ハプスブルク帝国

第1章: ハプスブルク家の起源と成長

アルプスの小貴族から始まった野望

ハプスブルク家の物語は、スイスのアルプス山脈の小さな城から始まる。11世紀、ルドルフ1世が小さな貴族として初めて歴史にその名を刻んだ。彼は、周囲の貴族たちとの同盟や巧妙な結婚政策を駆使し、徐々に勢力を拡大していった。彼の子孫たちは、運と戦略の組み合わせにより領地を増やし、13世紀にはオーストリアの支配を確立する。ルドルフ1世は1273年に神聖ローマ帝国の皇帝に選ばれ、ハプスブルク家の名声は一気にヨーロッパ中に広がることとなった。この時期、彼の外交手腕と決断力が後の帝の基礎を築いた。

領土拡大と結婚政策の妙技

ハプスブルク家の最大の武器は戦争ではなく、結婚であった。多くの貴族家系が血で領土を奪い合う中、ハプスブルク家結婚によって領土を獲得していく。特に有名なのがマクシミリアン1世の結婚戦略である。彼はブルゴーニュ公の相続人であるマリーと結婚し、その広大な領土をハプスブルク家の支配下に置いた。さらに、彼の子孫たちはスペインポルトガルハンガリーなど、ヨーロッパ各地の王族と結婚し、結果的に「戦わずして世界を支配する」家系としての地位を確立したのである。

皇帝位への道—運命の転換点

ハプスブルク家の運命が大きく変わったのは、神聖ローマ帝国の皇帝位を手に入れた時である。ルドルフ1世以降、彼の後継者たちは巧みに帝政治に介入し、皇帝の座を維持し続けた。14世紀にはアルブレヒト2世が皇帝に選ばれ、その後も多くのハプスブルク家出身者が皇帝となった。この時代、皇帝としての権威と、個別領主としての力を両立させ、広大なヨーロッパ全域に影響を及ぼす一大王朝としての地位を築いていった。

中世ヨーロッパにおけるハプスブルク家の文化的影響

ハプスブルク家の拡大は、単に領土や権力の問題だけではなかった。彼らは中世ヨーロッパ文化芸術宗教にも大きな影響を与えた。彼らの宮廷は芸術家や学者を保護し、文化の中心地としても栄えた。特にルドルフ2世の時代には、プラハ宮廷がヨーロッパ中の知識人や科学者を惹きつけ、天文学者ヨハネス・ケプラーなどが活動した。ハプスブルク家の宮廷は、学問と文化の中心としてもその名を残し、ヨーロッパ全体に多大な影響を与えたのである。

第2章: 神聖ローマ帝国との結びつき

皇帝位を狙うハプスブルク家の野望

ルドルフ1世が神聖ローマ帝国の皇帝に選ばれたことで、ハプスブルク家は帝の運命を左右する存在となった。しかし、皇帝位を手にするのは容易ではなかった。皇帝を選出するのは、帝内の有力な諸侯たちであったため、彼らとの関係が決定的であった。ハプスブルク家は、巧みな外交や政治的手腕を駆使して、諸侯たちの支持を得ることに成功した。ルドルフの後もその子孫たちは、選挙戦を繰り返し勝ち抜き、神聖ローマ帝国の皇帝位を世襲に近い形で保持し続けたのである。この過程で、帝の内外でのハプスブルク家の影響力はますます拡大していった。

力を握るための複雑な政治の舞台裏

ハプスブルク家が皇帝位を保つためには、単に諸侯たちの支持を得るだけでは足りなかった。帝内での権力を強化するために、彼らは戦争だけでなく、婚姻政策や外交戦略を駆使した。特にアルブレヒト2世の時代には、彼は賢明に各地の領主との結婚を利用し、領地を拡大しつつ帝内での地位を確固たるものにした。彼の外交手腕によって、ハプスブルク家は徐々に神聖ローマ帝国の支配者としての立場を確立し、ヨーロッパ全域にその影響を広げることとなった。

中世の宗教と皇帝の関係

神聖ローマ帝国の皇帝であることは、単に世俗の権力を持つだけでなく、宗教的な責任も伴った。カトリック教会との密接な関係がハプスブルク家政治力を支える一方で、教皇との関係が時に緊張することもあった。特に、教会の権威と皇帝の権威のどちらが優位に立つかを巡る争いは、長年にわたり続いた。しかし、ハプスブルク家は巧みにこのバランスを保ち、教会の支持を得ながらも自らの権力を維持することに成功した。彼らの宗教政策は、帝内での安定を図るために不可欠であった。

ハプスブルク家の帝国支配の軌跡

ハプスブルク家神聖ローマ帝国を支配した時代は、ヨーロッパの歴史において重要な転換期であった。彼らの支配は、帝内の多くの地方に影響を及ぼし、その後のヨーロッパ政治地図を形作る要因となった。特に、彼らが皇帝位を保持し続けたことで、帝の結束力が高まり、統一されたヨーロッパのビジョンが生まれたのである。この時代のハプスブルク家の成長は、後に帝全体を一つにまとめる力となり、彼らの歴史を語る上で欠かせない要素となる。

第3章: 宗教改革とハプスブルク家

宗教改革の波が広がる

16世紀初頭、ヨーロッパ中に広がり始めた宗教改革は、ハプスブルク家にとって避けられない大波であった。マルティン・ルターの「95か条の論題」が1517年に公表されると、カトリック教会の権威に対する挑戦が次々と起こった。神聖ローマ帝国の広大な領土内でも、ルター派の影響が強まり、地域ごとにカトリックとプロテスタントの対立が激化した。この宗教的対立は単なる信仰の違いにとどまらず、政治や経済にも深く影響を与えることとなった。ハプスブルク家は、この時期、帝の安定を保つため、カトリックの立場を支持し続けるという難しい選択を余儀なくされた。

皇帝カール5世の苦闘

ローマ皇帝カール5世は、宗教改革に対して立ち向かった最も重要な人物である。彼はカトリック教会を支持し、プロテスタントの改革運動を抑え込もうとしたが、その努力は実を結ばなかった。1521年のヴォルムス帝議会ではルターを裁こうとしたが、彼はルター派の強力な支持者たちの反発に直面することとなった。カール5世はヨーロッパ全土を統治し、同時に複雑な宗教問題を解決するという、過酷な課題に直面していた。この時代のハプスブルク家は、宗教的分裂によって帝内の結束が脅かされる難しい時期を迎えていたのである。

シュマルカルデン戦争と宗教の衝突

宗教改革が引き起こした大きな対立の一つが、シュマルカルデン戦争であった。これはカール5世率いるカトリック陣営と、ルター派を中心とするプロテスタント同盟との間で行われた戦争である。この戦争は、単に宗教的な対立にとどまらず、帝内での政治的な力関係をも揺るがすものであった。1546年に始まったこの戦争は、最終的にプロテスタント側が敗北したものの、完全な解決には至らなかった。帝の内部での宗教対立は続き、ハプスブルク家の支配に大きな影響を及ぼし続けたのである。

アウクスブルクの和議—揺れ動く信仰のバランス

1555年に締結されたアウクスブルクの和議は、宗教対立を一時的に緩和するための重要な合意であった。この和議によって、帝内の諸侯は自らの領地内でカトリックかプロテスタントのどちらの宗教を採用するかを選ぶ権利を与えられた。この「君主の宗教、臣民の宗教(Cuius regio, eius religio)」という原則は、宗教的な緊張を和らげると同時に、帝内の統治をさらに複雑にした。ハプスブルク家にとって、宗教的な選択が政治的な安定に直結する時代が始まったのである。この和議は、帝未来を左右する重要な出来事であった。

第4章: ハプスブルク帝国の絶頂期

領土の拡大—ヨーロッパの覇権へ

16世紀から17世紀にかけて、ハプスブルク帝はその勢力を大きく拡大し、ヨーロッパの覇権を握るようになった。特にスペインオーストリアの二つの支流が同時に繁栄し、彼らはヨーロッパ全土、さらには新大陸にまでその影響を及ぼすこととなった。カルロス1世(スペイン王としてはカルロス5世)は、スペインを築き上げ、南植民地から得られる莫大な富を手に入れた。一方、オーストリアの支流は神聖ローマ帝国を中心に勢力を拡大し、東欧の重要な領地を支配下に置いた。こうして、ハプスブルク家は西欧から東欧までをまたぐ広大な帝を築き上げたのである。

宮廷文化の華やかさ

ハプスブルク帝の絶頂期は、文化的にも非常に豊かな時代であった。宮廷は、ヨーロッパ中の芸術家や知識人が集う場となり、その影響力は広がっていった。特にウィーンとマドリードの宮廷は、その豪華さで有名であり、音楽、絵画、文学が盛んに育まれた。スペインの宮廷では、画家ディエゴ・ベラスケスが活躍し、オーストリアでは音楽家ヨハン・シュトラウスが宮廷で演奏を披露するなど、ハプスブルク家芸術の発展にも大きく寄与した。宮廷は、ヨーロッパ文化の中心地としての地位を確立したのである。

政治と軍事の成功

政治的にも、ハプスブルク家はその絶頂期に数々の軍事的成功を収めた。オスマン帝との対立では、1683年の第二次ウィーン包囲戦で決定的な勝利を収め、東欧の防衛に成功した。この勝利は、ハプスブルク家の軍事的な力を証明し、オスマン帝の勢力を後退させる重要な出来事であった。同時に、ハプスブルク家は巧みな外交戦略を駆使し、同盟関係を築きながらヨーロッパ全体での影響力を拡大していった。このように、彼らは戦場でも外交の舞台でも成功を収め、帝の繁栄を支えたのである。

宗教と国家の調和

ハプスブルク帝はカトリック信仰の擁護者として知られていたが、その中でも多くの宗教的問題が発生した。特に、帝内のプロテスタントとの対立が絶えず、時には激しい弾圧が行われた。しかし、ハプスブルク家宗教的な多様性を受け入れる姿勢を次第に取り入れ、全体の安定を図るようになった。宗教的な融和は、帝内の多くの民族や宗派が共存するために不可欠であった。この時期、ハプスブルク家国家宗教の間でバランスを保ちながら、長期的な安定を目指したのである。

第5章: ハプスブルク家とヨーロッパの外交

結婚で築かれる帝国

ハプスブルク家の外交戦略の中で最も有名なのは、結婚による領土拡大である。彼らは「戦わずして征服する」家系として知られており、特に16世紀のマクシミリアン1世の結婚政策はその頂点を象徴する。彼はブルゴーニュ公の相続人マリーと結婚し、広大なブルゴーニュ領を獲得した。この結婚は、ハプスブルク家に多くの新しい領地をもたらし、彼らの影響力をヨーロッパ全土に拡大させる要因となった。また、後にマクシミリアンの孫、カール5世はスペインポルトガル、ネーデルラントなど、さらに広大な領土を相続し、ハプスブルク家ヨーロッパ最強の王朝へと成長した。

知略を尽くす同盟戦略

ハプスブルク家は、単に結婚だけではなく、同盟を駆使して政治的影響力を強めた。特に、オスマン帝の拡張に対抗するため、ハプスブルク家ヨーロッパキリスト教国家との同盟を強化した。例えば、神聖ローマ帝国スペインが協力し、オスマン帝との長期にわたる対立を続けた。これにより、彼らは東ヨーロッパでの勢力を維持し、オスマン帝の侵攻を食い止めた。また、他との同盟関係は、宗教的、経済的、軍事的な利益をもたらし、ハプスブルク家の権力基盤を固める重要な要素となった。

結婚政策のジレンマ

結婚を通じて領土を広げるというハプスブルク家の政策は、成功をもたらす一方で、いくつかの問題も引き起こした。多くの領地を相続した結果、ハプスブルク家の領土は非常に広範囲に分散し、その統治が困難になった。特に、カール5世の時代には、彼の広大な帝を効果的に管理することが大きな課題であった。加えて、家系内での結婚による遺伝的問題も生じ、後世のハプスブルク家には遺伝病の兆候が現れることとなる。結婚政策が帝拡大の鍵でありつつも、その副作用も明らかになり始めたのである。

戦争と和平の狭間で

ハプスブルク家は、結婚と同盟に加えて、時には戦争を通じて自らの領土を守り、拡大していった。特に、30年戦争ハプスブルク家にとって重大な試練であった。この戦争ヨーロッパ全土を巻き込み、宗教的対立を背景に激しい戦闘が続いた。しかし、ハプスブルク家は最終的に戦後の和平条約であるヴェストファーレン条約を通じて、その支配領域を一定程度維持することに成功した。彼らの外交戦略は、常に戦争と和平の狭間で揺れ動きながら、巧みにヨーロッパ全体での地位を確立し続けたのである。

第6章: オスマン帝国との対立と戦争

ウィーン包囲—二つの帝国の衝突

ハプスブルク家とオスマン帝の対立は、ヨーロッパの歴史における大きなターニングポイントであった。特に1529年の第一次ウィーン包囲は、二つの帝が真っ向からぶつかった重要な出来事である。オスマン帝のスレイマン1世は、ヨーロッパへの拡張を目指し、ハプスブルク家が支配するウィーンを攻撃した。この包囲戦は、ヨーロッパ全土に緊張をもたらし、キリスト教世界とイスラム世界の衝突としても象徴的な意味を持った。しかし、ハプスブルク家はウィーンを守り抜き、オスマン帝の拡大を食い止めることに成功した。この勝利は、彼らの軍事的な強さを示すものであり、ヨーロッパの防衛における重要な一歩となった。

戦争の戦術と技術革新

オスマン帝との戦いは、ヨーロッパにおける軍事技術の革新を促進した。特に火薬の使用や大砲の改良が進み、戦術にも大きな影響を与えた。ハプスブルク家は、オスマン帝の強力な軍事力に対抗するため、新しい防衛戦術を開発し、要塞や城塞の強化に力を入れた。また、戦闘では軽騎兵や砲兵隊の役割が増し、戦場での機動性が重要視された。これにより、ハプスブルク家はオスマン帝に対して優位に立ち、東欧での影響力を保持することができたのである。戦争は単なる力の衝突ではなく、技術と戦術の進化の場でもあった。

勝利の後の安定化

1683年、オスマン帝は再びウィーンを包囲したが、この第二次ウィーン包囲戦もハプスブルク家の勝利に終わった。この戦いは、ヨーロッパキリスト教連合軍がオスマン軍を撃退し、オスマン帝の勢力を大きく後退させるきっかけとなった。特に、ポーランド王ヤン3世ソビエスキの介入が決定的な役割を果たし、この戦いはハプスブルク家にとっても、ヨーロッパの安全を守るための象徴的な勝利となった。その後、ハプスブルク家は東欧の統治を強化し、地域の安定化に努めた。この勝利は、ハプスブルク家際的地位をさらに高めることとなった。

ハプスブルク家とオスマン帝国の影響

ハプスブルク家とオスマン帝の対立は、単に戦争だけで終わるものではなかった。これらの対立を通じて、ヨーロッパと中東の文化的、経済的な交流が進んだ。戦争の中でも、商人や外交官が行き来し、異なる文明間での技術知識の交換が行われた。さらに、これらの対立は、ヨーロッパにおける国家の形成や中央集権化を促進する要因ともなった。ハプスブルク家は、オスマン帝との戦いを通じて、より強力な国家体制を築き上げ、ヨーロッパ全体での影響力を確立していったのである。

第7章: オーストリア=ハンガリー帝国の成立

多民族国家の誕生

1867年、ハプスブルク家は重大な決断を下した。帝内の民族対立が激化する中、オーストリアハンガリー二重帝が誕生した。この新しい国家体制は、オーストリアハンガリーという二つの地域が同等の権利を持ち、共に統治されるという仕組みであった。この背景には、ハンガリーの民族的な独立運動や、ヨーロッパ全体での民族主義の高まりがあった。皇帝フランツ・ヨーゼフ1世は、国家の安定を保つために、ハンガリーの自治を認める形での妥協を選んだのである。こうして、多民族国家としての新たな一歩が踏み出された。

二重帝国の複雑な統治

二重帝の成立は、単に政治的な合意にとどまらず、統治の複雑さを一層増すこととなった。オーストリアハンガリーはそれぞれ独自の議会と政府を持ちながら、外交や軍事、財政の面では共通の政策を取るという独特な体制が敷かれた。この制度は、両の利益を調整する一方で、時には対立を生むこともあった。また、多民族国家であったため、スラブ系やルーマニア系、イタリア系など、他の民族集団も存在し、彼らの要求にも応えなければならなかった。この複雑な統治体制は、帝の存続を危うくする要因にもなった。

経済発展と産業革命の波

オーストリアハンガリーは、その成立とともに、産業革命の波に乗って急速な経済成長を遂げた。鉄道網の拡大、工業化の進展、そして都市化が進む中で、ウィーンやブダペストといった都市はヨーロッパ有数の経済拠点へと発展していった。この時代、帝内では工場が立ち並び、労働者階級が急増した。新たな経済の中心地となったこれらの都市では、商業も繁栄し、ヨーロッパ全土との貿易が盛んに行われた。こうして、オーストリアハンガリーは経済的にもヨーロッパの重要なプレーヤーとしての地位を確立したのである。

社会と文化の黄金時代

オーストリアハンガリーは、文化的にも輝かしい時代を迎えた。特にウィーンは、音楽、文学、哲学の中心地となり、作曲家グスタフ・マーラーや哲学者ジークムント・フロイトといった世界的な人物が活躍した。宮廷や貴族たちは芸術を支援し、帝全体で文化の花が咲いた。オーストリアハンガリーの両地域は、それぞれ独自の文化を持ちながらも、共通の帝文化を形成していった。この文化的繁栄は、帝の一体感を高める要因ともなり、多民族国家としての新たなアイデンティティを築く礎となった。

第8章: 産業革命とハプスブルク帝国

産業革命の波が押し寄せる

19世紀の初め、産業革命の波がヨーロッパ全土に広がり、ハプスブルク帝もその影響を大きく受けた。蒸気機関や織機などの新技術が導入され、製造業は急速に拡大した。ウィーンやブダペストのような大都市では、工場が立ち並び、農からの移住者が都市に集まるようになった。この時期、ハプスブルク帝は近代化を目指し、経済成長を促進するためのインフラ整備に力を入れた。鉄道の建設が進み、帝内の貿易が活性化され、ヨーロッパ全体との結びつきが強まった。この変革の中で、ハプスブルク帝も新たな工業国家としての地位を築き始めた。

都市の急成長と社会の変化

産業革命は、ハプスブルク帝の都市の景観を大きく変えた。ウィーンやプラハ、ブダペストでは工業化が進み、都市の人口が急増した。この急成長に伴い、労働者階級が形成され、工場で働く人々の生活が劇的に変わった。しかし、都市化は社会的な課題も引き起こした。貧富の差が拡大し、労働者は過酷な労働条件に苦しんだ。これに対し、労働運動が活発化し、労働者の権利を求める声が高まった。ハプスブルク帝は、こうした社会的変動に対応するために、徐々に労働条件の改や社会保障制度の導入を進めていくこととなった。

文化の発展と知識の交流

産業革命は、単に経済の成長をもたらしただけでなく、文化の発展にも寄与した。ウィーンは特に音楽芸術哲学の中心地として栄え、ヨーロッパ中の知識人や芸術家が集まった。作曲家ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェンや、画家グスタフ・クリムトのような芸術家たちが、この時代のウィーンを彩った。また、科学技術の進歩により、知識の交流が一層盛んになり、産業革命によって生まれた新しい技術や思想が帝内外に広まった。この文化的な繁栄は、産業革命がもたらしたもう一つの重要な側面であった。

新たな挑戦と帝国の未来

しかし、産業革命がもたらした急速な変化は、ハプスブルク帝にとっても多くの課題を生んだ。経済成長に伴い、地方と都市との経済格差が広がり、民族間の対立も激化した。また、工業化が進む一方で、伝統的な農業社会は衰退し、地方の農民たちは経済的困難に直面した。こうした問題に対処するため、帝政府は新しい政策を導入する必要に迫られた。ハプスブルク帝は、変革の時代にどのように対応していくのかが問われる時期に差し掛かっていたのである。

第9章: 第一次世界大戦と帝国の崩壊

戦争への突入—破滅への序章

1914年、オーストリアハンガリーはサラエボでの皇太子フランツ・フェルディナンドの暗殺をきっかけに、第一次世界大戦へと突入した。この事件は、ヨーロッパ全土に緊張をもたらし、帝ドイツと同盟を結んで戦争に参加した。しかし、当初の軍事計画は次々と失敗し、戦争は長期化の様相を呈した。前線では激しい戦闘が繰り広げられ、兵士たちは塹壕戦の中で極限の状態に追い込まれた。戦争は帝内部でも深刻な影響を及ぼし、経済の疲弊や物資の不足、民の不満が広がり始めた。こうして帝は、徐々にその力を失っていった。

内部崩壊—民族問題の激化

戦争が長引くにつれ、オーストリアハンガリー内での民族対立が激化した。多民族国家であった帝は、戦争によってさらに分裂が進んだ。チェコ人、スロヴァキア人、南スラヴ人など、各民族は独立を求める声を強め、帝の結束は揺らぎ始めた。特にチェコスロヴァキアやユーゴスラビアの独立運動は強力であり、帝内での統制が困難になっていった。民族間の対立が戦争による疲弊と相まって、帝全体が崩壊の危機に直面することとなった。戦争は、帝の内部分裂を一気に加速させたのである。

戦争末期の絶望と敗北

戦争が進むにつれ、オーストリアハンガリーの軍事的敗北は明白になった。西部戦線での敗北、そしてイタリアとの戦いでの苦戦が続き、帝の軍隊は次第に戦意を失っていった。1918年、連合が圧倒的な優勢を保つ中、帝内では反戦の声が高まり、皇帝カール1世は停戦交渉を開始した。しかし、戦争終結は遅すぎた。帝はすでに内部から崩壊し始めており、各地で革命が勃発し、自治や独立を求める動きが活発化した。こうして、戦争の末期には帝の存続が危ぶまれる状況に陥ったのである。

ハプスブルク帝国の終焉

1918年11第一次世界大戦が終結すると同時に、ハプスブルク帝も崩壊の時を迎えた。敗戦後、皇帝カール1世は退位を余儀なくされ、オーストリア共和が成立した。また、ハンガリーチェコスロヴァキア、ユーゴスラビアなど、帝内の様々な地域が独立を宣言し、帝は複数の新興に分裂した。この崩壊は、ヨーロッパ地図を一変させ、ハプスブルク家が600年以上にわたり築いてきた帝は、ついに歴史の幕を閉じることとなったのである。帝の終焉は、ヨーロッパ全体にとっても新しい時代の始まりを意味した。

第10章: ハプスブルク家の遺産と現代への影響

消滅した帝国、その後のヨーロッパ

ハプスブルク帝が崩壊した1918年、ヨーロッパ地図は劇的に変わった。新興が誕生し、民族国家ヨーロッパ全土に広がった。しかし、帝が遺した影響は消えることはなかった。帝内の民族や文化の多様性は、新たな国家に引き継がれ、それが現在の中央ヨーロッパ々の基盤となった。特に、オーストリアハンガリーチェコスロヴァキア(後のチェコとスロヴァキア)といった々では、ハプスブルク家政治的、文化的影響が色濃く残っている。この帝の消滅は、ヨーロッパにおける新しい際秩序の誕生を意味し、その余波は今なお続いている。

文化的遺産—音楽と芸術の繁栄

ハプスブルク家の支配下で栄えた文化的遺産は、現代においても重要な位置を占めている。ウィーンは依然として「音楽の都」として名高く、ベートーヴェンモーツァルト、シュトラウスといった偉大な作曲家たちが活躍した地として知られる。これらの文化的遺産は、オーストリアや周辺諸観光産業として大きな恩恵をもたらしており、世界中の人々がウィーンの音楽芸術を楽しむために訪れる。また、建築美術、文学においてもハプスブルク家の影響は強く残り、ヨーロッパ文化の一部として現代に引き継がれているのである。

政治体制の影響—連邦主義と統治の教訓

ハプスブルク帝は、その広大な領土と多民族国家を管理するために、独特の統治体制を構築していた。この経験は現代の連邦主義や多民族国家にとって重要な教訓となっている。オーストリアハンガリー二重帝の制度は、異なる民族や文化が共存するための一つのモデルとなり、現代の政治においても参考にされている。特に、EUのような多間連合体においては、ハプスブルク家の統治経験が連邦制の設計に影響を与えているとされる。彼らが直面した課題は、現代の政治における多様性管理の課題とも重なる。

ハプスブルク家の再評価と観光産業

現代において、ハプスブルク家は歴史的な観光のテーマとしても再評価されている。ウィーンやブダペストなどの都市では、ハプスブルク家の歴史を辿る観光ツアーが人気を集めており、豪華な宮殿や城が多くの観光客を引きつけている。シェーンブルン宮殿やホーフブルク宮殿は、その壮麗さで訪れる人々を魅了し、ハプスブルク家の栄の時代を感じさせる。また、ハプスブルク家の歴史的な人物、特にエリザベート皇后(シシィ)は、今なお多くの人々の心を捉えており、映画や書籍などでも広く取り上げられている。