基礎知識
- マドリードの起源とローマ帝国との関わり
マドリードの起源はローマ帝国時代にさかのぼり、戦略的拠点として古代から発展を遂げてきた都市である。 - イスラム支配とキリスト教徒による再征服(レコンキスタ)
9世紀にはイスラム帝国による支配を受け、その後11世紀にはキリスト教徒により再征服された都市である。 - ハプスブルク家とブルボン家の影響
16世紀以降、ハプスブルク家とその後のブルボン家の影響により、マドリードはスペイン王国の中心地として政治的・文化的に発展してきた。 - 19世紀の近代化とスペイン内戦の影響
19世紀から20世紀にかけて、マドリードは近代化を遂げ、スペイン内戦では激しい戦場となり都市の発展に多大な影響を与えた。 - 現代マドリードの国際的役割とEUへの貢献
EU加盟後、マドリードは国際的な政治・経済の中心地として成長し、欧州の中で重要な役割を果たしている。
第1章 古代のマドリード – ローマ帝国との接点
マドリードの始まりとローマ帝国の影響
マドリードの歴史は、ローマ帝国の支配下にあった古代のイベリア半島にその源を持つ。紀元前1世紀ごろ、ローマはこの地域に進出し、都市や街道を築き、地中海世界に通じる広大なインフラを整備した。イベリア半島はローマ帝国の一部として重要な位置を占め、特にメリダやカルタゴ・ノヴァ(現在のカルタヘナ)はローマにとっての拠点であった。マドリード自体はこの時代にはまだ目立った都市ではなかったが、周辺地域の農地や鉱山は帝国の経済を支える重要な資源供給地であり、その後の都市形成の下地がここで培われたといえる。
古代ローマの街道と交易ネットワーク
ローマ帝国はその支配下にある領土全体に街道網を整備したことで知られている。イベリア半島も例外ではなく、マドリード周辺もこの交通網の恩恵を受けていた。ローマの街道は軍事的な目的だけでなく、商業や人々の移動も容易にし、広範囲で交易が行われるようになった。特に、「デクマヌス」と呼ばれる東西を結ぶ街道や「カルド」と呼ばれる南北の主要街道は、ローマの都市計画の中心に据えられ、効率的な物流と統治を可能にしていた。これらの街道が整備されたことで、後にマドリードが発展していく基盤が形成されたといえよう。
マドリード周辺に残るローマの遺構
今日、マドリード周辺にはローマ時代の遺構が点在しており、当時の繁栄と技術力を今に伝えている。例えば、アビラやセゴビアにはローマの建築物が残されており、特にセゴビアの水道橋はその壮大さで観光客を魅了している。このような遺構は、ローマ帝国がどれほど緻密に地域を統治し、インフラを構築していたかを示している。マドリード自体には大規模なローマ遺跡は存在しないが、これら周辺地域の遺構から、ローマの影響が広く及んでいたことをうかがい知ることができる。
ローマからの支配とイベリアの独自性
ローマ帝国の支配が続く中で、イベリア半島の住民は徐々にローマ文化と自らの文化を融合させた生活様式を育んでいった。ローマの言語であるラテン語が普及する一方で、先住民族の習慣や信仰も残り、独自の文化が形成された。こうした文化融合は、ローマ帝国がイベリア半島を戦略的かつ持続的に支配するための施策の一環であった。マドリードの歴史の始まりは、こうしたイベリアとローマの交わりの中から生まれたといえる。ローマ時代の名残は今も人々の暮らしや地名、建築に反映され、マドリードの土台を築くものとなっている。
第2章 中世のイスラム支配 – マドラ・イシュと呼ばれた都市
イスラムの到来と新しい都市「マドラ・イシュ」
9世紀、イスラム勢力がイベリア半島の広範囲を支配し、今日のマドリードの原型が形作られた。この都市は「マドラ・イシュ」という名で知られ、地理的にも軍事的にも重要な位置にあった。イスラムの支配者たちは、敵からの侵入を防ぐため、戦略的な丘に堅固な城塞を築いた。そこからは川と平野が一望でき、都市の防御に適していた。また、城塞にはモスクが併設され、信仰の中心として機能していた。マドラ・イシュの成り立ちは、当時のイスラム世界の広がりと、それがもたらした文化や宗教の交流を象徴するものであった。
イスラム建築と都市計画の革新
マドラ・イシュの街は、イスラム建築の伝統に基づいて作られた。城壁や塔、さらに緻密な街路網が整備され、戦略的な要素と美しい建築が融合していた。イスラム建築の特徴である円形アーチや幾何学模様の装飾は、住民たちの目を楽しませ、イスラム文化の深みを表していた。また、水を重視するイスラムの信仰に基づき、都市には水路や庭園が設けられ、快適な居住空間が提供された。こうした都市計画は、後のマドリードの基盤にも影響を与え、その美しさと実用性は今日のスペイン各地に残るイスラム遺構にも反映されている。
交易と文化の交差点
マドラ・イシュは、イスラム帝国の他の都市と同様に、交易の重要な拠点でもあった。アラビアや北アフリカからもたらされる香辛料や絹、宝石が流通し、活気ある市場が広がった。こうした交易によって異文化の人々が集まり、多様な知識や技術が共有される場となった。イスラム科学者による天文学や医学の発展が取り入れられ、知識の交流が都市の発展を支えた。マドラ・イシュは単なる軍事拠点にとどまらず、知識と文化が交差する場所としての役割を果たし、その影響は長きにわたり続くこととなる。
イスラムの終焉と都市の変容
11世紀に入ると、キリスト教勢力が徐々にイベリア半島を取り戻す動きが活発化し、マドラ・イシュもその影響を受けた。1085年、カスティーリャ王国のアルフォンソ6世によって都市は征服され、キリスト教徒の手に戻った。この征服によって、イスラムの支配下で築かれたモスクや城壁は改修され、新たな用途に転用された。しかし、イスラム時代の遺構や文化の名残はその後も都市に残り、独自の歴史と魅力を生み出している。マドラ・イシュからマドリードへの転換は、スペインの中世史において重要な転機であり、その影響は現在の都市景観にも微かに息づいている。第3章 キリスト教再征服と統合の象徴
レコンキスタの到来 – マドリードを取り戻す闘い
11世紀、イベリア半島でキリスト教徒による「レコンキスタ」(再征服運動)が本格化し、イスラム勢力に対する圧力が強まった。1085年、カスティーリャ王国のアルフォンソ6世はマドリードを占領し、都市はキリスト教支配下に戻った。この征服はただの戦略的勝利にとどまらず、キリスト教勢力がイスラム文化と接する象徴的な出来事でもあった。アルフォンソ6世はイスラム文化や建築を尊重しつつも、キリスト教の教会や礼拝所を建て、マドリードを新たなキリスト教の拠点として強化していった。このときの都市改変が、マドリードに二つの文化が共存する礎を築くことになった。
キリスト教文化の導入と変容
キリスト教徒がマドリードに戻ってきたことで、町は再び変容を遂げた。古くからのイスラムのモスクは教会へと転用され、宗教施設の役割がキリスト教中心へと変わっていった。また、巡礼者や聖職者が新たにマドリードに移り住み、カスティーリャ王国の文化が次第に色濃く染み込んでいった。教会や修道院が建てられたことで、町には新たな信仰のシンボルが増え、マドリードはキリスト教の信仰を象徴する都市へと変わっていった。中世の町の景観とともに住民の生活も変わり、毎日の祈りや祝祭がマドリードの新しいリズムを刻むようになった。
マドリードの宗教と政治の融合
キリスト教勢力がマドリードを奪還したことにより、都市は宗教と政治の融合の場となった。カスティーリャ王国はマドリードを重要な拠点と位置づけ、周辺の防衛を強化するために城壁や要塞を再整備した。宗教的権威が政治に結びついたことで、王国の支配体制がさらに強固なものとなり、マドリードの宗教的行事もまた、政治的に重要な意味を帯びるようになった。こうした政治と宗教の結びつきは、マドリードをカスティーリャの権力の象徴に変え、支配を確立するうえで重要な役割を果たした。
新たな都市文化の融合と発展
イスラムとキリスト教という異なる文化が交差することで、マドリードには独特な都市文化が生まれた。イスラム時代の建築や生活様式が町の一部に残る中、キリスト教の祭りや儀式が新しい風をもたらした。例えば、かつてのイスラムの市場(スーク)はそのまま活用され、キリスト教徒とイスラム商人が共に商いを続ける場となった。また、両文化が共存することで新たな知識や技術が取り入れられ、都市の発展が加速した。この時代に形成された多文化的な基盤が、今日のマドリードの多様性の原点ともいえる。
第4章 ハプスブルク家の時代 – 首都としての栄光
マドリードが選ばれた理由
1561年、ハプスブルク家のフェリペ2世がマドリードをスペインの首都に選んだ。その選択は驚きであった。マドリードは当時、バリャドリッドやトレドのような歴史ある都市と比べ小規模で目立たない存在であったが、地理的に王国の中央に位置し、軍事的にも有利であった。また、フェリペ2世はマドリードの静かな環境が政治に集中するために適していると考えたのである。こうして、首都としての地位が決まり、マドリードは王国の中心として急速に発展を遂げることとなった。この決断が後のスペインとマドリードの歴史にどれほど大きな影響を与えるかは、まだ誰も知らなかった。
王宮と壮大な都市建設
フェリペ2世がマドリードを首都に定めると、都市は急激な成長を遂げ、ハプスブルク家の宮廷が置かれることになった。壮麗な王宮が建設され、貴族たちの館や公共の建物が次々に造られていった。王宮は政治の中心であると同時に、スペイン帝国の威厳を示す場でもあった。また、マドリードには大聖堂や広場が整備され、貴族や外国の使節たちが集う場として賑わいを見せた。こうした都市整備は、マドリードを単なる都市ではなく、スペインとその領土全体の象徴に変える大きな一歩であった。
経済と文化の活気
首都化に伴い、マドリードは商業と文化の中心地としても発展した。多くの職人や商人が王宮周辺に集まり、町には様々な商店や市場が立ち並んだ。特にプラザ・マヨールは商業と交流の場として大いに繁栄し、都市の生活に欠かせない存在となった。また、文学や美術もこの時期に隆盛を迎え、劇作家ロペ・デ・ベガや画家エル・グレコなど、多くの芸術家がマドリードに活動の拠点を移した。彼らの作品はスペインの黄金時代を象徴し、マドリードを文化の中心地としても知らしめることとなった。
宗教と宮廷の影響
ハプスブルク家の時代、マドリードはスペインの宗教的権威の中心としても重要な位置を占めた。フェリペ2世は敬虔なカトリック教徒であり、カトリックの教義を重視した政策を展開した。マドリードには多くの教会や修道院が建てられ、宮廷の宗教行事が盛大に行われた。特に、聖週間の行列や宗教的な祭典は、街全体を信仰に包み込み、住民や訪問者に深い印象を与えた。こうした宗教的な影響が、マドリードの社会と文化に深く刻み込まれ、都市全体がカトリックの信仰を象徴する場となったのである。
第5章 ブルボン家と近代化への道
カルロス3世と「啓蒙君主」の改革
18世紀、スペインの王位にブルボン家が就き、その中でもカルロス3世は「啓蒙君主」として知られる。彼は理性と科学に基づく近代化を推進し、マドリードの発展に大きな役割を果たした。彼の時代に始まった都市改革は劇的で、街の衛生状態を改善するために広場が整備され、排水路や下水システムが導入された。また、カルロス3世は公園や庭園の設置を奨励し、現在も残るレティーロ公園を拡張した。これらの改革は、マドリードをより住みやすい都市に変え、市民の生活の質を向上させることに貢献した。
王立施設の創設と学問の振興
カルロス3世は都市の美観を整えるだけでなく、学問や文化の発展にも力を注いだ。彼の治世に設立されたプラド美術館や王立天文台は、スペインの知識と芸術の象徴となった。特に、プラド美術館は当初、自然科学を展示する場として設計されたが、後に世界有数の美術館へと発展を遂げた。また、王立印刷所もこの時代に創設され、書籍や地図の印刷が広まり、教育が普及するきっかけとなった。これらの取り組みは、マドリードを学問と文化の中心地に押し上げる重要な役割を果たした。
新しい街並みの誕生
ブルボン家の時代、マドリードは都市計画の面でも大きく変化した。カルロス3世の命により、アルカラ門やサン・フランシスコ教会などのランドマークが建設され、都市景観が整えられた。これらの建築物は、マドリードの新しい顔となり、観光客や住民を惹きつける存在となった。また、道路の拡幅や舗装、街灯の設置など、インフラ整備も進み、都市としての利便性が大幅に向上した。これらの近代化の成果により、マドリードは18世紀ヨーロッパにおいて進歩的な都市の一つと見なされるようになった。
市民生活の変化と新しい社会階級
都市の近代化とともに、マドリードの市民生活も大きく変化した。商業や工業の発展に伴い、中産階級が台頭し、これまで支配的だった貴族社会とは異なる新しい都市文化が芽生えた。市場や商店街が賑わいを見せ、演劇や音楽といった娯楽が広まった。特に、宮廷外での文化的活動が増え、市民が参加する公共の場が次第に重要視されるようになった。このように、ブルボン家の時代は、マドリードが貴族だけの都市から市民全体が活躍する都市へと変貌した重要な転換期であった。
第6章 19世紀の変革と革命 – 社会的・政治的動揺
ナポレオンと占領の嵐
19世紀初頭、フランスのナポレオンがスペインを占領し、1808年にはマドリードもその手中に収められた。この時期、スペイン王室はフランスに屈服し、ジョセフ・ボナパルトがスペイン王として君臨した。しかし、マドリード市民はこの占領に反発し、1808年5月2日に蜂起した。この出来事は「5月2日の暴動」として知られ、後にスペイン独立戦争の引き金となった。市民の勇敢な抵抗はゴヤの名作『1808年5月3日』に描かれ、自由を求めるマドリードの魂が世界に伝えられた。フランスの支配は短命に終わったが、この占領はスペイン社会とマドリードに深い爪痕を残した。
革命の波と市民の力
19世紀中盤になると、ヨーロッパ全体が革命の波に飲み込まれる中で、スペインも例外ではなかった。1868年、スペインでは「栄光の革命」と呼ばれる大規模な市民運動が勃発し、マドリードはその中心地となった。この革命により、長らく続いたイサベル2世の専制的な統治が終わり、彼女は退位を余儀なくされた。新たな共和制の試みや王政復古が繰り返され、政治の混乱が続く中で、市民たちは自由と権利を求めて街頭に立ち続けた。これらの動きは、マドリードが単なる政治の舞台ではなく、変革を求める国民の声を反映する場所であることを示していた。
産業革命と都市の変貌
19世紀後半、マドリードは産業革命の影響を受け、急速に近代都市へと変貌を遂げた。鉄道の敷設により、マドリードは全国的な交通網の中心となり、物流と経済が劇的に活性化した。工場や労働者の増加は、都市の郊外を急速に拡大させ、労働者階級の台頭を促した。一方で、急激な都市化により、住宅不足や貧困といった新たな課題も浮上した。この時期にはまた、グランビア通りの建設計画が始まり、マドリードの都市景観が再び変わる契機となった。産業化は困難と希望が交錯する時代を象徴していた。
文学と芸術の黄金期
政治と産業の変革が進む一方で、19世紀のマドリードは文化的にも輝かしい時代を迎えた。スペイン文学の巨匠たち、たとえばベニート・ペレス・ガルドスは、都市生活や社会問題を鋭く描き出し、マドリードを舞台にした物語で多くの読者を魅了した。また、音楽や演劇も市民の娯楽として広がり、マドリードは文化の発信地となった。劇場「テアトロ・レアル」では、国際的なオペラや演劇が上演され、多くの観客を魅了した。この時代の文学と芸術は、激動する社会を映し出す鏡であり、マドリードが知的で創造的な都市であることを示していた。
第7章 スペイン内戦とマドリード – 闘争と復興
マドリードの包囲戦 – 抵抗の象徴
1936年、スペイン内戦が勃発し、マドリードは共和派と反乱軍の激しい争いの舞台となった。フランコ率いる反乱軍は、スペイン全土を掌握しようとマドリードを包囲したが、都市は驚異的な抵抗を見せた。「ノ・パサラン!(奴らを通すな!)」というスローガンが市民の士気を高め、兵士だけでなく一般市民も武器を取り戦った。包囲戦は3年以上続き、食糧や物資が不足する中でも、マドリードは決して陥落しなかった。この抵抗は、内戦時の自由と民主主義を求める象徴として世界に知られることとなった。
日常生活に潜む戦争の影
内戦中、マドリードの住民たちは戦争の恐怖と日常生活の維持という二重の困難に直面していた。爆撃の危険から身を守るため、多くの住民は地下鉄や地下室に避難した。食糧配給が限られたため、わずかな食料を分け合いながら暮らしを支え合った。街角ではプロパガンダのポスターが貼られ、スローガンが響き渡る中で、芸術家や作家たちは戦争の現実を記録し続けた。ジョージ・オーウェルやアーネスト・ヘミングウェイなどの国際的な作家もマドリードを訪れ、その悲惨さと英雄的な姿を世界に伝えた。
戦争終結と街の廃墟
1939年、内戦はフランコの勝利で終わり、マドリードは廃墟と化した。街には戦闘の爪痕が残り、多くの建物が爆撃によって破壊され、経済的にも壊滅状態だった。市民の多くが家族や財産を失い、悲しみと苦難の中で新しい生活を模索していた。勝利を手にしたフランコの独裁体制が開始され、マドリードは新たな政治体制のもとで再建が進められた。しかし、街の歴史と文化を愛する人々は、戦争の中で失われたものを忘れることなく、希望を胸に復興への一歩を踏み出した。
戦争の記憶と未来への決意
内戦の傷跡は深く残り、戦後のマドリードの社会や文化に大きな影響を与えた。多くの人々が親族や友人を失い、戦争の悲劇は語り継がれるべき教訓となった。一方で、マドリードはその逆境を乗り越え、新たな未来を築く決意を固めていった。戦後の復興期に入ると、インフラの再建や新たな経済活動が進められ、市民は街を再び活気あるものへと変えようと努力を続けた。この内戦の歴史は、平和と民主主義を求めるマドリードの精神の根幹に今も息づいている。
第8章 フランコ政権下のマドリード – 抑圧と発展
独裁の首都となったマドリード
1939年、フランシスコ・フランコは内戦で勝利を収め、マドリードをその独裁体制の中心地とした。首都は政治的な抑圧と権威主義の象徴となり、自由を求める声が厳しく取り締まられた。言論の自由は奪われ、反対勢力や知識人たちは投獄や追放を余儀なくされた。しかし一方で、フランコ政権はマドリードを強力な中央集権国家の象徴として活用し、大規模な公共事業を進めた。新たなインフラが整備される一方で、街には恐怖と沈黙が広がり、多くの人々が監視社会の中で暮らすことを強いられた。
経済発展と矛盾の時代
フランコ政権下のマドリードは、1950年代以降、経済発展を遂げる一方で、その恩恵は一部の人々に限られていた。アメリカとの協定により、スペインは国際社会への復帰を果たし、外国資本が流入した。これにより、都市には新しい産業が生まれ、高速道路や住宅が次々と建設された。しかし、労働者階級や地方からの移住者は、貧しい環境で暮らしながらも夢を追い求め、都市の成長を支えた。この時期のマドリードは、発展と格差という矛盾を抱えながら、変貌を続けたのである。
芸術と文化の隠れた抵抗
フランコ時代、厳しい検閲が文化活動を制限する中でも、芸術家や作家たちは密かに抵抗の声を上げた。映画監督ルイス・ブニュエルや作家カミロ・ホセ・セラといった人物が、独裁体制を批判的に描く作品を世に送り出し、国内外で評価を受けた。また、地下文化の場として、音楽や演劇が新たな形で発展し、マドリードの若者たちは自由を求める表現を模索した。この隠れた文化的抵抗は、後の民主化運動の精神的な礎となり、人々の心に自由への希望を宿らせた。
マドリードの再生と未来への兆し
1975年、フランコの死によって独裁政権が終焉を迎えると、マドリードは再び変革の時を迎えた。市民たちは自由を求めて街頭に立ち、新しい民主主義の到来を歓迎した。独裁時代の傷跡が残る中でも、マドリードは復興に向けて動き出し、新しい政治体制の中心地としての役割を再確認した。この時期の都市は、文化や経済が多様化し始め、未来への希望に満ちたエネルギーに溢れていた。独裁から解放されたマドリードは、その歴史の重みを背負いながら、再び自由と多様性の都市へと進化していった。
第9章 EU加盟と現代の繁栄
EU加盟と国際都市への飛躍
1986年、スペインは欧州連合(EU)に加盟し、マドリードもまた新たな時代を迎えた。この加盟はスペイン経済の成長を加速させ、マドリードをヨーロッパの重要なビジネスハブへと変貌させた。EUの資金援助により、都市インフラの大規模な整備が行われ、鉄道、道路、空港が一新された。特に、アドルフォ・スアレス・マドリード=バラハス空港の拡張は、都市を世界と繋ぐ重要な拠点にした。国際機関や多国籍企業の進出が相次ぎ、マドリードは経済的にも文化的にも国際的な都市へと成長した。
現代建築と都市の進化
EU加盟後、マドリードは建築と都市デザインの面でも近代化を遂げた。カステジャーナ通り沿いには、スペインの経済力を象徴する超高層ビル群が次々と建設され、スカイラインが一変した。特に、トーレ・ピカソやクアトロ・トーレス・ビジネスエリアの完成は、都市の先進性を示すランドマークとなった。また、近代的な文化施設の整備も進み、レイナ・ソフィア美術館やプラド美術館のリニューアルが行われ、現代と伝統が調和した都市景観が生まれた。これらの変化は、マドリードが革新と文化の中心であることを再確認させるものであった。
文化の国際的発信地
現代のマドリードは、文化の国際的な発信地としても注目されている。毎年開催されるアルコ・マドリード(国際現代アートフェア)は、世界中のアーティストやギャラリーを引きつける重要なイベントである。また、映画、音楽、ファッションなど、様々な分野で国際的な影響を持つ文化が生まれ続けている。さらに、多様な背景を持つ住民が集まることで、都市の文化はますます豊かで国際的になっている。マドリードは単に過去を語るだけでなく、未来を形作る文化的なエネルギーに満ちた都市である。
スポーツと都市のブランド化
スポーツもまた、現代のマドリードの魅力を語るうえで欠かせない要素である。レアル・マドリードとアトレティコ・マドリードという二大サッカーチームが、世界中のファンを魅了している。サンティアゴ・ベルナベウとシビタス・メトロポリターノの両スタジアムは、単なる試合の場を超え、観光地としても賑わっている。さらに、マドリードは国際的なスポーツイベントの開催地としての地位も確立しており、スポーツを通じて都市のブランドを高めている。こうした活動は、マドリードが世界中の人々を引き寄せる都市であることを象徴している。
第10章 未来のマドリード – 持続可能な都市への挑戦
環境都市を目指すマドリード
21世紀のマドリードは、環境問題に真剣に取り組む都市として注目されている。市内中心部では車の進入を制限し、公共交通機関の利用を促進する「マドリード・セントラル」プロジェクトが導入された。これにより、空気汚染の削減が進み、住民の健康改善につながっている。また、街中には自転車道や歩行者専用エリアが増加し、人々が安心して移動できる環境が整備されている。さらに、太陽光発電やグリーンビルディングの推進によって、マドリードは持続可能な都市づくりの最前線を歩んでいる。
都市農業とエコライフの拡大
マドリードの郊外では、都市農業が急速に拡大している。市民たちは農地を共同で利用し、新鮮な野菜や果物を育てている。これらの取り組みは、食品ロスの削減や地元経済の活性化にも貢献している。また、都市農業はコミュニティの結束を高める場としても機能しており、エコライフの実践を通じて環境意識が高まっている。マドリード市はこの動きを支援し、地域で生産された食品を市内の市場やレストランで販売する流通網を整備している。持続可能な生活を実現するためのこうした努力が、未来の都市モデルを示している。
スマートシティへの進化
マドリードは、テクノロジーを活用して市民生活を向上させる「スマートシティ」への進化を進めている。スマート街灯やセンサー付きゴミ箱などの技術が導入され、エネルギー効率の向上と資源の無駄削減が実現している。また、アプリを利用した公共交通機関の運行管理や、リアルタイムでの渋滞情報提供など、デジタル技術によって市民の利便性が飛躍的に向上している。これらの取り組みは、環境に優しいだけでなく、都市生活をより快適で効率的にする新しい基準を設定している。
多文化都市としての未来
マドリードは今や世界中から人々が集う多文化都市として成長を続けている。移民や留学生が増加し、街の至る所で多様な文化が融合している。多言語教育プログラムや文化イベントが盛んに行われ、異なる背景を持つ人々が共に学び、働く場が広がっている。このような多文化共生の精神は、マドリードが世界に開かれた都市であり続ける原動力となっている。未来に向けて、マドリードは多様性と持続可能性を両立させた模範的な都市として、さらに発展し続けるであろう。