オスマン帝国

第1章: オスマン帝国の創設と初期の発展

草原の民から帝国へ

1299年、アナトリアの草原地帯で、オスマン1世という名の勇敢な戦士が一つの新しい国を築き始めた。彼は小さな部族を率いて、ビザンツ帝国の辺境を脅かし、次々と領土を拡大した。オスマン1世の部族は、元々は遊牧民であり、草原での生活に長けていた。だが、彼らは次第に定住し、都市を支配し始めた。オスマン1世は、巧みな戦術と同盟戦略を用いて、他の部族を従え、ビザンツ帝国の隙をついて領土を広げた。彼の統治の下、オスマン帝国は単なる小さな部族連合から、後に世界の大国となる基盤を築いたのである。

初期の戦士たちの物語

オスマン1世の下で戦った戦士たちは、ただの兵士ではなかった。彼らは「ガーズィー」と呼ばれ、イスラム教を広めるための戦いに身を捧げる聖戦士であった。ガーズィーたちは、ビザンツ帝国や周辺のキリスト教国家との戦いで勇猛果敢に戦い、その名声は広がっていった。彼らの戦いは、単なる征服ではなく、信仰を基盤とした拡大の一環であった。オスマン1世は彼らを巧みに指導し、都市や要塞を次々と占領していった。彼らの活躍は、オスマン帝国の初期の成功に欠かせないものであり、その後の拡大に大きく貢献した。

友情と裏切りの交差点

オスマン帝国の初期の発展には、戦争だけでなく、外交も重要な役割を果たした。オスマン1世は周辺の小国や部族と同盟を結び、時には結婚を通じて敵対者を味方に引き込むこともあった。しかし、同時に裏切りも存在した。信頼していた同盟者が突然反旗を翻し、オスマン1世は何度も危機に直面した。それでも彼は、その知恵と戦略でこれらの困難を乗り越え、帝国を成長させ続けた。彼の指導力は、単なる武力だけではなく、巧妙な政治的手腕にも支えられていた。

都市の支配と拡大の鍵

オスマン帝国の初期の成功の背後には、戦略的な都市の支配があった。オスマン1世は、ビザンツ帝国の主要都市や要塞を攻略し、それらを拠点として利用した。特に、ボスニアやブルガリアといった重要な地域の都市を手中に収めることで、貿易ルートや資源を掌握し、経済的な基盤を築いた。これらの都市は、単なる軍事拠点ではなく、文化や経済の中心地としても機能し、オスマン帝国の成長を支えたのである。オスマン1世の都市支配は、その後の帝国の拡大戦略においても、重要な鍵となった。

第2章: コンスタンティノープルの陥落と新たな帝国の誕生

運命の城門を叩く

1453年、メフメト2世は歴史に名を刻む大事業を成し遂げるため、若き勇気と野心を胸にコンスタンティノープルの城門に迫った。彼はわずか21歳であったが、すでに帝国の未来を左右する運命的な戦いに挑む覚悟を決めていた。ビザンツ帝国の都、コンスタンティノープルはその壮大な城壁と千年の歴史で守られていたが、メフメトは新たに開発した巨大な大砲と斬新な戦術を駆使し、この難攻不落の都市に挑んだ。何世紀も守られてきた城壁は、ついにオスマン帝国の手に落ちることとなり、メフメトはその時から「征服者」という称号を得ることになった。

新たな帝国の中心地

コンスタンティノープルの陥落後、メフメト2世はこの古都を新たな帝国の中心地として再建することを決意した。彼はコンスタンティノープルを「イスタンブール」と改名し、オスマン帝国の文化と経済の中心地としての地位を確立させた。メフメトは、イスラム教徒、キリスト教徒、ユダヤ教徒をこの都市に呼び寄せ、多様な文化と宗教が共存する社会を築いた。かつてのビザンツの遺産とオスマンの新しい息吹が融合することで、イスタンブールは瞬く間に繁栄を遂げ、世界中から人々が集まる活気に満ちた都市へと生まれ変わったのである。

戦略と技術の融合

コンスタンティノープルの陥落には、メフメト2世の戦略的な知識と最新の技術が大きく寄与していた。彼は、オスマン帝国の軍隊に新たな大砲を導入し、それを効果的に使用することで、城壁を破壊することに成功した。また、ボスポラス海峡の支配を確立し、都市を外から孤立させることで、ビザンツ帝国に致命的な打撃を与えた。さらに、メフメトは大胆な戦術を用いて、夜間に兵士を海上から城壁内に送り込み、内部からの攻撃を仕掛けた。このような巧妙な戦略と技術の融合が、オスマン帝国の歴史的勝利を支えたのである。

世界史に残る転換点

コンスタンティノープルの陥落は、単なる都市の占領にとどまらず、世界史における重要な転換点を象徴している。ビザンツ帝国の滅亡は、中世ヨーロッパの終焉と新しい時代の幕開けを告げ、オスマン帝国はその後、広大な領土を持つ大国として、東西の渡し役を果たすようになった。さらに、この出来事はルネサンス期のヨーロッパにおける知識の拡散や、イスラム世界とキリスト教世界との関係に深い影響を与えた。メフメト2世の偉業は、後世にまで語り継がれることとなり、彼の名は歴史に永遠に刻まれることとなった。

第3章: スレイマン1世とオスマン帝国の黄金時代

若きスルタンの挑戦

スレイマン1世がオスマン帝国のスルタンとして即位したのは1520年、彼はわずか26歳であった。彼は、父セリム1世から引き継いだ広大な帝国をさらに発展させることを決意し、即位早々、ヨーロッパ、アジア、アフリカにまたがる征服の旅に乗り出した。彼の最初の挑戦は、ハンガリー王国との戦いであり、1526年のモハーチの戦いで勝利を収めたことで、その名を広く知られるようになった。スレイマンの戦術とリーダーシップは、彼を「壮麗なるスレイマン」として歴史に刻み、彼の治世は帝国の最盛期を象徴するものとなったのである。

法と秩序の整備者

スレイマン1世の偉業は、戦場だけにとどまらなかった。彼はまた、法制度の整備にも力を注ぎ、オスマン帝国に新たな秩序をもたらした。彼は「カヌーニ・スルタン・スレイマン(法の支配者スレイマン)」とも呼ばれ、その名の通り、多くの法典を制定した。これらの法典は、イスラム法(シャリーア)を基盤としつつ、当時の社会情勢に即した世俗法をも組み込み、帝国内の秩序を確立した。彼の法改革は、帝国の安定と繁栄を支える基盤となり、その後のオスマン帝国の統治においても重要な役割を果たした。

文化と芸術の黄金時代

スレイマン1世の治世は、オスマン帝国の文化と芸術が最も花開いた時期でもあった。彼は詩人であり、自らも詩作を行っていたことから、詩や文学に深い関心を持っていた。彼の宮廷には、当時の最高の詩人や学者、芸術家が集まり、オスマン文化の黄時代を築き上げた。特に建築分野では、ミマール・スィナンという天才建築家が活躍し、スレイマンによって依頼された数々の壮大なモスクや建築物が誕生した。これらの作品は、オスマン帝国の威厳と栄を今に伝えるものであり、彼の治世を象徴する遺産となった。

家族と帝国の試練

スレイマン1世の治世において、彼の家庭生活もまた大きな注目を浴びた。特に、彼の妻であり強い影響力を持ったロクセラーナ(ヒュッレム・スルタン)は、オスマン帝国政治にも深く関与した。彼女の存在は、帝国の権力構造に新たなダイナミクスをもたらし、スレイマンの家族内での権力闘争や陰謀が繰り広げられた。しかし、これらの試練を乗り越えたスレイマンは、帝国をさらに強固なものとし、その名を後世にまで残したのである。彼の家族と帝国の物語は、オスマン帝国の歴史における重要な一章を形成している。

第4章: オスマン帝国の多文化社会

ミッレト制度: 多様性の融合

オスマン帝国は、広大な領土を持つ多文化社会であり、さまざまな宗教と民族が共存していた。その中核を成すのが「ミッレト制度」である。この制度は、帝国内の宗教コミュニティに自治権を与え、それぞれが独自の法律や習慣に基づいて生活を送ることを可能にしたものである。例えば、ギリシャ正教徒、アルメニア教徒、ユダヤ教徒は、各々の宗教指導者の下で自治を行い、帝国の安定に寄与した。この制度により、オスマン帝国は多様な宗教と文化が共存しながらも、全体として調和のとれた社会を維持することができたのである。

宗教寛容政策: 帝国の統合力

オスマン帝国の成功の一因には、宗教に対する寛容政策があった。イスラム教が国教でありながらも、スルタンたちは他宗教を迫害することなく、その信仰を尊重した。例えば、ムスリムと同様に、キリスト教徒やユダヤ教徒も宗教の実践が認められ、税を支払うことでその保護を受けることができた。この宗教寛容政策は、帝国内の宗教的緊張を和らげ、異なる宗教間の共存を促進した。また、この政策は、オスマン帝国が広大な領土を効果的に統治し、多様な人々の支持を得る上で、不可欠な要素であった。

多様な文化の融合と発展

オスマン帝国は、地理的に広範囲にわたる領土を支配し、その中で異なる文化が融合し、新たな文化が生まれた。トルコ、アラブ、ペルシャ、ギリシャ、アルメニア、ユダヤなど、さまざまな文化が交わることで、帝国は文化的な豊かさを獲得した。これらの文化は、建築音楽、料理、服飾などの形で表現され、イスタンブールをはじめとする都市でその影響が見られた。特に、オスマン建築様式は、イスラム建築とビザンツ建築の要素を巧みに融合させ、壮麗なモスクや宮殿を生み出した。これにより、帝国は文化的な中心地として栄えたのである。

異文化交流の橋渡し役

オスマン帝国は、東西の文化や知識の交流を促進する重要な役割を果たした。帝国の支配地域は、ヨーロッパ、アジア、アフリカの交差点に位置し、シルクロードやスパイスルートなどの主要な貿易路が通じていた。これにより、異なる文化や思想が行き交い、知識の交流が盛んに行われた。イスラム世界からヨーロッパへの科学技術医学の伝播も、オスマン帝国がその仲介役を担ったことで実現したのである。こうして、オスマン帝国は、ただの軍事大国にとどまらず、文化と知識渡し役として、世界史において重要な位置を占める存在となった。

第5章: オスマン帝国の軍事力と海上帝国

最強の歩兵部隊: イェニチェリ

オスマン帝国の軍事力の象徴といえば、「イェニチェリ」と呼ばれるエリート歩兵部隊である。イェニチェリは、少年期に帝国によって徴集され、厳しい訓練を経て育成された兵士たちであった。彼らはスルタンに対して絶対的な忠誠を誓い、帝国の最前線で戦った。イェニチェリは優れた訓練と規律により、当時のヨーロッパ諸国から恐れられ、その存在自体が敵を威圧する力を持っていた。彼らの戦術は機動力と射撃技術に優れ、特に兵隊としての活躍が知られている。オスマン帝国の数々の勝利は、この精鋭部隊の存在なしには語れない。

海を支配する力: オスマン海軍の躍進

オスマン帝国は陸上だけでなく、海上でも強大な軍事力を誇った。特に、16世紀にはオスマン海軍が地中海を支配し、帝国の海上帝国としての地位を確立した。オスマン帝国の艦隊は、ギリシャ、エジプト、北アフリカの海岸線にわたる広大な領域を統制し、地中海の商業ルートを掌握した。特に、オスマン海軍の指揮官であるバルバロス・ハイレッディン・パシャは、その卓越した戦術で知られ、数々の海戦で勝利を収めた。オスマン帝国の海軍力は、地中海世界における帝国の覇権を支える重要な柱となった。

レパントの海戦: 転機となる戦い

1571年のレパントの海戦は、オスマン帝国と西欧のキリスト教諸国との間で繰り広げられた大規模な海戦であり、帝国の海上支配における重要な転機となった。この戦いで、オスマン海軍はスペインとヴェネツィアを中心とする「聖同盟」に敗北を喫した。この敗北は、オスマン帝国の海軍力に大きな打撃を与えたが、帝国の衰退を意味するものではなかった。オスマン帝国はその後も地中海での勢力を維持し、再び海軍力を強化することに成功した。レパントの海戦は、帝国にとって学びと再生の機会となったのである。

軍事戦略の革新とその影響

オスマン帝国の軍事力の根底には、革新的な戦略と技術の導入があった。例えば、火薬の使用や大砲の開発は、戦場での圧倒的な優位性をもたらした。特に、大砲は城壁を突破するための強力な武器として活躍し、コンスタンティノープルの陥落にも大きく寄与した。また、オスマン帝国は騎兵と歩兵を効果的に組み合わせた戦術を採用し、その機動力を活かして広大な領土を防衛した。これらの軍事的革新は、オスマン帝国を長期間にわたり強大な勢力として維持するための鍵であり、帝国の拡大と支配を支えたのである。

第6章: 政治と行政の制度化

スルタンの絶対権力

オスマン帝国政治は、スルタンの絶対的な権力を中心に展開された。スルタンは帝国の最高指導者として、軍事、行政、宗教すべての分野で最終決定権を持っていた。スルタンの権力はから授けられたとされ、その地位は世襲で受け継がれていった。特に、スレイマン1世の時代には、スルタンの権力が頂点に達し、帝国の政治機構はさらに強化された。スルタンの宮廷では、重要な政策が議論され、そこから帝国全土に命令が下される。スルタンの威厳と権威は、帝国の統一と安定を保つための柱であった。

官僚制度の確立

オスマン帝国の行政を支えたのは、複雑で洗練された官僚制度である。この制度の中心にあったのは、スルタンに直接仕える「ヴェジール」と呼ばれる高官たちであり、彼らは帝国の政策立案や実行において重要な役割を果たした。ヴェジールたちは、帝国内の各地に派遣され、地方の統治を監督した。また、官僚たちは、厳しい教育と選抜を経て登用され、その能力が帝国の繁栄に大きく寄与した。特に、「デヴシルメ制度」によって集められたキリスト教徒の少年たちは、官僚や軍人として優れた働きを見せた。

地方統治と柔軟な支配

オスマン帝国の広大な領土は、多様な民族や宗教が混在していたため、地方統治には柔軟なアプローチが求められた。帝国は地方ごとに独自の統治機構を設け、現地の習慣や法律を尊重しつつ、中央集権の維持を図った。例えば、エジプトやシリアのような重要な地域には、オスマンの官僚が派遣される一方で、地方の支配者に一定の自治を認めることで、反乱や抵抗を最小限に抑えた。このような柔軟な統治方針が、帝国の長期的な安定と繁栄を可能にしたのである。

ハレムと内廷政治

オスマン帝国政治において、ハレムの存在は無視できないものであった。ハレムとは、スルタンの家族や側室たちが住む場所であり、外部からは隔離されていた。しかし、その内部では複雑な権力闘争が繰り広げられていた。特に、スルタンの母親や妻は、彼らの息子や夫を通じて、帝国の政治に影響を与えることがあった。こうしたハレム内の政治活動は、しばしば「内廷政治」と呼ばれ、帝国の政策決定に隠れた力を持っていた。ハレムは、オスマン帝国政治におけるもう一つの重要な舞台であった。

第7章: 経済と商業の繁栄

シルクロードの復活

オスマン帝国は、シルクロードの重要な中継地点として、東西の貿易を支える大きな役割を果たした。特に、16世紀に入ると、帝国は中央アジアからヨーロッパへと至る交易路を掌握し、香辛料、宝石などの貴重な品々がオスマン領内を通過した。帝国は、これらの貿易活動から莫大な関税収入を得ることで、経済的な繁栄を享受した。さらに、オスマン帝国は商人たちに安全な通行を保証し、交易路の整備にも力を入れた。こうしてシルクロードは再び活気を取り戻し、帝国の富を増大させる重要な源泉となった。

イスタンブール: 商業の中心地

イスタンブールは、オスマン帝国の首都であると同時に、国際的な商業の中心地でもあった。この都市は、地中海と黒海を結ぶ戦略的な位置にあり、アジアとヨーロッパの交差点として栄えた。イスタンブールには、各地から商人たちが集まり、市場やバザールで活発な取引が行われた。特に、有名な「グランドバザール」は、世界最大級の市場として知られ、多種多様な商品が取り引きされていた。また、イスタンブールは融の中心地としても機能し、商業活動を支えるための信用制度や銀行業務が発展した。これにより、都市は帝国経済の心臓部となった。

農業と産業の発展

オスマン帝国の経済は、貿易だけでなく、農業と産業にも大きく依存していた。広大な領土には豊かな農地が広がり、特にエジプトナイル川流域やアナトリア地方では、穀物や綿花の生産が盛んであった。また、帝国は農業生産を支えるために灌漑システムを整備し、農民に対する支援を強化した。産業面では、織物や属加工、陶器製造などが発展し、これらの製品は国内外で高く評価された。オスマン帝国の農業と産業の発展は、帝国内の豊かな生活を支え、経済基盤を強化する要因となったのである。

税制と帝国の富

オスマン帝国の経済的繁栄を支えたもう一つの重要な要素は、効果的な税制であった。帝国は、各地からの税収を効率的に集め、帝国の運営資として活用した。特に、農業税や貿易税は重要な収入源であり、これによって帝国は軍事力を維持し、公共事業を行うことができた。また、税制には柔軟性が持たせられており、地方ごとの状況に応じて異なる税率が適用された。このような税制の工夫と管理の徹底により、オスマン帝国は長期にわたり安定した経済運営を実現し、その富を蓄積することができた。

第8章: 文化と芸術の花開く帝国

オスマン建築の壮麗さ

オスマン帝国建築は、その壮麗さで知られており、イスラム建築とビザンツ建築が融合した独特のスタイルが生み出された。特にイスタンブールの「スルタン・アフメト・モスク(ブルーモスク)」は、その代表例である。ミマール・スィナンという天才建築家が、スレイマン1世のために設計した建築物も数多く存在する。スィナンは、石材と煉瓦を巧みに組み合わせ、ドームやミナレット(尖塔)を特徴とするモスクを次々と建設した。彼の作品は、オスマン建築の頂点を極め、現在でもその美しさと技術の高さで世界中の人々を魅了している。

文学と詩の黄金時代

オスマン帝国では、文学と詩が特に隆盛を極め、宮廷詩人たちが数多くの作品を残した。スレイマン1世自身も詩人として知られ、ペンネーム「ムフビ」で詩を詠んでいた。彼の詩は、愛や信仰、帝国の栄をテーマにしており、帝国内外で高く評価された。また、宮廷詩人たちはペルシャ文学の影響を受けつつも、オスマン特有のスタイルを確立した。彼らの作品は、詩集や叙事詩として編纂され、帝国の文化的遺産として今なお読み継がれている。このように、オスマン帝国の文学は、その豊かな文化的背景を反映し、芸術の黄時代を築いた。

音楽と舞踏の調和

オスマン帝国音楽と舞踏も、他の文化要素と同様に多様性と融合が特徴であった。宮廷音楽は、アラブ、ペルシャ、トルコの伝統音楽を融合させた独自のスタイルであり、リュートやサズなどの楽器が使われた。特に、宗教儀式で用いられる「スーフィー音楽」は、精神的な深みを持ち、聖な舞踏である「セマー」と組み合わせて演じられた。また、民衆の間では、フォークダンスや伝統的な歌謡が広く親しまれ、オスマン文化の一部として根付いた。音楽と舞踏は、帝国の各地で独自の発展を遂げ、社会の中で重要な役割を果たしていたのである。

イスラム芸術の新しい風

オスマン帝国のイスラム芸術は、従来の伝統を尊重しつつも、新しい要素を取り入れて発展した。特に、書道や装飾芸術は、宮廷やモスクの装飾として重要な位置を占めた。カリグラフィーは、コーランの書写や公文書の装飾に用いられ、美術品としても高く評価された。また、タイル装飾や陶器製作では、鮮やかな色彩と精緻なデザインが特徴であり、イスタンブールやイズニクで生産された陶器は、世界中に輸出された。これらの芸術は、オスマン帝国の文化的アイデンティティ象徴するものであり、イスラム世界に新しい風をもたらしたのである。

第9章: オスマン帝国の衰退

戦場での敗北とその余波

17世紀に入ると、オスマン帝国はかつての勢いを失い始め、軍事的な敗北が続くようになった。特に、ウィーン包囲(1683年)の失敗は、帝国の衰退を象徴する出来事であった。この敗北は、ヨーロッパ諸国にオスマン帝国の力が弱まっていることを示すものであり、その後、帝国はバルカン半島や東欧で領土を失うことになった。また、帝国の軍事力も次第に他国に劣るようになり、新たな戦術や技術の導入が遅れたことがその一因であった。これにより、帝国の支配力は徐々に弱まり、各地での反乱や独立運動が頻発するようになった。

経済の停滞と財政危機

オスマン帝国の経済は、18世紀に入ると停滞期に入り、財政危機が深刻化した。かつての貿易の中心地であった帝国は、ヨーロッパ諸国の海上貿易の発展に押され、その地位を徐々に失っていった。また、帝国内での農業生産も低迷し、農村地域では貧困が広がった。さらに、帝国の支配階級は贅沢な生活を続けたため、財政赤字は拡大し、借が増加した。これにより、帝国は外部からの融資に依存するようになり、経済的な独立性を失っていった。この経済の停滞は、帝国全体の衰退を加速させる要因となったのである。

内政の混乱と腐敗

オスマン帝国の内政は、17世紀から18世紀にかけて混乱と腐敗が深刻化した。スルタンの権威が低下する中で、宮廷内では権力争いが激化し、官僚たちは私利私欲に走るようになった。特に、官僚制度の腐敗が進み、賄賂が横行し、行政の効率性が大きく損なわれた。地方統治においても、地方の統治者たちが自らの利益を優先し、中央政府との関係が悪化した。このような内政の混乱は、帝国の統治能力を低下させ、各地での反乱や暴動の原因となった。オスマン帝国は、内部からも崩壊の兆しを見せ始めていたのである。

外交的孤立と帝国の末期

19世紀に入ると、オスマン帝国は次第に外交的に孤立していった。ヨーロッパ諸国が近代化を進める中で、オスマン帝国はその流れに乗り遅れた。特に、ロシア帝国との対立は深刻であり、帝国は黒海やバルカン半島での影響力を失うこととなった。また、ヨーロッパ列強による植民地支配が進む中で、オスマン帝国はアジアやアフリカでの領土も次第に失っていった。こうして帝国は、かつての広大な領土を次々と失い、外交的にも孤立を深めた。これにより、オスマン帝国は「ヨーロッパの病人」と呼ばれるまでに衰退し、その末期を迎えることとなった。

第10章: 第一次世界大戦とオスマン帝国の崩壊

戦争への参戦: 選択の代償

1914年、オスマン帝国第一次世界大戦に参戦するという重大な選択をした。当初、帝国は中立を保とうとしたが、ドイツとの密接な関係や、領土拡大の野望が決断を後押しした。オスマン帝国は中央同盟国側に加わり、戦場での戦闘や中東の重要な拠点を巡る戦いに参加した。しかし、この選択は帝国にとって致命的な結果をもたらした。戦争は想像以上に厳しく、帝国内部の不安定さをさらに悪化させた。特に、ガリポリの戦いでは連合国軍との激しい戦闘が繰り広げられ、多くの犠牲を伴いながらも、帝国は辛うじて防衛に成功したが、その代償は大きかった。

セーヴル条約: 帝国の分割

戦争が終わると、オスマン帝国は敗北を認めざるを得なくなり、1920年にセーヴル条約が締結された。この条約は、帝国の領土を大幅に削減し、実質的にオスマン帝国を分割する内容であった。アラブ諸国やバルカン半島の領土は、連合国によって分割され、トルコ本土に限られた領域のみが残された。さらに、ギリシャやアルメニアに領土を割譲することが要求され、帝国の影響力は急速に衰退した。この条約は、帝国内で大きな反発を呼び、最終的にはムスタファ・ケマル・アタテュルクによる独立戦争へとつながることになる。

トルコ共和国の誕生

セーヴル条約への反発は、オスマン帝国の最後の火種となり、ムスタファ・ケマル・アタテュルクの指導の下、トルコ独立戦争が勃発した。1923年、アタテュルクはローザンヌ条約を結び、トルコ共和国の成立を宣言した。これにより、オスマン帝国は正式に消滅し、その領土はトルコ共和国として新たな国家が誕生した。アタテュルクは、トルコを近代化し、世俗国家として再構築することを目指した。彼の改革は、オスマン帝国の遺産を断ち切り、トルコを新しい時代へと導く大きな転換点となった。

オスマン帝国の遺産とその影響

オスマン帝国の崩壊は、世界史における重要な転換点であり、その遺産は今日まで続いている。中東やバルカン半島の国々の国境や民族問題は、オスマン帝国の統治から直接的な影響を受けており、現在でもその影響が見られる。また、トルコ共和国として再生した領土には、オスマン帝国時代の文化や建築物が残されており、それらはトルコのアイデンティティの一部となっている。オスマン帝国の歴史は、その終焉とともに新たな国家を生み出し、現代に至るまで続く影響を与え続けているのである。