基礎知識
- トロツキズムの基本理念
トロツキズムは、レオン・トロツキーによって提唱されたマルクス主義の一派であり、永久革命論と労働者の民主主義を重視する思想である。 - スターリン主義との対立
トロツキズムはスターリン主義と根本的に対立し、特に「社会主義の一国建設」論を批判し、国際的なプロレタリア革命の必要性を強調した。 - 第四インターナショナルの設立
1938年、トロツキーとその支持者たちは、スターリン主義に対抗するために第四インターナショナルを設立し、独自の革命戦略を展開した。 - トロツキーの亡命と暗殺
トロツキーはソ連を追放され、亡命生活を送りながら政治活動を続けたが、1940年にメキシコでスターリンの工作員によって暗殺された。 - トロツキズムの現代的意義
トロツキズムは、冷戦期や現代の社会運動の中でも影響を持ち続け、特に反資本主義運動や民主的社会主義の潮流に影響を与えている。
第1章 レオン・トロツキーとトロツキズムの誕生
革命の嵐の中で生まれた知性
1879年、ロシア帝国のウクライナ地方に生まれたレフ・ダヴィードヴィチ・ブロンシュテイン(後のレオン・トロツキー)は、幼少期から知性と反骨精神にあふれていた。地主階級の裕福な家庭に生まれながら、周囲の農民たちの貧しさに衝撃を受け、社会の不平等に強い疑問を抱くようになる。学生時代には革命思想に傾倒し、秘密結社に関与。1898年、帝政ロシアの警察に逮捕され、シベリアへ流刑となる。しかし、そこで出会った革命家アレクサンドラ・ソコロフスカヤの影響を受け、社会主義運動への情熱をさらに燃え上がらせた。
永久革命論の誕生
シベリアから逃亡し、ヨーロッパで革命家としての活動を本格化させたトロツキーは、1905年のロシア第一革命で頭角を現す。ペテルブルクの労働者たちは「ソビエト(評議会)」を組織し、トロツキーはその指導者の一人となった。この経験から、彼は「永久革命論」を提唱するに至る。すなわち、ロシアのような後進国においても、社会主義革命は国境を超えて広がる必要があり、一国の社会主義建設では不十分であるという理論であった。この考えは、のちに彼とスターリンの決定的な対立点となる。
1917年、歴史の主役へ
第一次世界大戦が世界を揺るがす中、ロシア帝国も崩壊の危機に瀕していた。1917年2月革命で皇帝ニコライ2世が退位すると、トロツキーは亡命先から帰国し、労働者と兵士たちの支持を集める。10月革命では、ウラジーミル・レーニンとともにボリシェヴィキの中心人物となり、武装蜂起を指揮。彼の戦略的才能は、ソビエト政権の成立に決定的な役割を果たした。新政府のもとで、彼は赤軍を創設し、内戦で反革命勢力を打ち破るという歴史的偉業を成し遂げた。
革命の影とその未来
しかし、革命後のソビエト政権の方向性をめぐり、トロツキーは党内で孤立していく。彼の「国際革命論」は、スターリンの「社会主義の一国建設論」と衝突し、最終的に1929年、彼はソ連から追放される。それでも彼は亡命先で革命運動を続け、著作を通じて思想を広めた。トロツキズムの誕生は、単なる歴史の一幕ではなく、現代の社会主義運動にも影響を与え続けている。彼の思想がもたらした影響とその未来は、今なお世界中で議論されている。
第2章 トロツキーとスターリン:対立の始まり
革命の盟友、それとも宿敵?
1917年のロシア革命で、トロツキーとスターリンは共にボリシェヴィキの勝利を築いた。トロツキーは赤軍を創設し、内戦で白軍を撃破する軍事的天才として名を馳せた。一方、スターリンは党内の組織力を強化し、政治的影響力を増していた。表向きは同志であったが、二人の思想は大きく異なっていた。トロツキーは世界革命を目指し、スターリンは国内の安定を優先した。革命が終わると、両者の間に避けられぬ亀裂が生じていく。
権力を巡る暗闘
1922年、レーニンが脳卒中で倒れると、党内の権力争いが激化した。レーニンはスターリンを警戒し、「粗暴すぎる」と批判したが、すでにスターリンは党の要職を固めていた。トロツキーは理論的には優位に立っていたが、スターリンは巧妙に同盟を築き、党官僚を味方につけた。1924年にレーニンが死去すると、トロツキーは孤立し始めた。スターリンは「レーニン主義の正統な後継者」として自らを位置づけ、トロツキーを「党の敵」として追い詰めていく。
追放される革命家
スターリンは1925年、トロツキーを戦争委員職から解任し、党内での影響力を奪った。1927年には反対派とともに除名され、ついに1929年、ソ連から追放された。トロツキーは亡命先のトルコでスターリン主義を批判し続けたが、ソ連内部での影響力は急速に低下した。一方のスターリンは、トロツキー派を「裏切り者」として徹底的に弾圧し、大粛清の嵐を巻き起こした。革命を共に導いた二人の道は、完全に決別することとなった。
戦いの終焉、そして影響
トロツキーは亡命を続けながら著作を発表し、スターリンを批判し続けた。しかし、彼の影響力は徐々に薄れていった。スターリンは1930年代の大粛清でトロツキストを一掃し、ソ連を完全に支配した。1940年、トロツキーはメキシコでスターリンの刺客に暗殺され、その戦いに終止符が打たれた。しかし、トロツキーの思想は死なず、彼の批判は後の世代に影響を与え続けた。スターリンとの対立は、20世紀の社会主義運動の方向性を大きく決定づけたのである。
第3章 亡命と革命運動の継続
追われる革命家
1929年、トロツキーはスターリンによってソ連を追放され、最初の亡命先となったのはトルコのプリンキポ島であった。ここで彼は執筆活動を続けながら、ソ連内外の支持者と連絡を取り続けた。しかし、スターリンの影はどこにでもあった。トロツキー派は粛清され、彼自身も各国の政府から警戒されていた。フランス、ノルウェーと転々としたが、いずれの国も彼の存在を政治的リスクと見なした。彼の居場所は狭まり、ついにメキシコが彼を受け入れることとなる。
メキシコでの戦い
1937年、メキシコに亡命したトロツキーは、画家ディエゴ・リベラとその妻フリーダ・カーロの支援を受け、安全を確保した。しかし、彼の戦いは終わらなかった。スターリンは彼を「反革命分子」として執拗に攻撃し続けた。メキシコ滞在中も、彼は『スターリン批判』や『ロシア革命の裏切り』などの著作を発表し、スターリン主義に対抗した。彼の活動は国際的な革命家たちに影響を与え続けたが、その命は刻一刻と狙われていた。
命を狙う影
スターリンはトロツキーの影響力を根絶しようと決意し、暗殺計画を次々に実行した。1940年5月、メキシコシティの自宅が銃撃されるも、トロツキーは奇跡的に生還した。しかし、スターリンの工作員ラモン・メルカデルは、トロツキーの護衛を欺き、ついに暗殺を成功させる。8月20日、メルカデルはアイスピックで彼を襲い、トロツキーは翌日に息を引き取った。革命の理想に生きた男は、追放と弾圧の末に壮絶な最期を遂げたのである。
遺された思想
トロツキーは死んだが、その思想は消えなかった。彼の著作は世界中で読まれ、スターリン批判は冷戦期の社会主義運動に大きな影響を与えた。第四インターナショナルの活動は続き、トロツキズムは新たな世代の革命家たちに受け継がれた。彼が唱えた「永久革命」は、ソ連崩壊後もなお多くの人々の関心を引きつけている。彼の亡命生活は苦難に満ちていたが、その遺産は、社会主義運動の中で今も生き続けている。
第4章 第四インターナショナルの設立とその意義
世界革命の灯を掲げて
1938年、パリの小さな会場に世界各国の革命家たちが集まり、新たな国際組織を設立した。彼らの目標は、スターリン主義を批判し、マルクス主義の本来の理念を貫くことであった。トロツキーは、スターリンの「社会主義の一国建設」が革命を歪めていると強く批判し、プロレタリア革命は国際的に連鎖しなければならないと主張した。第四インターナショナルは、第一インターナショナル(マルクス主導)や第三インターナショナル(コミンテルン)に代わる「真正な革命家の組織」として誕生したのである。
スターリン主義との対決
第四インターナショナルは、世界の労働者を結集させることを目的としたが、その最大の敵はスターリン主義であった。スターリンは、世界中の共産党をソ連の指導下に置き、革命運動を国家の都合で操作していた。トロツキー派はこれに異を唱え、独立した社会主義運動を展開しようとした。しかし、スターリンの情報機関は第四インターナショナルの活動を妨害し、指導者たちを粛清した。スペイン内戦では、スターリン主義者とトロツキストが激しく対立し、多くの革命家が命を落とした。
第二次世界大戦の試練
第四インターナショナルが誕生した直後、世界は再び戦火に包まれた。第二次世界大戦の勃発により、多くのトロツキストはナチスやスターリン主義者から弾圧を受けた。トロツキー自身も1940年に暗殺され、組織は指導者を失った。しかし、彼の著作や理論は受け継がれ、戦後も活動は続いた。戦時中、各国のトロツキストは抵抗運動に参加し、革命の理想を守り続けた。彼らにとって、戦争は単なる国家間の対立ではなく、資本主義と帝国主義を打倒する機会であった。
継承される革命の理念
戦後、第四インターナショナルは分裂を繰り返しながらも、各国の社会主義運動に影響を与え続けた。フランスやイギリス、ラテンアメリカではトロツキスト政党が結成され、1968年のフランス五月革命やチリのアジェンデ政権を巡る闘争にも関与した。冷戦期には、スターリン主義の衰退とともに、トロツキズムは新たな形で生き残った。第四インターナショナルは、小さな組織でありながら、資本主義と闘い続ける意志を持ち続ける存在となったのである。
第5章 第二次世界大戦とトロツキスト運動
戦争と革命のジレンマ
1939年、第二次世界大戦が勃発すると、トロツキストたちは難しい立場に立たされた。ナチズムとスターリン主義の双方を批判する彼らにとって、どちらの側にも加担できなかった。スターリンはドイツと不可侵条約を結び、共産主義者を混乱させたが、トロツキストは「帝国主義戦争」と断じ、労働者階級の独立した戦争を訴えた。しかし、戦争は想像を超える規模で広がり、彼らの声はかき消されていった。革命を目指す者たちにとって、戦争は新たな試練となった。
粛清と弾圧の嵐
戦争が始まると、スターリンは国内外のトロツキストを徹底的に粛清した。ソ連国内では、トロツキー派の支持者が「反革命分子」として大量に逮捕・処刑された。フランスやイギリスでは、戦時中の厳しい検閲と弾圧のもとで、革命運動を続けることは困難を極めた。アメリカでは、トロツキストは「戦争協力を拒否する危険分子」として投獄される者もいた。トロツキー自身は1940年にスターリンの工作員によって暗殺され、運動は重大な指導者を失った。
レジスタンスの中のトロツキスト
戦争の中でも、トロツキストたちは各国で活動を続けた。フランスでは、ナチス占領下で地下レジスタンスに参加し、反ファシズム闘争を展開した。彼らはスターリン派の共産主義者と時に協力しながらも、ソ連の影響力が増すことを警戒していた。アメリカでは、工場労働者の組織化を進め、戦後の社会主義運動の基盤を築いた。戦争の行方が世界を変える中、トロツキストたちは次の革命の波を待ち続けていた。
戦後への布石
1945年、戦争が終結すると、世界は資本主義とスターリン主義の冷戦時代に突入した。トロツキストたちは、新たな社会主義のあり方を模索し、各国で再編成を試みた。第四インターナショナルは組織の立て直しを図ったが、戦争の混乱で弱体化していた。それでも、彼らは戦後の労働運動や独立運動に関与し、資本主義とスターリン主義の双方に対抗する立場を貫いた。戦争が終わっても、彼らの戦いは終わることはなかったのである。
第6章 冷戦期のトロツキズム:衰退と再編
二つの超大国の狭間で
第二次世界大戦が終結すると、世界は資本主義陣営のアメリカと、共産主義陣営のソ連という二つの超大国による冷戦構造に包まれた。ソ連が「社会主義の旗手」として振る舞う一方で、トロツキストたちはこれを批判し続けた。彼らにとって、スターリン主義は社会主義の歪んだ形であり、真のプロレタリア革命とは程遠いものだった。しかし、西側諸国では、共産主義そのものが敵視され、トロツキストは両陣営から孤立することとなった。
分裂する第四インターナショナル
冷戦初期、第四インターナショナルは組織の方向性をめぐって深刻な分裂を経験した。一部のトロツキストは、ソ連を「堕落した労働者国家」と見なしながらも、アメリカの帝国主義に対抗するためにソ連を擁護する立場を取った。他方で、スターリン主義との徹底的な決別を主張するグループもあった。1953年、これらの対立は決定的なものとなり、インターナショナルは事実上、いくつかの派閥に分裂し、それぞれが独自の活動を展開することになった。
新左翼とトロツキズム
1960年代、世界的な学生運動と反戦運動の波が押し寄せると、トロツキズムは新たな影響力を持ち始めた。フランスの五月革命(1968年)では、トロツキスト団体が労働者ストライキを支援し、若者たちに「革命の理論」を提供した。アメリカではベトナム戦争反対運動の中でトロツキストが活動し、資本主義とスターリン主義の両方に対抗する立場を強調した。この時期、トロツキズムは一時的に再評価されたが、広範な支持を獲得するには至らなかった。
過去との決別と未来への模索
1970年代以降、トロツキスト運動は各国で独自の路線を歩むようになった。フランスでは労働組合への影響力を強め、イギリスでは労働党内で活動する派閥が形成された。ラテンアメリカでは、トロツキスト政党が軍事独裁と闘いながら社会主義の道を模索した。しかし、ソ連の崩壊が近づくにつれ、トロツキズムは新たな方向性を求められるようになった。冷戦の終結は、彼らの運動にとって試練であり、新たな時代への転換点でもあった。
第7章 トロツキズムと1968年の学生運動
革命の季節が訪れる
1968年、世界はかつてない激動に包まれた。パリでは学生たちがバリケードを築き、ベトナムではアメリカの介入に対する怒りが燃え上がっていた。プラハでは「人間の顔をした社会主義」を求める声が上がり、メキシコではオリンピックの影で政府への抗議デモが弾圧された。トロツキストたちはこれらの動きの中で、新たな革命の可能性を見出していた。彼らは学生運動と労働運動を結びつけ、資本主義とスターリン主義の両方に対抗する立場を鮮明にした。
フランス五月革命とトロツキスト
フランスでは、5月に学生の抗議運動が爆発した。パリのソルボンヌ大学から始まったデモは、やがて全国規模のゼネストへと拡大した。トロツキスト団体「革命的共産主義者同盟(LCR)」は、労働者と学生を結びつける役割を果たした。彼らはストライキの組織化を支援し、労働者評議会の形成を促した。しかし、ド・ゴール政権は巧みに危機を乗り越え、運動は最終的に沈静化した。それでも、五月革命はトロツキズムの影響力を広める契機となった。
ベトナム反戦運動と国際的連帯
アメリカでは、ベトナム戦争への反対運動が急速に広がっていた。トロツキストたちは、帝国主義に対する抵抗を訴え、戦争反対デモを主導した。彼らは「労働者の国際主義」を掲げ、ベトナムの民族解放戦線(NLF)への連帯を表明した。西ヨーロッパでも反戦デモが頻発し、アメリカ政府の政策を批判する声が高まった。トロツキストの影響は限定的であったが、彼らの主張は反戦運動の一部として浸透し、世界的な連帯の流れを形成した。
革命の炎は消えたのか
1968年の運動は、政治体制を根本から変えるには至らなかったが、トロツキストたちにとって重要な転機であった。彼らは学生運動と労働運動の結びつきを強め、新たな支持基盤を築いた。しかし、革命の波は次第に引き、社会は安定へと向かっていった。それでも、1968年の経験は次世代の活動家に受け継がれ、トロツキズムの理念はその後の政治運動にも影響を与え続けることとなった。
第8章 ポスト冷戦期のトロツキズム
壊れた世界秩序の中で
1991年、ソビエト連邦が崩壊すると、世界は新たな時代に突入した。冷戦が終結し、資本主義の勝利が宣言されたが、トロツキストたちは別の視点を持っていた。彼らにとって、ソ連の崩壊は「スターリン主義の終焉」であり、「社会主義そのものの敗北」ではなかった。むしろ、資本主義の矛盾はさらに深まり、新たな革命の可能性が生まれると考えた。だが、現実は厳しく、トロツキズムが復権する兆しはほとんど見られなかった。
グローバル化と新自由主義への対抗
1990年代以降、世界はグローバル資本主義の時代へと進んだ。市場経済の拡大と民営化が加速し、多国籍企業が世界を席巻した。トロツキストたちは、この流れを「新自由主義の暴走」と捉え、労働者の国際的連帯を訴えた。とりわけ、南米では反資本主義運動と結びつき、アルゼンチンやベネズエラで社会主義政党と共闘する動きも見られた。しかし、トロツキズムが主流となることはなく、彼らの影響力は限定的であった。
反グローバリズム運動の中で
1999年、シアトルで開催された世界貿易機関(WTO)会議に対する大規模な抗議デモは、世界を驚かせた。この「シアトル闘争」は、反グローバリズム運動の象徴となり、トロツキストたちはこの流れに合流した。彼らは、資本主義の暴走を批判しつつ、労働者階級の組織化を模索した。ヨーロッパでも、フランスやイギリスのトロツキスト政党が反資本主義運動に参加し、新たな支持を獲得した。しかし、運動全体は統一された指導部を持たず、一過性のものとなった。
21世紀への足跡
2000年代に入り、トロツキズムは依然として小規模な運動であったが、その影響力はゼロではなかった。フランスでは「反資本主義新党(NPA)」が結成され、労働者階級の政治的代表を目指した。ラテンアメリカでは、トロツキスト政党がボリビアやブラジルの労働運動に関与し、一定の影響を持った。しかし、資本主義の支配は揺るがず、トロツキズムは革命の旗を掲げながらも、依然として時代の周縁に留まる存在であった。
第9章 21世紀のトロツキズム:現代左翼との関係
資本主義の危機と新たな社会運動
2008年のリーマン・ショックは、世界経済に深刻な打撃を与えた。失業率は上昇し、貧富の差は拡大した。この混乱の中で、資本主義への不信感が高まり、新たな社会運動が生まれた。「オキュパイ・ウォールストリート」運動は、富裕層1%への抗議を掲げ、大規模なデモを展開した。トロツキストたちはこの動きに注目し、労働者の組織化を進めた。彼らは「革命なき改革は幻想である」と訴え、資本主義そのものを打倒する必要性を強調した。
労働運動の再生とトロツキストの影響
新自由主義の台頭により、労働者の権利は次々と切り崩されていった。しかし、2010年代にはフランスやイギリスで労働運動が再び活発化し、トロツキスト系の組織が重要な役割を果たした。フランスでは「反資本主義新党(NPA)」がストライキを支援し、イギリスでは労働党内の左派勢力がトロツキストの理論を参照する場面も見られた。彼らは「社会主義なしに労働者の解放はない」と主張し、資本主義の枠組みを超えた変革を目指した。
ラテンアメリカとトロツキスト政党の挑戦
ラテンアメリカでは、社会主義の復権を掲げる政党が勢力を拡大した。アルゼンチンでは「社会主義労働者党(PTS)」が左派連合を形成し、選挙にも積極的に参加した。ベネズエラでは、チャベス政権を支持する勢力とトロツキストの間で議論が交わされた。彼らは「国家主導の社会主義」と「労働者による直接統治」の違いを強調し、革命の主体は常に大衆であるべきだと訴えた。トロツキズムは、現実政治の中でその影響を模索し続けている。
デジタル時代のトロツキズム
21世紀に入り、インターネットは政治活動の形を変えた。SNSを通じてトロツキストの理論が若者に広まり、新たな支持層を獲得している。特にYouTubeやTwitterを活用した政治解説は、資本主義批判を強める左派の間で人気を博している。しかし、情報が氾濫する中で、トロツキズムの本質が誤解されることも多い。デジタル時代のトロツキストたちは、歴史の教訓を伝えながら、現代の闘争に適応する方法を模索している。
第10章 トロツキズムの歴史的意義と未来
革命の夢は終わったのか
20世紀の多くの革命運動が挫折する中で、トロツキズムは生き延びた。スターリン主義の影響が薄れるとともに、彼の「永久革命論」は改めて再評価された。しかし、ソ連崩壊後、世界は新自由主義の時代へと突入し、社会主義は「過去の遺物」と見なされた。だが、経済格差の拡大や気候危機の深刻化により、資本主義の矛盾が浮き彫りとなった。今こそ、トロツキーの思想が問い直される時代なのかもしれない。
トロツキズムの遺産
トロツキーは、スターリン主義に対する最も鋭い批判者であった。その理論は、労働者の民主主義を基盤とし、一国社会主義を否定するものであった。彼の影響は、冷戦時代の反スターリン主義運動のみならず、1968年の学生運動やラテンアメリカの反独裁闘争にも及んだ。さらに、彼の著作は現在も世界中で読み継がれ、左派政治家や活動家に影響を与え続けている。彼の理念は、決して過去のものではない。
21世紀の闘争とトロツキストたち
21世紀に入り、トロツキストの活動は新たな局面を迎えた。ヨーロッパでは反資本主義政党が結成され、南米では労働者主導の社会主義運動が台頭した。特に、グローバル資本主義に対する批判が強まる中で、トロツキストたちは労働運動や環境運動と結びつきを強めた。デジタル時代の到来は、彼らの理論を広める新たな手段となり、若い世代の間でマルクス主義への関心を再燃させている。
未来の革命はどこから来るのか
トロツキズムの未来は、資本主義の危機と密接に関係している。経済的不平等の拡大、気候変動、労働環境の悪化など、現代社会の課題は山積している。これらの問題に対し、トロツキーの「国際的な労働者の連帯」という思想が再び注目を集める可能性がある。未来の革命は、一国の枠を超えた新たな形をとるかもしれない。トロツキーの掲げた理想が、どのように受け継がれるのか、それを決めるのは次の世代の闘争である。