり、独立国家の形成は必然的に他民族の抑圧や領土紛争を伴った。たとえば、マケドニアをめぐる争いはギリシャ、ブルガリア、セルビアの間で深刻化した。また、民族主義の高まりは、後のバルカン戦争や第一次世界大戦の引き金となる緊張を生み出した。こうして、民族主義は希望と葛藤の両面を持つ歴史的な現象として、バルカンの未来を大きく揺さぶったのである。
第6章 バルカン戦争と第一次世界大戦への序章
緊張を生んだ列強の駆け引き
20世紀初頭、バルカン半島は列強の地政学的な争いの中心地であった。オスマン帝国が衰退する中、ロシア、オーストリア=ハンガリー、イギリス、ドイツがそれぞれの利益を求めて競り合った。ロシアはスラヴ民族の保護を掲げ、バルカン諸国の独立運動を支援した。一方、オーストリア=ハンガリーはこれらの動きを脅威とみなし、自国の勢力圏を維持しようとした。こうした複雑な国際関係が、バルカンの安定を妨げる要因となった。列強の思惑が交錯する中、バルカン諸国は自らの生存と領土拡大のために次第に強硬な姿勢を取るようになった。
第一次バルカン戦争: 共同戦線とその勝利
1912年、ギリシャ、セルビア、ブルガリア、モンテネグロは「バルカン同盟」を結成し、オスマン帝国に宣戦布告した。第一次バルカン戦争は、オスマン帝国からの領土解放を目指す一大共同戦線であった。戦争は同盟国側の圧倒的勝利に終わり、オスマン帝国はバルカン半島のほとんどの領土を失った。この戦争により、同盟国は民族的自立の達成に向けた一歩を踏み出した。しかし、勝利の喜びは長続きしなかった。領土分配を巡る争いが表面化し、バルカンの平和は再び脅かされることとなった。
第二次バルカン戦争: 同盟の崩壊
第一次バルカン戦争の勝利後、ブルガリアは領土分配に不満を抱き、かつての同盟国であるセルビアとギリシャに攻撃を仕掛けた。この戦争は短期間で終結したが、ブルガリアは敗北を喫し、多くの領土を失った。この戦争によって、バルカン半島の民族間の不和が一層深まった。かつての協力体制は崩壊し、バルカン諸国間の対立が激化した。この内輪もめは、列強の介入を招き、地域の緊張をさらに高めた。バルカンは次なる大戦への導火線として不安定さを増していった。
サラエボ事件と世界大戦への足音
1914年6月28日、オーストリア皇太子フランツ・フェルディナントがサラエボで暗殺された。この事件はセルビア民族主義者によるものとされ、オーストリア=ハンガリー帝国はセルビアへの報復を宣言した。この緊張がヨーロッパ全土に波及し、第一次世界大戦が勃発した。サラエボ事件はバルカンの民族主義と列強の介入が結びついた結果として起こったものである。この事件をきっかけに、世界は大規模な戦争に突入し、バルカン半島の不安定さが「世界の火薬庫」としての名を決定的にした。
第7章 ユーゴスラビアの誕生と多民族国家の挑戦
新しい国家の誕生
第一次世界大戦後、オーストリア=ハンガリー帝国が崩壊すると、バルカンの民族が新たな国家を模索した。1918年、「セルブ・クロアート・スロヴェーン王国」(後のユーゴスラビア)が成立した。この国家は、セルビア人、クロアチア人、スロベニア人を中心とする多民族国家であり、異なる宗教や文化を統合しようとした壮大な実験であった。しかし、国家の中心がセルビアに置かれたことで、クロアチアやスロベニアの人々は不満を抱き始めた。この時代、国家統合の理想と現実の間で緊張が高まり、多民族国家の構築がいかに困難であったかが浮き彫りとなった。
王政時代の統治と葛藤
ユーゴスラビアの初期には王政が採用され、セルビア出身のアレクサンダル1世が強力な指導者として統治した。アレクサンダルは民族対立を抑えようと試みたが、強権的な政治手法が逆に緊張を深めた。1929年、彼は国家を「ユーゴスラビア王国」と改名し、中央集権化を進めた。しかし、この改革は民族間の分断を悪化させ、特にクロアチア人の不満を招いた。1934年、アレクサンダルは暗殺され、国家の未来に不穏な影を落とした。この時期、多民族国家の統治には強力な指導者だけでは解決できない根本的な課題があることが明らかになった。
第二次世界大戦とユーゴスラビアの崩壊
第二次世界大戦中、ユーゴスラビアはナチス・ドイツに侵攻され、一時的に解体された。占領下では民族間の敵意がさらに激化し、各地でゲリラ戦が展開された。特に、セルビア人を中心とするチェトニクと、共産主義者を率いるティトのパルチザンが対立しながらも、ナチスに抵抗した。戦後、ティトの指導の下でユーゴスラビア連邦が再建されたが、この戦争の経験は民族間の不信感をさらに強めた。ユーゴスラビアは一つの国家として復活したが、その内部では火種がくすぶり続けていた。
ティト時代の連邦と非同盟政策
ヨシップ・ブロズ・ティトは、戦後のユーゴスラビアを統一する象徴的な指導者であった。彼は民族対立を抑えるために強い中央集権的な連邦制を敷き、多民族国家としての安定を維持した。また、冷戦時代にはソ連にも西側にも属さない「非同盟運動」を提唱し、ユーゴスラビアを国際的に独自の立場へと導いた。しかし、ティトの死後、民族主義が再び頭をもたげ、ユーゴスラビアの団結は揺らいでいった。ティト時代は、一時的な安定と繁栄をもたらしたが、根本的な民族対立の解決には至らなかったのである。
第8章 冷戦時代のバルカン半島
分裂の中立国、ユーゴスラビアの道
冷戦の幕開けとともに、バルカン半島は東西陣営の狭間で揺れ動いた。ユーゴスラビアの指導者ティトは、ソ連の影響から独立し、冷戦の中で独自路線を選んだ。この「非同盟運動」は、第三世界諸国から支持を受け、ユーゴスラビアを冷戦の激しい対立から一歩離れた存在へと押し上げた。一方、国内では民族間の緊張を抑えながら、多民族国家としてのバランスを維持する挑戦が続いた。ティトのリーダーシップの下での安定は奇跡的とも言われたが、その綱渡りのような政治が永遠に続くものではないことも予感された。
鉄のカーテンの陰で
ティトの独自路線とは対照的に、ルーマニアやブルガリアはソ連の衛星国として冷戦構造に組み込まれた。これらの国々では、共産主義体制が強固に築かれ、政治的自由は制限された。特にルーマニアのニコラエ・チャウシェスクは、徹底した独裁政治を展開し、経済政策の失敗や過剰な個人崇拝で国民の不満を高めた。一方で、これらの国々はソ連の影響を受けながらも独自の政策を模索し、国際社会での地位を少しずつ築いていった。バルカン半島は冷戦の主要な戦場ではなかったが、その影響は深く浸透していた。
経済的葛藤と改革の波
冷戦下のバルカン諸国は、経済的に厳しい時代を迎えた。農業中心の経済から工業化への転換が進められたが、その成功は地域によって大きく異なった。ユーゴスラビアでは市場経済的な要素が導入され、西側諸国との貿易が活発化した。一方、アルバニアは独自の孤立政策を取り、経済的な停滞に陥った。冷戦終盤にはソ連のペレストロイカやグラスノスチの影響が波及し、バルカン諸国でも改革の機運が高まったが、それが同時に政治的緊張を生む要因ともなった。
冷戦の終焉と新たな幕開け
1989年、ベルリンの壁崩壊を皮切りに、冷戦構造が崩壊すると、バルカン半島にも大きな変化が訪れた。ルーマニアではチャウシェスク政権が倒され、ブルガリアやアルバニアでも共産主義体制が終焉を迎えた。しかし、冷戦後の自由は新たな課題を伴った。特にユーゴスラビアでは、ティトの死後に蓄積された民族間の緊張が一気に噴出し、内戦へとつながった。冷戦の終焉は、バルカンに平和をもたらすどころか、新しい混乱と不安定の時代を予告するものとなった。
第9章 ユーゴスラビア紛争と新しい地図
分裂への道: ティトの死と民族主義の台頭
1980年、ヨシップ・ブロズ・ティトの死は、ユーゴスラビアの安定の象徴が消えた瞬間であった。彼の強いリーダーシップによって抑えられていた民族間の緊張が再燃し、セルビア、クロアチア、スロベニアなどの地域間の不和が急速に拡大した。1990年代初頭には、各共和国で民族主義的な指導者が台頭し、中央集権を目指すセルビアと分離独立を求める他の共和国との間で対立が激化した。この対立は、ユーゴスラビアという多民族国家の分裂を加速させ、内戦への道を歩む序章となった。
スロベニアとクロアチア: 独立とその代償
1991年、スロベニアとクロアチアが独立を宣言すると、ユーゴスラビア軍(主にセルビア主導)がこれを阻止しようと武力介入した。スロベニアでの紛争は短期間で終息したが、クロアチアでは激しい戦闘が繰り広げられ、多くの市民が犠牲となった。ヴコヴァルの包囲戦はその象徴的な出来事であり、都市は壊滅的な被害を受けた。この戦争は、セルビアとクロアチアの間の民族的憎悪をさらに深め、バルカン地域全体に新たな緊張をもたらした。
ボスニア・ヘルツェゴビナの惨劇
1992年、ボスニア・ヘルツェゴビナが独立を宣言すると、民族間の対立が内戦へと発展した。セルビア人、クロアチア人、ボスニア人ムスリムの間で領土を巡る争いが激化し、特にセルビア人勢力による「民族浄化」は国際社会に衝撃を与えた。スレブレニツァでの虐殺やサラエボ包囲戦は、この紛争の悲惨さを象徴している。国際連合やNATOが介入する中、1995年のデイトン合意によりようやく停戦が実現したが、ボスニアは深い傷を抱えたまま新しい国家としてのスタートを切った。
ユーゴスラビアの終焉と新たな国家群
1990年代後半までに、ユーゴスラビアは完全に分裂し、スロベニア、クロアチア、ボスニア・ヘルツェゴビナ、マケドニア、コソボ、モンテネグロが独立国家として誕生した。特にコソボを巡る紛争では、セルビアとアルバニア系住民の間で深刻な対立が生じ、NATOがセルビアへの空爆を行う事態にまで発展した。これらの紛争は、ユーゴスラビアという一つの国家の終焉を意味すると同時に、バルカン地域に新たな国家の地図を描く契機となった。しかし、これらの国家はその後も経済的、政治的な課題を抱え、安定への道のりは険しいものであった。
第10章 現代のバルカン半島: 課題と展望
欧州統合への道筋
冷戦後のバルカン半島は、欧州連合(EU)への加盟を目標に掲げ、改革を進めてきた。クロアチアは2013年にEUに加盟し、地域の統合の象徴となった。一方、セルビア、モンテネグロ、北マケドニア、アルバニアなどの国々は、加盟候補国として制度改革や民主化を進めている。これらのプロセスは経済的な安定と政治的な透明性をもたらす一方、民族対立や腐敗といった課題の解消が必要とされている。EU加盟は地域の安定と成長を促す希望であるが、その実現には多くの努力が求められている。
経済復興と地域間格差
現代のバルカン諸国は、経済復興に取り組む中で地域間格差という難題に直面している。一部の国や都市、例えばクロアチアのザグレブやセルビアのベオグラードは急速な発展を遂げているが、農村部や小規模国家では失業率や貧困問題が深刻である。また、観光業が急成長している一方、産業基盤の弱さが経済の脆弱性を浮き彫りにしている。各国はEU支援や地域間協力を活用しながら、経済的な持続可能性を追求しているが、その道のりは依然として険しい。
民族和解と未来への架け橋
バルカン半島における民族対立は歴史的な傷として残り続けているが、近年では和解を目指す取り組みが進んでいる。ボスニア・ヘルツェゴビナやコソボなど、過去の紛争地域では対話を重視する政策や教育改革が進められている。特に若い世代は、民族や宗教の壁を超えた協力を目指す動きを見せており、国際NGOや市民団体がこれを支援している。このような取り組みは未来への希望となり、バルカンの新しいアイデンティティを形成する可能性を秘めている。
新たな挑戦と世界の中のバルカン
現代のバルカンは、国際社会の中で地政学的な重要性を再び増している。中国の「一帯一路」構想による投資やロシアの影響力拡大、さらにはアメリカやEUの政策が複雑に絡み合い、地域は再び大国間の戦略的な舞台となっている。同時に、気候変動や移民危機といった新たな課題もバルカンに影響を及ぼしている。これらの問題に直面する中で、バルカン諸国は過去の教訓を活かし、地域の安定と発展を実現するための未来志向のビジョンを描く必要がある。